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「昭和8年」を起点に、ジャック・フィニイよろしくモダン都市を散策するブログ

神保町の旧「相互無尽会社」ビルディング

 春。アスファルトの裂け目から、一輪のタンポポが顔をのぞかせている。旧「相互無尽会社」のビルディングも、神保町の片隅にそんなけなげな姿でたたずんでいた。

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 関東大震災の復興期にあたる昭和5(1930)年に竣工したこの建物は、「あたらしい東京」を象徴する建築物のひとつとして都市美協会編『建築の東京』(昭和10(1935)年)のなかでも紹介されている。施工は安藤組。現「安藤ハザマ」の前身である安藤組は、これに先立つ大正14(1925)年には分離派建築会の山田守と組み彼の意欲作である東京中央電信局の施工も手がけている。
 この旧「相互無尽会社」のビルがあるのは神保町2丁目の通称「さくら通り」沿い。神保町の古書店街になじみのあるひとなら、「矢口書店の角を曲がったすこし先」と言えばピンとくるのではないだろうか。4階(一部5階)建てのビルそのものはごくこじんまりとしたものだが、スクラッチタイル貼りの端正な外観や抑制のきいた装飾からはいかにも金融関係に似つかわしい「実直さ」が伝わってくる。松葉一清の『帝都復興せり!〜『建築の東京』を歩く』(平凡社、昭和63年)によれば、かつては屋根にスパニッシュ瓦がのっかっていたようだが、残念ながらいまは改変されていて見ることができない。

 

 ところで、この〝渋い〟ビルディングが『建築の東京』に掲載されたのはどのような理由あってのことだろう? 

 ひとつには、このビルディングが「復興期」を象徴するひとつの要件をみたしていたことが挙げられる。それはなにかというと、「不燃化」というキーワードである。関東大震災で焦土と化した東京にあって、「あたらしい時代の建築」にはまずなにより徹底した「不燃化対策」が求められた。じっさい、『建築の東京』に取り上げられた建物を見るとその様式こそ多種多様であるが、「不燃」という点では共通している。たとえば、浅草の「仲見世」などははたして「あたらしい東京」を代表する建築物にあたるのだろうかなどとつい考えてしまいがちだが、じつのところは大正14(1925)年の鉄筋コンクリート造、まさに「伝統的商店街の不燃化」という点で「あたらしい」のである。この「不燃化」にかんして、『帝都復興せり!〜『建築の東京』を歩く』の著者である松葉一清はつぎのような興味深い指摘をしている。「不燃化は、その意味でも『火事と喧嘩は江戸の花』と粋がる江戸を引きずった東京の終焉を意味していた」(『帝都復興せり!』「都市の位相」140ページ)。都市の不燃化は、まちの景観やライフスタイルのみならず、その土地に暮らす人びとの心性を変えてしまうほどの意味を持っていたというわけである。

 そして、この時期に起こったもうひとつのこととして「商店のビル化」が挙げられる。以前なら木造の商家が建っていたような敷地に、小規模なビルディングが林立するようになったのだ。大型化する百貨店に客を持ってゆかれ、規模の小さい商店もビル化によって対抗せざるをえないような状況になっていたのだろうと松葉は指摘している。いわゆる「ペンシルビル」が街のそこかしこにピョコピョコと建ち始め、古い商習慣は廃れて客は合理化されたサービスをこそ求めるようになる。「江戸を引きずった東京の終焉」がここでも見てとれる。

 

 神保町の旧「相互無尽会社」ビルもまた、この時代に一気に増加した典型的な「ペンシルビル」のひとつである。角地に建っている上、となりがコインパーキングになってしまっているせいでその薄い直方体がいっそう強調されてみえる。まるで、お皿の上で倒さないと食べにくいチョコレートケーキみたいだ。

 太陽が傾き時計の針が5時を指すと、洋装のタイピストや三つ揃いに中折れ帽の会社員たちがこのケーキのような建物の中からぞろぞろ出てきて、家路につく様子を想像するのはなんとなく楽しい。電車道に出てまっすぐ帰宅する者もいれば、あるいは夜店を冷やかしたり、はす向かいにあった「東洋キネマ」に寄り道する者もあったかもしれない。昭和6(1931)年版『ポケット大東京案内』の地図によれば、白山通りから旧「相互無尽会社」ビルまでのこのあたり、かつては夜店が並びずいぶんと賑わっていたようである。この建物がここに生き残っているかぎり、ぼくはそんな〝過去〟を想像し、感じることができる。

 ひとつの建物が壊されるとき、それはただ「場所」が空白になるということだけを意味しはしない。ぼくらもまた、自分らの生きてきた「時間」から根っこを引き抜かれるのである。

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竣工当時の面影が残る画像。画像引用元:「銀行の封筒収集〜ライフワーク〜」

「子供之友」昭和5年6月号の岡本帰一

板橋区立美術館「描かれた大正モダン・キッズ〜婦人之友社『子供之友』原画展」をみた。学生だったぼくは、松本竣介長谷川利行といった名前をこの美術館で知り、また〝池袋モンパルナス〟界隈の有名無名の洋画家たちの作品の多くとここで出会った。まだ尾崎眞人さんが学芸員をなさっていたころの話だ。

