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「昭和8年」を起点に、ジャック・フィニイよろしくモダン都市を散策するブログ

映画『浅草の灯』

昭和12(1937)年

 少しずつ、少しずつ島津保次郎を観ている。

 浅草オペラを題材に役者たちの青春群像を描いた『浅草の灯』は、ひとことで言えば、〝あの頃の〟浅草を活写した作品である。浅草オペラといえば、大正モダニズム華やかなりし頃、庶民を熱狂させ、モボやモガを生み出すほどの人気を誇ったが、大正12(1923)年の関東大震災によって壊滅的な被害を受け、そのまま幕を閉じている。いっぽう、島津が濱本浩の新聞小説をもとにこの作品を製作、公開したのが昭和12(1937)年だから、舞台となっているは〝14、5年ほどもむかしの〟浅草ということになる。〝あの頃の〟と言ったのは、それが〝いまはなき〟懐かしい土地と人びとの物語だから、である。

 

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引用元:東京国立近代美術館NFCデジタルギャラリー

 

 ところで、この『浅草の灯』を観終わったとき、ぼくはまずこんな印象を抱いた。これは、ひょっとして〝駄作〟じゃないか? 

 まず、展開がいちいち性急というか、雑である。ただ、それにかんしていえば、もともと104分あった作品を、GHQの検閲によって終戦後77分にまで縮められてしまったという話もある。27分のカットといえば全体の四分の一にもあたる。おもに暴力的なシーンがその対象だったというが、暴力的なシーンのみで27分もあったとは少し考えにくい。物語の展開上肝心なシーンやセリフまで削られてしまっているのではないか。もしもオリジナル版がどこかに残っていてそれを観ることができたなら、あるいはそのあたりの印象は変わるかもしれない。

 そしてもうひとつ、こちらのほうが個人的にはより問題なのだが、この『浅草の灯』にはどこか島津作品らしからぬ〝重さ〟が感じられる。『隣の八重ちゃん』にせよ『婚約三羽烏』にせよ、あるいはまた『兄とその妹』にせよ、これまでぼくが観てきた島津保次郎の映画には、深刻なテーマを扱ってもなお、〝いま〟を肯定する前向きさ、それゆえの〝朗らかさ〟があったように思う。ところが、この『浅草の灯』には、そうしたぼくの思うところの〝島津調〟が希薄なのだ。そして、この違和感のナゾを探ってみたくて、ぼくはゴソゴソと本棚を漁り一冊の本を引っ張りだしてきた。

 堀切直人の『浅草』(栞文庫)。そのなかに、銀座に背を向けた永井荷風玉の井の私娼窟を経由し、一時遠ざかっていた浅草を「再発見」するまでの道筋を辿った「オペラ館嬉遊曲」と題する一章がある。これを、『浅草の灯』を観る上でのサブ・テキストとして読んでみるというのはどうだろう。

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堀切直人『浅草』栞文庫

 

  堀切によれば、荷風の〝銀座離れ〟は昭和7、8年ごろにはじまる。昭和11年に執筆された『濹東綺譚』を引用しながら、堀切は荷風の銀座をはじめとする「首都枢要の市街に対する嫌悪」を浮き彫りにしてゆく。荷風によると、いまや銀座は「大正時代に成長した現代人」が大手を振って歩くような街に成り下がってしまったという。彼らは「おのれの欲望を野放しにして何ら恥ずることのない新人種」にほかならず、その態度は横風で厚顔無恥である。さらに、昭和6年の満州事変以後、まるで歩調を合わせるかのように街の「顔つき」にまで変化が生じる。

 

 数年前までは、「無用のもの、表向きはないということになっているもの」であった銀座の街頭も戦時色に覆われだしたのである。例えば『(断腸亭)日乗』の、上海事変勃発から2ヶ月ほどのちの昭和7年3月4日の項には、次のような物々しい情景が記されている。「銀座通商店の硝子戸には日本軍上海攻撃の写真を掲げし処多し、蓄音機販売店にては盛に軍歌を吹奏す、(略)思うに吾国は永久に言論学芸の楽士には在らず、吾国国民は今日に至るも猶性古(いにしえ)の如く一番槍の功名を競い死を顧みざる特種の気風を有す」。

 以上のように昭和7、8年以後の銀座は、おのれの欲望を野放しにして恥じない「現代人」や、陰険な目つきの好戦的人種などがわがもの顔に横行する巷と化し、永井荷風の心を圧迫した。(堀切直人『浅草』244頁)

