ふりだしに戻る

「昭和8年」を起点に、ジャック・フィニイよろしくモダン都市を散策するブログ

岩本素白と竹の匙

「竹の匙」という、岩本素白のごくごく短い文章がいい。昭和3(1928)年3月の随想だ。荒物屋で尋ねても、「銀か白銅かニュームの物ばかり」で、ありふれた「竹の匙」がいっこうにみつからない。竹の匙にかぎらず、「簡素なうちに言われぬ味をもった日用品」が次第に「姿を隠し」、「亡くなってしまった」と素白は言う。素白は、身辺から「もの」が消えてゆくのをこんなふうに、まるで生きものの「寿命」のように受け止める。嘆くでも、憤慨するわけでもない。ただ、「日本には、こういう品物が何時までも有ってよいように思う」と呟くにすぎない。そして、この「よいように思う」、それが素白の「やわらかさ」である。日本の文芸や美術についても、素白は竹の匙と同様「有ってもよいように思う」とかんがえる。理由はひとつ、なにか強く主張するわけではないけれど、生活の片隅にずっとあったはずのものが姿を隠してゆくのは、あまりにも「寂しい」からである。

素湯のような話: お菓子に散歩に骨董屋 (ちくま文庫)