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「昭和8年」を起点に、ジャック・フィニイよろしくモダン都市を散策するブログ

龍膽寺雄『甃路(ペエヴメント)スナップ ー夜中から朝まで』を読む(第6回)

 舞台はもうひとつの「ギンザ」、「山の手のギンザ」新宿へ。

 かつて、「山の手のギンザ」といえば神楽坂の専売特許であった。関東大震災の被害を免れた神楽坂は、夜店が並ぶころともなれば銀座をもしのぐにぎわいを見せたと野口冨士男も書いている(『私のなかの東京』)。それが、昭和3(1928)年秋の飯田橋駅開業に伴う大工事の混乱と西郊への玄関口としての新宿の急成長とが重なり、わずかなあいだに新宿にお株を奪われてしまった。

 新宿駅の1日平均乗降客数の推移をみてみると、大正9(1920)年からこの『甃路(ペエヴメント)スナップ』が書かれた昭和5(1930)年までの10年間でなんと4.3倍にまで膨れあがっている。特にその変化は、震災のあった大正12(1923)年以降、著しい。下町から、震災の被害をさほど受けなかった山の手へ、さらにはより郊外へと人口が移動した結果である。昭和2(1927)年、東京駅の乗降客数を抜いて日本一になった新宿駅は、昭和5(1930)年には1日平均乗降客数123,050人の巨大ターミナルへと変貌を遂げている。

 急激な変化は、その風景からも読み取ることができるだろう。山の手の「出口」であり、同時に郊外の「入口」でもあった新宿は、地理的には東京の「際(きわ)」に位置していた。こうした「際(きわ)」に特徴的な光景として、「ガスタンク」のある眺めを指摘しているのは『郊外の文学誌』の川本三郎だが、ぼくの幼い記憶の中の新宿にはたしかに巨大なガスタンクの姿がくっきり残っている。ちょうど、いまパークハイアットが建っている場所である。すぐ近くには、市内に水道水を供給するための淀橋浄水場もあった。そんな「際(きわ)」が、瞬く間に「山の手のギンザ」と呼ばれるまで急成長したのだ。そのためかどうか、新宿には、どこか砂漠に突如出現した幻影都市のような気分がある。

 

#イントロダクション

  山の手のギンザ新宿。ここも夜は灯りの海、人の渦です。夜店の列の後ろに円タクの洪水。武蔵野館では三層の観客席に人が埋まって、トオキイのラヴ・シーンにみんなで汗でもかいて居そう。

 

 夜店の列、円タクの洪水、そしてスクリーンにまぼろしを投影する巨大な映画館……ここから想起されるのは中東のバザールのような喧騒であり、庶民のエネルギーの爆発であり、とどまるところを知らない欲望の肥大化であり、また騙すか騙されるかの駆け引きの危うさである。

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織田一磨「武蔵野館」(『画集新宿風景』より)石版・昭和5(1930)年 3層の観客席の様子

 

#エピソードI

『どんなのがいい?』

『あ、た、し?』

 貴金属装身具商の飾窓(ウィンドウ)の前。

 男の短い口髭が彼女の耳元へかがみ寄ると、冷たいガラスに額をあてて居た少女は、凭(もた)れる様に彼に寄添って、ガラスの曇りと一緒に鼻がかった甘え声を漏らすんです。

『そッちの赤いのはどうだい。ルビイだろう?』

『少し赤過ぎるわね、あたしには。……』 

『じゃ向こうの紫色のは?……あれは何だ、アレキサンドリヤか?……二十三円。割と安いじゃないか。その桃色のは? いいじゃないか明るくッて。三十円。……どうだいあれは。厭やかい?』

『そう、……ね。』

 女の甘えた舌は上顎へねばりつくんです。

『あれ、いいわね。』

『欲しいか?』

『…………。』

 女は口元へ繊(ほそ)い指をやって、ガラスの曇りを拭き、一番効果的な媚態を意識しながら、男に肩を凭らせるんです。後ろは夜店をとりまいてうごめく甃石(ペエヴメント)の雑鬧(ざっとう)、夕刊売も鈴の音、自動車の警笛(サイレン)。

 ーー 小さな恋愛の取引はこんな明るいところでも行われるんで!

