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「昭和8年」を起点に、ジャック・フィニイよろしくモダン都市を散策するブログ

郊外に生まれた「浴風会本館」という〝終の住処〟

世田谷文学館への道すがら、ふと思い立って路線バスを降りる。すっかり雨もあがったようだ。停留所の名前は「浴風会前」。ところがどっこい、とても「前」とは言いがたい場所に降ろされてしまった。あわててポケットを探り、Googleマップ搭載のスマホがあるこの平成の世に感謝する。

環八(環状八号線)を折れ、神田川の流れに沿って湾曲する道を10分ほども歩いてゆく。片側は住宅、しかもかなり大きな家が並んでいるが、もういっぽうは畑、そしてやがて「浴風園」の敷地とおぼしき雑木林が続いている。ようやく正門に辿りつくと出迎えてくれるのが、『建築の東京』(都市美協会/昭和10(1935)年)にも掲載されたこのスクラッチタイル貼りの重厚な建物である。

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大正14(1925)年、東京市の郊外、世田谷のこの地に「浴風会」は誕生する。「浴風会」は、関東大震災被災したお年寄りの援護を目的に内務省社会局によって設立された財団法人で、設立にあたっては皇室御下賜金を含む義捐金があてられた(社会福祉法人「浴風会」ウェブサイトより)。

 

都会ではないが、かといって完全な田舎でもない《郊外》は、震災後の復興期により脚光を浴びることになる。『郊外の文学誌』の川本三郎は、このあたりの事情を今和次郎の『新版・大東京案内』を引きながらつぎのように説明する。

  1. 震災以後、東京市の中心部の大半が「商業地」になってしまったことで、一般の人びとが住宅を構えることが困難となったため
  2. 震災以後、法律により市内に大工場を置けなくなったことから、必然的に労働者たちも工場とともに郊外へと転出せざるをえなくなったため
  3. 震災以後、交通網、とりわけ鉄道網が一気に充実し、郊外とはいえ利便性が高くなったため

それに加えて、なにより東京市の西側では震災の被害がほとんどなかったという事実も大きいだろう。安全で、交通の便も悪くはなく、しかもまだまだ武蔵野の豊かな自然が残っている《郊外》に、この時期多くの人たちが引きつけられたのも無理はない。

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大正15(1926)年に竣工した浴風会本館を設計したのは、東大安田講堂といった建物をはじめ本郷キャンパス全体のデザインをおこなった内田祥三(うちだよしかず)と、その弟子で同潤会の建物にも携わった土岐達人のふたりである。ちなみに、『建築の東京』では「昭和5(1930)年」と紹介されているが、大正15(1926)年が正しいようだ。

その建物は、塔屋が印象的だが、大部分は鉄筋コンクリートの2階建てからなるいかにも頑強そうで、大地に這いつくばったかのような安定感のある〝見た目〟をもっている。震災で焼け出され、心に傷を負った老人たちにとって、この〝見た目〟がもたらす安心感はとても重要、ある種セラピーのような効果もあったのではないか。じっさい、この内田祥三はまた「防火」と「鉄筋コンクリート」のスペシャリストでもあったのだから、この建物の設計者として彼ほどの適任者はいない。まあ、人選にあたってそこまで考慮されていたかどうかは知る由もないけれど…。

 

建築には、軽快な印象をあたえるものもあれば、威厳を感じさせるものもある。関東大震災被災した老人たちに〝終の住処〟として用意されていたのは、緑豊かな武蔵野の自然と、〝謹厳実直〟かつ〝安心感〟のある建物であった。