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「昭和8年」を起点に、ジャック・フィニイよろしくモダン都市を散策するブログ

東京市深川食堂

昭和7(1932)年

日本橋から茅場町を抜け、永代橋を渡って深川にやって来た。しもた屋風の家屋と空き地、新築や高層のマンションが入り混じりつつ点在する風景は、この町が、いままさに〝過渡期〟 にあることの証拠である。空き地や、新築マンションばかりが増えてしまう前にできるだけ足を運ぼうと思う。

 

昭和10(1935)年発行の、震災復興期の建築を取り上げた写真集『建築の東京』(都市美協会)にも登場する「深川東京モダン館」のたてものは、実際に見ると思いのほかこじんまりとしていた。1階は観光案内所のようなコミュニュティスペース、2階はイベントスペースで不定期ながらカフェ営業もしている。雨が降ったり止んだりのせいか、ベンチで爆睡しているサラリーマンを除けば客らしき人影はない。

 

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このたてものは昭和7(1932)年、東京市が運営する公衆食堂としてつくられた。東京市社会局『市設食堂経営策に関する調査』(昭和11年)によると、「東京市社会局の福利施設の一たる」公衆食堂のルーツは大正9(1920)年にまでさかのぼる。引き金となったのは大正7(1918)年の「米騒動」である。その目的は、

「物価暴騰に依る日常生活の不安を緩和し衣食住に関する市民共同生活の安寧幸福を圖り社會の健全なる發達を期するため

とある。 最初に神楽坂に、次いで上野に、「公衆食堂」は〝慌てて〟つくられた。どれだけ〝慌てて〟いたかというと、「市参事会および市会の議決を経ずして」東京臨時救済会より交付された資金でつくられたほど。不安定な社会情勢を前にかなり追いつめられていたことがわかる。 公衆食堂では、定食やうどんのほかコーヒーやミルクも提供され、ときには活動写真や落語などの催しもおこなわれたという。爆発寸前の市民の不満を、お腹と心を満たすことで「ガス抜き」しようというもくろみもあったのだろうか。

 

このころに書かれたと思われる宮沢賢治の詩がある。

公衆食堂(須田町)


あわたゞしき薄明の流れを
泳ぎつゝいそぎ飯を食むわれら
食器の音と青きむさぼりはいともかなしく
その一枚の皿
硬き床にふれて散るとき
人々は声をあげて警(いま)しめ合へり

黙々と食事を流し込み、あっという間に立ち去ってゆく労働者たちの背中が見えるような、なんともうら寂しい気分にさせる詩である。ただ、ここで描写された風景は「市営の公衆食堂」ではなく、民間の「大衆食堂」であった可能性が高い。というのも、この詩が書かれたと思われる大正10(1921)年には、まだ「公衆食堂」は神楽坂と上野の二カ所にしか存在していなかったからである。いずれにせよ、当時の「簡易食堂」あるいは「軽便食堂」と呼ばれる食堂内の様子は、この詩からも手に取るように伝わってくる。

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大正12(1923)年の関東大震災は、各地の公衆食堂にも甚大な被害をもたらした。そこで、翌大正13(1924)年から五カ年計画で公衆食堂の増設が決定される。予算は、帝都復興計画に伴う五十万円からまかなわれた。新設されたのは、三味線堀、神田、柳島、九段、緑町、上野、新宿、茅場町、田町、そしてここ深川の計10カ所である。

 

東京市深川食堂が開設されたのはちょうど83年前、昭和7(1932)年4月のこと。座席数は98で、昭和9(1934)年の統計によると一日平均520食ほどの需要があったらしい。ただし、利用者数は大正11(1922)年をピークにどんどん減少傾向にあった。街に民間の安価な食堂が増えてきたのが原因といわれている。利用者減を深刻な事態として受け止めた東京市社会局は、『市設食堂経営策に関する調査』で各区に一カ所以上「市営炊事工場」を設置するよう提言している。その最大の目的は

炊事及び食事の社會化、科學化、機械化を圖り、勤労市民、小學校児童等に対し、低廉にして栄養価値に富める食事を提供し、重ねて市民の家庭生活に於ける家事の簡易化を圖る

 ことにあると云う。学校給食はもちろんのこと、公務員や一般の会社や商店にも食事を配給できるようにし、誰でも附属の食堂で食事することができる。社会主義的な匂いがしなくもない。実際、このレポートの中では海外の事例として、ドイツやソヴィエトの公衆食堂が取り上げられているのだ。そういえば、アイザック・アシモフのSF『鋼鉄都市』にもそんな《工場》が登場していたなァ。残念ながら、この提言が実行に移されることはなかったようだ。

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公衆食堂利用者数の推移(大正9-昭和9)

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ところで、復興期の建築のテーマのひとつは、「不燃」である。それほど、関東大震災では火事による被害が大きかったのだ。松葉一清『帝都復興せり!』 によると、公共建築ほど鉄×コンクリート×ガラスという新素材を積極的にとりいれた先進的なインターナショナル・スタイルがみられるという。潤沢な予算ということもあるだろうが、「不燃」という大義名分のもと、意匠面でも思い切った冒険ができたのかもしれない。この深川食堂も、戦災で一部にダメージを受けたものの東京大空襲による焼失はまぬがれた。修復のためすべてが当時のままというわけにはいかないが、その凛とした佇まいにはいまなお昭和初期のモダンな空気が充溢している。

 

https://instagram.com/p/07I_iPCJlO/

深川東京モダン館(旧東京市深川食堂)の床に敷きつめられた色鮮やかなタイル