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「昭和8年」を起点に、ジャック・フィニイよろしくモダン都市を散策するブログ

龍膽寺雄『甃路(ペエヴメント)スナップ −夜中から朝まで』を読む(第3回)

 引き続き、龍膽寺雄の『甃路(ペエヴメント)スナップ』を読んでいる。

 今回取り上げるのは、ひとつのエピソード。前回、思いのほか長くなってしまったため中断せざるをえなかったのだが、本当ならこのエピソードまでを一区切りとしてまとめて紹介したかった。というのも、このブログで言えば、第1回からこの第3回までがひとつのパートと考えることができるからである。

 

#エピソード

 ビルディングの窓々を轟然と擦(こす)って、ーーラッシュ・アワアの省線電車。宵闇に流れる街の灯りが時々建物の蔭に呑まれて、ーー

『き、君、莨(たばこ)はよしたまえ。』

 額の蒼白い労働者風の若者。

『……?』

 金口を口髭に啣(くわ)えた赫(あか)ら顔の紳士。酒焼けの頬、脂肥(あぶらぶと)りの頤(あご)。灯りの下へ濛々(もうもう)と煙を渦巻かして、波の様にうごめく人の頭越しに相手を見下ろし、

『何だ?』

『た、莨よせッてんだ!』

『フン。……君は車掌か?』

『みんなが迷惑をするからよせッてんだ。見ろい、この煙を。……みんな黙って顔顰(しか)めてるじぇねえか。』

『莨吸うてはいかん云う規則がどこにある? 掲示にも「御遠慮下さい」とあるじゃないか。「御遠慮下さい」とは吸うてはいかん云うのとは違うぞ。』

 と、もう一度金口の頭を赤くして、煙(たばこ)と一緒に、

『よけいなおせッかいはよせ。なまいきな。……』

『なまいきだ?』

『俺は俺の好きで吸うとるんだ。貴様等の干渉がいるか。』

『自分の好きなら他人の迷惑はかまわんか!』

『かまわん。』

『よし!』

 云うより、雑鬧(ざっとう)の間から腕を抜くと身を乗出して、金口を咥えた相手の頤を、金槌(ハンマー)の様な拳で力一杯、ガアン!

『な、殴ったな?』

『殴ったよ。』

 殺気立った相手の顔を快く冷笑して、『俺等ア他人を殴んのが好きなんだ。自分が好きなら相手の迷惑なんざどうでもいいッて今貴様が云ったろう。は、は! 何なら腕ッ節で来い。』

 窓の外には遠いお台場の灯り。ーー

 

【『公衆作法 東京案内』】

 都市における無産階級の増加は、〝ラッシュアワーの満員電車〟という新たな景観をもまた生み出した。さまざまな人びとでごった返す車内は、そのまま都市の〝縮図〟でもある。そして、ふたりの男による〝マナー〟をめぐる諍いが、そんな家路を急ぐ客であふれる省線電車内で展開される。

 平成28(2016)年11月、有楽町の東京国際フォーラムで開催されたイベント《月曜シネサロン&トーク》では、文部省が大正15(1926)年に製作した『公衆作法 東京見物』が上映された。田舎から息子を訪ねて上京した父娘を主人公に、東京の観光名所を紹介しつつ、同時に、公衆作法、つまり公共の場でのマナーを身につけることの大切さが説かれるというたぶんに啓蒙的な内容をもつ映像作品だった。

 この『公衆作法 東京見物』(全編で約50分)を抜粋して紹介したのが下の動画。市電の中にはこんな貼り紙が掲げられている。「左の條々かたく御断り申候 車内にてたんつばをはくこと たばこをのむこと ふともゝをだすこと」。


Koshu Saho Tokyo Kenbutsu (1926)

 このイベントで監修・解説をつとめた田中 傑氏によれば、関東大震災の混乱も一段落したこの時期、地方から東京を訪れる観光客が増え、そうした人たちを対象としたガイドブックの類も相次いで出版された。そうした背景をうけ、〝名所案内〟のかたちを借りた〝公衆作法のすすめ〟という意図で、おそらくは地方で上映されることを目的に製作されたのがこの映画であろうとのことだった。

