ふりだしに戻る

「昭和8年」を起点に、ジャック・フィニイよろしくモダン都市を散策するブログ

映画『浅草の灯』

 少しずつ、少しずつ島津保次郎を観ている。

 浅草オペラを題材に役者たちの青春群像を描いた『浅草の灯』は、ひとことで言えば、〝あの頃の〟浅草を活写した作品である。浅草オペラといえば、大正モダニズム華やかなりし頃、庶民を熱狂させ、モボやモガを生み出すほどの人気を誇ったが、大正12(1923)年の関東大震災によって壊滅的な被害を受け、そのまま幕を閉じている。いっぽう、島津が濱本浩の新聞小説をもとにこの作品を製作、公開したのが昭和12(1937)年だから、舞台となっているは〝14、5年ほどもむかしの〟浅草ということになる。〝あの頃の〟と言ったのは、それが〝いまはなき〟懐かしい土地と人びとの物語だから、である。

 

f:id:moicafe:20160118223046j:plain

引用元:東京国立近代美術館NFCデジタルギャラリー

 

 ところで、この『浅草の灯』を観終わったとき、ぼくはまずこんな印象を抱いた。これは、ひょっとして〝駄作〟じゃないか? 

 まず、展開がいちいち性急というか、雑である。ただ、それにかんしていえば、もともと104分あった作品を、GHQの検閲によって終戦後77分にまで縮められてしまったという話もある。27分のカットといえば全体の四分の一にもあたる。おもに暴力的なシーンがその対象だったというが、暴力的なシーンのみで27分もあったとは少し考えにくい。物語の展開上肝心なシーンやセリフまで削られてしまっているのではないか。もしもオリジナル版がどこかに残っていてそれを観ることができたなら、あるいはそのあたりの印象は変わるかもしれない。

 そしてもうひとつ、こちらのほうが個人的にはより問題なのだが、この『浅草の灯』にはどこか島津作品らしからぬ〝重さ〟が感じられる。『隣の八重ちゃん』にせよ『婚約三羽烏』にせよ、あるいはまた『兄とその妹』にせよ、これまでぼくが観てきた島津保次郎の映画には、深刻なテーマを扱ってもなお、〝いま〟を肯定する前向きさ、それゆえの〝朗らかさ〟があったように思う。ところが、この『浅草の灯』には、そうしたぼくの思うところの〝島津調〟が希薄なのだ。そして、この違和感のナゾを探ってみたくて、ぼくはゴソゴソと本棚を漁り一冊の本を引っ張りだしてきた。

 堀切直人の『浅草』(栞文庫)。そのなかに、銀座に背を向けた永井荷風玉の井の私娼窟を経由し、一時遠ざかっていた浅草を「再発見」するまでの道筋を辿った「オペラ館嬉遊曲」と題する一章がある。これを、『浅草の灯』を観る上でのサブ・テキストとして読んでみるというのはどうだろう。

f:id:moicafe:20160118224249j:plain

堀切直人『浅草』栞文庫

 

  堀切によれば、荷風の〝銀座離れ〟は昭和7、8年ごろにはじまる。昭和11年に執筆された『濹東綺譚』を引用しながら、堀切は荷風の銀座をはじめとする「首都枢要の市街に対する嫌悪」を浮き彫りにしてゆく。荷風によると、いまや銀座は「大正時代に成長した現代人」が大手を振って歩くような街に成り下がってしまったという。彼らは「おのれの欲望を野放しにして何ら恥ずることのない新人種」にほかならず、その態度は横風で厚顔無恥である。さらに、昭和6年の満州事変以後、まるで歩調を合わせるかのように街の「顔つき」にまで変化が生じる。

 

 数年前までは、「無用のもの、表向きはないということになっているもの」であった銀座の街頭も戦時色に覆われだしたのである。例えば『(断腸亭)日乗』の、上海事変勃発から2ヶ月ほどのちの昭和7年3月4日の項には、次のような物々しい情景が記されている。「銀座通商店の硝子戸には日本軍上海攻撃の写真を掲げし処多し、蓄音機販売店にては盛に軍歌を吹奏す、(略)思うに吾国は永久に言論学芸の楽士には在らず、吾国国民は今日に至るも猶性古(いにしえ)の如く一番槍の功名を競い死を顧みざる特種の気風を有す」。

 以上のように昭和7、8年以後の銀座は、おのれの欲望を野放しにして恥じない「現代人」や、陰険な目つきの好戦的人種などがわがもの顔に横行する巷と化し、永井荷風の心を圧迫した。(堀切直人『浅草』244頁)

 

 戦争の激化とともに、銀座を歩く人びとに向けられた荷風のまなざしもますます手厳しくなってゆく。

 