「子供之友」は、羽仁吉一・もと子の「婦人之友社」が創刊した少年少女向けの雑誌である。ふたりは雑司ヶ谷の上り屋敷、いまの西武池袋線池袋駅椎名町駅とのちょうど真ん中あたりに社屋と自宅を建てて移り住み、そのタイミングで「子供之友」を創刊した。さらに、その数年後、近所に「自由学園」を創設している。池袋のこの土地を、自分たちの理念によった新時代の教育活動の拠点にしようとふたりは考えていたのだろう。「子供之友」という媒体に新しい時代の気風をみようという今回の展示もまた、広い意味で〝池袋モンパルナス〟界隈の物語をあつかっており、その点ではこの展示をこの美術館でみられたことは個人的にうれしいことだった。

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まずはゆっくりと、戦前の子供になったつもりで表紙や挿絵として使われた原画が時代順に並べられた展示室を進んでゆく。

大正3(1914)年の創刊当初、表紙をはじめ数多くの挿絵を描いたのは北澤楽天という人物。早くから新聞や雑誌に風刺漫画を発表し人気を博した大家とのことだが、モダンというよりはむしろどこか懐かしいしっかりと描き込んだ「絵」という印象である。翌年になると、やはりすでに「人気者」だった竹久夢二が頻繁に絵筆をとるようになる。断続的にとはいえ、夢二が死の床につく昭和9(1934)年まで20年近くにわたって得意の「美人」ではなく、無邪気な「子供たち」の姿を描き続けたというのは知らなかった。

モダンの風が「子供之友」の表紙に吹きはじめるのは、震災後、ベルリン帰りの村山知義、自身の作品を〝童画〟と呼んだ武井武雄らが登場するようになってからだ。

楽天や夢二が、ぼくたちわたしたちの世界の延長線上にひらけた眺めを描いたとすれば、村山知義武井武雄らが描いたのはまったく次元の異なる世界、甘やかなファンタジーの国の情景だった。彼らの原画のむこうには、ときに目をキラキラと輝かせながら、またときにうっとりとした表情で絵本に見入る子供たちの姿がみえてくるようである。

 

思わず、一枚の絵の前で足が止まった。昭和5(1930)年6月号の岡本帰一が手がけた表紙である(画像参照)。

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 若草色を背景に2羽のガチョウが車を引いている。ガチョウを操っているのは黄色い帽子、黄色い洋服姿の女の子。この表紙に感じられる「モダンさ」はしかし、かならずしもその絵のせいばかりとはいえない。むしろ、その優れたグラフィックのセンスによるところが大きいのではないだろうか。足元に絵とは直接関係のない白い花を並べてみたり、あえて色数を抑えて画面全体の統一を図ろうとしたりと、隅々にまで作家の意識が行き届いていることに感心する。細い糸で縫いこまれたような「kiichi」のサインも洒落ている。

面白いのはタイトルで、当時の雑誌にはまだロゴデザインという考え方がなかったのか、(おそらく)表紙を担当する画家がそれぞれまちまちに描いているのだが、ほとんどは絵の添え物といった感じであまり凝ったものはみあたらない。ところが、この岡本帰一が担当した号のタイトルはどうだろう! なんてすてきな、ワクワクするような仕上がりではないか! デザインの重要性に気づいた20年代の画家たちが、絵の世界に「モダンさ」という風穴をあけた。ときに、「子供之友」はそうした〝モダン派〟の作家たちの愉しい実験室だったのだろう。そのことは、10年代後半、この雑誌が「観音開き」や「片面開き」といった凝った仕掛けをさまざま採用していることからもわかる。

やがて誌面は次第に戦時色を反映するようになってゆくが、表紙ではあいかわらず世界の子供たちが描いた絵のシリーズや自由学園の生徒による創作シリーズなどさまざまな試みが続けられる。この〝愉しい実験室〟は、用紙制限のためやむなく「婦人之友」に合併するかたちで廃刊となる昭和18(1943)年まで続いた。

レーモンドの教文館・聖書館ビル

 『日本近代建築の父アントニン・レーモンドを知っていますか〜銀座の街並み・祈り』という展示が、いま銀座の老舗書店・教文館でひらかれている。

 

 近藤書店・洋書イエナ、福家書店旭屋書店……街からどんどん〝活字〟が駆逐されてゆく銀座にあって、いまや教文館には唯一残された〝良心〟といった趣がある。銀座に行けば、だからたいがいは教文館も覗くし、もちろんそれがアントニン・レーモンドが手がけた建物であることも知っていた。にもかかわらず、現在の姿をみるかぎりこの建物にそれほど惹かれもしないのはどうしてなのか。

 カーソルを「昭和8(1933)年」に合わせてみる。教文館・聖書館ビルが竣工した年だ。

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画像引用元:小冊子「教文館ものがたり」

 銀座通りに面した「教文館ビル」の83年前のその姿は、なんと美しく、またモダンなのだろう。エントランスには控えめながら印象的な装飾が施され、階上には、現在は失われてしまったがアールデコ調の塔がそびえ立っている。