 男はブルジョアの青年らしい一寸隙のない瀟洒な春の粧い。女は、ーーどこか身なりも貧しく映えない子供ッぽい小娘。

 恋人?

 が、それにしては、ーー

『向こうのあの真珠のは?』

『あれ?……そう、ね。』

『そッちのは?』

『…………。』

『やッぱりその桃色か。』

 蛇の様な蒼白い華奢な男の手が、気軽に娘の肩にへ載って、しッとりとそこを抑えたまま妙にこまかく上から揺さぶると、女の息は小さく顫えて

声のない甘えた笑いが、彼女の鼻から漏れるんです。

『買ったげようか。』

『…………。』

『欲しい?』

 女の額がうなずく様に、ちょいと強くガラスに押しつけると、男は手のひらでトンと彼女の肩を叩いて、やがて朗らかな高笑いを漏らすんです。

『じゃ買ったげよう。……おいで。』

娘は男の後ろへ寄添って恥ずかしげに明るい扉口(ドア)へ。ーー

 数分後。

 彼等の姿は駅の明るい伽藍の一隅に。

『じゃ、奥さんとこへは向こうへ行ってから電話でそう断ッとくから。母さんに引留められたから今夜は泊まって、明日早く帰るッて。いいかい?お前が出てそう云うんだ。そう、公衆電話がいいな。、怪しまれないで。……俺はクラブへ行きア麻雀で徹夜なんぞは再々なんだから大丈夫。明日帰ってもお前と一緒だなンてわかりッこはない。……じゃ、お前そこで電話をかけといで。俺は切符を買っとくから。』

 娘は指の紅い宝石を弄(いじ)ってたのをよして、一寸不安な顔をして男を仰ぎ、もう一度促されると思い切った様に、そのまま外へ出て行くんです。

『五銭あるかい?』

『あるわ。……』

 男は出札口の前へ立って蟇口の金具を拡げ、五十銭銀貨を一枚つまみ出して

『大森を君二枚!』

 

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織田一磨「新宿ステイション」(『画集新宿風景』より)石版・昭和5(1930)年 東京は夜の10時

 

【モダン新宿風景】

 「光」が、このエピソードで随所にあらわれる「光」の質が、ぼくには気になる。

 「一寸隙のない瀟洒な春の粧い」のブルジョアらしい青年が、「どこか身なりも貧しく映えない子供っぽい」娘を口説いている。ルビイ、アレキサンドリヤ、真珠…… きらびやかな宝石を前に、女中とおぼしき娘はもはや陥落寸前といったところ。「貴金属装身具商の飾窓(ウィンドウ)」の前、ふたりの駆け引きはくりひろげられる。煌々と照らされたショーウィンドウは、通行人の気を引き、思わずその足を止めさせるくらいに明るかったはずだ。昼間のような、ベタっとした光。ピンスポットが、これか、あれか、といった具合に焦点を絞り見る者に決断することを促すのに対し、陳列するすべての商品を等しく照らすベタっとした光は、これも、あれも、といった具合に欲望をより掻き立て、見る者の判断を迷わせる。つまり、ベタっとした光の前では「選ばない」という選択肢じたいが存在しないのだ。ショーウィンドウの前のふたりには、ポーズはあっても迷いはない。ーー 小さな恋愛の取引はこんな明るいところでも行われるんです!

