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「昭和8年」を起点に、ジャック・フィニイよろしくモダン都市を散策するブログ

龍膽寺雄『甃路(ペエヴメント)スナップ ー夜中から朝まで』を読む(第8回)

 時計の針は、そろそろ深夜0時を回ろうというところ。さて、数寄屋橋をあとにして、さっそく前回(第7回)読み残したパートへと歩みを進めよう。

 まずは「新興芸術派」に属する作家たちの〝友情出演〟による、たいそうにぎやかな幕間劇をどうぞ。

 

#インターバル

 裏ギンザのカフェ街。

 丸山警視総監の新取締令が徹底して、カフェ街の表戸は時刻と共にいかめしく閉ざされるんですが、スクリーンの隙には仄々(ほのぼの)と灯影(ほかげ)が覗き、御常連のおなじみ客をとりまいた女給さんたちの艶めいた私語(ささやき)が、忍びやかに表へ漏れるんです。

 試みに扉(ドア)の隙に耳を押付けて、中の気配を覗ってみたまえ。女給さんたちの忍び笑いがムズ痒く背筋を匐(は)い廻るから。

 が、ちょいとお待ちください。

 あの聴き覚えのある声は?

 冗談じゃない。モダン東京円舞曲のわが楽士の面々。吉行エイスケ、久野豊彦、それに楢崎勤君等の諸氏。 ーー

『やア。……』

 扉(ドア)を開けると、色電燈の仄暗い衝立の蔭に、頬紅の鮮やかな女給さんたちと膝組み交わして、卓子を囲んだモダン派作家の一群。いずれも名だたる街の猟奇者の面々です。

『さザ、どうぞ。……』

 秀麗なおもてに仄々と桃色の酔いをのせて、吉行君が長椅子(ディヴァン)へ席を招じるんです。

『厭にまたシンミリしてるじゃないか。お通夜かと思った。』

『いいえ。今ね、楢崎さんが逢引の実話をして下すってたとこです。ほら、いつぞやの例の信濃町駅でのを。……久野さんが悔しがりましてね。牛を馬に乗換えたッて。……』

『そんな話、吉行よそうじゃないか!』

 と、これは街の仙人久野豊彦君。

『それよか、僕がもっと面白い街の猟奇談をきかせてやるよ。小便臭い女の子との逢引話なんぞ、面白くも糞もないじゃないか。そんなことは楢崎や龍膽寺に委せて、それよりは僕の話を聴きたまえ。円タク・ガアル、ステッキ・ガアル、お好み次第だよ。と云って、何も僕の実験談てわけじゃないがね。』

 さア、大変な話になッちまったが、この居心地のいい長椅子は読者諸君にお譲りして私はともあれ、睡った深夜の街々をもうひと廻り。ーー

 

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にぎわう銀座の表通り 川上澄生「銀座」(『新東京百景』より)昭和4(1929)年 木版画

 

【エロは剣よりも強し!?】

 昭和4(1929)年警視総監に着任した丸山鶴吉は、カフェーの営業時間を午前0時までとする、著しく暗い客席は認めないといった項目を多数含む「<カフェー><バー>等取締規則要項」を発令、9月7日には保安部長より各警察署長あてに厳格に取り締まるようにとの通達を出した。初田亨『カフェーと喫茶店〜モダン都市のたまり場』(INAX出版)には、「最近驚クヘキ勢ヲ以テ増加シツツアル『カフェー』及『バー』ノ如キ……」と始まるこの要項の一部が引用されているが、そこに書かれたこの取り締まりの背景をざっくりまとめると以下のようになる。<最近ではカフェーやバーを訪れる多くの客の目的は、飲食よりむしろ女給からのエロな接客を受けることの方にある。そうなると、店側も客の気を引こうとより過剰なサービスを競うようになり、ますます風紀を乱すことにつながっている>。

 これについていえば、少なからず女給の給与システムも影響している。『銀座細見』の安藤更生によれば、カフェーの場合「月給制」ということはほとんどなく、女給の収入はほぼ「客の祝儀いわゆるチップによって成り立って」いたという。しかし、『甃路(ペエヴメント)スナップ』が書かれた昭和5(1929)年当時は、世界大恐慌のあおりを受けて女給が手にするチップの額もかなり冷え込んでいたため、少しでもチップの額を増やそうとついついサービス過剰になるといった傾向もあったようである。