 写真でみるかぎり、それは設計までしたものの工事途中(1930年ごろ)で手を引くことになった築地の聖路加国際病院の「塔」、そして昭和13(1938)年に竣工した西荻窪東京女子大学礼拝堂の「塔」とともに、いわば「3兄弟」ともいえる造型を備えているのがわかる。

 いまも「長男」と「末っ子」が健在であることを思うと、「次男」の不在がかえすがえすも残念である。ちなみに隣り合わせに建つ「聖書館ビル」の階上にも同様の「塔」が存在していたが、こちらは航空写真でみるとどうにかニキビの跡のような凸凹を確認することができる。

 

 展示がおこなわれている最上階のウェンライトホールから、同時開催の『教文館ものがたり〜明治・大正・昭和・平成の130年』を観るため3階へと移動した。震災や戦争、そして経営難など、幾度もの危機を乗り越えてきた教文館のあゆみを多数の写真を通じて知ることができるのだがなかなかこれが興味深かった。というのも、例の「塔」が失われてしまった経緯がわかったためである。

 昭和31(1956)年、武藤富男なる人物が専務として招かれる。当時「キリスト新聞社」の副社長であった武藤は、裁判官出身で旧満州国では官僚も勤めたほどの実力者。その腕を買われ、経営危機に直面した教文館を再建させるための抜擢であった。その期待に応え、就任後6年をかけて武藤は経営を軌道に乗せることに成功するのだが、そうした再建策の一環として打ち出されたのが屋上に広告塔を設置することであった。戦後の経済成長期、しかも賑わう銀座の一等地ということをかんがえれば、当然出るべくして出た方策といえるだろう。

 昭和33(1958)年ごろに撮られた写真がある。

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 画像引用元:同上

 教会建築を思わせる塔は姿を消し、いかにも昭和の高度経済成長期らしい巨大な商業広告に取って代わられている。一方、「聖書館ビル」の塔はまだそのままの姿をとどめているのがわかる。

 大本営発表とは裏腹に低迷の続く日本経済を反映し屋上から巨大な広告塔も姿を消したいま、2016年、「教文館ビル」の姿はずいぶんと寒々しく映る。せめてあのアールデコ調の塔があったならと思わずにはいられないが、時代時代の状況を赤裸々に映し出す「教文館ビル」を、その意味で「生きている」建築と呼ぶことはできるかもしれない。

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桃乳舎のこと

 ふと足をとめ、しばし建物を愛でる。道ばたに咲いた可憐な草花を愛でるように、ビルの谷間にひっそりとたたずむ古い建物を愛でるのだ。こんなところにこんな花が! そのちいさな発見は心を弾ませる。

 まだあの花は咲いているだろうか、不意に思い出しわざわざ遠回りしてその消息をたしかめにゆくこともある。そのままの姿で風に吹かれているとホッとする。無惨にも踏み倒されていたり、あるいはだれかに手折られてしまっていることもすくなくない。そんなときには、まるで心にぽっかり穴があいたような気分になる。

 建物だって同じ。大通りの、名の知れた建築家が手がけた「作品」であれば、なんらかのかたちで保存される道もあるだろう。でも、裏通りの名もなき建物はそうはいかない。老朽化、代替わり、再開発…… ちいさくて古い建物はいつ消えても不思議ではないし、またとても悲しいことだけれど、消えたところでそれを惜しむようなひともまた、あまりいないのが現実だ。だからこそ、ぼくは「愛でる」のだ。そして、「愛でる」ことには遠からず訪れるであろう「さよなら」がふくまれる。もう、次に訪れたときには会えないかかもしれない。そういう思いが、その建物をいっそう愛おしいものにする。

 

 作家の芥川龍之介は「牛乳屋のせがれ」であった。「牛乳屋のせがれ」などときくと反射的に「庶民的」というイメージが思い浮かび、芥川に親しみを抱きそうになるが、子供のころの思い出をふりかえった彼の文章を読むと、どうやらそれはまちがいのようだと気づく。

 

 僕の父は牛乳屋であり、小さい成功者の一人らしかった。僕に当時新らしかった果物や飲料を教えたのは悉(ことごと)く僕の父である。バナナ、アイスクリイム、パイナアップル、ラム酒、――まだその外にもあったかも知れない。僕は当時新宿にあった牧場の外の槲(かし)の葉かげにラム酒を飲んだことを覚えている」(『点鬼簿』)。

 

 それもそのはず、龍之介が生まれた当時(明治25)、芥川の実父は築地の外国人居留地に牛乳やバターを納品していた「耕牧舎」という牛乳屋で支配人のような立場にあったらしい。外国人や、早くから西欧化した暮らしをしていた華族や士族、裕福な実業家らをお得意様にもつ牛乳屋は、必然的に西欧文化と接触する機会の多いハイカラな商売であった。ちなみに、この耕牧舎を経営していたのは実業界の大立者、渋沢栄一らで、その功績を認められた芥川の父は後に新宿に牧場をひらき独立している。芥川の回想に登場する「当時新宿にあった牧場」というのがそれである。

 

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麴町區の大名屋敷跡にできた阪本牛乳舗 画像引用元:港区ゆかりの人物データベース

 

