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「昭和8年」を起点に、ジャック・フィニイよろしくモダン都市を散策するブログ

龍膽寺雄『甃路(ペエヴメント)スナップ ー夜中から朝まで』を読む 第9回

 丸の内から、ふたたび丸の内へ。未来的な中央電信局の建物から歩きはじめたぼくらは、数寄屋橋、裏銀座のカフェー街に寄り道し、ひっそり寝静まったかのようにみえる深夜の丸の内へと帰還する。

 

#アウトロダクション

 丸の内のビジネス・センタアは朧月夜を戴いて、まさにアラビヤンナイトの化石の街。アスファルトの路面を忍びやかに流れ去る乏しい深夜の自動車、夜空を高く限った宏壮なビルディング街は、窓に灯り一つなく暗く沈黙して、あるかなしの夜の微風に、昼の跫音(あしおと)の亡霊でも漾(ただよ)って居そうです。

 東京駅を貫いた高架線の軌道には、時折忍びやかに夜の貨物列車が。

 どうやら大東京の心臓は、今や深夜の熟睡に落込んだ様です。

 

【事実小説『丸ビルの女達』】

 いかにもありそうなことを本当にあったかのように話したり、本当にあったことをよりいっそうデフォルメして話してみたり、モダニズムの東京ではそうした<街の猟奇談>や<実話>、いまで言うところの一種の<都市伝説>がことさら好まれた。

 このあいだ国立国会図書館のデジタルライブラリーを漁っていたときのこと、『丸ビルの女達』というタイトルの小説をみつけた。作者をみると加東まさ子となっている。聞きなれない名前だがそれもそのはず、これは昭和9(1934)年の雑誌「週刊朝日」新年特別号に掲載された懸賞小説4本のうちの1本なのである。興味深いのは、これが<事実小説>として公募されていることだ。<事実小説>というのもいまとなってはあまり耳にしないが、実際にあった出来事を脚色した小説作品という点で<街の猟奇談>や<実話>同様、この時代の人びとの嗜好を反映した読み物と言っていいだろう。

 さらにもうひとつ興味をそそられるのは、この『丸ビルの女達』にはそれが書かれた当時、つまり昭和9年前後の人びとの「丸ビル」に対する漠然とした<負の感情>が反映されている点にある。

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 丸ビルこと丸の内ビルディングの竣工は大正12(1923)年2月のこと。鉄骨鉄筋コンクリート造地上8階地下1階からなるアメリカ式オフィスビルの威容は、丸の内の「ビジネス・センタア」に新風を吹き込んだ。それまでの丸の内といえば、ジョサイア・コンドル設計の三菱第1号館や第2号館(明治生命館)、そして辰野金吾設計の東京駅にみられるクラシックな赤レンガ建築の印象が強く、そこから〝一丁倫敦〟などと呼ばれたりもしていたが、丸ビルやそれに先立つ大正7(1918)年に竣工した「東京海上ビルディング」の登場により、突如丸の内に〝一丁紐育〟が出現したのだった。

 安藤更生はモダニズムとアメリカニズムとのあいだの親和性について指摘しているが、当然、丸ビルもモダン東京のランドマークとして明るく快活で華やいだあこがれの空間というイメージを当時の人びとにもたらした。竣工当時の様子について、丸ビルを建てた三菱グループのWEB上で公開されている「岩崎小彌太物語」から抜き出してみよう。「(丸ビルには)予想を超え、多くのテナントが集まった。会社事務所のほか、弁護士、会計士、建築家などの専門職業、医院、雑誌社や学会事務所なども店子になった。丸ビルには文化的でリベラルな雰囲気が生まれた」(三菱人物伝「岩崎小彌太物語」vol.11丸ビルの建設)。

