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ふりだしに戻る

「昭和8年」を起点に、ジャック・フィニイよろしくモダン都市を散策するブログ

落語と自動車

大正期

舞台はたいがい江戸時代で、登場人物はみな頭の上にチョンマゲをのせている ーなじみの薄いひとは、たいてい「落語」についてそんなイメージを抱いているのではないか。かく言うぼくもそうだった。聴き込んでゆくうち、実際にはその時代ごとの〝旬の〟トピックを織り込んだネタも少なくないことがわかってきた。しかも、大正〜昭和初期の寄席では、むしろそうした〝新作〟あるいは〝創作〟落語と呼ばれたりするネタのほうこそが主流だったのではないだろうか。まだテレビもラジオもなく、新聞はあっても「無筆」、いわゆる文盲の人びとも少なからずいた時代、「落語」や「講談」にはごく身近な情報源としての役割もあったからだ。それはときにメロドラマでありサスペンスであり、大河小説であり、コメディ仕立てのホームドラマのときもあれば怪談のときもあり、また巷を騒がす三面記事をおもしろおかしく伝えるものでもあった。

 

明治から昭和にかけてつくられた落語には、しばしばハイカラな道具が登場する。たとえば、「かんしゃく」という落語に登場するのは「自家用車」や「扇風機」といった品々。癇癪持ちの夫の理不尽な態度に耐えかねて、実家に逃げ帰ってきた娘を父親が諭して元の鞘におさめるといった噺だ。運転手つきの自家用車で通勤し、居間には扇風機まで揃っている。ところが、暮らしぶりは近代化しても、中身はまだまだ「女は三界に家なし」、封建的な男女関係が幅を利かせているのがこの時代だった。

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益田太郎冠者こと益田太郎 画像引用元:日本財団図書館(電子図書館) 自然と文化 73号

この落語を作った益田太郎冠者こと益田太郎は、三井物産の創始者益田孝男爵の次男である。実業家でありながら、自身の遊学体験を武器に数々の〝バタ臭い〟戯曲やレビューを書き下ろし、豊富な財力を元手に上演した。さらには小唄や端唄のたぐい、また、乞われるままに落語なども作った。その作風は、ハイカラなお殿様の暮らしぶりを誇張し滑稽に活写したものが多い。「ネタ」ならば、身近にいくらでも転がっていたことだろう。

高野正雄は評伝『喜劇の殿様〜益田太郎冠者伝』のなかで、彼が落語の創作を始めたのは、はっきりしたことはわからないが、おそらく明治末(1912)年ころではないかと推測している。創作落語が盛んな時代のこと、洋行帰りでネタが豊富な太郎に親交のあった落語家の方から話を持ちかけたのかもしれない。また、太郎作の喜劇『女天下』を観た初代三遊亭圓左が、それを落語に仕立て直すといったこともあったようだ。

 

三代目三遊亭圓橘が、太郎作の落語「洋行帰りハイカラ自動車」を口演した大正5(1916)年録音の古い音源が残っている。太郎と親交のあった圓橘には、「洋行帰り」(このネタと同じだろうか?)を葉山の御用邸で御前口演したというエピソードもある。

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 錦町の旦那は、日英博覧会に行きすっかり「馬鹿ハイカラ」になって帰ってきた。家じゅうの障子を開け放し、畳も上げ、気取って「カムイン」などと言っている。きょうは、仲間たちを愛用の自家用車に乗せ、みずから運転して「ヨコハマ」まで行く算段。ところがみな怖がって乗ろうとしない。それもそのはず、当時はまだ運転免許も制度として整備されておらず、そのため事故も多かった。さて、嫌がる仲間たちを無理やり押し込み発進したまではよかったが…

 

日本における乗用車の保有台数は、大正3(1914)年には681台だったのに対し、このSP盤の吹き込みがおこなわれた大正5(1916)年には2,757台、なんとわずか2年の間に4倍にまで増えている。大正8(1919)年になると、全国統一の交通法規「自動車取締令」が施行される。自動車の普及につれて交通事故も爆発的に増加、一刻も早い対処を迫られていたのだ。この年、自動車の保有台数は早くも5千台を突破した。T型フォードの日本への正式輸入は明治42(1909)年といわれるが、本格的に販売がはじまったのはセール・フレイザー商会という英国系商社が代理店となった明治44(1911)年あたりからのようだ。翌大正元(1912)年には、6台のT型フォードにより日本初のタクシーが誕生している。ちなみに、この「セール・フレイザー商会」に一時「取締役」として関わっていたのは白州次郎である。

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T型フォード

 

大正から昭和にかけての時期、カフェーの女給からもらったというラブレターで笑わせる「女給の文」、田舎からやってきた客と車掌とのとんちんかんなやりとりがおかしい「電車風景」など時代の空気を巧みに織り込んだ創作落語で人気を誇ったのが初代柳家幅丸である。 

若いときは威勢がよく、新落語で売っていた。文都の話によると、若いときの勢いでゆけば、天下をとるほどの威勢で、大阪の大きな興行会社が契約にきた…宇野信夫『私の出会った落語家たち〜昭和名人奇人伝』河出文庫

ところが、その人気も長くは続かず、宇野信夫と知り合った昭和7(1932)年前後の蝠丸は「すっかり霜枯れた芸人」になっていて、高座では昔と同じことを言っていたが「昔は受けたクスグリに、客はクスリともしなかった」というありさまだったらしい。

その蝠丸が作った落語に「大蔵次官」がある。主人公はしがない噺家。寄席をかけもちしては「お後がよろしいようで、お時間で交代」と高座から降りてくる。須田町で都電がくるのを待っていると、万世橋の方向からやってきた自動車がカーブで曲がりきれず横転する。投げ出された運転手は即死、後部座席をのぞくと若い娘が怪我を負いながらもまだ生きている。噺家はその娘を助け出し、病院へと担ぎ込んだ。後日、噺家の住む長屋に助けた娘の家の使いが訪ねてきて、御礼をしたいのでぜひ一緒に来てほしいとのこと。そうして案内されたのは、大蔵大臣のお屋敷。横転した自動車から助け出したのは、なんと大蔵大臣のお嬢様だったのである。大臣いわく「娘と結婚して婿になって欲しい。ついては、大蔵省でそれ相応の仕事も斡旋したい」とのこと。めでたく結婚の運びとなり、では仕事を… というとき、大蔵次官が失態をおかし辞職、うまい具合にポストが空いて…

 

なんと馬鹿馬鹿しいストーリーではあるが、昭和2(1929)年、社長や次官が逮捕されることになった越後鉄道の贈収賄疑惑事件など、当時の客のウケを狙ったくすぐりを入れこむなど抜け目ない。そして、自動車は危ない、事故が多い、というのまた、当時の人たちにとっては共通の認識、いってみれば「あるあるネタ」だったのではないか。

 


九代目桂文治『大蔵次官』'64.11.10. at 有楽町ビデオホール - YouTube