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「昭和8年」を起点に、ジャック・フィニイよろしくモダン都市を散策するブログ

龍膽寺雄『甃路(ペエヴメント)スナップ ー夜中から朝まで』を読む (第2回)

龍膽寺雄『甃路スナップ』を読む 昭和5(1930)年

 『甃路(ペエヴメント)スナップ』は、《世界大都會尖端ジャズ文學》叢書の第一弾として昭和5(1930)年5月に出版された『モダンTOKIO円舞曲』のなかの一篇である。作者は、龍膽寺雄。この『甃路スナップ』を、じっくり味わうように読み込むことで昭和5(1930)年当時のモダン都市・東京のいきいきとした姿を21世紀にいながらにして覗きこむこと、それがひとまずここでの目的といえる。今回は、その第2回目。

 

 最初のパラグラフでは、この散文詩の舞台であるモダン東京の情景がせわしなく画面を切り換えるような手法で活写された。続いてはいよいよ登場人物、モダン東京の住人の紹介となる。

 

 新婚の若いサラリイ・マンは、いそいそと片手に松屋の包をさげて。

 水族館の魚の様に、一ン日(いちんち)飾窓(ウィンドウ)のガラスの中で送った美しいマネキン・ガアルは、紅に荒れた唇に恋人の愛撫を空想しながら。

 金錆(かなさび)と油にまみれた髪の長い労働者は、組合のパンフレットを菜ッ葉服のポケットにまさぐりながら。

 たそがれの街々はまさに人間の洪水!

 

【モダン東京の「ポジ」と「ネガ」】

 「サラリイ・マン」「マネキン・ガアル」「菜ッ葉服を着た労働者」「モボ」ー4つの種族が取りあげられる。いずれも震災後の東京で一気に増加した、あるいはまた突如出現した種族にあたり、その点においてモダン東京の主要な出演者にはちがいないが、その役どころはまちまちだ。そして、そのちがいはモダン東京のいわばポジとネガとどうやら言い換えることもできそうだ。

 

【「モダン層」と「モダン相」】

 昭和4(1929)年に発表した「モダン層とモダン相」で大宅壮一は、モダニズムの「正体」について早くも次のように喝破している。

 モダン・ライフとは、理想も道徳もない、ただ刺戟ばかりの感覚の世界であって、そうした世界に発達した享楽哲学、消費経済こそが「モダニズム」である、と。そしてなにを隠そう、このモダニズムを支えている「モダン層」こそ「没落した中産階級であるところの有識無産階級」、つまり「サラリーマン」ということになる。大宅によれば、彼らは「鋭敏な感受性と、軽い機智と、廣くて浅い知識と、だぶだぶのづぼん(ズボン)又は短いスカートと、細いステッキ又は太いパラソルと、毎月五枚乃至十枚ばかりの十圓紙幣によつて膨らまされる俸給袋以外に何者をも持つてゐない。映畫と、ヂャッズ(JAZZ)と、ダンスと、スポーツを通じて輸入されたモダニズムを生きてゐるもの」である。

 では、都市におけるこうした種族、いわゆる中間層たる「サラリーマン」の出現は、時代にどのような変化をもたらしたか? 「モダン」とは、と大宅は言う。すなわちそれは「時代の尖端」を意味している。けれども、それは「本質的生産的尖端」ではなく、「抹消的消費的尖端」である。つまり、本質から末梢へ、生産から消費へと、「モダン層」の出現が時代の針路を劇的に変えてしまったのだ。このようにして、昭和初期、時代は新たな断面を露わにする。「モダン相」、それを彼はそう名づけた。

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大宅壮一『モダン層とモダン相』昭和5(1930)年(大鳳閣書房)

 

松屋呉服店の銀座進出】

 さて、こうした「モダン層」の一角を占める「新婚の若いサラリイ・マン」が向かう先、それが銀座三丁目の百貨店「松屋(呉服店)」である。

 神田・今川橋の松屋呉服店が銀座に進出したのは震災後、大正14(1925)年5月1日のこと。銀座には、すでに前年の大正13(1924)年には松坂屋が開店していたが、松屋の出店はふたつの点でエポックメイキングな出来事であった。

 ひとつには、東洋随一と謳われた鉄骨鉄筋コンクリート造・地上8階地下1階というその「規模」。とりわけ、当時の人びとをアッと驚かせたのはなんといってもその内部、1階から8階までの壮麗な吹き抜け空間にあった。じつは、以前から銀座の松屋日本橋三越といった老舗デパートを訪れるたび、商店建築にもかかわらずなぜ売場面積を削ってまで吹き抜けがつくられているのか疑問に思っていたのだが、ふと、当時流行りの「百貨店建築」の様式を取り入れたのではないかと考え調べてみると、案の定ニューヨークのメイシーズにせよパリのギャラリー・ラファイエットにせよ特徴的な吹き抜けを有している。なかでもシカゴの百貨店「マーシャル・フィールズ」のステイト・ストリート店は、お手本にしたのでは? と思わせるくらい外観、そして吹き抜けともに似通っている。じっさい、設計にあたった木田保造は、過去に視察旅行で目にした欧米のデパート建築から着想を得たとの話もある(★)。巨大な吹き抜けをもつ大ホールの設置は、即物的な商空間よりも、とりたてて買うものがなくてもつい行きたくなってしまうエンターテイメント性を優先させた結果であり、その目論見はまんまと的中したわけである。

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外観の比較 左/松屋呉服店 右/Marshall Field's 松屋呉服店は、Marshall Field'sをコンパクトにした印象

だ。

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店内大ホールの比較 左/松屋呉服店 右/Marshall Field's

 

 そしてもうひとつ、顧客ターゲットを明確に「大衆」に設定することで銀座が一気にモダン東京の「都」として花開くきっかけをつくったことが挙げられる。松屋の出店が銀座の街にもたらした変化について、松崎天民は『銀座の女』のなかでこのように書く。「大震災以前の銀座には、何となく階級的の意識が流れてゐて、貴族的と云つたやうな、富豪的と云つたやうな気分」があったのに対して、「震災後に復興した新銀座」はというと「何となく大衆的になり、何となく一般的になつて、『私達の銀座』は、一層私達の生活に接近し、私達の感情に深入りして」きたように思われる、と。そして、こうした「銀座の大衆化、民衆化と云ふことに、大きな動機を与へ、エポツクな機会を投じたのは松屋松坂屋と云ふ二大デパートメントストーアが、銀座に進出した事」にあったという。震災後、一気に増加した会社員や職業婦人ら「都会の大衆」の存在は、街のにぎわいを三越高島屋白木屋のある日本橋から松屋松坂屋のある銀座にずらしてしまうほどの影響力を持っていた。さらに、巨大な「松屋呉服店」の出現は銀座の街にも〝地殻変動〟をもたらしたと、昭和2(1927)年に出版された『銀座』のなかで松崎天民は述べている。「松屋の大ハウス」の出現により「銀座の中心が、尾張町にあった時代は過ぎて、今や銀座三丁目時代を出現して居る」。ちなみに、三越尾張町(銀座四丁目)の交差点に出店して銀座の百貨店時代をさらに彩るのは、この『甃路スナップ』を収録した『モダンTOKIO円舞曲』が出版される一ヶ月前、昭和5(1930)年4月のことだった。

(★)松屋呉服店と設計者の木田保三については以下のサイトに詳しい。関根要太郎研究室@はこだて

 

【マネキン・ガアル】

 昭和4(1929)年春、モダン東京の百貨店に新たな職業婦人が登場する。「マネキン・ガール」である。「マネキン・ガール」とは、百貨店で商品の宣伝を手伝うモデル兼販売員のこと。それぞれ、「日本マネキン倶楽部」「東京マネキン倶楽部」といった事務所に所属し、百貨店からの依頼に応じて現場に派遣されるという仕組みになっていた。仕事は、百貨店での実演販売が多かったが、ファッションショーのモデル、展示会などでのイベントコンパニオンもつとめた。

 当時のマネキン・ガールの様子については、詩人丸山薫の妻で、マネキン・ガールとして、さらには「東京マネキン「倶楽部」のマネージャーとしても活躍した丸山三四子による回想『マネキン・ガール 詩人の妻の昭和史』(時事通信社)にくわしい。ショーウィンドウの中で「水族館の魚の様に」というよりは、その実態はだいぶ活動的だったようである。