 取引は成立し、宝石店を後にしたふたりは連れ立って新宿駅へと向かう。「彼等の姿は駅の明るい伽藍の一隅に。」ーー またもや、ベタっとした光に支配された空間だ。夜の銀座が、コントラストによって彫琢されていたのとは対照的である。銀座では、モボやモガが銀幕から抜け出てきた役者のように颯爽とペエヴメントを闊歩し、ネオンサインの点滅、市電の架線から飛び散る閃光、疾走する自動車のヘッドライトが愉しげに彼らを飾り立ててくれたが、新宿では、アメリカ映画の洗練も洒脱も優雅も見いだすことはできない。そこでは、ブルジョワも女中も、宝石も夜店の造花も、貞操も快楽も、すべては等しく煌々とした光のなか剥き出しのまま並んでいる。この光、ひとりひとりから「顔」を奪い、顔をもたない「だれか」に変えてしまう新宿の光は、工場の平板な光とおなじ質のものだ。

 こうして「光」に注目するとき、まったく対照的な光景であるにもかかわらず、前のエピソードと次のエピソードとはやはりおなじ地平で読まれるのでなければならない。

 

#エピソードⅡ

 灯りに濛々と立籠めた煙の渦の中で、地方発送の新聞束を忙しくトラックへ積んで居た青年の一人が、油気のない長い髪を耳の後ろへ掻きながら、しみじみと仲間につぶやくんです。

『おい、憂鬱になるなア。……今夜一晩に東京じゅうで、幾人の娘が処女をなくすかッて考えると。……』

 しかし、コンクリートの窓の中では、高速度の輪転機が悪魔の様に呻って、めまぐるしい紙の瀑布へ世界の出来事が明日のセンセエションを予約して印刷され、冷酷なジャーナリズムはズタズタに人間社会を裁断して、その破片を鉛の活字に鋳込んでるんです。ここでは、一人の娘の貞操どころか人間そのものの命だって、莨の灰の重さほどにも価値づけられやしないんです。

 国際関係の異変、フランス大統領の喉の腫物、サヴェート・ロシヤに於ける東方政策の失敗、ロンドン軍縮会議の結果、支那の戦乱、政友会の策動、共産党の検挙、市会議員の大名旅行、富豪未亡人の失踪、小学生の轢死、鸚鵡(おうむ)病の新学説、ラジオのプログラム、月経帯の広告。

 活字躍りが描くこれら近代社会相の断片!

 新聞束を満載したマスク入りのトラックは、新聞社の発送部から西へ東へ北へ南へ、夜の巷々に砂塵を蹴立てて。ーー

 

【モダン工場風景】

 もうもうと煙が立ち込め、輪転機が高速で回転する印刷工場の「灯り」。それは、もはや昼なのか夜なのか、工員の時間感覚さえ麻痺させるようなベタっとした白い光だろう。合理性を最優先し、規格化された工業製品をひたすら生み出す「工場」という空間に、コントラストで夜の銀座を彫琢するようなきらびやかな光はいらない。工場の固く分厚いコンクリートに囲まれた内部では、世界の出来事が紙の瀑布となって輪転機から吐き出されてゆく。ふと漏らす「油気のない長い髪」をした工員のつぶやきも、そこでは、あっという間に煙の渦と轟音にかき消され押し流されてしまうだろう。平板な灯りの下、めまぐるしい勢いで「明日のセンセエション」を量産する新聞社の工場では、「一人の娘の貞操どころか人間そのものの命だッて莨(たばこ)の灰の重さほどにも価値づけられやしない」のである。

 のっぺりとした白い灯りは、すべてのものから陰影を奪い、平らにならしてしまう。そこに個人の感傷や感情が入り込む余地はない。ルビイや真珠、フランス大統領の喉の腫物や鸚鵡(おうむ)病の新学説、それに気になるあの娘の貞操も、あれもこれも、そこでは同じように陳列棚に並び取り引きされる。龍膽寺雄が、モボやモガのいる銀座の甃路(ペエヴメント)を離れ、ここでサラリーマンや労働者が主役を務める「新宿」と「工場」というトポスを選んでいることにぼくは興味をおぼえずにはいられない。

