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ふりだしに戻る

「昭和8年」を起点に、ジャック・フィニイよろしくモダン都市を散策するブログ

茂田井武と久生十蘭

昭和8(1933)年

とある冬の日、ぼくは教文館の4階にある喫茶室で文庫本片手にぼんやり暇をつぶしていた。これから「茂田井武展ー記憶の頁ー」と題された展示をみに、ノエビア化粧品の本社ビルまで行くつもりだ。茂田井武がパリに着いたのは昭和5(1930)年のこと。「巴里」という大都会のなせるわざか、滞在中のスケッチをまとめた画帳『ton paris』には、20代前半の若者の「夢」や「あこがれ」が臆面もなくつまっていてなんだか微笑ましい。

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そういえば、と手元の『日本探偵小説全集8・久生十蘭』に目をやる。久生十蘭がやはり「巴里」にいたのも同じ時期ではなかったか。岸田國士の誘いで「悲劇喜劇」の編集部に在籍しながら築地小劇場を手伝ったりしていた久生十蘭がパリにやってきたのは、茂田井よりほんの少しだけ早い昭和4(1929)年のこと。27歳だった。日本人会の食堂でアルバイトしながら気ままに絵を描いていた茂田井武、いっぽうパリ物理学校でレンズ工学を、さらにパリ市技芸学校で演劇を学んでいた(らしい)久生十蘭、そのボヘミアン的な暮らしぶりがどこか似ているふたりではある。当時パリには1,000人ほどの日本人がいたというが、どこかで鉢合わせしていたとしても不思議はない。どこにも確証はないけれど、おたがいなんとなくは見知っていたのではないだろうか。そんなことを妄想していると、ちょっとワクワクする。そうしてこのブログは、同じようにワクワクする人たち(そういう人がいるとすればだが)に向けて書いている。

 

昭和8(1933)年、茂田井武久生十蘭はそろって帰国する。多くの日本人が、世界恐慌のあおりで後ろ髪を引かれながら帰国の途に着いた年である。翌年、久生はフランス滞在時の体験をもとにした『ノンシャラン道中記』を雑誌「新青年」に発表する。編集長で、生まれ育った函館時代の旧友でもある水谷準の手引きである。茂田井はというと、周回遅れで昭和10(1935)年になって「新青年」デビューを飾る。横溝正史『かひやぐら物語』の挿絵だった。あいかわらず、ふたりのあいだに面識があったかどうかはわからない。あるいは雑誌にたがいの名前を発見して、「あ、アイツか」とでも思ったろうか。いずれにせよ、つかずはなれずといったふたりの距離感はおもしろい。そんなふたりの、目にみえるかたちでの「邂逅」は昭和23(1948)年、戦後になって訪れる。久生十蘭の怪作『魔都』の単行本化(新太陽社)に際して、その挿画を茂田井が担当したのだ。童画の天才と幻想、探偵小説の奇才のあいだにこんな意外な接点が存在していたことは、だが、ふたりが同じ時期に「巴里」で《狂騒の時代》の空気を吸っていたことを思えばさほど不思議にも感じない。

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ところで、「巴里」から帰国したふたりの目に昭和8(1933)年の東京はどんなふうに映ったろう。関東大震災から10年、「帝都復興事業」も前年4月の復興事務局廃止をもってほぼ完結とみなされていた時期。街は急速に江戸や明治の面影を失い、かわりに華やかで近代的な「顔」を持ちはじめていた。教文館のある「教文館・聖書館ビル」も、アントニン・レーモンドの設計のもとその昭和8(1933)年に竣工している。施工は清水組。清水組といえば、同じ年にアール・デコ様式をとりいれた新宿の「伊勢丹」も手がけている。とはいえ、外見は「近代」でも、まだ精神的には「前近代」を引きずっていたにちがいない。モダニズムと封建主義とがせめぎあう、「昭和8年」はさながら「汽水湖」のような時代であったと想像する。

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ぼんやりそんなことを考えていると、前年、昭和7(1932)年に「銀座」の新たなランドマークとして完成したばかりの「服部時計店(現「和光本館」)」の時計台から正午を告げる鐘の音がきこえてきた。久生十蘭の『魔都』では、昭和10(1935)年の元日、この時計台にひとりの男の死体が吊り下げられることになっている。冷たくなったコーヒーを飲み干すと、平成27(2015)年の銀座の喧噪にぼくは飛び出した。