 著者が所属していた「東京マネキン倶楽部」は、正会員20名、準会員20名、さらにマネージャーと事務補助の会員が数名、人手が足りないときにはエキストラを雇って対応するというシステムになっていた。彼女たちはかなりの高給取りで、大学卒業者の就職率がわずか3割程度という就職氷河期を描いた小津安二郎の『大学は出たけれど』の時代、大学卒の初任給が70円から80円という時代に、なんと売れっ子のマネキンの月収はときに200円以上にもなったという。そのため、会員は作家の妻や新劇女優、帝大出身のご主人をもつ既婚者が多かった。デパート・ガールは日給80銭くらい、女の職業でもっとも収入のよかったダンサーでも平均して月に80円くらいというのだから、マネキン・ガールは羨望の的、まさに高嶺の花であった反面、事務所の乱立によりマネキンの質も千差万別、そのため彼女らに蔑んだ目を向ける人たちも少なくはなかったようだ。

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丸山三四子『マネキン・ガール 詩人の妻の昭和史』(時事通信者) 詩人の夫(丸山薫)を支えるためマネキン・ガールになった妻の、そのまま「朝ドラ」になりそうな奮闘の物語。梶井基次郎稲垣足穂三好達治中原中也、そして萩原朔太郎らとの心温まるエピソードも興味深い。

 

【複眼的まなざし】

 巷にあふれる〝モダーン〟を積極的に享受する〝モダン層〟たるサラリーマン、〝モダン相〟に現れた新しい風俗であるマネキン・ガールをさしずめモダン東京の〝ポジ〟とするなら、無雑作に菜ッ葉服のポケットに組合のパンフレットをつっこんだ労働者は〝ネガ〟と言えるのではないか。なぜなら、震災からの復興も、モダン東京のきらびやかな装飾も、「金錆(かなさび)と油にまみれ」た労働者の力がなくしてはありえなかったはずだからであるが、夜の銀座にけっして彼らの姿を見出すことはできない。唯一「遠い工場町」からかすかに届く「疲れた気笛」が、鋭敏なアンテナをもつ者にだけそっとその存在を知らせる。

 ここは短いセンテンスだが、金子みすゞの詩世界(例えば「大漁」のような)にも通じる〝複眼的〟まなざしがスパイスとして効いている。

 

 赤ネクタイに袋の様なセイラア・パンツ、眼深に大黒帽(ベレ)をかしげた二人づれが、

『ギンザへ出ようか。』

『そう、出ようか。』

『まだ一寸早いかね。』

『そう、早いかな。』

『そこらで簡単にパクついていこうか。』

『そう、……パクついていこうか。』

 天眼鏡で見なくッても、この二人のポケットには断じて金(ゲルト)がない!

 

【モボのいる舗道】

 幕間劇(まくあいげき)。前節の鉛色の気分を引きずらないために。いかにもモダニズム文学の旗手に似つかわしい構成の妙。

 これを目にした瞬間、きっと誰もが思い起こすのが有名な『洒落男』の歌だろう。オリジナルは、フランク・クルミットの1928年のヒットソング「A Gay Caballero」。リオ・デ・ジャネイロからニューヨークにやってきた「お上りさん」が主人公のコミックソング。 日本では、坂井透の訳詞、二村定一の歌で昭和5(1930)年の1月にリリースされ大ヒットとなった。♪俺は村中で一番 モボだといわれた男 うぬぼれのぼせて得意顔 東京は銀座へと来た そもそもその時のスタイル 青シャツに真赤なネクタイ 山高シャッポにロイド眼鏡 ダブダブなセーラーのズボン…… さらっと巧みに当時の流行を入れ込む。


洒落男(二村定一)

 ところで、昭和5(1930)年3月に公開された小津安二郎の映画『朗かに歩め』は、モボや断髪のモダンガールが登場するフィルムノワール調の作品だが、主人公らのたまり場の壁には「A Gay Caballero」の歌詞が書き殴られている。こういう分かる人にしか分からない〝遊び〟もまたモダニズムならではの尖端的精神といえそうだ(舞台設計は、当時弱冠24歳の水谷浩)。

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小津安二郎『朗かに歩め』(昭和5年 松竹蒲田)より壁に書き殴られた「A Gay Caballero」の歌詞。後半、主人公が堅気になるシーンでは、この歌詞がこすって消されたようにも見えなくないが、画面が不鮮明のため確認できない。ちなみに「hair」の綴りを間違えて「hear」と書かれている。

龍膽寺雄『甃路(ペエヴメント)スナップ ー夜中から朝まで』を読む(第1回)

昭和5(1930)年 龍膽寺雄『甃路スナップ』を読む

 重箱の隅をつつくように、少しずつ、龍膽寺雄『甃路(ペエヴメント)スナップ ー夜中から朝まで』を読んでゆく。

 

【はじめに】

 〝モダニズム文学の旗手〟として知られる龍膽寺雄(りゅうたんじ・ゆう)だが、その91年におよぶ人生の長さに比して、小説家として表舞台で活躍した期間は戦前のわずか6年ほどと驚くほど短い。昭和9(1934)年に発表した長編『M・子への遺言』のスキャンダラスな内容が原因で「作家的地位を失った」といわれている。長い余生は、サボテン(!)の研究と栽培に捧げられたがかならずしも筆を折ったというわけではなく、晩年まで少なくない数の文章を残した。

 龍膽寺雄はまた、慶應義塾大学医学生という異色の経歴の持ち主でもある。これにかんして言えば、「整形外科医になって美人を製造しようと思った」などと人を食ったかのようなコメントを残している。しかし、この飄々とした〝軽さ〟こそが龍膽寺雄の魅力にちがいない。そして鈍重な「文学」を置き去りにしたまま、彼はその圧倒的〝軽さ〟でひとつの時代を駆け抜けてゆく。

 この『甃路スナップ ー夜中から朝まで』は、昭和5(1930)年、龍膽寺雄ら「新興芸術派」に属する作家たちの作品をあつめて出版された『モダンTOKIO円舞曲』(春陽堂)に収められた《散文詩》だが、おそらく本人には帝都東京の夜を主題とした文字による《コラージュ》といった気分があったろう。じっさい、その都会をみつめるまなざしは徹頭徹尾〝目撃者〟のそれであるという点において、ぼくは1933年に『夜のパリ』を発表することになる写真家ブラッサイの眼と同質のものを感じずにはいられない。ただ歩き、ただ見つめ、ただ記録する人の自然的発生は、いかにも1930年代的な出来事と言えるのではないか。なお、オリジナルには深澤省三による挿絵が付いている。未見だが、「コドモノクニ」や「赤い鳥」で童画のイメージが強い深澤だけに、はたして「夜のトーキョー」の表情を活写したこの作品にどんな絵を描いているのか気にかかるところではある。

 これが発表された昭和5(1930)年といえば「帝都復興祭」が華々しく行われた〝モダン東京元年〟であることを付け加えて、では、さっそくタイトルから見てゆこう。

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女と男のいる舗道

 タイトルは『甃路スナップ ー夜中から朝まで』。「甃路」と書いて「ペエヴメント」と読ませる。pavement ー煉瓦や石を敷き詰めた道、舗装された道、舗道。さしあたって現代なら、「甃路(ペエヴメント)スナップ」よりもむしろ「街路(ストリート)スナップ」の方がニュアンスは伝わるような気もしなくはない。が、ダメなのだ、「街路(ストリート)」ではなく「甃路(ペエヴメント)」でなくては。

 日本に「甃路」が誕生したのは、明治初年のこと。明治5(1872)年の大火をきっかけに、銀座の街並みは「不燃化」を目的とした「煉瓦街」に生まれ変わる。木造家屋の廃止と煉瓦造の推進、道路の拡張、あわせて煉瓦を敷き詰めた道路の舗装もおこなわれた。『東京繁盛記』で木村荘八は、銀座の煉瓦街化にふれ「煉瓦化」とは「西洋化」、すなわち「近代化」であったと述べている。また、鏑木清方のエピソードを引きながら、当時の人びとは「銀座通」と言うかわりに「煉瓦通」、また「銀座に行く」ことを「ちょっと煉瓦に買い物に」などと気取って言っていたとも書いている。

 近代化の象徴であった銀座の煉瓦街は、しかし大正12(1923)年の関東大震災でほぼ壊滅する。すると、こんどは帝都復興事業の一環としてアスファルトやコンクリートによる舗装が急ピッチで進められた。たとえば、都会の壮麗なうつくしさを称えたこんな文章をみれば、いかに「甃路(ペエヴメント)」が都市の象徴であり、必須条件であるか理解できるはずである。「大通りは頑固に舗装され、銀色に光る四条のレールが象眼されていた」(海野十三『深夜の市長』昭和11年)。

 じっさい「甃路」の誕生は、都会のライフスタイルにさまざまな影響をもたらしもした。たとえば、百貨店がこれまでの「土足厳禁」から「土足のままでの入店OK」と変わった理由のひとつに、舗道の完成にともない履物の汚れが大きく改善されたことが挙げられるという。また、銀座に「銀ブラ」なる習俗が誕生したのも、あるいは、洋装でも和装でも、また雨の日でも足元を気にせず闊歩できる「甃路」の存在が背景にあったとかんがえることもできるかもしれない。