 また、明治維新後の東京で、行き場を失った「士族」たちがやりはじめた商売が「牛乳屋」だったともきく。広大な大名屋敷の跡地で牛を飼い、その乳を絞り売って歩いた。そのため、牧場の場所も麴町、日本橋、神田、京橋などのいわゆる下町の一等地にかたよって存在していた。

 「元園町に接近した麹町三丁目に、杵屋お路久(ろく)という長唄の師匠が住んでいた」と岡本綺堂は回想する。明治43年からその翌年にかけて俳句雑誌「木太刀」に掲載された聞き書きの一節である。お路久は界隈でもっとも繁盛した長唄のお師匠さんで、美人の娘が近所の評判であったが、立て続けにふたりとも病で亡くなってしまう。そして、「その跡は今や坂川牛乳店の荷車置場になっている。長唄の師匠と牛乳商(ぎゅうにゅうや)、自然(おのずから)なる世の変化を示しているのも不思議である」。これはたぶん、旧旗本の阪本當晴が東京に初めてひらいた「阪本牛乳舗」のことと思われる。日露戦争後の「世の変化」を象徴する出来事として「牛乳屋」が登場するのがいかにもおもしろい。

 

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 日本橋小網町の路地裏に、喫茶軽食「桃乳舎」はいまもひっそりと息づいている。以前、明治の終わりから大正の初めにかけこのあたりに実在した幻のカフェー「メイゾン鴻乃巣」の記憶を求めて歩き回ったとき、偶然出くわしたのがこの建物だった。オフィスビルに押し挟まれるように静かにたたずむその姿は、ほとんど奇跡といっていい。

 ネットから得た情報によると、その不思議な店名はここがもともと明治22年創業の「牛乳屋」であったことに由来しているという。江戸時代の地図を重ねれば、ちょうど酒井雅楽頭(さかいうたのかみ)のお屋敷があったあたり。ということは、あるいは先代もまた牛乳屋に「転職」したクチだろうか。ちなみに酒井雅楽頭といえば、落語好きには「三味線栗毛」に登場するお殿様としておなじみである。

 牛乳屋を廃業した後、ミルクホールなどを経て現在のような食堂に落ち着いたらしい。そして、昭和8(1933)年になって正面上部の「桃」のレリーフが可愛らしいこのビルディングを建てた。

 

 ある日の午後、遅い昼ごはんをとろうと「桃乳舎」を訪れた。近所で働いているとおぼしき歳も格好もまちまちな男たちが数名、新聞を読んだり携帯をいじったりしながらみな黙々と食事をしている。ぼくはといえば、チラチラとテレビに映し出された時代劇を眺めながら注文した「ポークソテーライス」600円を頬張る。そこに流れていたのは、ごくごくあたりまえの町の食堂の空気。

 どんな道の端っこだろうと、根を生やした土のうえに咲いた花ほどうつくしい花はない。建物だっておなじ、そこの土に根を生やし呼吸している建物はうつくしい。

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映画『浅草の灯』

 少しずつ、少しずつ島津保次郎を観ている。

 浅草オペラを題材に役者たちの青春群像を描いた『浅草の灯』は、ひとことで言えば、〝あの頃の〟浅草を活写した作品である。浅草オペラといえば、大正モダニズム華やかなりし頃、庶民を熱狂させ、モボやモガを生み出すほどの人気を誇ったが、大正12(1923)年の関東大震災によって壊滅的な被害を受け、そのまま幕を閉じている。いっぽう、島津が濱本浩の新聞小説をもとにこの作品を製作、公開したのが昭和12(1937)年だから、舞台となっているは〝14、5年ほどもむかしの〟浅草ということになる。〝あの頃の〟と言ったのは、それが〝いまはなき〟懐かしい土地と人びとの物語だから、である。

 

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引用元:東京国立近代美術館NFCデジタルギャラリー

 

 ところで、この『浅草の灯』を観終わったとき、ぼくはまずこんな印象を抱いた。これは、ひょっとして〝駄作〟じゃないか? 

 まず、展開がいちいち性急というか、雑である。ただ、それにかんしていえば、もともと104分あった作品を、GHQの検閲によって終戦後77分にまで縮められてしまったという話もある。27分のカットといえば全体の四分の一にもあたる。おもに暴力的なシーンがその対象だったというが、暴力的なシーンのみで27分もあったとは少し考えにくい。物語の展開上肝心なシーンやセリフまで削られてしまっているのではないか。もしもオリジナル版がどこかに残っていてそれを観ることができたなら、あるいはそのあたりの印象は変わるかもしれない。

 そしてもうひとつ、こちらのほうが個人的にはより問題なのだが、この『浅草の灯』にはどこか島津作品らしからぬ〝重さ〟が感じられる。『隣の八重ちゃん』にせよ『婚約三羽烏』にせよ、あるいはまた『兄とその妹』にせよ、これまでぼくが観てきた島津保次郎の映画には、深刻なテーマを扱ってもなお、〝いま〟を肯定する前向きさ、それゆえの〝朗らかさ〟があったように思う。ところが、この『浅草の灯』には、そうしたぼくの思うところの〝島津調〟が希薄なのだ。そして、この違和感のナゾを探ってみたくて、ぼくはゴソゴソと本棚を漁り一冊の本を引っ張りだしてきた。