 

 戦争の激化とともに、銀座を歩く人びとに向けられた荷風のまなざしもますます手厳しくなってゆく。

 

 戦時下の銀座で見かける者は、永井荷風の目には、男も女も何か肝心なものを失って、空虚な心を抱いているように見えた。『日乗』の昭和19年7月2日の項で、彼はこう極言する。「銀座丸ノ内辺にて盲動する男女を見ても彼等には人格は愚か性格すら具え居るもの一人として見えざるは世界いかなる国民にも到底見ることを能わざる奇異なる現象なるべし」(同上 257頁)

 

そして

 

自らの審美眼に絶対の自信をもつ貴族主義者の永井荷風は、『大衆の反逆』のオルテガ・イ・ガセットと同じく、これら根なし草の大衆の粗野さ、定見のなさに我慢がならなかったのだ(同上 257頁)

 

 こうして、自然、荷風の足は荒川放水路へ、そしてさらには隅田川の東側に位置する玉の井へと向くようになる。荷風いわく、娼妓の顔つき、物腰ひとつとっても、玉の井の女の表情は「朴訥温和」で、銀座あたりのインテリ女のように「一見人をして恐怖を感ぜしめるほど陰険な顔」や「神経過敏な顔」はみあたらない。まさに昭和7、8年以前、あるいは帝都復興事業に湧く昭和4、5年以前の「荷風好み」の東京の姿がそこには残っていた。

 そして、玉の井へ行く途中立ち寄る浅草にもまた、荷風は〝あの頃の〟東京を見出し、熱心に通いつめる。日中戦争がはじまった昭和12年の10月終わり、戦勝祝賀の提灯行列がゆく銀座の喧騒から逃げ出した荷風は、地下鉄で浅草へとたどりつく。浅草には、銀座のように「時局を論談する酔漢」の姿などいっこうにみあたらない。そこで彼を待っていたのは、「平常に異らず」「愚鈍なる顔付」で遊歩する男女の姿であり、「河霧薄く立ち迷」う吾妻橋上の眺望の静寂であった。そうしてまるで引き寄せられるように、荷風は六区の演芸小屋「オペラ館」にやってくる。

 

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 昭和12年1月、荷風が足繁く通ったころの浅草・六区

 このころの浅草は、すでにオペレッタの時代からレビューや軽演劇の時代へと移行している。もやもやした気分で浅草にたどりついた荷風は、たまたまオペラ館で観た「軽妙で淡白で稚気のある市井劇」に一服の清涼剤のような爽快感をおぼえたにちがいない。熱心にオペラ館に通ううち、それを知った文芸部の川上典夫なる人物から荷風は「楽屋にお遊びに来られたし」との手紙を受け取る。昭和12年1月、まさに島津保次郎が浅草を舞台に映画を撮ったのと同じ年のことである。これを機に、荷風は館主の田代旋太郎や座長格の俳優、清水金一らと親交を深め、やがては「オペラ館の要請に応じて創作オペラ『葛飾情話』の舞台脚本を無報酬で書きおろ」すまで深く入りこんでゆくのである。また、楽屋に出入りするなかで「芸人の意外につましい日常生活」に触れては、「かつてつき合ったことのある帝国劇場の女優の傲りたかぶった虚栄的な態度」を思い浮かべたりするのだった。

 戦時下の当局は、国民に対して「有用」であることを強制する。そして、それに乗じて他人をだしぬこうとする「狡猾強欲傲慢」な人々…… それが、荷風は我慢ならない。玉の井や浅草、六区の「オペラ館」の人びとにはそれが、ない。彼らはみな一様に「無知朴訥」で「淫蕩無頼」の「無用の徒輩」にほかならないが、そこにはたしかに時代の中で人びとが見失った「文化的伝統や倫理的骨格」が息づいていた。そしてそこに、荷風は微かな光明を見ていたのではないか。

 

 では、ほぼ同じタイミングで浅草に注目した島津保次郎もまた、荷風と同様、苦々しい気分で世間の浮かれ騒ぎから目を背けた先に辿り着いた浅草だったのか?