 とはいえ、じつのところ、モダニズム文化を享受する人びとは「郊外の泥道から、アスファルトのビジネスセンター」(前田一『サラリマン物語』昭和3年)に通うサラリーマンたちが中心であった。モダンは足元から訪れる。「甃路(ペエヴメント)」と聞けば、それゆえありありと原色の都会的光景が浮かびあがる。それが、昭和5(1930)年のリアルだった。

 「夜中から朝まで」というサブタイトルもまた然り。終電の時刻を気にせず夜遊びに興じられる「円タク」の登場(大正15年)、都会的な生活を楽しむ新中間層、身軽な単身者の増加といった現象が、都会を〝不夜城〟に変えてゆく。都会は眠らない。そこでは、あなたが寝ている間にもたくさんの人間たちが活動し、数々のエピソードを量産している。都会のリアルな表情を切り取ろうとするとき、「甃路(ペエヴメント)」という〝空間〟と「深夜」という〝時間〟とに着目し選び出す龍膽寺雄のまなざしは、さすが冴えている。

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銀座の甃路(ペエヴメント)を闊歩するモダンガール。昭和3(1928)年。

 

さて、ようやく本文まで辿りついた。まずは、きわめて映像的な、芝居でいえば「プロローグ」にあたる導入。

 

  夜

  夜

  夜

 煤けた漆喰の塔のぐるりに、鷹揚に輪を描いて居た伝書鳩の群れが、黄ばんだたそがれの光に翼を収めて、ビルディングの嶺(いただき)の高い塒(ねぐら)に姿を消すと、やがて、新聞社の屋上では燦然たる電光ニュウスが、夜の通信の緒(いとぐち)を神経的に空へ繰拡げるんです。

 大扉を閉ざして暗く沈黙したビルディングの間に、明るい窓を並べて快速に行き交う高架電車、低い路面を珠数なりに流れる自動車のヘッドライト、蟻のような行人、街々の宵のざわめき、遠い工場町の疲れた気笛。

ーーー

 

 

【コントラストが綾なす都市の夜景】

 光と闇、静と動…… モダン都市・東京の夜を綾なすのは、せわしなく交互するコントラストだ。

 塒(ねぐら)、大扉を閉ざして暗く沈黙したビルディングといった「暗く閉ざされた空間」、「闇」のイメージをあたかも引き裂くかのような強烈な「光」のイメージ。キラキラと翼に夕暮れの光を映して旋回する伝書鳩の群れ、燦然たる電光ニュウス、疾走する高架電車のはためく窓明り、そして自動車のヘッドライト

 沈黙したビルディング、遠い工場町から聞こえる疲れた気笛。1日が幕を下ろす静寂のイメージには、刻一刻と変動する世界にリンクし流れつづける電光ニュウス、快速に行き交う電車、宵のざわめき蟻の行進のような人びとの隊列、珠数なりに流れるヘッドライトといった「流動」するイメージが対置される。

 ところで、日本に「サラリーマン」という和製英語を広めたとされる前田一は、昭和3(1927)年に出版し評判となった著書『サラリマン物語』(東洋経済出版部)のなかで当時のサラリーマンたちの生活環境について次のように書いている。彼らは「一噸(1トン)積のトラックが通って家鳴り震動するといふ借家ずまゐから、七階八階の近代的高層建築にエレベーターという調法なもので送り込まれることを日課としてゐる」。だとすると、毎朝、省線電車に揺られて「郊外の泥道から、アスファルトのビジネスセンターに迄」運ばれてゆくサラリーマンこそ、暗い夜、低い家並み、ぬかるんだ道の古い東京と、震災後の復興事業によって出現した不夜城、摩天楼、舗装された道の最新式の東京というコントラストを行き来するモダン都市・東京の〝落とし子〟といえるかもしれない。

 

【スクロールするまなざし】

 さらに龍膽寺雄の眼を通して、ぼくらの目玉もまた上へ、下へとスクロールする。「銀座アルプス」と寺田寅彦が名づけたビルディングの嶺(いただき)、高架を疾走する電車。上空から舞い降りる伝書鳩が運んできた最新のニュースは、ビルディングの屋上に設置された電光ニュウスの光る文字の帯となってふたたび夜空へと放たれる。

 いっぽう、目線を下へ移せば、川の流れのように低い路面を自動車が走り、黙々と歩く群衆の姿が目に入る。見上げるまなざしと見下ろすまなざし。モダニストが手に入れたのは、なによりこの目玉の垂直運動であった。この時期、しばしばビルに吸い込まれてゆく人びとの群れを「蟻の行進」に喩える表現が目につくが、これは高い位置から見下ろすことではじめて可能になる表現と言える。俯瞰することで〝発見〟したのは、あろうことか、行列する蟻のうちの一匹である自分の姿……。都市の高層化は、はからずもサラリーマンにみずからを蟻に喩えるような自虐表現を生むメタ的視点をもたらした。

 「3D」化したモダニズムの東京を正しくつかまえるためには、目玉もまた休みなく運動しつづける必要がある。スクロール、フリック、スワイプ、ピンチアウト…… 龍膽寺雄のまなざしは、スマホの画面のかわりに世界の上をせわしなく移動し、次々と新たなスクリーンを繰り出してゆく。

 

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 安井仲治「スピード」昭和7(1932 )〜昭和14(1939)年頃

 

【スピード礼賛】

 人類の歴史はまた、「スピード化」の歴史という視点から読み解くこともできそうだ。面白いのは、有名な「未来派宣言」を引き合いに出すまでもなく、世界中に同時発生的に「スピード」を称揚する人びとが現れたことだ。たとえば、戦前のモダニストたちがそうだった。彼らはそれを、利便性や効率化といった点からではなく、都会固有の美質という点から称賛した。その意味で、この『甃路(ペエヴメント)スナップ』が、まず新聞社の社屋の点景からはじまるのはとても暗示的だ。

 新聞は、「情報」というナマモノを扱うがゆえに、その宿命として「スピード化」との絶えざる奮闘を強いられてきた。つまり、新聞社は都市における「スピード化」のランドマークといった存在といえる。まず、ニュースを迅速に運ぶのは飛行機や伝書鳩の仕事だ。立派な社屋のなかでは巨大な最新鋭の輪転機が、いまや遅しとニュースの到着を待ち受けている。そして高速で印刷された新聞はトラックに積み込まれ一斉に配達される。ひとつのニュースをめぐるスピーディーな流れ作業は、「工場」の製造ラインのように入口から出口まで可視化されていて現代よりもはるかにわかりやすい。そして「スピード化」は、電光ニュウスの登場によって当時の人びとにいっそう鮮烈なイメージを刻みつける。

 昭和2(1927)年、朝日新聞社は、分離派建築学会の石本喜久治の手になる大型客船のような相貌をもつ新社屋を数寄屋橋の河岸に完成させる。日本初の「流動式電光ニュース」は、その翌年11月に設置され話題になる。この、朝日新聞社の電光ニュースが登場する小説のひとつに太宰治の『一燈』がある。

 昭和8(1933)年12月23日。大学生の主人公は、急きょ田舎から上京してきた兄に呼び出され神田の宿の薄暗い一室で厳しく叱責されていた。春には卒業のはずが、試験も受けず卒論も出していないことがバレたのだ。そこに表から賑やかな提灯行列の音がきこてくる。待望の皇太子殿下のご誕生らしい。「街へ出て見よう」と兄は弟に声をかける。そこで、ふたりが自動車で向かった先が銀座なのである。「A新聞社の前では、大勢の人が立ちどまり、ちらちら光って走る電光ニュウスの片仮名を一字一字、小さい声を立てて読んでいる。兄も、私も、その人ごみのうしろに永いこと立ちどまり、繰り返し繰り返し綴られる同じ文章を、何度でも飽きずに読むのである」。

 それにしても兄は、そしてまたその他多勢は、なぜあえて新聞社の前に駆けつけたのだろう? おそらくは、そこに行きさえすれば正確なニュースをもっとも早く知ることができるという心理が働いたのではなかったか。そしてまた、実際そうだったのだろう。ここからわかるのは、昭和初期にあって、ニュースの大元締め、ナマの情報を加工し商品化する近代的な〝工場〟としての新聞社の社屋は、その速報性という点で揺るぎない地位を誇っていたということである。

 これは余談になるけれど、ぼくの子供の頃の記憶の中には、有楽町の「日劇」のかたわらに建っていたこの朝日新聞の社屋の残像がある。モダニスト好みの威容もその頃にはすでに見る影もなく、全体にくすんだような古ぼけた建物の印象しかない。おそらく当時も電光ニュースはあったはずだが、すでにわざわざ立ち止まってまで見入るひとの姿はなかった。