 戦時下の銀座で見かける者は、永井荷風の目には、男も女も何か肝心なものを失って、空虚な心を抱いているように見えた。『日乗』の昭和19年7月2日の項で、彼はこう極言する。「銀座丸ノ内辺にて盲動する男女を見ても彼等には人格は愚か性格すら具え居るもの一人として見えざるは世界いかなる国民にも到底見ることを能わざる奇異なる現象なるべし」(同上 257頁)

 

そして

 

自らの審美眼に絶対の自信をもつ貴族主義者の永井荷風は、『大衆の反逆』のオルテガ・イ・ガセットと同じく、これら根なし草の大衆の粗野さ、定見のなさに我慢がならなかったのだ(同上 257頁)

 

 こうして、自然、荷風の足は荒川放水路へ、そしてさらには隅田川の東側に位置する玉の井へと向くようになる。荷風いわく、娼妓の顔つき、物腰ひとつとっても、玉の井の女の表情は「朴訥温和」で、銀座あたりのインテリ女のように「一見人をして恐怖を感ぜしめるほど陰険な顔」や「神経過敏な顔」はみあたらない。まさに昭和7、8年以前、あるいは帝都復興事業に湧く昭和4、5年以前の「荷風好み」の東京の姿がそこには残っていた。

 そして、玉の井へ行く途中立ち寄る浅草にもまた、荷風は〝あの頃の〟東京を見出し、熱心に通いつめる。日中戦争がはじまった昭和12年の10月終わり、戦勝祝賀の提灯行列がゆく銀座の喧騒から逃げ出した荷風は、地下鉄で浅草へとたどりつく。浅草には、銀座のように「時局を論談する酔漢」の姿などいっこうにみあたらない。そこで彼を待っていたのは、「平常に異らず」「愚鈍なる顔付」で遊歩する男女の姿であり、「河霧薄く立ち迷」う吾妻橋上の眺望の静寂であった。そうしてまるで引き寄せられるように、荷風は六区の演芸小屋「オペラ館」にやってくる。

 

f:id:moicafe:20160118230821j:plain

 昭和12年1月、荷風が足繁く通ったころの浅草・六区

 このころの浅草は、すでにオペレッタの時代からレビューや軽演劇の時代へと移行している。もやもやした気分で浅草にたどりついた荷風は、たまたまオペラ館で観た「軽妙で淡白で稚気のある市井劇」に一服の清涼剤のような爽快感をおぼえたにちがいない。熱心にオペラ館に通ううち、それを知った文芸部の川上典夫なる人物から荷風は「楽屋にお遊びに来られたし」との手紙を受け取る。昭和12年1月、まさに島津保次郎が浅草を舞台に映画を撮ったのと同じ年のことである。これを機に、荷風は館主の田代旋太郎や座長格の俳優、清水金一らと親交を深め、やがては「オペラ館の要請に応じて創作オペラ『葛飾情話』の舞台脚本を無報酬で書きおろ」すまで深く入りこんでゆくのである。また、楽屋に出入りするなかで「芸人の意外につましい日常生活」に触れては、「かつてつき合ったことのある帝国劇場の女優の傲りたかぶった虚栄的な態度」を思い浮かべたりするのだった。

 戦時下の当局は、国民に対して「有用」であることを強制する。そして、それに乗じて他人をだしぬこうとする「狡猾強欲傲慢」な人々…… それが、荷風は我慢ならない。玉の井や浅草、六区の「オペラ館」の人びとにはそれが、ない。彼らはみな一様に「無知朴訥」で「淫蕩無頼」の「無用の徒輩」にほかならないが、そこにはたしかに時代の中で人びとが見失った「文化的伝統や倫理的骨格」が息づいていた。そしてそこに、荷風は微かな光明を見ていたのではないか。

 

 では、ほぼ同じタイミングで浅草に注目した島津保次郎もまた、荷風と同様、苦々しい気分で世間の浮かれ騒ぎから目を背けた先に辿り着いた浅草だったのか?

f:id:moicafe:20160118233903p:plain

 映画『浅草の灯』の舞台は、『カルメン』や『ボッカチオ』といったオペレッタを上演する「日本館」という劇場。おそらく震災前、銀座に客を奪われた浅草にかつてほどの賑わいはなく、オペラもすでに風前の灯といったところ。芸術家肌の演出家・佐々木(西村青児)は理解のない客の態度に腹を立て、その妻で座長の摩利枝(杉村春子)は金策に四苦八苦している。いっぽう、役者連中もみな薄給と厳しい労働に疲弊しきっていて、ある者は楽屋に寝起きし、ある者は胸を患い舞台にも出れず、またある者は関西で心機一転をはかろうと画策している。このあたりの事情は、荷風が目にした「オペラ館」の芸人たちとなんら変わらない。