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 映画『浅草の灯』の舞台は、『カルメン』や『ボッカチオ』といったオペレッタを上演する「日本館」という劇場。おそらく震災前、銀座に客を奪われた浅草にかつてほどの賑わいはなく、オペラもすでに風前の灯といったところ。芸術家肌の演出家・佐々木(西村青児)は理解のない客の態度に腹を立て、その妻で座長の摩利枝(杉村春子)は金策に四苦八苦している。いっぽう、役者連中もみな薄給と厳しい労働に疲弊しきっていて、ある者は楽屋に寝起きし、ある者は胸を患い舞台にも出れず、またある者は関西で心機一転をはかろうと画策している。このあたりの事情は、荷風が目にした「オペラ館」の芸人たちとなんら変わらない。

 コーラスガールの麗子(高峰三枝子)もまた田舎出身で身寄りがなく、カフェーを営む夫婦の世話になりながら「日本館」で舞台にあがっているのだが、そんなある日、地元の金満家・大平(河村黎吉)が麗子に目をつける。大平は、カネをちらつかせて親代りの夫婦や摩利枝に取り入り、また地元のゴロツキを操ってなんとか麗子を自分のモノにしようと暗躍する。

 地元のヤクザ者と芸人たちのつかず離れずの関係については、やはり荷風が『日乗』のなかで触れている。ときに楽屋にまで押しかけて金銭を要求するそうした連中の振る舞いに恐れをなした古川緑波は、早々に浅草を去り日比谷へと向かうのだが、そんなならず者さえ荷風に言わせれば「無知蒙昧却て愛すべくまた憐れむべきところあり」ということになる。身びいきも、ここまでくれば筋金入りである。

 さて、悪党どもの計略を知ったやはり「日本館」の歌手で正義漢の山上(上原謙)は、文芸部の香取(笠智衆)ら楽屋仲間、さらには麗子に好意を抱くペラゴロ(=浅草オペラの熱狂的ファン)で貧乏絵かきの〝ボカ長〟(夏川大二郎)までをも巻き込んで、麗子を護るべく捨て身の抵抗に出るのだった。

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 こうやってあらすじだけ抜き出すと、この『浅草の灯』にはどこかいにしえの騎士道物語のような趣があるのだが、それが昭和12年というタイミングに撮られた作品であることを思えば、またべつの意味をみつけることもできるように思うのだ。じっさい、この作品は一貫して「労働者たる弱者」による「強者」に対する抵抗という構図があり、またそのまなざしは徹頭徹尾「弱者」の側に寄り添っているのである。はたして、当時こうした構図を現在進行形のドラマとしてあからさまに描くことができたとは思えない。いってみれば、舞台が〝あの頃の〟浅草だったからこそ可能だったのではないか。江戸時代、町人のあいだで「怪談話」が流行したのは、威張りくさる武士を(物語の中で)やっつけ憂さを晴らすそれがうってつけの手段だったから、と聞いたことがあるが、まさにそんな話を思い出す。

 

 しかし、それ以上に気になることもある。それは、この映画全体を貫く美意識が、現代を颯爽と生きる職業婦人や女学生の姿をチャーミングに描く島津保次郎にしてはあまりにも古色蒼然としてはいないか、ということだ。

 たとえば、離縁をめぐってもめている演出家の佐々木と座長でプリマドンナの摩利枝を前に、山上が自分の指を詰めることでふたりの復縁を迫るところなど、ちょっとびっくりしてしまう。その手段はもちろん、すでにこのとき山上はいずれ劇場にいられなくなる身であることを自覚しているにもかかわらずの行動だからである。こういう潔癖な「筋の通し方」など、戦況に一喜一憂する「狡猾強欲傲慢」な「現代人」にあってはただ単純で、古臭く、馬鹿げたものに映ったにちがいない。けれども、荷風とおなじく島津保次郎もまた、巷の人びとが「何か肝心なものを失って、空虚な心を抱いているように見え」るご時世だからこそ、このような「無用な徒輩」が八面六臂の活躍をする物語をあえてとりあげたのだと言うことはできないだろうか。じっさい、山上が麗子をボカ長に託すのも、たとえ相手がヤクザ者だろうとひるまない彼の義侠心に信頼を寄せているからだし、そこにいまや急速に失われつつあるなにか〝尊いもの〟を見ているのは、荷風も島津も変わらないだろう。

 島津保次郎という映画人は、たとえ〝あの頃の〟浅草を描こうとも、つねに現代を意識し、また現代を描こうとしていたと、すくなくともぼくはそう思いたいのだ。