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昭和2(1927)年に竣工した朝日新聞の新社屋(設計は石本喜久治)。紹介文には、超高速輪轉印刷機、シーメンス式電送写真装置などと並んで流動式電光ニュースの文字が。

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 有楽町にあった東京日日新聞の社屋をあしらった絵はがき飛行機、伝書鳩、トラック、そして電光ニュースという「スピード化」の象徴が散りばめられている。

銀座の〝けもの道〟を往く

箸休め

ぼくが、密かに銀座の〝けもの道〟と呼んでいる抜け道を紹介する。

日本橋から京橋、さらに銀座1丁目から8丁目を抜けて新橋に至る一帯の街路の整然とした印象は、外堀通り=中央通り(銀座通り)=昭和通りと並行する3本の大通りに対して交差する道路が織りなす碁盤の目によるところが大きい。ところが、地図をみるかぎり、「花椿通り」と「御門通り」のあいだにあたるもっとも新橋寄りの通りのみがどういうわけか「並木通り」にぶつかったところで途切れてしまっているようにみえる。碁盤の目で揃わないのがどうもキモチ悪い。

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ところが、たしかに自動車は通行できないとはいえ、じっさいに足を運んでみると「並木通り」と「中央(銀座)通り」とをつなぐ抜け道(赤い点線部分)が存在することがわかる。

 

まず外堀通りを折れ中央通りをめざすが、すぐさま正面が行き止まりになっているのに気づくだろう。

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それでもなお近づいてゆくと、右手「俺のフレンチ」と左手、版元として川瀬巴水の版画を売り出したことでも知られる「渡邊木版美術画舗」のあいだに人が通り抜けることのできそうな隙間を発見(矢印)。

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こんな感じ。ぜんぜん行けそう。

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シャッターが閉まっているので判りづらいのだけれど、こんなところの両側にびっしり店が建ち並んでいて驚かされる。ここを抜けたら「見番通り」だ。

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続いて、木の壁がいい味を出している「栄寿司」の右手を進む。

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どうやら「金春通り」に出れそうだ。

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こうなったらなんとしても「金春通り」から「中央通り」へと抜けられる道を発見したいところではあるが、正面はまだ比較的新しいビルでうっかり入りでもしようものなら警備員に怒られそうなたたずまいで腰が引ける。それでも、叱られたときの口実を考えつつ自動ドアを開ける。

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「銀座888(スリーエイト)ビル」の内部。ゴ、ゴ、ゴージャス!! ここはエレベーターホールかと思いきや、なんとエレベーターホールとは切り離された「通路」として設計されているではないか!! 講談社カルチャーブック『銀座再見』(1993年)で確認すると、もともとこの場所には「銀座千疋屋本店」と時計・宝飾の「審美堂」、「兜屋画廊」があった。当時も抜け道があったのかどうかは定かではないが、ビルを新築する際ここにこのような「抜け道」を残したところからオーナーの〝銀座愛〟がひしひしと伝わってくるようではないか。f:id:moicafe:20170103000249j:plain

こうして、無事に「外堀通り」から「中央通り」までまっすぐ通り抜けることができた。道路の反対より「銀座888ビル」の通路を写真に収める。

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こういう抜け道のほかにも、銀座にはまだまだ狭い路地や小さな横丁が残されている。メインストリートの喧騒を離れ、こうした路地や横丁に〝松崎天民の銀座〟を探し思いをはせるのがぼくの密かな愉しみでもある。

動き出す!絵画〜ペール北山の夢

大正期

 明治維新後の日本を、かりに人生にたとえるとしたら、やはり大正時代は青春時代であり、なにはなくても情熱だけはたっぷりあるアマチュアリズムの時代だったのではないか。東京ステーションギャラリーで開催中の『動き出す!絵画~ペール北山の夢』もまた、そんな時代を駆け抜けた芸術家たちの〝熱量〟に圧倒される展覧会である。

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 登場するのは岸田劉生木村荘八斎藤与里といった若い洋画家たちだが、その渦巻きの中心にいたのが「ペール北山」こと北山清太郎というひとりのディレッタントだった。北山は、西洋美術作品の図版、海外文献の翻訳、日本人画家たちの芸術論、展覧会評を紹介する雑誌「現代の洋画」(のち「現代の美術」)を主宰するかたわら、展覧会の運営や目録の編集、刊行をみずから買って出ることで若い芸術家たちの活動を後押しするとともにその感性を刺激しつづけた。彼ら若い芸術家たちは、無名の画家たちを援助したパリの画材屋の店主タンギー親爺になぞらえて北山のことを「ペール(親爺)」と呼んでいたという。有望な若者を見出し、たきつけるのもうまかったようだ。

 また、とにかく新しいものに目がなく、じっさい誰よりも嗅覚にすぐれていた。大正時代、若い芸術家や文人たちのサロン的な役割をはたしたレストラン「メイゾン鴻之巣」の奥田駒蔵もそうだが、北山もまたそのような大正ディレッタントのひとりだった。そのことは、早々とアニメーションに目をつけ、後半生をアニメーション制作に身を捧げたことからもわかる(展示の最後には、彼がみずから手がけた短編アニメをじっさいに見ることができる)。

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 会場の前半には、西欧の画家たちの作品が並ぶ。セザンヌゴッホピサロシスレー、モネ、ミレー、ドガ、ルノワール、そしてロダンなどなど。若い日本の画家たちは、彼らの作品を北山の「現代の洋画」に掲載された図版を通じて知る。実物に接する機会がごく少なかったこの時代、なにより「現代の洋画」は西欧美術の最新動向を知るうえで貴重な情報源だった。だから、展覧会の前半はこれらの作品が大正時代の若者たちの目にどんなふうに映ったのか想像しながら観てゆくのが楽しい。ひなびた農村、郊外の雑木林、埃っぽい道、たっぷり水をたたえた川、人や馬車でにぎわう街角、そして市井の人びと。そうしたよく見知った光景が、圧倒的な新しさをもって絵画作品として成立していることに彼らは一様に衝撃を受け、震えるような感動をおぼえたのではないか。俺も書きたい! いや、俺にだって書ける! すぐにでも画材を抱えて外に飛び出したいような心持ちになったはずだ。

 

 会場の後半は、いわば〝実践編〟。最初はおそるおそるなぞるように、そして少しずつ大胆に。ある者はいてもたってもいられず日本を飛び出し現地にあこがれの画家を訪ね、またある者はセザンヌゴッホ、ミレーのように身近なモチーフに情熱をぶつけた。「文展」が旧弊なアカデミズムに支配された「サロン」なら、じぶんたちの才能はその枠にはおさまらない印象派のそれである。彼らは、北山を「タンギー親爺」になぞらえることで、じぶんたちの姿をゴッホセザンヌに重ね合わせた。やがて、そうしたなかから斎藤与里を中心に高村光太郎岸田劉生、萬鉄五郎らが結集し「フュウザン会」が生まれる。なかでも、力のある者は模倣から独創へと力強く脱却していった。岸田劉生や萬鉄五郎、中川一政や中村彝の絵からは、やはりそうした比類のないエネルギーが感じられて興味深い。

 たとえば、岸田劉生が代々木の切通しを描いて話題になると、おなじようなモチーフで描くフォロワーが続いて現れる。あこがれ、模倣する存在だった自分が、いつしか気づけば模倣される存在に。大正という時代を貫く猛烈な速度はこんなことからもよくわかる。

 

 最後に、そんな洋画との衝撃的な出会いをまともに食らった若い画家たちの作品から印象に残った絵をふたつ。

ひとつは、〝日本のモネ〟との異名をとる山脇信徳の「雨の夕」(1908(明治41)年)。ブルーモーメントのような青に霞んだ街並。無数の轍。路面電車。傘を手に足早に行き交う人びとの姿。湿り気を帯びた空気が伝わってくるようだ。

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 もうひとつは、川上涼花の「鉄路」(1912(明治45)年)。ゴッホのような強烈な色彩でありながら、真っ赤に照らされた崖を切り裂くように疾走する電車が新しい時代の夜明けを告げている。

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 電柱、轍、そして走る電車という当時としては新しい日常のモチーフが、それぞれ青と赤という対照的な色調で描かれている。そこに開ける世界もまるでちがう。かたや抒情、かたや熱気。若い画家たちの、世界を捕捉するまなざしの確かさに「ペール北山」ならずとも釘付けになる。

イヴォンヌ・キュルティ(Vn)と令嬢たちのレコード蒐集

昭和7(1932)年

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 夏の夜の読書は、ミステリにかぎる。そこに描かれる寂寥とした世界にしばし浸ることで脳内からクールダウン、涼を呼ぶのだ。