 コーラスガールの麗子(高峰三枝子)もまた田舎出身で身寄りがなく、カフェーを営む夫婦の世話になりながら「日本館」で舞台にあがっているのだが、そんなある日、地元の金満家・大平(河村黎吉)が麗子に目をつける。大平は、カネをちらつかせて親代りの夫婦や摩利枝に取り入り、また地元のゴロツキを操ってなんとか麗子を自分のモノにしようと暗躍する。

 地元のヤクザ者と芸人たちのつかず離れずの関係については、やはり荷風が『日乗』のなかで触れている。ときに楽屋にまで押しかけて金銭を要求するそうした連中の振る舞いに恐れをなした古川緑波は、早々に浅草を去り日比谷へと向かうのだが、そんなならず者さえ荷風に言わせれば「無知蒙昧却て愛すべくまた憐れむべきところあり」ということになる。身びいきも、ここまでくれば筋金入りである。

 さて、悪党どもの計略を知ったやはり「日本館」の歌手で正義漢の山上(上原謙)は、文芸部の香取(笠智衆)ら楽屋仲間、さらには麗子に好意を抱くペラゴロ(=浅草オペラの熱狂的ファン)で貧乏絵かきの〝ボカ長〟(夏川大二郎)までをも巻き込んで、麗子を護るべく捨て身の抵抗に出るのだった。

f:id:moicafe:20160119001720p:plain

 こうやってあらすじだけ抜き出すと、この『浅草の灯』にはどこかいにしえの騎士道物語のような趣があるのだが、それが昭和12年というタイミングに撮られた作品であることを思えば、またべつの意味をみつけることもできるように思うのだ。じっさい、この作品は一貫して「労働者たる弱者」による「強者」に対する抵抗という構図があり、またそのまなざしは徹頭徹尾「弱者」の側に寄り添っているのである。はたして、当時こうした構図を現在進行形のドラマとしてあからさまに描くことができたとは思えない。いってみれば、舞台が〝あの頃の〟浅草だったからこそ可能だったのではないか。江戸時代、町人のあいだで「怪談話」が流行したのは、威張りくさる武士を(物語の中で)やっつけ憂さを晴らすそれがうってつけの手段だったから、と聞いたことがあるが、まさにそんな話を思い出す。

 

 しかし、それ以上に気になることもある。それは、この映画全体を貫く美意識が、現代を颯爽と生きる職業婦人や女学生の姿をチャーミングに描く島津保次郎にしてはあまりにも古色蒼然としてはいないか、ということだ。

 たとえば、離縁をめぐってもめている演出家の佐々木と座長でプリマドンナの摩利枝を前に、山上が自分の指を詰めることでふたりの復縁を迫るところなど、ちょっとびっくりしてしまう。その手段はもちろん、すでにこのとき山上はいずれ劇場にいられなくなる身であることを自覚しているにもかかわらずの行動だからである。こういう潔癖な「筋の通し方」など、戦況に一喜一憂する「狡猾強欲傲慢」な「現代人」にあってはただ単純で、古臭く、馬鹿げたものに映ったにちがいない。けれども、荷風とおなじく島津保次郎もまた、巷の人びとが「何か肝心なものを失って、空虚な心を抱いているように見え」るご時世だからこそ、このような「無用な徒輩」が八面六臂の活躍をする物語をあえてとりあげたのだと言うことはできないだろうか。じっさい、山上が麗子をボカ長に託すのも、たとえ相手がヤクザ者だろうとひるまない彼の義侠心に信頼を寄せているからだし、そこにいまや急速に失われつつあるなにか〝尊いもの〟を見ているのは、荷風も島津も変わらないだろう。

 島津保次郎という映画人は、たとえ〝あの頃の〟浅草を描こうとも、つねに現代を意識し、また現代を描こうとしていたと、すくなくともぼくはそう思いたいのだ。

映画『花婿の寝言』

 他愛のないと言ってしまえばそれまでだが、昭和10(1935)年の人びとはむしろ、こういった「他愛のなさ」をこそ映画に求めていたのかもしれない。娯楽にまで浮世の憂さを持ち込んでたまるものか ー この屈託のないホームドラマの向こうに、映画という「聖域」を守ろうとする当時の映画人たちの〝気概〟が透けてみえるかのようだ。

 

f:id:moicafe:20150930132101p:plain

 

 映画『花婿の寝言』は昭和10(1935)年に製作されたコメディー映画で、監督は『マダムと女房』の五所平之助、当時「松竹蒲田」が得意としていた〝小市民〟ものである。