 ところで、内務省に入省後、警視庁特高課長、保安課長、朝鮮総督府警察局長などを歴任、私娼撲滅運動など風紀取り締まりに辣腕をふるってきた丸山鶴吉が、濱口内閣で警視総監に就任したのが昭和4(1929)年である。昭和4年といえば、「帝都復興祭」の前年にあたることに注目したい。風紀取り締まりに実績のある丸山の警視総監への起用は、帝都東京の景観の一新とともに震災後の風紀の乱れもあわせて一新してしまおうという濱口内閣の意図があったのではないだろうか。

 とはいえ、ここに綴られたエピソードから察するに、深夜0時とともに閉ざされた表戸の内側ではなじみの客がこっそりお楽しみの最中だったりするのが現実の姿だった。全国共通、エロは剣よりも強いのだ。

 

【〝裏ギンザ〟とはどこか】

 〝裏銀座〟とは、いまとなってはあまり聞かれない呼び方である。〝ウラ〟と言うからには当然〝オモテ〟があってしかるべきなのだが、現在の銀座には、たしかに「銀座四丁目交差点」のような〝中心〟といえそうな場所は思い浮かんでも、どのあたりを指して〝オモテ〟と呼んだらいいのか、判然としない。だが、戦前の銀座にはたしかに〝オモテ〟があり、また当然〝ウラ〟があった。

 京橋、新橋、数寄屋橋といった銀座周辺の地名からもわかるとおり、かつての銀座は四方を堀割りに囲まれた細長い中洲のような土地であった。そしてなんといっても、銀座のメインストリートといえば京橋から銀座4丁目交差点を経て新橋へと至る現在の「銀座通り」であり、北(京橋側)から順に銀座一丁目、銀座二丁目、銀座三丁目、銀座四丁目、尾張町一丁目、尾張町二丁目、竹川町、出雲町、南金六町と続き、夜になれば銀座一丁目から竹川町までの東側(松屋三越松坂屋などがある側)には280あまりの露店が所狭しと建ち並んで道行くひとの目を楽しませた。

 ここに一枚の写真がある。これは、「晴海通り」の数寄屋橋から築地方面を臨んだ昭和4(1929)年10月に撮影された写真である(画像参照元土木学会附属土木図書館様)。

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 画面中央が外濠川にかかる数寄屋橋。左端に朝日新聞の社屋があり、その右には外堀通りに面して銀座教会の塔を見ることができる。その右手奥には巨大な松屋デパートがあり、さらにやや右には銀座4丁目交差点のあたり、建設中とおぼしき三越デパートの姿が見える。いまやランドマークともいえる服部時計店の建物はまだない。

 ここで注目したいのは、銀座通りに建つデパートの高層建築が手前の建物にほぼ遮られることなく見渡せていることである。寺田寅彦が〝アルプス〟になぞらえた⁂高層建築の稜線は銀座通りに沿って連なり、いかにも「表ギンザ」と呼ぶにふさわしい威容を誇っているのに対して、〝麓〟にあたる銀座通りの東側や西側を見やれば、そこには小さな店々がゴチャゴチャとひしめき合う「裏ギンザ」のたたずまいが広がっている。堀割りが埋め戻され、ビルディングが林立する現在の銀座からは、もはやこうした対照は見出しえない。いわば現在の銀座は、すべてが「オモテ」であり、また「ひなた」である。

 昭和2(1927)年に松崎天民が書いた『銀座』を拾い読みしていると、ところどころで〝裏銀座〟なる言葉と出くわす。たとえば、そのうちの一章「裏銀座夜色」には<オアシス>という店が登場する。<オアシス>は、大阪出身の姉妹が経営する「構へは小さくて狭いけれど、上品な瀟洒な喫茶店」であり、銀座通りの尾張町一丁目西側に建つカフェー<タイガー>の裏通りにあった。そして「表通りの銀座よりも、裏通りの銀座には、小さい狭い構への中に、特色のある家が多い」と松崎天民は言っている。