 ここ最近では、雑誌「新青年」の初代編集長として江戸川乱歩を世に送りだしたことでも知られる森下雨村が、昭和7(1932)年に発表した探偵小説『白骨の処女』(河出文庫)を読んだ。帝都東京と新潟、ふたつの都市で発生したふたつの殺人事件が、精緻な推理と執拗な調査を進めてゆくなかで徐々にひとつに重なってゆく。その、絡み合った紐が少しずつほどけてゆくようなスリリングな展開に舌を巻き、同時に、30年型のシボレー、カフェー、ルジャ(赤)という名前のフォックス・テリヤ、ミッキーマウスの発声漫画(トーキーのアニメーション)、舶来物の嗅ぎ香水「ヘリオトロープ」、飛行機、凶器となったかつてハルビンで売られていた両刃の短刀などなど、全編に散りばめられた「モダン」なアイコンにうっとりして愉しんだ。そしてなんといっても、驚くべきはその文体の80年以上も前に書かれたとは到底信じがたい小気味よさ。「まったく古びていない!」というウラ表紙の惹句は真実(ほんとう)だった。奇跡の文庫化。〝熱帯夜の課題図書〟としてぜひおすすめしたい。 

白骨の処女 (河出文庫)

 

 ところで、物語のなかに、新潟の海辺の屋敷に暮らす令嬢が夕食後、知り合いを応接間に招待して趣味のレコードコンサートを催す場面がある。その「令嬢」こと瑛子は、日ごろから「金屋」という屋号の蓄音器屋と懇意にしており、その日も「試聴」かたがた金屋が持参した新譜の中から3枚を購入したというほどのレコード好き。結果的に、瑛子はその晩何者かの手によって殺害され、その日招待された客たちが疑われることになるのだが、それはともかく、そこから判るのは、当時の令嬢の趣味のひとつに「レコード蒐集」があったということである。

 

 ここに一枚の写真がある。蓄音機の前で、レコードを手に微笑む令嬢の姿。

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 この写真のオリジナルは、雑誌「ホーム・ライフ」の昭和11(1936)年1月号に掲載されたもので、写っているのは通俗小説の世界で一世を風靡した作家・加藤武雄の娘たちである。大型の蓄音機の前には火鉢が置かれ、床の間には軸が掛かっている。その取り合わせがなんとなくちぐはぐで面白い。ふたりの娘もともに和装である。

 「ホーム・ライフ」は、大阪毎日新聞から発行されていたグラフ誌で、昭和10(1935)年に創刊されている。この「ホーム・ライフ」に掲載された写真を手がかりに、戦前の華族富裕層の暮らしぶりの一端に触れようという津金澤聰廣監修『写真で読む昭和モダンの風景 1935年ー1940年』(柏書房)によれば、格調高く、戦時色を極力排したその誌面は中流以上の家庭の女性を中心に、日本に在留している外国人やロンドン日本人クラブ、海軍軍人などにも広く愛読者を持っていたという。藤田嗣治鈴木信太郎東郷青児ら当時の有力な画家たちが手がけた表紙からも、〝戦前モダニズムの見本帖〟といった趣がある。

 先ほどの写真に戻ると、次のようなキャプションが付されている。「お小遣いで買い集めたレコードが2,000枚を超えた。父も文壇屈指のレコード愛好家」。安価でレコードやCDを買うことのできる現代におきかえても、「2,000枚」といえば相当のコレクターといえる。友人らを招いてのホームコンサートもたびたび開かれていたにちがいない。

 

 はたして、当時の「令嬢」たちはどんな音楽に耳を傾けていたのだろう? ぼんやりそんなことをかんがえていたある日のこと、たまたま出会ったのが1920年代から30年代に数多くのレコードを吹き込んだフランスの女流ヴァイオリニスト、イヴォンヌ・キュルティの音源だった。

 イヴォンヌ・キュルティ…… はじめて耳にする名前だ。甘やかなポルタメント、ときにちょっと引っかかるような歌い回し、薔薇のように匂い立つヴィヴラート…… 前時代的と言ってしまえばそれまでだが、古き良き時代のおおらかな演奏にはまた曰くい言い難い独特の魅力がある。

 ただ、やはり現代の耳には10曲、20曲と立て続けに聴くのはしんどい。その「甘さ」に胃もたれを起こしてしまうのだ。けれども、ここでだいじなことは、こうした演奏は78回転のSP盤によって聴かれていたという事実である。12インチの収録時間は最大で片面5分前後、10インチだと3分程度だった。

 令嬢たちのいる応接間では、慎重にSP盤に針を落とすと3分ほどのごく短い演奏にうっとり耳を澄まし、針を上げ、「リプトン」や「トワイニング」をすすりながら大人びた口調で感想など述べ合い、その後ふたたびレコードを裏返して針を落とす、そんななごやかな「儀式」が執り行われていたのではないか。そうかんがえると、そんなSP盤の時代にあってキュルティの演奏を聴くことは、小さいながらも濃厚なクリーム菓子をつまむようないかにも〝令嬢好み〟な愉悦と満足感とがあったはずだ。


Yvonne Curti plays Souvenir by Franz Drdla


Yvonne Curti; SOUVENIR

 いまとなっては生没年すらはっきりしないという彼女について調べるなかで出会った「日本イヴォンヌ・キュルティ協会」なるブログを拝見していたら、興味深い写真をみつけた。それは、1947年に発行されたフランスの雑誌に掲載されたもので「イヴォンヌ・キュルティ女史率いる女流楽団」という見出しのもと、10名ほどの女性弦楽器奏者たちをの姿をとらえた集合写真なのだが、右手にひとりヴァイオリンを小脇に挟んで立つキュルティと思われる人物をみることができる。黒いスーツに純白のネクタイを結び、左手をポケットに入れたその姿はなかなか凛々しい。このオーケストラがどのような活動をしていたのかその詳細については結局わからずじまいだったのだが、時期的にあるいは第二次世界大戦と関係があるかもしれない。いずれにしても、キュルティというひとがかなり旺盛な演奏活動をしていたことは推測がつく。クラシックの演奏家という以上に、その写真と表情からは、クールな表情と独特の節回しで人気を博した華のあるジャズシンガーとでもいったような雰囲気が伝わってくる。

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 *画像参照元http://www.delcampe.net/page/item/id,310776808,var,LINA-DACHARY-CLAUDE-DAUPHIN-PIERRE-LOUIS-YVONNE-CURTI-ORCHESTRE-FEMININ-RADIO-47,language,E.html

 

愛しのイヴォンヌ・キュルティ

愛しのイヴォンヌ・キュルティ

 

 

モボがみたフィンランド〜谷 譲次『踊る地平線』ヨリ

昭和3(1928)年

がたん!

 ――という一つの運命的な衝動を私たちの神経につたえて、午後九時十五分東京駅発下関行急行は、欧亜連絡の国際列車だけに、ちょいと気取った威厳と荘重のうちにその車輪の廻転を開始した。……中略……

 では、大きな声で『さようなら!』

 さよなら!

 そしてまた『ばんざあい!』

 

 昭和3(1928)年の春、日本を出発しシベリア鉄道で一路ヨーロッパをめざした長谷川海太郎とその妻和子が、こんどはインド洋を経由して日本郵船の客船で帰港したのは翌4(1929)年6月のことだった。

 一年あまりの長旅のなかでふたりが訪れた国々を挙げてゆくと、誕生してまもないソビエト連邦にはじまり、イギリス、フランス、スペイン、ポルトガルモンテカルロ、イタリア、ベルギー、スイス、オランダではちょうど開催中のアムステルダムオリンピックを観戦し、さらにはデンマークノルウェースウェーデン、そしてフィンランドまで。文章として残されてはいないものの、ドイツやオーストリアにも訪ねているようだ。通過しただけの国は数知れず。

 この長い旅の途上で見聞したことごとはキラキラした「モダーン」な文体で記録され、のちに「谷 譲次」なるペンネームのもと一冊の本にまとめられた。『踊る地平線』がそれである。

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✳︎谷 譲次『踊る地平線』岩波文庫版上巻の書影。引用は、すべてこの岩波文庫版に拠っている。初版は昭和4(1929)年に中央公論社より出ている。挿画は木村荘八が担当。

 

踊る地平線

テムズに聴く

黄と白の群像

虹を渡る日

白夜幻想曲

ノウトルダムの妖怪

血と砂の接吻

しっぷ・あほぅい!