 堀切直人の『浅草』(栞文庫)。そのなかに、銀座に背を向けた永井荷風玉の井の私娼窟を経由し、一時遠ざかっていた浅草を「再発見」するまでの道筋を辿った「オペラ館嬉遊曲」と題する一章がある。これを、『浅草の灯』を観る上でのサブ・テキストとして読んでみるというのはどうだろう。

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堀切直人『浅草』栞文庫

 

  堀切によれば、荷風の〝銀座離れ〟は昭和7、8年ごろにはじまる。昭和11年に執筆された『濹東綺譚』を引用しながら、堀切は荷風の銀座をはじめとする「首都枢要の市街に対する嫌悪」を浮き彫りにしてゆく。荷風によると、いまや銀座は「大正時代に成長した現代人」が大手を振って歩くような街に成り下がってしまったという。彼らは「おのれの欲望を野放しにして何ら恥ずることのない新人種」にほかならず、その態度は横風で厚顔無恥である。さらに、昭和6年の満州事変以後、まるで歩調を合わせるかのように街の「顔つき」にまで変化が生じる。

 

 数年前までは、「無用のもの、表向きはないということになっているもの」であった銀座の街頭も戦時色に覆われだしたのである。例えば『(断腸亭)日乗』の、上海事変勃発から2ヶ月ほどのちの昭和7年3月4日の項には、次のような物々しい情景が記されている。「銀座通商店の硝子戸には日本軍上海攻撃の写真を掲げし処多し、蓄音機販売店にては盛に軍歌を吹奏す、(略)思うに吾国は永久に言論学芸の楽士には在らず、吾国国民は今日に至るも猶性古(いにしえ)の如く一番槍の功名を競い死を顧みざる特種の気風を有す」。

 以上のように昭和7、8年以後の銀座は、おのれの欲望を野放しにして恥じない「現代人」や、陰険な目つきの好戦的人種などがわがもの顔に横行する巷と化し、永井荷風の心を圧迫した。(堀切直人『浅草』244頁)

 

 戦争の激化とともに、銀座を歩く人びとに向けられた荷風のまなざしもますます手厳しくなってゆく。

 

 戦時下の銀座で見かける者は、永井荷風の目には、男も女も何か肝心なものを失って、空虚な心を抱いているように見えた。『日乗』の昭和19年7月2日の項で、彼はこう極言する。「銀座丸ノ内辺にて盲動する男女を見ても彼等には人格は愚か性格すら具え居るもの一人として見えざるは世界いかなる国民にも到底見ることを能わざる奇異なる現象なるべし」(同上 257頁)

 

そして

 

自らの審美眼に絶対の自信をもつ貴族主義者の永井荷風は、『大衆の反逆』のオルテガ・イ・ガセットと同じく、これら根なし草の大衆の粗野さ、定見のなさに我慢がならなかったのだ(同上 257頁)

 

 こうして、自然、荷風の足は荒川放水路へ、そしてさらには隅田川の東側に位置する玉の井へと向くようになる。荷風いわく、娼妓の顔つき、物腰ひとつとっても、玉の井の女の表情は「朴訥温和」で、銀座あたりのインテリ女のように「一見人をして恐怖を感ぜしめるほど陰険な顔」や「神経過敏な顔」はみあたらない。まさに昭和7、8年以前、あるいは帝都復興事業に湧く昭和4、5年以前の「荷風好み」の東京の姿がそこには残っていた。

 そして、玉の井へ行く途中立ち寄る浅草にもまた、荷風は〝あの頃の〟東京を見出し、熱心に通いつめる。日中戦争がはじまった昭和12年の10月終わり、戦勝祝賀の提灯行列がゆく銀座の喧騒から逃げ出した荷風は、地下鉄で浅草へとたどりつく。浅草には、銀座のように「時局を論談する酔漢」の姿などいっこうにみあたらない。そこで彼を待っていたのは、「平常に異らず」「愚鈍なる顔付」で遊歩する男女の姿であり、「河霧薄く立ち迷」う吾妻橋上の眺望の静寂であった。そうしてまるで引き寄せられるように、荷風は六区の演芸小屋「オペラ館」にやってくる。

 

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 昭和12年1月、荷風が足繁く通ったころの浅草・六区

 このころの浅草は、すでにオペレッタの時代からレビューや軽演劇の時代へと移行している。もやもやした気分で浅草にたどりついた荷風は、たまたまオペラ館で観た「軽妙で淡白で稚気のある市井劇」に一服の清涼剤のような爽快感をおぼえたにちがいない。熱心にオペラ館に通ううち、それを知った文芸部の川上典夫なる人物から荷風は「楽屋にお遊びに来られたし」との手紙を受け取る。昭和12年1月、まさに島津保次郎が浅草を舞台に映画を撮ったのと同じ年のことである。これを機に、荷風は館主の田代旋太郎や座長格の俳優、清水金一らと親交を深め、やがては「オペラ館の要請に応じて創作オペラ『葛飾情話』の舞台脚本を無報酬で書きおろ」すまで深く入りこんでゆくのである。また、楽屋に出入りするなかで「芸人の意外につましい日常生活」に触れては、「かつてつき合ったことのある帝国劇場の女優の傲りたかぶった虚栄的な態度」を思い浮かべたりするのだった。

 戦時下の当局は、国民に対して「有用」であることを強制する。そして、それに乗じて他人をだしぬこうとする「狡猾強欲傲慢」な人々…… それが、荷風は我慢ならない。玉の井や浅草、六区の「オペラ館」の人びとにはそれが、ない。彼らはみな一様に「無知朴訥」で「淫蕩無頼」の「無用の徒輩」にほかならないが、そこにはたしかに時代の中で人びとが見失った「文化的伝統や倫理的骨格」が息づいていた。そしてそこに、荷風は微かな光明を見ていたのではないか。

 

 では、ほぼ同じタイミングで浅草に注目した島津保次郎もまた、荷風と同様、苦々しい気分で世間の浮かれ騒ぎから目を背けた先に辿り着いた浅草だったのか?