 舞台は、まさに開発真っただ中の東京郊外のどこか。野っぱらのあちこちに住宅が点在し、電柱が立ち並び、そのかたわらを走っているのは1両編成のオモチャのような郊外電車だ。主人公は新婚まもない若夫婦で、林長ニ郎(長谷川一夫)演じる夫はパリッと背広を着込み中折れ帽をかぶったサラリーマン。いいとこのお嬢様だった妻(川崎弘子)を溺愛していて、ことあるごとに小型カメラで愛妻のポートレイトを撮るのを趣味にしている。暮らしているのは、ふたりのためにと妻の父親が建ててくれた「白いタンクのある新しい家」。しかも女中つき。大きな「白いタンク」は水道だろうか(側面には「コミネ」とカタカナで苗字が書かれている)。新築の家が並ぶ郊外でもじゅうぶん「目印」になるくらい、まだ貯水タンクを備える家は珍しかったようだ。目の前は空き地で、「◯◯株式会社テニスコート敷地」という看板が立てられている。田園調布の「田園コロシアム」然り、郊外住宅とテニスコートは流行の組み合わせだったのかもしれないなどと考えつつ観る。

 

f:id:moicafe:20150930132150p:plain

 

 それにしても、いまだってそうなのだから、きっと当時の人びとはこんなおままごとのような暮らしぶりをなかば憧れ、なかば嫉妬の入り混じった感情で見ていたにちがいない。そして、当時の人びとのそういった心持ちを、近所に住む同僚の田村(小林十九二)が代弁する。見たところはおなじようにスーツでパリッと決めた勤め人だが、恐妻家で小遣いにも事欠き、みずから夕飯の買物をしネギを刻む。毎朝繰り広げられる新婚夫婦のアツアツぶりにあてられっぱなし、うんざりしている。

 ところで、郊外を舞台にしたこの時代の映画には、しばしば年齢にかかわらず隣人同士誘い合って仲良く出勤する会社員たちが登場する。実情は、電車の本数も少なくどうせ駅で一緒になるのだから家から一緒に…… といったところなのかもしれないが、なんだか小学生のようでほほえましい。連れションならぬ、連れ通勤、連れキン。現代の東京からは、(おそらく)ほぼ全滅した習慣なのではないか。

 

f:id:moicafe:20150930132224p:plain

 

 物語は、この美しい新妻の「ヒミツ」を酒屋のご用聞きの少年が知ってしまったところから始まる。夫を会社に送り出した後、彼女は毎日昼寝をするというのである。「それは病気にちがいない」。それを聞きつけたなんとも胡散臭い男、「心霊術」を操るという三宅(斎藤達雄)は断言する。三宅は、最近田村の隣家に越してきたばかり。隣りは何をする人ぞ。こういう得体の知れない隣人との共生というのも、ある意味、かつての下町にはなかった郊外ならではの新しい人間関係のカタチといえそう。さて、なんとか施術して一儲けしたいものと考えた彼は、田村の女房(忍節子)にその「ヒミツ」を漏らし、取り入ってもらおうと懇願する。当然「ヒミツ」は田村の女房から田村へ、そして新郎の耳に入ったところから、夫婦それぞれの親(水島亮太郎、高松栄子)を巻き込んでの離婚騒動にまで発展するのだが……

 

f:id:moicafe:20150930132251p:plain

 

 いまとなっては、妻の「昼寝」が離縁騒ぎにまでなることがそもそも驚きだし、まあ、そこは「喜劇」、昭和10(1935)年当時だってそれはきっと同じだったろう。そして、やがてその「理由」が明らかになることでハッピーエンドとなるわけだが、その「理由」と、恥ずかしがって「理由」をなかなか明かすことのできない新婦にまた、失笑。かなり滑稽にデフォルメしているとはいえ、新しい習俗と古い慣習とが混在し、ときに滑稽なほどに衝突を起こしていたのが昭和10年のリアルだったのかもしれない。

 

 とにもかくにも、善人だらけの、まったく毒にも薬にもならないこの手の映画はぼくの「大好物」なのだ。

宮川曼魚の「悋気の火の玉」

 弥生美術館の「橘小夢(たちばな・さゆめ)」展で、小夢が描いた一枚の挿絵が目にとまった。切れ長の目をした面長の男が、一本の木の下でキセルをふかしている。そして、キセルの先にぼんやり宙を漂っているのは火の玉。落語でおなじみ、「悋気の火の玉」からの一場面である。

f:id:moicafe:20150624125918j:plain

 

 鼻緒問屋の主人が、外におんなを、つまり妾をつくる。嫉妬した本妻は藁人形をつかって妾を呪い殺そうとたくらむのだが、それを知った妾も、負けじと藁人形を持ってきて本妻を呪い殺そうとする。効果はてきめんで、本妻と妾は同じ日に亡くなり、主人はふたつの葬儀を出すことになってしまった。ところがふたりの怨念はなお消えず、夜な夜な火の玉が、本宅、妾宅それぞれから飛び立っては途中でカチーンとぶつかるというので大騒ぎとなる。弱りはてた主人は、まず妾の火の玉をかたわらに呼び寄せてなだめるように話しかける。一服つけようと火を探すが、あいにく持ち合わせがない。そこで主人、妾の火の玉にキセルを差し出して火をつけてもらう。つづいて、同じように本妻の火の玉を呼んでなだめにかかるのだが……。

