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「昭和8年」を起点に、ジャック・フィニイよろしくモダン都市を散策するブログ

龍膽寺雄『甃路(ペエヴメント)スナップ ー夜中から朝まで』を読む (第2回)

 『甃路(ペエヴメント)スナップ』は、《世界大都會尖端ジャズ文學》叢書の第一弾として昭和5(1930)年5月に出版された『モダンTOKIO円舞曲』のなかの一篇である。作者は、龍膽寺雄。この『甃路スナップ』を、じっくり味わうように読み込むことで昭和5(1930)年当時のモダン都市・東京のいきいきとした姿を21世紀にいながらにして覗きこむこと、それがひとまずここでの目的といえる。今回は、その第2回目。

 

 最初のパラグラフでは、この散文詩の舞台であるモダン東京の情景がせわしなく画面を切り換えるような手法で活写された。続いてはいよいよ登場人物、モダン東京の住人の紹介となる。

 

 新婚の若いサラリイ・マンは、いそいそと片手に松屋の包をさげて。

 水族館の魚の様に、一ン日(いちんち)飾窓(ウィンドウ)のガラスの中で送った美しいマネキン・ガアルは、紅に荒れた唇に恋人の愛撫を空想しながら。

 金錆(かなさび)と油にまみれた髪の長い労働者は、組合のパンフレットを菜ッ葉服のポケットにまさぐりながら。

 たそがれの街々はまさに人間の洪水!

 

【モダン東京の「ポジ」と「ネガ」】

 「サラリイ・マン」「マネキン・ガアル」「菜ッ葉服を着た労働者」「モボ」ー4つの種族が取りあげられる。いずれも震災後の東京で一気に増加した、あるいはまた突如出現した種族にあたり、その点においてモダン東京の主要な出演者にはちがいないが、その役どころはまちまちだ。そして、そのちがいはモダン東京のいわばポジとネガとどうやら言い換えることもできそうだ。

 

【「モダン層」と「モダン相」】

 昭和4(1929)年に発表した「モダン層とモダン相」で大宅壮一は、モダニズムの「正体」について早くも次のように喝破している。

 モダン・ライフとは、理想も道徳もない、ただ刺戟ばかりの感覚の世界であって、そうした世界に発達した享楽哲学、消費経済こそが「モダニズム」である、と。そしてなにを隠そう、このモダニズムを支えている「モダン層」こそ「没落した中産階級であるところの有識無産階級」、つまり「サラリーマン」ということになる。大宅によれば、彼らは「鋭敏な感受性と、軽い機智と、廣くて浅い知識と、だぶだぶのづぼん(ズボン)又は短いスカートと、細いステッキ又は太いパラソルと、毎月五枚乃至十枚ばかりの十圓紙幣によつて膨らまされる俸給袋以外に何者をも持つてゐない。映畫と、ヂャッズ(JAZZ)と、ダンスと、スポーツを通じて輸入されたモダニズムを生きてゐるもの」である。

 では、都市におけるこうした種族、いわゆる中間層たる「サラリーマン」の出現は、時代にどのような変化をもたらしたか? 「モダン」とは、と大宅は言う。すなわちそれは「時代の尖端」を意味している。けれども、それは「本質的生産的尖端」ではなく、「抹消的消費的尖端」である。つまり、本質から末梢へ、生産から消費へと、「モダン層」の出現が時代の針路を劇的に変えてしまったのだ。このようにして、昭和初期、時代は新たな断面を露わにする。「モダン相」、それを彼はそう名づけた。

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大宅壮一『モダン層とモダン相』昭和5(1930)年(大鳳閣書房)

 

松屋呉服店の銀座進出】

 さて、こうした「モダン層」の一角を占める「新婚の若いサラリイ・マン」が向かう先、それが銀座三丁目の百貨店「松屋(呉服店)」である。

 神田・今川橋の松屋呉服店が銀座に進出したのは震災後、大正14(1925)年5月1日のこと。銀座には、すでに前年の大正13(1924)年には松坂屋が開店していたが、松屋の出店はふたつの点でエポックメイキングな出来事であった。