 つまり昭和5年の〝裏銀座〟とは、大店(おおだな)や老舗、有名店の並ぶオモテ通り(銀座通り)の外縁に存在する小さい店々がひしめいている一帯のことを漠然と指していると考えてよさそうである。そして、そうした「小さい狭い構への中に、特色のある」カフェーやバーは、裏手のすぐそばを三十間堀川が流れる銀座通りの東側よりは西側の方に多く密集していたため、とりわけ銀座通りの西側、外濠川あたりまでをしばしば〝裏銀座〟と呼んでいたと思われる。同時に、すこしそのエリアを外れていたとしても、「小さい狭い構への中に、特色のある」カフェーやバーがあれば「ウラ銀座の◯◯」といったふうに呼ばれることもあったかもしれない。

 

【キャスト紹介】

 龍膽寺雄ら、当時モダニズム文学と呼ばれるような作風をもった作家たちは、昭和5(1930)年4月「新興芸術派倶楽部」を結成する。龍膽寺雄の回想によれば、これは新潮社の編集者で、みずから作家でもあった中村武羅夫の呼びかけによって結成された「十三人倶楽部」を母体として、龍膽寺雄、久野豊彦ら有志が集まって新たにつくられた集団だった。とはいえ、龍膽寺雄の自伝的小説『人生遊戯派』(昭和書院)からのことばを借りれば、それは当時一大勢力を築いていた「プロレタリア文学に対して、戦線を張って闘おうとした非プロレタリア派あるいは反プロレタリア派の仲間の集まり」として誕生した。「新興芸術派」とは、その意味では、文学運動というよりも「マルクシズム文学に非ずんば文学に非ず」というプロレタリア文学派の「無暴(ママ)な」主張に抵抗するための野党共闘といった趣があった。「モダーニズム文学などという名は、私の作風に人がそう名付け、それがジャーナリズムに乗って多くの追随者が現れて、一つの流派が出来ただけのことで、この『陣営』などというものもない」というのが龍膽寺雄の主張である。ちなみに、「モダニズム文学」というのは東京日日新聞の学芸部長で評論家の千葉亀雄が名づけたもの。

 ではさっそく、ここで〝友情出演〟している「新興芸術派倶楽部」の仲間たちを『人生遊戯派』での龍膽寺雄のことばを借りつつ紹介してみよう。ただし、すでに80歳近い人間が50年も昔のことを振り返って書いているものゆえ、そこに誤解や記憶ちがいが混じっている可能性があることをあらかじめ指摘しておく。

 

吉行エイスケ・・・龍膽寺雄よりも5歳年下なので、この『甃路(ペエヴメント)スナップ』が書かれたときはまだ弱冠24歳ということになるが、すでに妻あぐりとのあいだに長男淳之介(作家の吉行淳之介)がいた。後にNHK連続テレビ小説のモデルとなったあぐりは、自身の美容室「山の手美容院」を昭和4(1929)年に開店している。「市ヶ谷見附を見おろす靖国通りのはしの三叉路の角に、吉行エイスケの妻君あぐりさんが美容院を経営しており、そこに村山知義が設計したという、青っぽいモルタル三階造りの、軍艦のような形をした、シャレた建物があって、塔のような三階の狭い一室が吉行エイスケの居間になっていた。ここが前から、新興芸術派も仲間のたまり場のようになっていて、よきことやよからぬことを相談しあったりしていた」。文壇では孤独だったと語る龍膽寺雄にとって、同じ「新興芸術派」の久野豊彦とこの吉行エイスケは数少ない気心の知れた友人だった。「水際立った美少年型」の彼は、どこへ行ってもモテていた。そのエイスケは34歳という若さで亡くなるが、「彼の息子の吉行淳之助(ママ)が、そっくり彼のあとを継いだ趣きのあるのも面白い」。

 