Mrs.7 & Mr.23

長靴の春

白い謝肉祭

海のモザイク

 

ほら、目次を眺めるだけでわくわくする。たとえば、シベリア鉄道の車窓を流れる寂寥とした風景はそこではこんなふうに切り取られる。

 

野と丘と白樺の林と斑雪の長尺フィルムだった。

家。炊事のけむり。白樺。そこここに人。

吸口のながい巻煙草――十四哥(カペイカ)。

白樺・白樺・白樺。

夕陽が汽車を追って走る。

 

 汽車が夕陽を「追って」ではなく、シベリアの原野では夕陽が汽車を追う。荒漠としたツンドラ地帯をひた走る汽車の、その疾走感が伝わってくるようだ。「谷 譲次」の眼は、たとえて言えば色再現性に優れた高性能のカメラであり、その耳は、鋭い指向性をもった高感度の集音器である。だから読者は、いちども目にしたことのない景色にもかかわらず、あたかもじっさいに自分がいまその目で見ているかのような臨場感をもって体験することができるのだ。その文体ゆえ、ただ「モダニズム文学」のひとことで片付けてしまうとしたら、みすみすその「臨場感」をとりこぼしてしまうことになる。

  手もとの岩波文庫版の解説によると、ここに収められた一連の読み物は昭和3(1928)年8月から翌年7月までの12回にわたって雑誌「中央公論」に連載されたとある。これは、とても重要だ。なぜなら、これらの文章はまさに旅の途上で書かれ、掲載され、「現在進行形で」人びとの目に触れたことを意味しているからである。つまり、〝いまのヨーロッパの空気感〟をダイレクトに読者に届けようという意図がそこにはあり、それゆえなにより重視されたのはその文章が放つ〝鮮度〟だったのだ。

 たしかにいまとなっては、横文字まじりでペダンティックな彼の文章はかならずしも読みやすいとは言えないところがある。けれども昭和3年の読者、おそらくほとんどのひとが生涯に一度の「洋行」すらすることのできなかった時代にあって、それどころか異国の風土や文化、人びとにかんするまともな情報さえほぼ手にできなかった時代に、髪の毛の一本一本、シルクのドレスの襞のひとつひとつまでコトバで描き切ろうとする「谷 譲次」の文章の解像度は欠かさざるべき優れた能力だった。その意味では、「特派員」という名目で彼らをヨーロッパに送り出した当時の中央公論社の社長、嶋中雄作の眼力にもまた舌を巻く。

 

 ここまでで、もしこの『踊る地平線』に興味を抱いたというひとがいれば早速じっさいに手に取っていただくとして、ここでは個人的に関心の高いことがら、「戦前の日本人と北欧とのつながり」に注目して「白夜幻想曲」と題された一章、とりわけフィンランドの印象をつづった「SUOMI」というエッセーについてすこし感想めいたことを残しておこうと思う。ちなみに「SUOMIスオミ)」とは、フィンランド語で「フィンランド」の意味である。

 

 『踊る地平線』の記述をそのまま信用すれば、「谷 譲次」こと長谷川海太郎夫妻が初めてフィンランドの地を踏んだのは昭和3(1928)年の「夏のおわり」のことだった。ふたりは、雨のストックホルムの港からバルト海アーキペラゴ(群島)を縫うようにして一昼夜かけてヘルシンキに到着する。日本きってのモボとモガの目に、その都市はこう映った。「密林と海にかこまれた、泣き出したいほどさびしい貧しい町」。

 その当時のフィンランドといえば、ロシア革命の混乱に乗じた独立宣言からようやく10年を経たばかりの「世界で一番あたらしい独立国」、「世界で一ばん古い独立国からの旅人」には「何だか『国家』の真似事をしているようで妙に可愛く微笑みたくなる」いっぽう、その「素朴さ」や「真摯な人心」「進歩的な態度」に触れフィンランドの将来に「何かしら健全で清新なもの」を感じもするのだった。

 そして、おそらくこうした感想は、当地で出会ったフィンランドの人びととのふれあいの中ですこしずつ醸成されていったものだったろう。

 彼らが宿泊したホテルでは、日本人の夫婦が「舞い込んで来た」というので大騒ぎ、番頭が大得意で町の案内に立ったはいいがさして珍しいものがあるわけでなく、しかもあっという間にネタが底をついてしまう。「もうありませんな」と困ってしまった番頭を、「まあ君、これだけ見せてもらえばたくさんです。そう悲観したもうな」とかえって慰める始末……。ヨーロッパのはしっこで、彼らは思いがけず素朴で善良な人びとを「発見」する。名所旧跡が少ないのは、フィンランドの、いまもむかしも変わらぬ観光地としての「弱点」かもしれない。

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✳︎1929年のフィンランドの首都ヘルシンキの中心部。左手に見えるのが中央駅(1919年 設計エリエル・サーリネン)。現在とさほど変わった印象は受けない。

 長いことスウェーデンとロシアという大国に挟まれ苦渋を舐めてきたフィンランドの歴史的、政治的状況も、彼はその嗅覚で敏感に感じ取っている。

 

国語もふたつ使われて、上流と知識階級はスウェイデン語を話し、他はフィニッシである。だから町の名なんかすべて二つの言葉で書いてある。語尾に街(ガタン -gatan)とついているのが瑞典スウェーデン)語、おなじく何なに街(カツ -katu)とあるのが、芬蘭土(フィンランド)語で、地図も看板もそのとおりだから、旅行者はすくなからず魔誤々々してしまう。

 

 いまでこそ国内では一部地域を除いてほとんどがフィンランド語を使用しているが、まだ1920年代にはスウェーデン語の方が優勢だったことがわかる。じっさい、文化的側面から民族主義を用意した人びと、またみずから旗振り役となって独立への気運を高めた人びと、フィンランド語の公用語としての地位向上の重要性を説いた学者のスネルマン、愛国心の高揚に尽力した作家トペリウス、独立の英雄マンネルヘイム将軍、民族叙事詩『カレワラ』を題材にした作品を数多く残した画家のガッレン=カッレラ、ご存じ作曲家のシベリウスといった人びとも、みなじつはスウェーデン語を母語とするスウェーデンフィンランド人であった(ちなみに、「ムーミン」のトーヴェ・ヤンソンも)。

 

 移動の車中では、おもしろい出会いもあった。「日露戦争に勝ってくれてまことに有難い」と、たまたま乗り合わせた「村の弁護士」ヴァンテカイネン氏なる人物からカタコトの英語で出し抜けの〝表敬訪問〟を受けたのだ。「ムツヒト殿下さま、クロキ・ノギ・トウゴ――当時私たちは血の多い青年でした。あの興奮はまだ強く胸に残っています」。

 よく、フィンランドが独立できたのは日露戦争で日本がロシアをやっつけたおかげである、そのためフィンランドの人びとはバルチック艦隊を撃破した東郷平八郎を英雄視していて、とうとう「東郷ビール」という銘柄までつくってしまった、などと言われることがある。日露戦争によって帝政ロシアが弱体化、それがきっかけで「ロシア革命」を誘引し、その混乱に乗じてフィンランドが独立宣言をしたわけだから、たしかに間接的にはそういった側面があるし、この車内でのエピソードを読むかぎりそういう考えをもったフィンランド人も90年近く前にはまだ少なからず存在したのだろう。ただし、「東郷ビール」にかんしていえばそういう銘柄がじっさいにあるわけではなく、とあるビール会社の商品に世界の「提督」をあしらったシリーズがあり、その中に東郷元帥の肖像をあしらったデザインのものが含まれているというのが真相。「昔話」にいろいろ尾ひれがついて、気づけば「伝説」になっていたといったところか。

 さて、この椿事に「谷 譲次」夫妻はいったいどう対応したのだろう。ふたりは、「ヴァンテカイネン氏」が「じつによく日本と日本の固有名詞を知っている」ことに感心しつつも、肝心の「日露戦争」うんぬんについては「(日露戦争は)私の五歳の時だから、私にとっては歴史と現実のさかい目にすぎ」ず「しごくぼうっと」してピンとこないと戸惑いをかくせない。だが、相手の手前そうも言い出せず、まるで「奉天旅順日本海とめちゃくちゃに転戦して、何人となく『ろすけ』を生捕りにしたような顔」で話を合わしてピンチ(?)をしのぐ。はるか90年も昔にヨーロッパの片田舎でこんな珍妙なやりとりが行われていたなんて、思わず頬が緩んでしまう。

 

 ヘルシンキを離れた彼らは、フィンランドの中部サボ地方から東部カレリア地方へ、イマトラ、サヴォンリンナ、プンカハルユ、そしてヴィープリをめざす。

 「ヴィープリ」という地名が入っているあたり、時代を感じる。かつて「ヴィープリ」は、フィンランド第二の都市であった。立派な駅舎はヘルシンキと同じくエリエル・サーリネンが設計し、1930年代初頭にはアルヴァー・アールトが近代的な図書館を手がけたことでも知られている。しかし第二次世界対戦後、ヴィープリはソ連に編入されたまま現在に至る。『踊る地平線』の旅から数えてわずか15年ほど後の話である。

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 ✳︎フィンランド第二の都市ヴィープリの駅舎。設計はエリエル・サーリネン。現在はロシア連邦の一部となり名称も「Vyborg」と変わっている。谷 譲次が訪れたときは、まだフィンランドであった。

 首都ヘルシンキについては「さびしく貧しい」とあまりいい印象を抱かなかった彼らだが、湖水地方の大自然には静かで確かな感動を覚えたようだ。

 サイマ湖!