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 映画『浅草の灯』の舞台は、『カルメン』や『ボッカチオ』といったオペレッタを上演する「日本館」という劇場。おそらく震災前、銀座に客を奪われた浅草にかつてほどの賑わいはなく、オペラもすでに風前の灯といったところ。芸術家肌の演出家・佐々木(西村青児)は理解のない客の態度に腹を立て、その妻で座長の摩利枝(杉村春子)は金策に四苦八苦している。いっぽう、役者連中もみな薄給と厳しい労働に疲弊しきっていて、ある者は楽屋に寝起きし、ある者は胸を患い舞台にも出れず、またある者は関西で心機一転をはかろうと画策している。このあたりの事情は、荷風が目にした「オペラ館」の芸人たちとなんら変わらない。

 コーラスガールの麗子(高峰三枝子)もまた田舎出身で身寄りがなく、カフェーを営む夫婦の世話になりながら「日本館」で舞台にあがっているのだが、そんなある日、地元の金満家・大平(河村黎吉)が麗子に目をつける。大平は、カネをちらつかせて親代りの夫婦や摩利枝に取り入り、また地元のゴロツキを操ってなんとか麗子を自分のモノにしようと暗躍する。

 地元のヤクザ者と芸人たちのつかず離れずの関係については、やはり荷風が『日乗』のなかで触れている。ときに楽屋にまで押しかけて金銭を要求するそうした連中の振る舞いに恐れをなした古川緑波は、早々に浅草を去り日比谷へと向かうのだが、そんなならず者さえ荷風に言わせれば「無知蒙昧却て愛すべくまた憐れむべきところあり」ということになる。身びいきも、ここまでくれば筋金入りである。

 さて、悪党どもの計略を知ったやはり「日本館」の歌手で正義漢の山上(上原謙)は、文芸部の香取(笠智衆)ら楽屋仲間、さらには麗子に好意を抱くペラゴロ(=浅草オペラの熱狂的ファン)で貧乏絵かきの〝ボカ長〟(夏川大二郎)までをも巻き込んで、麗子を護るべく捨て身の抵抗に出るのだった。

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 こうやってあらすじだけ抜き出すと、この『浅草の灯』にはどこかいにしえの騎士道物語のような趣があるのだが、それが昭和12年というタイミングに撮られた作品であることを思えば、またべつの意味をみつけることもできるように思うのだ。じっさい、この作品は一貫して「労働者たる弱者」による「強者」に対する抵抗という構図があり、またそのまなざしは徹頭徹尾「弱者」の側に寄り添っているのである。はたして、当時こうした構図を現在進行形のドラマとしてあからさまに描くことができたとは思えない。いってみれば、舞台が〝あの頃の〟浅草だったからこそ可能だったのではないか。江戸時代、町人のあいだで「怪談話」が流行したのは、威張りくさる武士を(物語の中で)やっつけ憂さを晴らすそれがうってつけの手段だったから、と聞いたことがあるが、まさにそんな話を思い出す。

 

 しかし、それ以上に気になることもある。それは、この映画全体を貫く美意識が、現代を颯爽と生きる職業婦人や女学生の姿をチャーミングに描く島津保次郎にしてはあまりにも古色蒼然としてはいないか、ということだ。

 たとえば、離縁をめぐってもめている演出家の佐々木と座長でプリマドンナの摩利枝を前に、山上が自分の指を詰めることでふたりの復縁を迫るところなど、ちょっとびっくりしてしまう。その手段はもちろん、すでにこのとき山上はいずれ劇場にいられなくなる身であることを自覚しているにもかかわらずの行動だからである。こういう潔癖な「筋の通し方」など、戦況に一喜一憂する「狡猾強欲傲慢」な「現代人」にあってはただ単純で、古臭く、馬鹿げたものに映ったにちがいない。けれども、荷風とおなじく島津保次郎もまた、巷の人びとが「何か肝心なものを失って、空虚な心を抱いているように見え」るご時世だからこそ、このような「無用な徒輩」が八面六臂の活躍をする物語をあえてとりあげたのだと言うことはできないだろうか。じっさい、山上が麗子をボカ長に託すのも、たとえ相手がヤクザ者だろうとひるまない彼の義侠心に信頼を寄せているからだし、そこにいまや急速に失われつつあるなにか〝尊いもの〟を見ているのは、荷風も島津も変わらないだろう。