 さらにそれから数年を経た昭和5(1930)年、つまり龍膽寺雄がこの『甃路(ペエヴメント)スナップ』を発表したその年は、かつてないほど公共マナーの重要性が叫ばれた年でもあったと田中氏は指摘している。そもそもの始まりは、帝都復興祭の挙行(昭和5年3月)に向けて朝日新聞が提唱した「市民公徳運動」だった。復興事業によって壮麗な帝都は完成した、つぎは市民ひとりひとりの行動を美しくする番だ、そういうことだろう。実際のところ、こと公共マナーという点にかんして言えば、その急速な都市化に見合うほどには人びとのそれは成熟していなかった。イベントで配布されたレジュメから、参考まで当時の朝日新聞の見出しをひとつ抜き出しておく。「見ても胸が悪い 紙くづかごの街路 鼻紙もビラも丸めてポンポン 癖の悪い紳士淑女」(1930年3月20日)。風に吹かれた無数の鼻紙やビラが甃路(ペエヴメント)を飛ばされてゆく。

 

【プロvsブル】

 とはいえ、龍膽寺雄がここに書いたエピソードは、その引き金は〝マナーの悪さ〟にあったにせよ、かならずしもそれだけが原因ではなかったろう。そのことは、ふたりの男のプロフィールからも明らかだ。

 ふたりの男ーー「額の蒼白い労働者風の若者」と「金口を口髭に啣(くわ)えた赫ら顔の紳士」とは、いずれもこの時期に一気に増大したモダン都市の落とし子であるという点では変わらないが、一方がモダニズムを享受し謳歌する者であるのに対し、他方はモダニズムを陰で支えはするがけっして表面には現れ出ない(=現れ出ることを許されない)者であるという意味で真逆、対立する存在といえるだろう。つまり、ここで龍膽寺雄は、電車内での公共マナーをめぐる諍いというありふれた光景から、すでにこの時期のっぴきならない事態になりつつあったプロレタリアートブルジョワジーとの衝突という生々しい現実を切り出そうとする。

 都市の〝モダンさ〟を、しばしば龍膽寺がせわしなく交互する「コントラスト」に見ようとしたことはこのブログの第1回でも触れたとおりだが、無産階級の青年と傲慢なブルジョワとが一触即発のやりとりをかわすこのエピソードもまた、相反するふたつの極の交替というふうにみることもできるだろう。「蒼白い」額の青年と「赫」ら顔の紳士といった具合に、色彩によってふたりの貧富の差や性格のちがいを対比的に描写しているのも興味深いところだ。

 また、ふたりの周囲にはたくさんの客が乗り合わせていたはずであり、当然、なかには野次る男もいれば怖がる女もいたにちがいないが、龍膽寺雄はそうした一切の存在を完全に捨象してしまう。エピソードの焦点を男ふたりの対立に絞り込むことで、いっそう彼らのコントラストが際立つからである。

 事実、この「対立」は、くすぶりつづける労働者の不満と散発的に発生するストライキ、演劇や美術、文学を中心としたプロレタリア芸術の興隆、そしてそうした事態を受けての大規模な思想弾圧の動き(昭和3年の「三・一五事件」、翌4年の「四・一六事件」など)といった出来事が現在進行形で起こっていた昭和5年当時の読者には、このエピソードをたんなる公共マナーをめぐる喧嘩 として片付けるわけにはいかなかったろうし、そのあたりの読者心理ももちろん龍膽寺雄は織り込み済みだったにちがいない。当然、当局の検閲は入っているのだろうが、プロレタリア文学とは(少なくとも)遠いところにいる(と思われていた)龍膽寺でもあるし、この内容では発禁にもできなかったというのが実際のところだろうか。だが、新興芸術派にも批評性はある。じつは、かなりきわどいところを攻めていると思う。

 