 

 女の嫉妬深さを茶化した「悋気の火の玉」は、8代目の桂文楽が得意とし、亡くなった5代目の三遊亭圓楽も音源に残している。最近では、三遊亭小遊三文楽の弟子である柳家小満んがときどき高座にかける。珍しいというほどではないが、寄席でよく聞くかというとそんなこともない、そういう噺である。そもそもの原因であるところのはずの男があまりにものんきなので、聴いていてだんだん腹が立ってくる女性も少なくないのではないか。東大落語会編『増補・落語事典』(青蛙房)によると、この噺の元ネタとされる「火の玉」は、すでに天保3(1833)年に出版された桜川慈悲成の笑話本『延命養談数』にみることができるという。慈悲成は戯作者であり、また噺家でもあった。古い噺なのだ。

 

 いっぽう小夢の挿絵はというと、昭和4(1929)年2月発行の雑誌「週刊朝日」に掲載された読み物のために描かれている。作者は宮川曼魚。

 曼魚は本名「渡辺兼次郎」といい、明治19(1886)年に東京の日本橋に生まれている。生家は、明治7年創業の「うなぎ喜代川」。後に本人も、深川にあった鰻屋「宮川」を継いでいる。鰻屋の主人という肩書きを持ちながら、黄表紙や洒落本の収集家として名を知られ、江戸の庶民文化にも深く通じた曼魚は、江戸の「粋人」の生き残りのように映ったことだろう。手元にある曼魚の随筆『深川のうなぎ』(住吉書店)の帯には、こんな惹句が印刷されている。「曼魚さんの随筆は東京の味がする。東京も下町の、特に深川の味がする」。

f:id:moicafe:20150624125950j:plain

 ところで、曼魚が「継いだ」とされる深川の「宮川」は、その歴史をさかのぼるといろいろややこしい。明治の中頃、深川の「宮川」は一度廃業する。このとき、そこで修業した渡辺助之丞が看板を受け継ぎ明治26年に「つきじ宮川本廛」を開業させるのだが、仮に廃業したのが明治26年とすると、まだ曼魚はたったの8歳。ということは、廃業した「宮川」の建物を「喜代川」が買い取り、「宮川」という屋号のままに営業を再開、その後どこかのタイミングで曼魚に後を継がせたということだろうか。「屋号」をめぐって揉めたりはしなかったのか。「喜代川」の倅で、深川「宮川」(の建物)を継いだ曼魚は渡辺姓、深川で修業し築地で独立した「宮川」の主人もまた渡辺姓。偶然なのか、はたまた血縁関係があったりするのだろうか。それならそれでしっくりくるのだが。

 

 それはともかく、その随筆の中で、曼魚は江戸の黄表紙や笑話本にみつけたエピソードの数々を紹介し興趣が尽きない。軽妙洒脱で、小咄のようなユーモアに弾けている。また、そうした江戸の読み物から着想を得た小説も曼魚は残している。短編集『月夜の三馬』(青年書房)がそれである。

 若い髪結いと年増の情婦の心中騒動を滑稽に描いた表題作は、落語も元にもなった『浮世床』の作者・式亭三馬が主人公。戯作者のかたわら薬屋も営んでいた三馬の、洒落のきいた人物像が楽しい。髪を結うという行為にセクシャルな意味をみつけ話をふくらますあたり、いかにも軽い〝おとなの読み物〟といった雰囲気が漂う。これは、昭和9(1934)年11月に創刊された雑誌「オールクヰン」(クヰン社)に小村雪岱の挿絵を添えて掲載された。

 

 おそらく、小夢が挿絵を描いた「悋気の火の玉」は、曼魚が『延命養談数』にみつけ雑誌のために翻案したのだろうが、もちろん、落語のほうの「悋気の火の玉」もよく知っていたにちがいない。桂文楽にこのネタを伝えたのは、文楽の「育ての親」ともいえる3代目三遊亭圓馬だっという話もある(ソースはウィキペディア。やはり圓馬に師事したこともある正岡容がまとめた芸談にあたれば、あるいは確かめられるかもしれない)。圓馬は、曼魚と4つ違いの明治15(1882)年生まれ。曼魚が22歳から27歳にあたる明治41(1908)年から大正2(1913)年は、圓馬が東京を拠点に活躍していた時期である。ふたりになにかしらの接点があればおもしろいと思う。

 

 時代が大きく動いていた昭和初期の東京にあって、曼魚は、その読み物をつうじて人びとの心のになつかしい江戸の風を吹かせる「粋」な男なのだった。

まぼろしの万博

日本初の「万博」は昭和15(1940)年、皇紀2600年の記念事業として東京で開催されるはずだった。「はずだった」というのはもちろん、それは実現せず「まぼろし」に終わってしまったからである。