 島津保次郎という映画人は、たとえ〝あの頃の〟浅草を描こうとも、つねに現代を意識し、また現代を描こうとしていたと、すくなくともぼくはそう思いたいのだ。

映画『花婿の寝言』

 他愛のないと言ってしまえばそれまでだが、昭和10(1935)年の人びとはむしろ、こういった「他愛のなさ」をこそ映画に求めていたのかもしれない。娯楽にまで浮世の憂さを持ち込んでたまるものか ー この屈託のないホームドラマの向こうに、映画という「聖域」を守ろうとする当時の映画人たちの〝気概〟が透けてみえるかのようだ。

 

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 映画『花婿の寝言』は昭和10(1935)年に製作されたコメディー映画で、監督は『マダムと女房』の五所平之助、当時「松竹蒲田」が得意としていた〝小市民〟ものである。

 舞台は、まさに開発真っただ中の東京郊外のどこか。野っぱらのあちこちに住宅が点在し、電柱が立ち並び、そのかたわらを走っているのは1両編成のオモチャのような郊外電車だ。主人公は新婚まもない若夫婦で、林長ニ郎(長谷川一夫)演じる夫はパリッと背広を着込み中折れ帽をかぶったサラリーマン。いいとこのお嬢様だった妻(川崎弘子)を溺愛していて、ことあるごとに小型カメラで愛妻のポートレイトを撮るのを趣味にしている。暮らしているのは、ふたりのためにと妻の父親が建ててくれた「白いタンクのある新しい家」。しかも女中つき。大きな「白いタンク」は水道だろうか(側面には「コミネ」とカタカナで苗字が書かれている)。新築の家が並ぶ郊外でもじゅうぶん「目印」になるくらい、まだ貯水タンクを備える家は珍しかったようだ。目の前は空き地で、「◯◯株式会社テニスコート敷地」という看板が立てられている。田園調布の「田園コロシアム」然り、郊外住宅とテニスコートは流行の組み合わせだったのかもしれないなどと考えつつ観る。

 

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 それにしても、いまだってそうなのだから、きっと当時の人びとはこんなおままごとのような暮らしぶりをなかば憧れ、なかば嫉妬の入り混じった感情で見ていたにちがいない。そして、当時の人びとのそういった心持ちを、近所に住む同僚の田村(小林十九二)が代弁する。見たところはおなじようにスーツでパリッと決めた勤め人だが、恐妻家で小遣いにも事欠き、みずから夕飯の買物をしネギを刻む。毎朝繰り広げられる新婚夫婦のアツアツぶりにあてられっぱなし、うんざりしている。

 ところで、郊外を舞台にしたこの時代の映画には、しばしば年齢にかかわらず隣人同士誘い合って仲良く出勤する会社員たちが登場する。実情は、電車の本数も少なくどうせ駅で一緒になるのだから家から一緒に…… といったところなのかもしれないが、なんだか小学生のようでほほえましい。連れションならぬ、連れ通勤、連れキン。現代の東京からは、(おそらく)ほぼ全滅した習慣なのではないか。

 

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 物語は、この美しい新妻の「ヒミツ」を酒屋のご用聞きの少年が知ってしまったところから始まる。夫を会社に送り出した後、彼女は毎日昼寝をするというのである。「それは病気にちがいない」。それを聞きつけたなんとも胡散臭い男、「心霊術」を操るという三宅(斎藤達雄)は断言する。三宅は、最近田村の隣家に越してきたばかり。隣りは何をする人ぞ。こういう得体の知れない隣人との共生というのも、ある意味、かつての下町にはなかった郊外ならではの新しい人間関係のカタチといえそう。さて、なんとか施術して一儲けしたいものと考えた彼は、田村の女房(忍節子)にその「ヒミツ」を漏らし、取り入ってもらおうと懇願する。当然「ヒミツ」は田村の女房から田村へ、そして新郎の耳に入ったところから、夫婦それぞれの親(水島亮太郎、高松栄子)を巻き込んでの離婚騒動にまで発展するのだが……

 

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 いまとなっては、妻の「昼寝」が離縁騒ぎにまでなることがそもそも驚きだし、まあ、そこは「喜劇」、昭和10(1935)年当時だってそれはきっと同じだったろう。そして、やがてその「理由」が明らかになることでハッピーエンドとなるわけだが、その「理由」と、恥ずかしがって「理由」をなかなか明かすことのできない新婦にまた、失笑。かなり滑稽にデフォルメしているとはいえ、新しい習俗と古い慣習とが混在し、ときに滑稽なほどに衝突を起こしていたのが昭和10年のリアルだったのかもしれない。

 

 とにもかくにも、善人だらけの、まったく毒にも薬にもならないこの手の映画はぼくの「大好物」なのだ。

宮川曼魚の「悋気の火の玉」

 弥生美術館の「橘小夢(たちばな・さゆめ)」展で、小夢が描いた一枚の挿絵が目にとまった。切れ長の目をした面長の男が、一本の木の下でキセルをふかしている。そして、キセルの先にぼんやり宙を漂っているのは火の玉。落語でおなじみ、「悋気の火の玉」からの一場面である。