 ひとつには、東洋随一と謳われた鉄骨鉄筋コンクリート造・地上8階地下1階というその「規模」。とりわけ、当時の人びとをアッと驚かせたのはなんといってもその内部、1階から8階までの壮麗な吹き抜け空間にあった。じつは、以前から銀座の松屋日本橋三越といった老舗デパートを訪れるたび、商店建築にもかかわらずなぜ売場面積を削ってまで吹き抜けがつくられているのか疑問に思っていたのだが、ふと、当時流行りの「百貨店建築」の様式を取り入れたのではないかと考え調べてみると、案の定ニューヨークのメイシーズにせよパリのギャラリー・ラファイエットにせよ特徴的な吹き抜けを有している。なかでもシカゴの百貨店「マーシャル・フィールズ」のステイト・ストリート店は、お手本にしたのでは? と思わせるくらい外観、そして吹き抜けともに似通っている。じっさい、設計にあたった木田保造は、過去に視察旅行で目にした欧米のデパート建築から着想を得たとの話もある(★)。巨大な吹き抜けをもつ大ホールの設置は、即物的な商空間よりも、とりたてて買うものがなくてもつい行きたくなってしまうエンターテイメント性を優先させた結果であり、その目論見はまんまと的中したわけである。

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外観の比較 左/松屋呉服店 右/Marshall Field's 松屋呉服店は、Marshall Field'sをコンパクトにした印象

だ。

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店内大ホールの比較 左/松屋呉服店 右/Marshall Field's

 

 そしてもうひとつ、顧客ターゲットを明確に「大衆」に設定することで銀座が一気にモダン東京の「都」として花開くきっかけをつくったことが挙げられる。松屋の出店が銀座の街にもたらした変化について、松崎天民は『銀座の女』のなかでこのように書く。「大震災以前の銀座には、何となく階級的の意識が流れてゐて、貴族的と云つたやうな、富豪的と云つたやうな気分」があったのに対して、「震災後に復興した新銀座」はというと「何となく大衆的になり、何となく一般的になつて、『私達の銀座』は、一層私達の生活に接近し、私達の感情に深入りして」きたように思われる、と。そして、こうした「銀座の大衆化、民衆化と云ふことに、大きな動機を与へ、エポツクな機会を投じたのは松屋松坂屋と云ふ二大デパートメントストーアが、銀座に進出した事」にあったという。震災後、一気に増加した会社員や職業婦人ら「都会の大衆」の存在は、街のにぎわいを三越高島屋白木屋のある日本橋から松屋松坂屋のある銀座にずらしてしまうほどの影響力を持っていた。さらに、巨大な「松屋呉服店」の出現は銀座の街にも〝地殻変動〟をもたらしたと、昭和2(1927)年に出版された『銀座』のなかで松崎天民は述べている。「松屋の大ハウス」の出現により「銀座の中心が、尾張町にあった時代は過ぎて、今や銀座三丁目時代を出現して居る」。ちなみに、三越尾張町(銀座四丁目)の交差点に出店して銀座の百貨店時代をさらに彩るのは、この『甃路スナップ』を収録した『モダンTOKIO円舞曲』が出版される一ヶ月前、昭和5(1930)年4月のことだった。

(★)松屋呉服店と設計者の木田保三については以下のサイトに詳しい。関根要太郎研究室@はこだて

 

【マネキン・ガアル】

 昭和4(1929)年春、モダン東京の百貨店に新たな職業婦人が登場する。「マネキン・ガール」である。「マネキン・ガール」とは、百貨店で商品の宣伝を手伝うモデル兼販売員のこと。それぞれ、「日本マネキン倶楽部」「東京マネキン倶楽部」といった事務所に所属し、百貨店からの依頼に応じて現場に派遣されるという仕組みになっていた。仕事は、百貨店での実演販売が多かったが、ファッションショーのモデル、展示会などでのイベントコンパニオンもつとめた。

 当時のマネキン・ガールの様子については、詩人丸山薫の妻で、マネキン・ガールとして、さらには「東京マネキン「倶楽部」のマネージャーとしても活躍した丸山三四子による回想『マネキン・ガール 詩人の妻の昭和史』(時事通信社)にくわしい。ショーウィンドウの中で「水族館の魚の様に」というよりは、その実態はだいぶ活動的だったようである。