 

築地にある中央区郷土天文館「タイムドーム明石」ではいま、その「まぼろしの万博」をとりあげた記録映像『幻の万国博覧会~月島四号地(晴海)の万博計画とその背景』が上映中。さっそく観にいってきた。まずは券売機で入場券を買い求め、受付の女性に映像が観たい旨を伝える。すると別室に案内され、上映がスタート。〝貸し切り〟である。映像は、全体で30分ほど。東京湾の埋め立てをめぐる紆余曲折、明治以降の博覧会ブーム、そして本題である「紀元2600年記念・日本万国博覧会」の計画とその背景がコンパクトにまとめられていた。

 

f:id:moicafe:20150526213933j:plain

 

計画によると、この「日本万国博覧会」は昭和15(1940)年3月15日から8月31日までの170日間、東京湾の浚渫(しゅんせつ)によって新たに生まれた月島四号地、現在の晴海をメイン会場に行われ、入場者数はおよそ4,500万人を見込んでいた。国勢調査に基づく昭和15(1940)年の日本の総人口は7,300万人あまりなので、その2/3にあたる動員を予想していたことになる。計画は昭和5(1930)年にはじまり、昭和8(1933)年には、会場へのアプローチとなる〝東洋一の可動橋〟勝鬨橋の工事も着工された。真に国際都市をめざす東京にとって、東京湾の埋め立ては明治以来のいわば〝悲願〟だったのだが、この時期、ようやく浚渫(しゅんせつ)が実現し、港湾設備が整いつつあった。つまり、東京湾に誕生した人工の浮き島こそは東京の〝新しい時代〟を告げるシンボルという意味合いもあったのだ。
しかし、長期化する支那事変にともなう時局や資金難にかんがみ、昭和13(1938)年に計画は凍結、無期延期となってしまう。すでに一部の建物は工事が始まり、前売券も販売されていた。

 

f:id:moicafe:20150526223214j:plain

吉田初三郎の描く万博会場の鳥瞰図

 

ところで、かねがねぼくはこのブログでは、歴史的な事件や建物を取り上げるのではなく、それをひとつの「きっかけ」として、当時の名もない人びとに心を寄せたいとかんがえてきた。なので、この記録映像を観ていちばん心に残ったのはやはり、万博の実現にむけて奔走する市井の人びとの姿であった。ワイシャツの袖をまくり図面と格闘する職員、大量の前売券をさばく和装の女子事務員、会場に植栽されるはずだった苗木を育てる職人……。そして、彼らの姿からぼくは、佐藤春夫の小説『美しき町』を思い出していた。

『美しき町』が発表されたのは、大正9(1919)年のこと。主人公である若い画家のもとに、ある日ブレンタノと名乗る人物から手紙が届く。築地のSホテルまでブレンタノ氏を訪ねた青年は、それが混血児の旧友であったことを知り驚かされる。驚く青年に彼は、父親の莫大な遺産を元に「隅田川の中州に〝美しき町〟」をつくろうと持ちかけるのだった。そして、老建築技師を加えた3人は夢中になって計画の実現に奔走するのだが、3年経ったある日のこと、突如ブレンタノ氏は姿を消してしまう……

そもそも「万博」とは、政治的に利用されやすいイベントである。「国威発揚」と「世界平和」というお題目が、危なっかしい均衡の上にゆらゆらと揺れている。しかし、昭和11年、12年といった時代でさえ、日本人の多くはそれを真に「世界平和」のイベントとしてしかかんがえていなかったのではないか。作家の安岡章太郎は、大不況、満州事変、さらに支那事変から大東亜戦争に向かうこの時代はそれでもなお、「個人個人の生活の視野」から言えば「平和な安穏な休憩期間(インターヴァル)」であったと回想する(『わたしの20世紀』)。
そして、やがて「まぼろし」となるこの万博にかかわった無名の人びとはみな、「世界平和」という美しい理想を掲げた史上最大規模のこの博覧会に自身も一役買っていることを誇りに思い、それぞれが心に豪奢で華やかな会場と訪れた人々の笑顔を描いていたのではないだろうか。それはまた、『美しき町』の主人公の心模様と重なる。

 

わずか数年とはいえ、日本じゅうを夢中にさせた「紀元2600年記念・日本万国博覧会」はこうして「まぼろし」に終わった。けれども、かかわった市井の人びとの心の中に、それはたしかに眩い輝きをもって実現したのである。

 

f:id:moicafe:20150526225250j:plain

 広報誌「萬博」(昭和12年4月号)

郊外に生まれた「浴風会本館」という〝終の住処〟

世田谷文学館への道すがら、ふと思い立って路線バスを降りる。すっかり雨もあがったようだ。停留所の名前は「浴風会前」。ところがどっこい、とても「前」とは言いがたい場所に降ろされてしまった。あわててポケットを探り、Googleマップ搭載のスマホがあるこの平成の世に感謝する。