 これもまた、多面体からなるモダン都市東京の、まちがいなくひとつの断面だからである。

 

#インターバル

 浮気なジャズを跫音(あしおと)で消して、とめどなく床に輪を描く踊りの客の群れ。

 ダンスホオルはまさに夜の盛り時です。

 香水。

 腋臭(わきが)。

 莨(たばこ)の煙。

 罌粟(けし)の花の様な踊り衣粧。

 入れ黒子(ぼくろ)。 

 白粉(おしろい)の胸についたタキシード。

『このステップどうだい?』

『変なのね。家鴨(あひる)みたいだわ。……何ての?』

『おッしゃる通り! 漂浪家鴨(ワンダアリング・グウス)ッて奴さ。』

『厭アね。本当?』

『俺等(おいら)の発明さ。』

 

ダンスホールの匂い】

 香水。腋臭。タバコの煙。ダンスホールはまず、なにより「嗅覚」によってとらえられる。谷崎潤一郎の小説『痴人の愛』(大正14年)でも、「まだ見たこともなゐ海の彼方の国」や「世にも妙なる異国の花園」を想起させるダンスの「異文化」性は、もっぱら「香水と腋臭との交じつた、甘酸ッぱいやうなほのかな匂ひ」によって立ち現れる。たしかに、鹿鳴館のむかしに遡るまでもなく、ダンスに興じる男女の姿、華やかな衣裳、ワルツやタンゴをはじめとする種々の舞踏音楽といった視覚あるいは聴覚を介して得られる情報について知ることはけっして難しくはない。が、「匂い」ばかりはそうはいかない。それは、実際にダンスホールという「現場」に足を踏み入れ、バンドが奏でる音楽を全身で浴びながらおぼつかない足取りでステップを踏んでみてはじめて得ることのできる情報だからである。

 そして、「ケシのような艶やかな衣裳」を挟んで、入れ黒子、白粉の胸についたタキシード、とつづく。どちらも肉体どうしの接近、あるいは接触を想起させるモチーフといえる。「匂い」同様に生々しいイメージで、龍膽寺自身ダンスを楽しんでいたことがこんなところからもよく伝わってくる。じっさい、晩年のあるインタビューで彼はダンスに熱中した時期を次のように回想している。「私も高円寺の屋敷にホールを作りまして、ビクターの最高の蓄音機を据えまして、菊地梅子ってダンスの先生に出張教授してもらった」…… と、かなりの本格派である。

 ところで、龍膽寺雄の盟友にして新興芸術派きってのモダンボー吉行エイスケダンスホールを舞台にした昭和6(1931)年の短編から、ほんのさわりだけ引用してみる。

 

 「シャンデリヤにネオンサインが螺旋に巻きついた、水灯のような新衣裳のもとで、ローブモンタントをつけた女と華奢な男とが、スポットライトの色彩に、心と心を濡らして踊舞(ちょうぶ)するのだ。そして、ジャズの音が激しく、光芒のなかで、歔欷(すすりな)くように、或は、猥雑な顫律(せんりつ)を漾(ただよ)わせて、色欲のテープを、女郎ぐものように吐き出した。」(『東京ロマンティック恋愛記』)

 

 「ダンス・ホールの溶暗のなかで、僕たちは縫目のない肉体のように結びついた……。」(『同上』)

 

 おなじダンスホールの描写でも、むせかえるような色香を放つ吉行エイスケの表現と龍膽寺雄のそれとではずいぶん違う。龍膽寺雄の描くダンスホールは、気安い反面、どこか下世話で垢抜けない。ふたりの描く「差」はまた、銀座と新宿との差でもある。