 AH! 私は悦(よろこ)んで告白する。いまだかつてこんな線の太い、そして神そのもののように、深く黙りこくっている自然の端座に接した記憶のないことを。神代のような静寂が天地を占めるなかに、黒いとろりとした水が何哩(マイル)もつづいて、島か陸地か判然としない岸に、すくなくとも立ち並ぶ杉の巨木、もう欧羅巴の文明は遠く南に去って、どこを見ても家や船はおろか、人の棲息を語る何ものもないのだ。サイマ湖! ……中略……

 そうすると「約束されたる裁き」の済んだ世に、それらすべてを過去のものとしてこれからまた新規の文明が伸びようとしているような感じがするのだ。事実私は、このときサイマ湖上の無韻の音をその生長の行進曲と聞いたのだった。

 シベリウスをはじめ多くの芸術家の心をとらえインスピレーションをあたえてきた湖水地方の自然は、はるか遠い東の国からやってきたモダーンな青年作家の心をも静かな感動で包み込む。その静寂に支配された神秘的な光景を、新たな生命の萌芽を宿した原初の大地としてとらえるあたりに、このひとの作家としての感性のみずみずしさが感じられないだろうか。

 そしてこの湖水地方のクルーズでは、ひとりの「老船長」の存在が彼らに強い印象を残す。その老船長は「英仏独語をよくし、デレッタントな博学者」で、「袋のようなサイマの水路を自分の掌みたいに心得ていて、そしていつも船橋に立ってアナトウル・フランスを読んでいた」という。「谷 譲次」が語る「サイマ湖」のイメージには、どこか「湖水の哲学者」とでも呼びたくなるような豊かな知性をたたえたこの人物の姿が重なっているようである。

 

 つづいて訪れたプンカハルユでも、彼らの静かな熱狂はおさまるところを知らない。余談だが、昭和30年代にこの地を踏んだ日本画家の東山魁夷もまた、この風景に強い印象をうけて数々の名作を生んでいる。

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✳︎東山魁夷スオミ』昭和38(1963)年 「私は北方を指す磁針を、若い時から心の中に持っていた」(東山魁夷『森と湖と』新潮社)。彼もまた、フィンランドの原初の自然に心奪われたひとりだった。

私たちはいつまでもプンカハリュウを愛するだろう。二日滞在というのを五日に延ばしたのだったが、それでも、立ち去る時、彼女は耐(たま)らなく残り惜しげだった。必ずもう一度行こういつか――私と彼女のあいだの、これは固い「指切り」である。

 フィンランド好きとして、思わず目頭が熱くなる一節。帰路、ふたりは乗り合わせた客らを「先生」にフィンランド語の単語を3つ学習する。

 

月――クウ(kuu)

アリガト――キウィイドス!(kiitos キートス)

そして、

サヨナラ――ヒュヴァステ(Hyvästi ヒュヴァスティ)

 

 じつは、この「Hyvästi」という別れのあいさつ、フィンランド語を少々かじった人間にとってもなじみのないものである。じっさい、日本で手に入るフィンランド語のテキストにもまずたいがいは掲載されていないのではないだろうか。なぜか? 知り合いのフィンランド人に訊いてみたところ、この表現はもう二度と会うことのできないような長いお別れを暗に意味するのだそうだ。うかつに使うと、「アンタなんて絶交よ!」といったニュアンスにとられることもなくはないとか。ちなみに知人いわく「わたしは一度も言ったことないよ」。

白夜よ、「ヒュヴァステ」!

 このエッセーは、こう締めくくられてつぎの目的地へとむかう。戦前のフィンランドの片田舎を走る汽車の車内、遠い異国からの旅人への別れの言葉としては、そう、たしかにこの「Hyvästi」こそがふさわしい。事実、「固い指切り」にもかかわらず、「谷 譲次」夫妻がふたたびこのフィンランドの地を訪れることはなかった。

 この旅から帰国してちょうど6年後の昭和10(1935)年6月、「谷 譲次」こと長谷川海太郎はわずか35歳の若さで突然この世を去ってしまったからである。

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✳︎「谷 譲次」こと作家・長谷川海太郎と妻の和子。長谷川は、他にも「林 不忘」「牧 逸馬」と3つのペンネームを使い分けたことでも知られる。画像参照元「NAKACO'S CRAFT'S WEBLOG」様←貴重な写真の数々とともに「牧 逸馬」を紹介されています。必見。

海野十三『深夜の市長』に描かれた東京を読む

昭和11(1936)年

 探偵小説ともSFともつかない、そんな奇妙な味わいをもった小説『深夜の市長』が、雑誌「新青年」の誌上に登場したのは昭和11(1936)年のこと。作家の名前は海野十三(うんのじゅうざ)。逓信局の技師という肩書きをもつ一方、これが作家としては長編第一作であった。

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海野十三『深夜の市長』(昭和11 春秋社)書影

 舞台は、あきらかに東京を連想させる大都会「T市」。主人公の浅間信太郎は、司法官のタマゴとして宮仕えの身でありながら、「黄谷青二」のペンネームで探偵小説を発表する作家でもある。そんな浅間信太郎にはひとつ、風変わりな「趣味」があった。ひとの寝静まった深夜のT市を、ひとり気の向くままに散歩するのである。

 物語は、ある晩、いつものように「深夜の散歩」に繰り出した主人公が、偶然殺人事件の現場を目撃したところからはじまる。何者かに殴打され気を失った主人公が意識を取り戻すと、すでにそこには犯人はおろか死体すらもみあたらず、ただクローム側の懐中時計や新品のニッケル貨幣といった証拠の品々が散乱しているばかりであった。事件に巻き込まれることを恐れながらも、つい探偵小説家らしい好奇心から証拠の品々を上着のポケットに突っ込み現場から立ち去ろうとしていたところを、運悪くかけつけた警官にみつけられてしまう。あわやというところで、路地裏に追いつめられた主人公を救ったのはひとりの年老いたルンペン。彼こそは、夜のT市にうごめく人々からの尊敬を一身にあつめる「深夜の市長」そのひとであった。

 はからずも身の潔白を証明しなければならなくなった浅間信太郎は、ミステリアスな「深夜の市長」の言動に振り回されながらも、「銀座裏の十銭洋酒店(スタンド)ブレーキ」に入り浸っている年増女や「丸の内13号館の中庭にそびえ立つ高塔」を住居とするマッドサイエンティストら〝夜のひとびと〟の協力を得て謎解きに乗り出すのだが、その先にあったのは市政を揺るがす一大疑獄事件であった。〝昼間の市長〟と彼を糾弾する黒幕議員との対立が激しさを増すなか、無事、主人公は謎を解明し真犯人を突き止めることができるのか? また、はたして「深夜の市長」の正体とは?

 夜の都会を舞台にした冒険譚のような疾走感にくわえて、推理小説としてはいかにもこの時代の読者がよろこびそうな〝科学的〟トリックをとりいれる一方、「深夜の市長」とその一派のエキセントリックな存在感がこの作品に妖しげな幻想味とヴィヴィッドな色彩感をもたらしユニークなものにしている。そして彼ら〝夜のひとびと〟が生き生きと魅力的に描かれていることからもわかるとおり、主人公同様、作者もまた彼らの居場所としての「夜のT市」にすっかり魅了されてしまっている。では、この「夜のT市」が作者の想像から生まれたまったくの架空の都市であるのかといえば、必ずしもそうとばかりは言い切れない。むしろ作者は、1930年代になって東京がもつようになったもうひとつの「顔」に触発されて、この『深夜の市長』という小説を着想したと考えられるからである。

 大正12(1923)年の関東大震災により壊滅的な打撃を受けた東京、とりわけ下町エリアは、帝都の威信をかけた大規模な復興事業によって大きく様変わりする。この復興事業はまずなによりもインフラの整備に重点が置かれ、とりわけその「目玉」となったのが「道路」「橋」そして「公園」の3つであった。焦土と化した大地に新たに道が敷かれ、橋が架けられ、さらに公園が配置されることで、見たこともないようなモダンな顔立ちをもつ都市が誕生したのが、まさに1930年代の東京であった。

