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ふりだしに戻る

「昭和8年」を起点に、ジャック・フィニイよろしくモダン都市を散策するブログ

「子供之友」昭和5年6月号の岡本帰一

板橋区立美術館「描かれた大正モダン・キッズ〜婦人之友社『子供之友』原画展」をみた。学生だったぼくは、松本竣介長谷川利行といった名前をこの美術館で知り、また〝池袋モンパルナス〟界隈の有名無名の洋画家たちの作品の多くとここで出会った。まだ尾崎眞人さんが学芸員をなさっていたころの話だ。

「子供之友」は、羽仁吉一・もと子の「婦人之友社」が創刊した少年少女向けの雑誌である。ふたりは雑司ヶ谷の上り屋敷、いまの西武池袋線池袋駅椎名町駅とのちょうど真ん中あたりに社屋と自宅を建てて移り住み、そのタイミングで「子供之友」を創刊した。さらに、その数年後、近所に「自由学園」を創設している。池袋のこの土地を、自分たちの理念によった新時代の教育活動の拠点にしようとふたりは考えていたのだろう。「子供之友」という媒体に新しい時代の気風をみようという今回の展示もまた、広い意味で〝池袋モンパルナス〟界隈の物語をあつかっており、その点ではこの展示をこの美術館でみられたことは個人的にうれしいことだった。

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まずはゆっくりと、戦前の子供になったつもりで表紙や挿絵として使われた原画が時代順に並べられた展示室を進んでゆく。

大正3(1914)年の創刊当初、表紙をはじめ数多くの挿絵を描いたのは北澤楽天という人物。早くから新聞や雑誌に風刺漫画を発表し人気を博した大家とのことだが、モダンというよりはむしろどこか懐かしいしっかりと描き込んだ「絵」という印象である。翌年になると、やはりすでに「人気者」だった竹久夢二が頻繁に絵筆をとるようになる。断続的にとはいえ、夢二が死の床につく昭和9(1934)年まで20年近くにわたって得意の「美人」ではなく、無邪気な「子供たち」の姿を描き続けたというのは知らなかった。

モダンの風が「子供之友」の表紙に吹きはじめるのは、震災後、ベルリン帰りの村山知義、自身の作品を〝童画〟と呼んだ武井武雄らが登場するようになってからだ。

楽天や夢二が、ぼくたちわたしたちの世界の延長線上にひらけた眺めを描いたとすれば、村山知義武井武雄らが描いたのはまったく次元の異なる世界、甘やかなファンタジーの国の情景だった。彼らの原画のむこうには、ときに目をキラキラと輝かせながら、またときにうっとりとした表情で絵本に見入る子供たちの姿がみえてくるようである。

 

思わず、一枚の絵の前で足が止まった。昭和5(1930)年6月号の岡本帰一が手がけた表紙である(画像参照)。

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 若草色を背景に2羽のガチョウが車を引いている。ガチョウを操っているのは黄色い帽子、黄色い洋服姿の女の子。この表紙に感じられる「モダンさ」はしかし、かならずしもその絵のせいばかりとはいえない。むしろ、その優れたグラフィックのセンスによるところが大きいのではないだろうか。足元に絵とは直接関係のない白い花を並べてみたり、あえて色数を抑えて画面全体の統一を図ろうとしたりと、隅々にまで作家の意識が行き届いていることに感心する。細い糸で縫いこまれたような「kiichi」のサインも洒落ている。

面白いのはタイトルで、当時の雑誌にはまだロゴデザインという考え方がなかったのか、(おそらく)表紙を担当する画家がそれぞれまちまちに描いているのだが、ほとんどは絵の添え物といった感じであまり凝ったものはみあたらない。ところが、この岡本帰一が担当した号のタイトルはどうだろう! なんてすてきな、ワクワクするような仕上がりではないか! デザインの重要性に気づいた20年代の画家たちが、絵の世界に「モダンさ」という風穴をあけた。ときに、「子供之友」はそうした〝モダン派〟の作家たちの愉しい実験室だったのだろう。そのことは、10年代後半、この雑誌が「観音開き」や「片面開き」といった凝った仕掛けをさまざま採用していることからもわかる。

やがて誌面は次第に戦時色を反映するようになってゆくが、表紙ではあいかわらず世界の子供たちが描いた絵のシリーズや自由学園の生徒による創作シリーズなどさまざまな試みが続けられる。この〝愉しい実験室〟は、用紙制限のためやむなく「婦人之友」に合併するかたちで廃刊となる昭和18(1943)年まで続いた。