 とはいえ、この『甃路(ペエヴメント)スナップ』が書かれた昭和5年当時、おそらく新宿には「ダンスホール」は存在していなかったはずだ。

 和田博文の『テクストのモダン都市』(風媒社)によると、東京にダンスホールが激増したのは昭和2(1927)年のこと。前年、大阪でダンスホールに対する厳しい取り締まりがあり、その結果大阪のダンスホールは壊滅状態となる。仕事にあぶれたダンサー、バンドマン、ダンスホールの経営者らが近隣の地域や東京に活路を求めて散らばったため、ダンス熱はかえって全国に飛び火する。昭和3(1928)年の末には、都下で営業するダンスホールおよび訓練所は、計33カ所にまで膨れあがっていた。その当時、新宿には「國華」(後に八丁堀に移転)があったが、おそらく規模のより小さいダンスホールはもっとあったろう。

 昭和3(1928)年11月、こうしたダンスホールの爆発的増加をうけ、東京でも厳格な「舞踏場取締規則」が約1年間の猶予期間つきで発布される。ダンスホールは許可営業となり、新宿にあった「國華」は営業を継続するため八丁堀へと転出する。ふたたび新宿にダンスホールが出現するのは、馬喰町の「パルナス」が「帝都座」(いまマルイ本館のあるところ)の開業にあわせて「帝都舞踏場」として再スタートを切る昭和6(1931)年5月まで俟たねばならない。つまり、昭和5(1930)年の新宿は、まるまるダンスホールの空白期間だったわけである。

 もちろん、龍膽寺はこのスケッチの舞台が新宿であるとはひとことも言っていない。とはいえ、おどける男に調子を合せるこの女のざっかけなさ、やりとりの単純さはいかにも新宿らしいとは言えないだろうか。おなじダンサーにもかかわらず、「もっとモダンに!」と男にハッパをかけていたあの前回登場した女とは大違いである。けれども、こういう新宿らしい情緒もまた悪いものではない。龍膽寺は、かつて新宿のどこか場末にあった小さなダンスホールの面影をここにそっと忍ばせた。そんなふうに思いたい。

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高円寺の自宅でダンスに興じる龍膽寺雄夫妻。昭和6(1931)年頃〜「太陽」1987年11月号(平凡社

 

【日常と地続きの都市】

 今回「下町」の銀座を離れたぼくらは、もうひとつの銀座、当時「山の手」の銀座といわれた新宿にやって来た。そしてぼくは、ふたつの「銀座」のあまりの落差に正直なところ当惑している。銀座の甃路(ペーヴメント)の華やぎは、ここ新宿には見あたらない。人の数は本家の銀座にも劣らないし、映画館もカフェーも百貨店も宝石店もたいしたにぎわいにもかかわらず、ウキウキするような「楽しさ」にどこか欠けている。それがどうしてなのか、ぼくはずっとアタマの隅っこで考えながら読んでいた。

 新宿は、すでに上で書いたように、西郊へのターミナルとして急成長した街である。それゆえ、新宿で遊ぶ人びとの多くは西郊に住んでいるサラリーマンだった。つまり、彼らは会社から自宅への帰路、〝途中下車〟して新宿に一時の楽しみを求めた。銀座が、わざわざ出かけてゆく街、〝目的地〟であったのとはずいぶんちがう。新宿は、言ってみれば、「利便性」という肥料を投入されることで異常なスピードで成長した独特の成り立ちをもつ都市といえる。「経由地」である新宿は、それゆえ、つねに「仕事」と「家庭」につながっている。新宿から見渡せば、一方の先に「職場」が、そしてもう一方の先に「家庭」がある。新宿は、その意味で日常と地続きの都市である。

 新宿のペーブメントを照らす光は、さながらスポットライトのように人をべつの「誰か」に変えてしまう銀座の光とは異なり、ただありのままの姿をそのままに照らす平板な白い光だ。そこにコントラストは生まれない。けれども、いや、だからこそ、新宿ではひとはただ「素顔」のままに振舞うことができる。そこにはどんな難しさも鬱陶しさもない。そういう〝コンビニエンス(お手軽さ)〟こそが昭和5年の新宿の魅力であり、それはきっと現代の都市のあり様を先取りしていた。