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昭和5(1930)年3月「帝都復興祭」の一コマ。復興事業によって整備された幅員44メートルの「昭和通り」を行く花電車。(画像引用元:東京都立図書館「都市・東京の記憶」 様)

 『深夜の市長』のなかにも、こうした新しい眺望はさまざまな場面に登場する。浅草の吉野町に暮らす主人公は、亀井戸(かめいど)の魔窟のそばに隠居する「深夜の市長」と面会するためには復興橋梁を通って隅田川を渡らなければならないのだし、また主人公を翻弄する奔放なモダンガール「マスミ」と再会するのは「早や咲きのチューリップ、ヒヤシンス、シネラリヤ、オブコニカ、パンズイなどを程よき位置に移し、美しい花毛氈が組立てられ」た昼下がりの日比谷公園だったりする。主人公の家にほど近い隅田川の両岸にわたる「墨田公園」、そして「深夜の市長」が暮らす亀戸の先の「錦糸公園」、いずれも帝都復興事業により整備され完成されたばかりの「復興大公園」であった。さらには、主人公の眼を通してこんなふうに活写された「道路」もまた復興事業によって誕生した新風景のひとつである。

 「僕は橋畔を離れて、こんどは広い大通りを柳島の方へブラブラと歩みはじめた。幅員(はば)が三十三メートルもあるその大通りのまん真中を、洋杖(ステッキ)をふりふり悠然と闊歩してゆくのだった。こんな気持ちのよいことはなかった。大通りは頑固に舗装され、銀色に光る四条のレールが象眼されていた。頭の上をみると手の届きそうなところに架空線がブラブラしているし、大通りの両側のポールには大宮殿の廊下のように同じ形の電灯が同じ間隔をもってずっと向こうの方まで点いて居り、それでいてあの大きな図体をもった市街電車もいなければ、バスもいない。ときどき円タクのヘッドライトがピカリと向こうの辻に閃くばかりで、こっちの方まではやってこない。この広い大道を闊歩してゆくのは、ただ自分ひとりだった」

この「幅員が三十三メートルもある」大通りとは、復興事業の一環として整備された22の路線のうちのひとつ、幹線第6号・駒形橋通(現在の通称「浅草通り」)のことであり、昭和通の四十四メートルには及ばないまでも当時としては驚嘆するにじゅうぶんな大道路であった。コンクリートで舗装され、電気の光に照らされて鈍く光る鉄製のレール…… その未来的な光景に、思わず主人公は嘆息せずにはいられない。「なんという勿体ない通り路であろうか。なんという豪快な散歩であろうか」。

 また、ある夜の散歩コースを『深夜の市長』の主人公はまるで献立を考える食通のような周到さで組み立てる。「業平橋を渡ったところを起点とし、濠割(ほりわり)づたいに亀井戸(かめいど)を抜け、市電終点猿江を渡って工場街大島(おおじま)町まで伸ばしてみよう」と。紀田順一郎も指摘しているように(講談社大衆文学館文庫コレクション版所収「解題」)、「ありきたりの魔窟などよりもこのような無機的な新興地区に耽美的な戦慄を発見」する感覚こそが海野十三の、そして「新青年」を愛読するようなモダニストたちに共通の美意識なのであって、それは1930年代の東京という「箱庭」に萌芽し純粋培養された独特の〝感受性〟の上に育まれたものであった。たとえば、復興橋梁を鉄でできた巨大な恐竜の骨のようにとらえた堀野正雄の写真、たとえば、鉄道の高架橋の下を走り抜ける市電のパンタグラフから放たれた白い閃光をとらえた藤牧義夫の木版などを見れば、この時代の都市表現が無機質なものへのまなざしから成り立っていたことは一目瞭然だ。彼ら〝マシン・エイジの申し子〟たちは、虫取り網のかわりに絵筆を、カメラを、万年筆を手に、美しい蝶々のかわりに新時代の無機質な眺望を嬉々として追いかけていたのである。

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堀野正雄『カメラ・眼×鉄・構成』(昭和7(1932)年 木星社書院)より「鉄橋」

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藤牧義男「御徒町駅」(昭和7(1932)年 木版・紙)

 ところで、1930年代という時代はまた、「夜」が〝都市の散歩者〟たちによって発見され、スポットライトを当てられていった時代でもあった。 「夜の散歩者」といってまず思い出される存在に、写真家のブラッサイ(ブラッシャイ)がいる。カメラ片手に夜のパリを徘徊し、そこを根城にする〝夜のひとびと〟をとらえた写真集『パリの夜』(1932年)はあまりにも有名だ。〝都市の散歩者〟のひとりだった海野十三もまた、好んで深夜の都会をよく歩いたという(前出「解題」参照)。昼は役所勤め、夜は探偵小説家にして都市の散歩者。海野十三に、『深夜の市長』の主人公である浅間信太郎の姿が二重写しになる。

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 ブラッサイ 写真集『夜のパリ』(昭和7(1932)年 Arts et Métiers Graphiques)

 魑魅魍魎が跋扈する闇の世界、もはや理性のおよばない現実と夢とのあわい…… これまでにも、「夜」はその時代時代でさまざまな描かれ方をしてきたが、パリのブラッサイや東京の海野ら1930年代の〝都市の散歩者〟たちは、では、それをどのように描いたか。彼らは、「夜」を昼間の世界とは異なるもうひとつの現実として描いた。そこは、より人間臭く、本能的に生きる〝夜のひとびと〟がつくりだすエネルギッシュな世界である。それは「ラジオ体操のアナウンサーの声とともに起き、夜の気象通報とともに睡るような多くのT市民たちには全く分からない別の世界」なのである。都市は眠っているわけではなく、昼間と同じように、いやむしろそれ以上に活気を呈しているのだが、ただ〝昼のひとびと〟だけがそれを知らない。ごく限られた、夜の散歩者を除いては。

 ある深夜のこと、『深夜の市長』の主人公、浅間信太郎は江東地区をさまよい歩いているうちこんな光景を目にするのだった。

「この辺一帯は物寂しい工業地帯だった。あたりには鉄が錆びたような酸っぱい空気が澱んでいた。そしてどっちを見ても、無暗に頑丈な高塀がつづき、夜空に聳え立つ工場の窓には明々と灯がうつり、それを距てた内側で夜業に熱中している職工たちの気配が感ぜられた。何の音かはしらぬが、カーンカンと金物を打つ鋭い音が冴々と聞こえるかと思うと、またザザザーッと物をぶちまけるような高圧蒸気の音がするのである」

腹を空かせた主人公は、工場の塀ぎわに「白い割烹着にレースの布を捲いた娘」が切り盛りする一軒の中華そば屋をみつけ、荒くれた職工たちにまじって熱いワンタンをすする。「若い職工の働いている工場街なればこそ、このような妙齢の娘が結構商売をしているのだ」。このとき、作者が目にしている夜の東京は、ブラッサイのパリと同質のものである。電気設備や交通網の拡充が、世界中の夜の都市にこうした「別の世界」を出現させたのが1930年代であった。

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夜の銀座風景(「アサヒグラフ」昭和11(1936)年11月11日号)(画像引用元:戦前~戦後のレトロ写真 (@oldpicture1900) | Twitter 様)

 とはいえ、この時代にあってはまだ昼の世界と夜の世界とは分断されており、よって〝昼のひとびと〟と〝夜のひとびと〟とが混じり合うことはなかった。あるとすれば、それはある種の「事故」とかんがえられた。物語の中に太陽の光を異常に恐れる奇妙な幼女が登場するが、それは〝夜のひとびと〟がけっして昼の世界では生きることのできない異なる人種であることを暗示している。それぞれの世界にはそれぞれのルールがあり、秩序があった。「深夜の市長」なる夜の世界を統率する存在を作者が思いついたのも、彼がそうした見えないルール、見えない秩序を〝都市の散歩者〟として肌で実感していたからにちがいない。

 けれども、ひとつの都市に夜と昼、ふたつの世界がそれぞれの仕方で同居するいわば〝共和制〟が長く続くことはなかった。次第に都市の夜は昼によって浸食されていき、いまとなってはたんなる〝暗い昼間〟に変質してしまったからである。海野は、物語のエンディングにおいてこうした変質を〝夜のひとびと〟の消失というエピソードによってすでに予見している。「美しく優しく静もり深く、そして底しれぬ神秘の衣をつけている」素晴らしい夜の顔を、それでも、ぼくらは1930年代の〝都市の散歩者〟たちのまなざしをとおして夢想することができる。なんて素晴らしいのだろう。

 

◎なお、この『深夜の市長』については「青空文庫図書カード:深夜の市長 でも購読することができる。