 著者が所属していた「東京マネキン倶楽部」は、正会員20名、準会員20名、さらにマネージャーと事務補助の会員が数名、人手が足りないときにはエキストラを雇って対応するというシステムになっていた。彼女たちはかなりの高給取りで、大学卒業者の就職率がわずか3割程度という就職氷河期を描いた小津安二郎の『大学は出たけれど』の時代、大学卒の初任給が70円から80円という時代に、なんと売れっ子のマネキンの月収はときに200円以上にもなったという。そのため、会員は作家の妻や新劇女優、帝大出身のご主人をもつ既婚者が多かった。デパート・ガールは日給80銭くらい、女の職業でもっとも収入のよかったダンサーでも平均して月に80円くらいというのだから、マネキン・ガールは羨望の的、まさに高嶺の花であった反面、事務所の乱立によりマネキンの質も千差万別、そのため彼女らに蔑んだ目を向ける人たちも少なくはなかったようだ。

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丸山三四子『マネキン・ガール 詩人の妻の昭和史』(時事通信者) 詩人の夫(丸山薫)を支えるためマネキン・ガールになった妻の、そのまま「朝ドラ」になりそうな奮闘の物語。梶井基次郎稲垣足穂三好達治中原中也、そして萩原朔太郎らとの心温まるエピソードも興味深い。

 

【複眼的まなざし】

 巷にあふれる〝モダーン〟を積極的に享受する〝モダン層〟たるサラリーマン、〝モダン相〟に現れた新しい風俗であるマネキン・ガールをさしずめモダン東京の〝ポジ〟とするなら、無雑作に菜ッ葉服のポケットに組合のパンフレットをつっこんだ労働者は〝ネガ〟と言えるのではないか。なぜなら、震災からの復興も、モダン東京のきらびやかな装飾も、「金錆(かなさび)と油にまみれ」た労働者の力がなくしてはありえなかったはずだからであるが、夜の銀座にけっして彼らの姿を見出すことはできない。唯一「遠い工場町」からかすかに届く「疲れた気笛」が、鋭敏なアンテナをもつ者にだけそっとその存在を知らせる。

 ここは短いセンテンスだが、金子みすゞの詩世界(例えば「大漁」のような)にも通じる〝複眼的〟まなざしがスパイスとして効いている。

 

 赤ネクタイに袋の様なセイラア・パンツ、眼深に大黒帽(ベレ)をかしげた二人づれが、

『ギンザへ出ようか。』

『そう、出ようか。』

『まだ一寸早いかね。』

『そう、早いかな。』

『そこらで簡単にパクついていこうか。』

『そう、……パクついていこうか。』

 天眼鏡で見なくッても、この二人のポケットには断じて金(ゲルト)がない!

 

【モボのいる舗道】

 幕間劇(まくあいげき)。前節の鉛色の気分を引きずらないために。いかにもモダニズム文学の旗手に似つかわしい構成の妙。

 これを目にした瞬間、きっと誰もが思い起こすのが有名な『洒落男』の歌だろう。オリジナルは、フランク・クルミットの1928年のヒットソング「A Gay Caballero」。リオ・デ・ジャネイロからニューヨークにやってきた「お上りさん」が主人公のコミックソング。 日本では、坂井透の訳詞、二村定一の歌で昭和5(1930)年の1月にリリースされ大ヒットとなった。♪俺は村中で一番 モボだといわれた男 うぬぼれのぼせて得意顔 東京は銀座へと来た そもそもその時のスタイル 青シャツに真赤なネクタイ 山高シャッポにロイド眼鏡 ダブダブなセーラーのズボン…… さらっと巧みに当時の流行を入れ込む。


洒落男(二村定一)

 ところで、昭和5(1930)年3月に公開された小津安二郎の映画『朗かに歩め』は、モボや断髪のモダンガールが登場するフィルムノワール調の作品だが、主人公らのたまり場の壁には「A Gay Caballero」の歌詞が書き殴られている。こういう分かる人にしか分からない〝遊び〟もまたモダニズムならではの尖端的精神といえそうだ(舞台設計は、当時弱冠24歳の水谷浩)。

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小津安二郎『朗かに歩め』(昭和5年 松竹蒲田)より壁に書き殴られた「A Gay Caballero」の歌詞。後半、主人公が堅気になるシーンでは、この歌詞がこすって消されたようにも見えなくないが、画面が不鮮明のため確認できない。ちなみに「hair」の綴りを間違えて「hear」と書かれている。