【モダン東京の目撃者】

 さて、ここまで読んできてようやく、ぼんやりとながらこの『甃路(ペエヴメント)スナップ』全体の構成が見えてきた。

 この《散文詩》にはいっさい章立てめいたものは存在せず、全体はとめどなく流れてゆく。作者がこの「流れ」を安易に分断したくなかったのは、「夜中から朝まで」というサブタイトルからもわかるように、「一夜のできごと」である全体を貫流する時間をむやみに堰き止めたくなかったからではないか。とはいえ、それでも、おおまかなパートのようなものは存在している。そしてそれは以下の3つから構成される。

 

  1. 導入(イントロダクション) おもに情景描写からなる。ときに登場人物があわせて紹介される場合もある。
  2. 挿話(エピソード) エピソードはすべて、この東京でおなじ一夜のうちに起こった出来事である。
  3. 幕間劇(インターバル) 道化的な短いコント。気分を変える、あるいはひとつのパートからつぎのパートへの橋渡しをするつなぎ的な役割を果たす。 

 

 おおまかなパートは、導入+ひとつ、あるいは複数の挿話+幕間劇の組み合わせからつくられる。この構成は、DJがさまざまな曲を途切れなくつないでゆくことで生まれるグルーヴ感と同様の効果をもたらすと同時に、また、演劇的、ときに映像的な印象をあたえる。

 たとえば、今回のエピソードでは特に最初の行と最後の行に注目したい(わかりやすく対象となる行の文字を紫色にしてある)。最初、カメラはビルの谷間を疾走する省線電車の姿をとらえているが、次の瞬間切り替わり、車内の様子が映し出される。それに対し最後の行では、車内の様子から窓を通して外へ、「遠いお台場の灯り」へと切り替わる。それはまるで、スクリーンに映し出される一連のフィルムを映画館で腰掛けて見ているような気分にさせる。小説のように、主人公に感情移入してあるシーンを眺めたり、語り手の助けを借りてある時間からべつの時間へ、ある場所からべつの場所へと移動するということが、ない。ここで言う「カメラ」とはつまり龍膽寺雄の「目」にほかならないが、その「目」には余計なフィルターも過剰な演出もみあたらない。読者は、『甃路(ペエヴメント)スナップ』を読みながら、龍膽寺の「目」をとおしてモダン東京のあちらこちらで繰り広げられる出来事をただ現在進行形で《目撃》しているのであって、それは多くの小説や詩の読書体験とは明らかに異なるものだ。

 

【遠いお台場の灯り】

 このエピソードは、車窓越しに見た夜景に浮かぶ「お台場の遠い灯り」で締めくくられる。電車は品川附近を走っているのだろうか。しかし、大観覧車やレインボーブリッジが輝く現代のお台場ならいざしらず、当時のお台場に「灯り」なんてあったのだろうか。川瀬巴水の『品川沖』(大正9(1920)年)はもちろん、前川千帆の『水上公園(台場)』(昭和5(1930)年)を見ても、ただ草むらが広がるばかりで「灯り」の光源となりそうなものはいっこうにみあたらない。

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川瀬巴水『品川沖』〜『東京十二題』大正9(1920)年 木版 奥にふたつお台場を臨むことができる。

 ところで、「三番臺場(台場)」が国指定の史跡となったのが大正15(1926)年のこと。その後、水上公園として一般の人びとの上陸が許される。築地明石町から蒸気船に乗って約30分、昭和5(1930)年に出版された時事新報社編『旅の小遣帳』によると、そこには真ん中に簡素な売店兼休憩所があるばかりであとは「轉々寝ころがつて、あばれ廻つて見たいやうな芝生の大展開」という簡素な水上公園であった。料金は築地明石町から往復で20銭、ほかにも両国橋や芝浦からも定期便があり身近な〝水上の楽園〟としてなかなかの人気だったようだ。

 それにしても、上陸は午前8時から午後5時までと限られていたというし、「灯り」の正体は相変わらずわからないままである。物語上の〝効果〟という点からも、ここはひとつ何かに輝いていて欲しいところなのだけれど。