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「昭和8年」を起点に、ジャック・フィニイよろしくモダン都市を散策するブログ

サーカスがやって来た

宮脇俊三は回想する。昭和9(1934)年、小学二年くらいのときの話だ。

母はサーカスが好きで、かならず見に行き、私も連れて行ってもらった。銀色の海水着のような衣裳をまとったサーカス団の子供が、毬の上で逆立ちなどし、 形が決まったところで「ハーイ」と声を出すと、母は可哀そうだと言ってかならず涙を流した。そして「人さらいに攫(さら)われるとお前もああなるのだ」と言い、また「あの子たちは、骨を軟らかくするために、毎日お椀一杯の酢を飲まされているのだ」とも言った。(宮脇俊三『昭和八年 渋谷驛』PHP研究所

 

昭和初期のサーカスには、華麗なエンタテインメントであると同時に、まだどこかアンダーグラウンドな見世物のような雰囲気が漂っていた。「かならず見に行」くほど好きなのに、子供たちのアクロバティックな演技をみるたび「可哀そうだと言ってかならず涙を流」す宮脇の母親はどことなく滑稽ではあるが、当時の人たちは多かれ少なかれ「サーカス」というものをそのようにして受け入れていたのだろう。アスリートたちの姿のむこうがわに「汗」や「涙」の物語をみたがる日本人の心性は、その意味ではいまもまったく変わっていない。

 

昭和8(1933)年、ドイツからサーカス団がやってきた。上野の竹の台、池之端、それに芝の三会場をつかって開催された「万国婦人子供博覧会」の「目玉」として、芝会場全体の1/3ほども占める巨大な特設テントで興行はおこなわれ連日大盛況だったという。宮脇俊三の母も、幼い息子と連れ立って訪れたにちがいない。

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 当時の絵葉書をみると、「獨逸ハーゲンベック猛獣大サーカス」と書かれた門柱が目に入る。そしてテントの中央、入口の上にはアルファベットの「CARL HAGENBECK」の文字をみることができる。

 

カール・ハーゲンベック(1844〜1913)は、魚屋のかたわら胡散臭い見世物の興行などもおこなっていた父親を手伝ううち、世界じゅうの動物園や見世物に猛獣や珍獣を提供する動物商となり、やがてはハンブルクのシュテリンゲンに広大な自然動物園までつくってしまった人物として知られている。カール・ハーゲンベックの回想録『動物会社ハーゲンベック』(平野威馬雄白夜書房)では、そんな彼の生い立ちとともに、自動車もまだなかったような時代、北はシベリアから南はアフリカまでどのようにして猛獣を捕らえ、ヨーロッパまで連れてきたのかといったエピソードの数々が綴られているのだが、その想像を絶するおもしろさときたらヘタな冒険譚をはるかにしのぐ。そして、みずからサーカスまで始めるにいたった理由がまたふるっている。「象は仕事をしなくても、食べものだけは大へんな量である。…どうしても、この大食いどもをもとでに、なにか新奇なもうけ口をみつけなければ…」。こうして、動物たちに自分の食い扶持を稼がせるため、ハーゲンベックはとうとう「サーカスの主人」になってしまった。

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さて、その「カール・ハーゲンベックサーカス」なのだが、調べてみると1907年にアメリカ人ベンジャミン・ウォレス率いる「B・E・ウォレスサーカス」に買収、合併されていることがわかる。以降は、「ハーゲンベック=ウォレスサーカス」と名乗り北米大陸をホームグラウンドに忙しく巡業している。となると、昭和8(1933)年に来日、各地で人びとを熱狂させた「カール・ハーゲンベックサーカス」もこの「ハーゲンベック=ウォレスサーカス」のことなのだろうか? ところが、当時の新聞や写真のどれをとっても、「ドイツからやってきたハーゲンベックサーカス」という表記しか見当たらないのは不思議である。

 

たとえば、神戸又新日報昭和8(1933)年7月7日の記事では

ハーゲンベックはドイツ人ハーゲンベック氏を団長とするユダヤ系ドイツ人の集団からなる世界有数のサーカス団であり、欧州を旅行したものは、或はドイツ領に於て、フランスに於て、或はドーヴァ海峡を越えたイギリスに於て、随所に彼等の巡業している状況を見ることが出来る

とある。

 

また、名古屋にある東山動植物園の歴史を紹介したウェブサイトには

昭和8年5月29日、名古屋にドイツの動物園経営者ローレンツ・ハーゲンベック氏率いるサーカス団がやってきた。ローレンツ氏はドイツの動物園王と呼ばれたカール・ハーゲンベック氏の弟である

という表記をみることができる。

 

日本にやってきたのは、「ハーゲンベック=ウォレスサーカス」とは別物、ローレンツ・ハーゲンベック率いる正真正銘ドイツからやってきた「カール・ハーゲンベックサーカス」であった。つまり、世界にふたつ、「ハーゲンベック」の名前を冠したサーカス団が存在していたことになる。「王将」に「餃子の王将」と「大阪王将」、ふたつ存在するのと同じようなことだろうか…。ちなみに、上の引用にローレンツをカール・ハーゲンベックの「弟」と説明しているが、これは間違い。ローレンツはカール・ハーゲンベックの「次男」であり、兄のハインリッヒとともに父親の生前から事業を手伝っている。どうやら、父カール・ハーゲンベックの死後、兄ハインリッヒが動物園の運営を引き継ぎ、いっぽう弟のローレンツはあらためてサーカス団を結成し、そちらに専念することになったようだ。

 

彼らが来日することになった背景を、松山大学の川口仁志氏はつぎのように解説する。「しかし何といっても(万国婦人子供博覧会)芝会場の呼び物は、ドイツのハンブルク市にあるハーゲンベック動物園から来た大サーカスであった。ドイツもまた経済不況のさなかにあり、ハーゲンベック動物園も経営的に困難な状況を打開すべく極東の巡業に踏み切ったという事情があって、その来日が実現したのである」(「『万国婦人子供博覧会』についての考察」2008年)。その曲芸は、「象が虎をのせたまヽで樽乗をしたり」「獅子が熊の梶取りでシーソーをしたり」と「ずば抜けたものが多く」会場につめかけた日本人はみな熱狂したわけだが、そうした比類のない芸当もすでにヨーロッパでは飽きられ始めていたところに、ちょうど遠い東洋の島国から起死回生ともいえる招待状が届いたということなのだろう。

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じっさい、婦人や子供ばかりでなく、はるばるドイツからやってきたこのサーカス団に魅せられた芸術家たちは少なくない。画家だけでも、古賀春江、川西英、長谷川利行といった錚々たる顔ぶれがそれぞれハーゲンベックサーカス団の絵を描いているが、もうひとり恩地孝四郎も「サーカス(ハーゲンベック・サーカスの印象)」なる版画を発表している。モンタージュ技法により、サーカスのめくるめく世界を一枚の絵に閉じ込めた見事な作品である。

 昭和8年、そう、日本人はみなサーカスの虜(とりこ)だった。

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恩地孝四郎「サーカス(ハーゲンベック・サーカスの印象)」木版、紙