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「昭和8年」を起点に、ジャック・フィニイよろしくモダン都市を散策するブログ

茂田井のパリと日本人会

茂田井武の目玉でもって見たならば、いったい〝1930年の巴里〟はどんなめくるめく世界となってぼくらの目に映るだろうか…。銀座でみた何枚かの『ton paris』からの原画は、たしかにそんなぼくの欲求を少しだけ満たしてくれたけれど、空腹のときにひと匙のスープを舐めてしまったみたいに、かえってもっと見たい、もっともっと触れたいという心持ちになってしまったのもまた、事実。そこでさっそく、ぼくは『じぷしい繪日記』(*)を手に入れ、21歳の茂田井青年がみた昭和5(1930)年の「巴里」に迷い込む…。

 

六月×日 

ぱりい・がる・どのおるニトウチャク。(中略)駅前デれもなあどヲ飲ンデ一ふらん五十さんちいむ払ウトアトハ哀レナコジキニナツテシマツタ。

 

〝乞食〟同然でパリ北駅に到着し、ひとまず「ほてるじやぽね」に投宿した茂田井は、どうやって探したのかはわからないが、無事仕事にありつく。

 

七月×日

せるくるじやぽね(ニホンジンクラブ)ノ皿洗イケンぼおいトナツタ。コノ街ハでぱるがでえるトイウ街ナノダガ、多クノ人ハ皆でばかめでえるトイウ。

 

パリの17区、「出歯亀」に引っ掛けて現地の日本人たちのあいだでは〝デバカメデール〟で通っていた一角、正しくは「デバルカデール街7番地」が、茂田井の職場「せるくるじやぽね(ニホンジンクラブ)」の住所であった。 その「日本人会」で、大正14(1925)年から昭和3(1928)年くらいまで書記の職にあった松尾邦之助は、その界隈についてこう回想する。

 

この「日本人会(セルクルジャポネー)」は、パリの西部、凱旋門や、ポルト・マイヨに近い、デバルカデール街の7番地で、日本人は、この町のことを『デバカメ通り』と呼んでいた。隣はリュナ・ホテルという、連れこみ専門のインチキ宿で、日本人会の建物も、何かしら、むかしの売笑婦宿みたいないやな感じであった。(『巴里物語』社会評論社

 

その「むかしの売笑婦宿みたいないやな感じ」のする建物を、茂田井の『じぷしい繪日記』でみることができる。

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松尾によると、「日本人会」の建物の地下には料理部があり、「斉藤という肥った板前さんが、食堂の経営をし、欧州航路の船から逃げ出したむかしの船乗りや、第一次欧州戦争に義勇兵となって流れこんで来た男どもが四、五人、奥のきたない暗い部屋にゴロゴロ寝ていた」という。茂田井も、晴れて(?)その仲間入りを果たしたわけだ。

 

にほんカラ新聞ノ束ガトドイタトキトジムコトト、酒ビンヲ酒蔵ニ運ブコトト、カンヅメショクリョウヲヤネウラニハコブコトナドガ骨ノ折レルシゴトデ、後ハアマリムズカシイコトハナイ。

 

雑用を適当にこなしつつ、それなりに愉快な日々を過していた様子が伝わってくる。そんな「日本人会」の食堂ではたらく連中を、松尾もまた微笑ましく眺めていたようである。「ボーイどもは、客のいないときには、バクチをやり、耳でおぼえた奇妙奇てれつなフランス語で、近所のビストロに行って、売春婦をからかい、それぞれ、フランス人の情婦をもって彼らにふさわしいのんきな流れ者の生活をしていた」(松尾邦之助『巴里物語』)。

 

ホウレンソウガえぴな。サシミニスル鯛ガどら。サバガまくろ。卵ガうふ。コレニでヲツケテでずふ。シオガせる。オ酒ガばん。奥サン今晩ワガぼんそわまだむ。何ガオ望ミデシヨウガけすくぶうぷうれ。一日ニ一ツ憶エレバ大シタモノダ。

 

まるで松尾の見ていた通りで、思わず可笑しくなる。でも、茂田井が「日本人会」の建物の地下に巣食っていた時期と、松尾が「書記」として同じ建物に寝泊まりしていた時期とは、残念ながら重ならない。昭和4(1929)年の5月、一時帰国していた日本から戻った松尾は、困窮生活を送りつつも日本文化の紹介者、またジャーナリストとして新たな道への一歩を踏み出していた。もちろん「日本人会」へは出入りしていたにちがいないが、地下の「きたない暗い部屋」でゴロゴロし、「奇妙奇てれつなフランス語」を操って売春婦をからかっているような、いまだ「画家」ですらなかった一青年に目を留めることはなかったろう。

 

昭和6(1931)年、茂田井のいた「日本人会」に、新たな人物が会長としてやってくる。椎名其二(しいな・そのじ)である。

 

四月×日

今度くらぶノでいれくとうるニ成ツタノハしいなそのじサントイウふらんすニハ長イ人ダソウダガ、始メテ会ツタ時ハ田舎ナマリガハゲシク、ムヤミトヤボツタイノデ大イニ笑ツタモノダ。ナレテミルト、かすけっと(トリウチ)ノカブリ方ヲ教エテクレルホドノ通人デアツタ。

 

 

若き日、フランスでアナキズムの洗礼を受け、大杉栄の遺志を継いで『ファーブル昆虫記』の訳出にあったことでも知られる人物だが、そんな椎名も青年茂田井の観察眼の前では形無しである。

 

パリの〝黄金時代〟は1926(昭和元)年から1928(昭和3)年くらいまでであった、そう回想する松尾邦之助の目に、茂田井がやってきた1930(昭和5)年のパリはかつての輝きを失いつつあるようにみえた。「再渡仏して、パリの土を踏んだ昭和5年は、フランスは動揺し、すべてが暗かった」。しかし、そんな深刻さは、茂田井の『繪日記』からは微塵も感じられない。

 

十月×日

ぱおら、ぱおら

ナンダツテ今マデボクハキミニ會エナカツタノダ。

 

パオラは、「N駐在武官邸ノ住込ミ女中」であったジュリーの妹で、チェコスロヴァキアのカールスバート出身の「サナガラ、野ニ咲ク白イ花ノヨウナ娘」である。「N駐在武官」とは、中岡彌高のことだろうか。パオラに一目惚れした茂田井は、

 

出前料理ノさあびすヲ終エテくらぶニ帰ルト、アトハボウゼント魂ヲ抜カレタ如クニナリ、皿小鉢ノ十ホド一編ニ落シタリ、酒ノこつぷヲ五ツ六ツコナミジンニシタリ、階段ヲ踏ミ外シテ地下室マデツイラクシタリ、ヨソメニモイジラシイホドノウチコミブリ

 

であったという。はたして、その恋の行方は…

茂田井武の昭和5(1930)年は、まさしく青春まっただなかであった。

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茂田井武『じぷしい繪日記』(トムズボックス