環八(環状八号線)を折れ、神田川の流れに沿って湾曲する道を10分ほども歩いてゆく。片側は住宅、しかもかなり大きな家が並んでいるが、もういっぽうは畑、そしてやがて「浴風園」の敷地とおぼしき雑木林が続いている。ようやく正門に辿りつくと出迎えてくれるのが、『建築の東京』(都市美協会/昭和10(1935)年)にも掲載されたこのスクラッチタイル貼りの重厚な建物である。

f:id:moicafe:20150521142036j:plain

大正14(1925)年、東京市の郊外、世田谷のこの地に「浴風会」は誕生する。「浴風会」は、関東大震災被災したお年寄りの援護を目的に内務省社会局によって設立された財団法人で、設立にあたっては皇室御下賜金を含む義捐金があてられた(社会福祉法人「浴風会」ウェブサイトより)。

 

都会ではないが、かといって完全な田舎でもない《郊外》は、震災後の復興期により脚光を浴びることになる。『郊外の文学誌』の川本三郎は、このあたりの事情を今和次郎の『新版・大東京案内』を引きながらつぎのように説明する。

  1. 震災以後、東京市の中心部の大半が「商業地」になってしまったことで、一般の人びとが住宅を構えることが困難となったため
  2. 震災以後、法律により市内に大工場を置けなくなったことから、必然的に労働者たちも工場とともに郊外へと転出せざるをえなくなったため
  3. 震災以後、交通網、とりわけ鉄道網が一気に充実し、郊外とはいえ利便性が高くなったため

それに加えて、なにより東京市の西側では震災の被害がほとんどなかったという事実も大きいだろう。安全で、交通の便も悪くはなく、しかもまだまだ武蔵野の豊かな自然が残っている《郊外》に、この時期多くの人たちが引きつけられたのも無理はない。

f:id:moicafe:20150521141531j:plain

大正15(1926)年に竣工した浴風会本館を設計したのは、東大安田講堂といった建物をはじめ本郷キャンパス全体のデザインをおこなった内田祥三(うちだよしかず)と、その弟子で同潤会の建物にも携わった土岐達人のふたりである。ちなみに、『建築の東京』では「昭和5(1930)年」と紹介されているが、大正15(1926)年が正しいようだ。

その建物は、塔屋が印象的だが、大部分は鉄筋コンクリートの2階建てからなるいかにも頑強そうで、大地に這いつくばったかのような安定感のある〝見た目〟をもっている。震災で焼け出され、心に傷を負った老人たちにとって、この〝見た目〟がもたらす安心感はとても重要、ある種セラピーのような効果もあったのではないか。じっさい、この内田祥三はまた「防火」と「鉄筋コンクリート」のスペシャリストでもあったのだから、この建物の設計者として彼ほどの適任者はいない。まあ、人選にあたってそこまで考慮されていたかどうかは知る由もないけれど…。

 

建築には、軽快な印象をあたえるものもあれば、威厳を感じさせるものもある。関東大震災被災した老人たちに〝終の住処〟として用意されていたのは、緑豊かな武蔵野の自然と、〝謹厳実直〟かつ〝安心感〟のある建物であった。

植草甚一展/芦花公園/《郊外》と田園生活

ミステリ、ジャズ、映画。植草甚一が遺した膨大なスクラップ・ブックを一挙に展示した世田谷文学館植草甚一スクラップ・ブック』展は、まるでJ・J氏こと植草甚一のアタマの中を覗き見るかのような好企画、めまいがするほど愉しかった。

f:id:moicafe:20150520171643j:plain

京王線の「芦花公園」には、叔父が暮らしていた関係で子どもの時分には年に一度くらい訪ねていた記憶がある。いまは、世田谷文学館を訪れるとき以外はまず来ない。駅周辺の鄙びたたたずまいは、でも、いかにも《郊外》といった趣きでなかなか気に入っている。

 

ところで、理想の田園生活を求め、徳冨蘆花が夫人と連れ立ってこの地に移住したのは明治40(1907)年のことである。川本三郎の「蘆花の田園生活」(『郊外の文学誌』新潮社)によると、当時このあたりの人びとは、燃料となる薪を売って生計をたてていたという。なので、周囲にはたくさんの雑木林があった。蘆花が心惹かれたのも、なによりこの雑木林のある美しい眺めだった。ところが、ガスを引く家庭が増えるにつれ薪の需要は当然減ってゆく。こうして、雑木林は切り開かれどんどん畑へと変わっていった。蘆花はというと、そんな近所の動きとはあべこべに、少しずつ土地を買い足してはそこにせっせと木を植え雑木林をつくっていたという。じっさい、移り住んだ当初「風よけの樫の木が四五本しかなかった」土地は、最終的には「四千坪もの広さ」にまで拡張する。さぞかし〝酔狂な作家先生〟に映ったことだろう。想像するとちょっと可笑しい。