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 鼻緒問屋の主人が、外におんなを、つまり妾をつくる。嫉妬した本妻は藁人形をつかって妾を呪い殺そうとたくらむのだが、それを知った妾も、負けじと藁人形を持ってきて本妻を呪い殺そうとする。効果はてきめんで、本妻と妾は同じ日に亡くなり、主人はふたつの葬儀を出すことになってしまった。ところがふたりの怨念はなお消えず、夜な夜な火の玉が、本宅、妾宅それぞれから飛び立っては途中でカチーンとぶつかるというので大騒ぎとなる。弱りはてた主人は、まず妾の火の玉をかたわらに呼び寄せてなだめるように話しかける。一服つけようと火を探すが、あいにく持ち合わせがない。そこで主人、妾の火の玉にキセルを差し出して火をつけてもらう。つづいて、同じように本妻の火の玉を呼んでなだめにかかるのだが……。

 

 女の嫉妬深さを茶化した「悋気の火の玉」は、8代目の桂文楽が得意とし、亡くなった5代目の三遊亭圓楽も音源に残している。最近では、三遊亭小遊三文楽の弟子である柳家小満んがときどき高座にかける。珍しいというほどではないが、寄席でよく聞くかというとそんなこともない、そういう噺である。そもそもの原因であるところのはずの男があまりにものんきなので、聴いていてだんだん腹が立ってくる女性も少なくないのではないか。東大落語会編『増補・落語事典』(青蛙房)によると、この噺の元ネタとされる「火の玉」は、すでに天保3(1833)年に出版された桜川慈悲成の笑話本『延命養談数』にみることができるという。慈悲成は戯作者であり、また噺家でもあった。古い噺なのだ。

 

 いっぽう小夢の挿絵はというと、昭和4(1929)年2月発行の雑誌「週刊朝日」に掲載された読み物のために描かれている。作者は宮川曼魚。

 曼魚は本名「渡辺兼次郎」といい、明治19(1886)年に東京の日本橋に生まれている。生家は、明治7年創業の「うなぎ喜代川」。後に本人も、深川にあった鰻屋「宮川」を継いでいる。鰻屋の主人という肩書きを持ちながら、黄表紙や洒落本の収集家として名を知られ、江戸の庶民文化にも深く通じた曼魚は、江戸の「粋人」の生き残りのように映ったことだろう。手元にある曼魚の随筆『深川のうなぎ』(住吉書店)の帯には、こんな惹句が印刷されている。「曼魚さんの随筆は東京の味がする。東京も下町の、特に深川の味がする」。

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 ところで、曼魚が「継いだ」とされる深川の「宮川」は、その歴史をさかのぼるといろいろややこしい。明治の中頃、深川の「宮川」は一度廃業する。このとき、そこで修業した渡辺助之丞が看板を受け継ぎ明治26年に「つきじ宮川本廛」を開業させるのだが、仮に廃業したのが明治26年とすると、まだ曼魚はたったの8歳。ということは、廃業した「宮川」の建物を「喜代川」が買い取り、「宮川」という屋号のままに営業を再開、その後どこかのタイミングで曼魚に後を継がせたということだろうか。「屋号」をめぐって揉めたりはしなかったのか。「喜代川」の倅で、深川「宮川」(の建物)を継いだ曼魚は渡辺姓、深川で修業し築地で独立した「宮川」の主人もまた渡辺姓。偶然なのか、はたまた血縁関係があったりするのだろうか。それならそれでしっくりくるのだが。

 

 それはともかく、その随筆の中で、曼魚は江戸の黄表紙や笑話本にみつけたエピソードの数々を紹介し興趣が尽きない。軽妙洒脱で、小咄のようなユーモアに弾けている。また、そうした江戸の読み物から着想を得た小説も曼魚は残している。短編集『月夜の三馬』(青年書房)がそれである。

 若い髪結いと年増の情婦の心中騒動を滑稽に描いた表題作は、落語も元にもなった『浮世床』の作者・式亭三馬が主人公。戯作者のかたわら薬屋も営んでいた三馬の、洒落のきいた人物像が楽しい。髪を結うという行為にセクシャルな意味をみつけ話をふくらますあたり、いかにも軽い〝おとなの読み物〟といった雰囲気が漂う。これは、昭和9(1934)年11月に創刊された雑誌「オールクヰン」(クヰン社)に小村雪岱の挿絵を添えて掲載された。

 

 おそらく、小夢が挿絵を描いた「悋気の火の玉」は、曼魚が『延命養談数』にみつけ雑誌のために翻案したのだろうが、もちろん、落語のほうの「悋気の火の玉」もよく知っていたにちがいない。桂文楽にこのネタを伝えたのは、文楽の「育ての親」ともいえる3代目三遊亭圓馬だっという話もある(ソースはウィキペディア。やはり圓馬に師事したこともある正岡容がまとめた芸談にあたれば、あるいは確かめられるかもしれない)。圓馬は、曼魚と4つ違いの明治15(1882)年生まれ。曼魚が22歳から27歳にあたる明治41(1908)年から大正2(1913)年は、圓馬が東京を拠点に活躍していた時期である。ふたりになにかしらの接点があればおもしろいと思う。

 

 時代が大きく動いていた昭和初期の東京にあって、曼魚は、その読み物をつうじて人びとの心のになつかしい江戸の風を吹かせる「粋」な男なのだった。