楢崎 勤・・・龍膽寺雄とは同い年。反プロレタリア=非プロレタリアの作家を招集した「十三人倶楽部」の仕掛け人中村武羅夫の下、新潮社で編集者として活躍するかたわら、モダニズム作家のひとりとして小説も発表した。「どこか女性的にヒネこびた、狷狭不介(けんきょうふかい)な性格」で周囲を手こずらせたと龍膽寺雄の人物評は手厳しいが、あけすけで気取らない性格の持ち主である龍膽寺雄とは真逆ゆえ、お互いにいまひとつ相性がよくなかったのではないか。新潮社の新興芸術派叢書のなかでは彼の『神聖なる裸婦』が龍膽寺作品のつぎに売れたというが、それにかんしても「題名がよかった」だけとつれない。龍膽寺雄によれば、楢崎はすでに当時老大家であった徳田秋声に私淑している「旧い文人気質を体臭に持つ人々」のひとりで、「社会思想的にはこれという主張を持っていない」といい、vsプロレタリア派という面でもあまり頼りにはされていなかったようだ。楢崎に対して晩年の龍膽寺が辛辣な態度をとる理由は、作家としての不遇時代に、新潮社の編集者として力のあった彼が手をさしのべてくれなかった恨みも、あるいはあるのではないだろうか。

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久野豊彦・・・龍膽寺雄楢崎勤よりも5歳、吉行エイスケよりは10歳年長である。「新興芸術派」の作家の中で龍膽寺雄ともっとも気が合い、頼りにされていたのは久野豊彦だったろう。モダニズム文学について「久野豊彦、浅原六朗、吉行エイスケ、中村正常、私などをのぞいて、はっきりそのメンバーに加えるべき者は、他にいない。楢崎勤にしても岡田三郎にしても船橋聖一にしても、いくらかモダーニズムがかった作風の作品を書いただけで、純然たるモダーニズムとはいい難い」。そう龍膽寺は述べる。いや、むしろ「モダーニズムや新興芸術派の文学運動は誰が起こして、その主流には誰がいたか、と改めて訊かれると、私や久野豊彦を除くと、誰もいなくなる」。

 龍膽寺と久野との出会いは、昭和3(1928)年7月の雑誌「新潮」にふたりの作品が掲載されたのがきっかけであった。龍膽寺雄は、久野の『シャッポで男を伏せる女』を読み衝撃を受ける。こんな作品を書くなんてよほどの天才にちがいない。じっさい久野豊彦は、小説家であると同時に反マルクスの立場をとる経済学者という異色のプロフィールの持ち主でもあった。作家としては、吉行エイスケとは文芸誌『葡萄園』の同人であり、また後に浅原六朗と「新社会派」という立場をとることになる。そういった事実からも、「新興芸術派」の兄貴分的な存在として慕われ、久野が彼らと龍膽寺雄との接点になっていたと捉えることもできるだろう。「どこかヌーボーとした面持ち」で「鼻っぱしばかり強い私の論理を、大人(たいじん)の風格をもって見おろし」、おだやかにあしらう久野に龍膽寺は全幅の信頼を寄せていた。

 ところで、プロレタリア派に対抗すべく「新興芸術派」を起こそうとかんがえた龍膽寺雄は、当時愛知県に暮らしていた久野豊彦を訪ねてゆく。昭和4(1929)年の大晦日のことである。久野は東京で起こしたある「恋愛事件」をきっかけに、夫人を伴って知多半島の大野町というところにある尼寺の庫裏に隠棲していたのだ。龍膽寺の説得が功を奏し、翌春東京でふたりは再会することになるのだが、この「幕間劇」ではそんな女好きの久野がからかわれていて思わずニヤリとしてしまう。そして、写真にみる久野豊彦はちょっとムーミンに似ている。

 

【ガアルの時代】

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 伊東深水が描くモダンガール 「浅春」昭和6(1931)年 木版画

 一時、テレビや雑誌で「◯◯女子」という表現をよくみかけた。「歴史女子(レキジョ)」やら「肉食系女子」、果ては割烹着姿で顕微鏡を覗く「理系女子(リケジョ)」まで乱れ咲きといった様相。なかには「都市伝説」のような存在もいてほぼカオス状態といった感じであったが、なんと戦前のモダン東京もまったく同じであった。