 

都市でもないし、かといって完全な田舎でもない、ちょうどその狭間に生まれた《郊外》とは、さながら時代の汽水湖であるといえる。川本三郎の《郊外》論には、その意味でもたくさんの〝気づき〟がある。

明治期、《郊外》には2種の人びとが暮らしていた。もともとこの土地で生まれ育った「土地の者」と、東京の中心部からやってきた「移住者」である。そしてさらに、「移住者」は〝精神的〟に2種に分けることができる。経済的理由などからやむなくやってきた者と、田園生活への〝あこがれ〟を胸にすすんでやってきた者である。川本によれば、蘆花や国木田独歩歌人・詩人で、「日本野鳥の会」の創設者として知られる中西悟堂らが後者にあたる。

 

彼らが、その豊かな想像力によって《郊外》をどのように見ていたのか、つぎの一節を読んでぼくは「ナルホド、ソウイウコトデアッタノカ」と膝を叩いた。少し長くなるけれど引用しておこうと思う。

 

散歩にもよく出かける。武蔵野の風景の美しさを満喫する。雑木林、畑、一群の木立、杉の森、野バラの茂み、小川。夕暮れどきがまたいい。「農夫たちが鍬を肩に夕餉の団欒へと並木路を帰ってゆく心の中に休息と安堵が宿る時刻である。人間がほんとうに塒(ねぐら)に帰る小鳥たちと同じ邪悪のない心になる時刻である。そして私(註・中西悟堂)の胸に人間の未来の春への希望と祈とが燃える時刻でもある」。ここでは武蔵野が、郊外が独歩の場合と同じように清潔で平和で無垢な理想郷としてとらえられている。しかも、独歩がワーズワースツルゲーネフら西洋の文人たちの目を通して郊外風景の美しさを発見していったように、また蘆花がトルストイを通して田園暮しを始めたように、中西悟堂もまた夕暮れに家に帰っていく農夫を見てはミレーの「晩鐘」を思い、雑木林をひとり歩いてはソーローの『森の生活』を思う。ここでも西洋を通して郊外が見つめられている。そして悟堂はこの四年間に及ぶ烏山(註・悟堂が暮らした千歳村字烏山のこと。蘆花が暮らした粕谷に近接する土地)での田園生活のなかでホイットマンの『草の葉』を訳してゆくことになる。郊外とは実は西洋と隣り合っている場所でもある。(川本三郎「蘆花の田園生活」)

 

心の豊かさを、自由を、彼ら文人たちは《郊外》に求め、見ていた。想像力で、東京の街もニューヨークも、映画やミステリの架空の世界も自由自在に闊歩したJ ・J 氏と、ようやくここでつながった。淀川長治は言う「ぼくも甚ちゃんも生まれたのが明治の終わりでね、一つ違いなの。それで二人とも大正時代の豊かな時代に育ったんだね。贅沢な時代だね。だからずっと何か相通じるものがあった」(「太陽」1995年6月号)。

機能美の果実としての「聖橋」

御茶ノ水の「聖橋」は、復興橋梁のひとつとして昭和2(1927)年に完成した。ニコライ堂湯島聖堂、ふたつの「聖なる場所」をつないでいるからその名も「聖橋」。山田守が設計した鉄筋コンクリートによるアーチ橋は、〝印象的〟という点でも東京随一といえる。それは竣工当時も、そして現在も変わらない。

 

以下は、松葉一清『「帝都復興史」を読む』(新潮選書)からの引用。

橋長百メートルの鉄筋コンクリートの拱橋は脚下に御茶ノ水の流れありて当に復興帝都の新名所。

 

『帝都復興史』 からの転載と思われる、おそらく竣工後まもない「聖橋」の写真と、平成27(2015)年の「聖橋」の写真とを並べつくづく眺めてみる。

f:id:moicafe:20150512203307j:plain

f:id:moicafe:20150512203409j:plain

車道の両側に、きっちり区別して歩道がつくられた関係で道幅はやや狭くなったような印象はあるものの、ほぼ変わりなくその姿をいまに残しているのはとてもうれしい。そしてなにより、ふたつの写真を並べると、当初からこの橋が車道と歩道とを明確に区別することを前提にデザインされていたことがわかる。馬車がのろのろ荷車を引いていた時代にあって、山田守がいかに将来を見据えてこの仕事と取り組んでいたか。90年近く姿を大きく変えることなく「聖橋」が存在するのは、この山田守の「先進性」あってこそ。つまり、変える必要性が生じなかったわけである。まったくもって、「美」と「機能性」とをあわせもった稀有の橋である。