 昭和7(1932)年発行の社会ユーモア協会編『社会ユーモア・モダン語辞典』(鈴響社)で「ガアル」を引くと、自動車給油所でガソリンを売る「ガソリン・ガアル」、街上で広告マッチを渡している「マッチ・ガアル」、それにこのブログの第2回でもピックアップした流行を宣伝する尖端職業婦人「マネキン・ガアル」といった特定の仕事にたずさわっている女性に対する呼称のほか、カフェーや喫茶店で話し相手になってくれるという「スピーキング・ガアル」や歌舞伎役者のような物凄い化粧をした「歌舞伎ガアル」といったなにやらあやしげなものまで登場する。深夜のカフェーでモダニズム作家らの話題にのぼるのも、そんなちょっといかがわしい「ガアル」たちである。

 まず<円タク・ガアル>だが、これは円タクの助手として同乗し客引きをする女性である。なかには路上で客引きし、あたかも同乗するようなふりをしておいて実際には乗らず、運転手から手数料を受け取るなり立ち去ってしまうそんな<円タク・ガアル>も存在したらしい。

 一方、<ステッキ・ガアル>とは何者か。<ステッキ・ガアル>とは、一定の報酬でもって「杖」の如く寄り添って銀ブラにつきあってくれる女性をいい、『日本歓楽郷案内』(竹酔社 昭和6年)の著者酒井潔によれば、その言い出しっぺは「文壇の不良新居格(にい・いたる)氏」だという。それが、昭和4(1929)年の春、雑誌「新青年」のゴシップ氏(=ゴシップ欄の担当者)によって取り上げられたのをきっかけに広まる。

 とはいえ、この<ステッキ・ガアル>にかんして言えば、その実在はかなり疑わしい。たとえば、安藤更生は「安文士どものリテラリイイメエジさ。第一そんなものが商売として成り立つわけがない」とバッサリ斬り捨てる。ところが、面白がって新聞や雑誌が飛びついたものだから、ついには「事実ゐるかどうか分かりもしないのに、警察では厳重な取締りを始め」る騒ぎにまで発展する。酒井潔いわく「蓋(けだ)し、ナンセンスの逸品」。

 思いがけない拡散にあわてたのは、言い出しっぺとされた新居格である。事の成り行きを説明した「ステッキガール抗弁」なる文章を書いている。それによると、カフェーの片隅で気の置けない仲間相手に軽口を言ったのが、思いがけず広まってしまったのだという。ーーー「君、この間、君が一緒に歩いてゐた人は誰だね」「あれかね、あれは云はばステツキさ」。たしかに、そもそもの〝発端〟は自分にある。そう潔く認めた上で彼は続ける。「わたしが幾年か前つい口に出した自分は単なる比喩でしかあり得なかつた。そして一寸した対話の上での使用で、きはめて私事的のものであつた。ところが数年後の今日ガールといふ名詞を後に附けて新聞雑誌の上で活字となつて現はれると、事実のあるなしは第二段として、社会的客観性を具有するに至つたのである。」だからといって、<ステッキ・ガアル>が実在するかといえば「存在してはゐないのであらうし、また存在すべき理由がない」と新居は断言する。ただ、時代が変わり風俗が変わるなかで、仮にそれが「ありえても少なくとも突飛ではあり得ぬと云ふ程度にあつた」。なるほど、<マネキン・ガアル>とは、時代の空気が育てたキャラクターということなのかもしれない。

 幕間劇での作家たちのおしゃべりに注意深く耳をかたむけてみよう。<実話><街の猟奇談>といったフレーズがきこえてはこないだろうか。真実よりも、ありえそうなこと、あったらおもしろいことをこそ彼らはより積極的に語るのだ。そこに、いってみれば〝モダニズムの気分〟のようなものがある。「何も僕の実験談てわけじゃないがね」ーー彼らがまことしやかにステッキ・ガアルについて語るとき、やはりこの言い訳がカッコの中にしまわれていることはぼくらも承知しておこう。それが〝モダン東京の歩き方〟でもある。

 

さて、思いがけずこのパートがずいぶんと長くなってしまった。最後のパート(アウトロダクション)は次回のお楽しみに。