 さらに丸ビルが画期的だったのは、日本で初めてオフィスビル内にショッピングモールを併設し、誰でも利用できるようにしたことである。「レストラン、喫茶室などのほか、美容院も開店した。日本橋からは文具紙店をはじめとする老舗も移ってきた」(同上)。ひとことで言えば、まるごとビルがひとつの「都市」のようなものだった。

 いっぽうで、その〝アメリカ式〟に得体の知れない恐怖や敵対心を抱くものもあらわれる。その代表に、画業のかたわら風刺のきいた文章を数多く残した水島爾保布がいる。「いくらパリの凱旋門が馬鹿見たいだって、東京の丸ビルのトンネルの穴よかまだ幾らかましだらう。ー中略ー 苟しくも都會人として都會人らしい神經をもち、都會人らしい感覺をもつてゐる限りは、とても恥と侮辱を感じずにあん中へ吸ひ込まれ、叉あすこから吐き出されやうなんて事は思ひも至らない筈だのに、不思議なことには素晴らしい繁盛ださうだ。誠にアメリカニズム萬歳である。結構なお正月である」(「丸ビル罵倒」〜『新東京繁盛記』日本評論社 大正13(1924)年)。震災以前の銀座が「フランス文化、すなわち欧羅巴(ヨーロッパ)の文化の光被(こうひ)の下にあった」(安藤更生『銀座細見』)のと同じく、明治末から大正の初めに青春時代をそういった空気にどっぷり浸かって過ごした水島には丸ビルとそこにあつまってくる人びとが発散する「アメリカ」の匂いが耐えられなかったのだろう。もちろん、ノスタルジアはかならずしも古いタイプの文化人の専売特許というわけではない。詩人のサトウハチローも「僕は、あの赤いレンガが好きだ。丸之内にある、どんな大きなビルヂングより、東京駅になつかしみを感じているのは、あの建物の色だ。東京駅と同じに、仲六号館、東九号館、仲八号館などというあの建物も好きだ。昼間など、妙にひッそりとして、のぞくと、オレンヂ色の灯りが、呼吸(いき)づいているところなど、何ともいえなくいい」(『僕の東京地図』ネット武蔵野)と書いている。仲6号館、東9号館、仲8号館はいずれも明治に建てられた建物。ちなみにこの本が世に出たのは昭和11(1936)年、サトウハチローは明治36(1903)年の生まれだ。

 こうした、ノスタルジアとはべつに、人間の群れを吸い込み、また吐き出す巨大な建物そのものに言いようのない不気味さを感じるものもいた。たとえば、『丸ビルの女達』で主人公の女は次のように言う。

 「朝の九時。東京驛からはき出されて、丸ビルまでの長い通路を、ぞろぞろぞろぞろと、心太(ところてん)のやうにつながって行くサラリーマン達の顔。男、女、ありや鎖につながれてゐないといふだけのことで、まるで囚人さ、さう思つてぢつと見てゐて御覧よ。どれもこれも六十圓を出るか出ないかの背廣が、お揃ひの囚人服のやうに、似たりよつたりぢやないか。」

 最新式のオフィスビルが、ここでは「牢獄」にたとえられている。にもかかわらず、丸ビルではたらくサラリーマンやオフィスガールたちときたら、「まるで丸ビルに住まふことが、一つの特権でゝもあるかのやうに、澄ましてゐる」。都市の急激なモダン化は、それを肯定的に受け入れる者と反撥する者とに二分する。その意味で、『丸ビルの女達』の舞台としての「丸ビル」を急激にモダン化した都市のいわば<メタファー>として捉えることもできそうである。

 じっさい、巨大なオフィスビルでありながらショッピングモールを有する丸ビルには、そこではたらく人びと以外にも買い物客や観光客などが終日ごった返し、にぎわう空間であった。日常的に不特定多数の人びとが交錯するそこでは、仮にビル内ではたらく者同士であったとしても名前はおろか、たがいの仕事も顔も知らないということがふつうに起こりうる。そしてこういった<匿名性>こそ、都市の最大の特徴である。

 これまでに何度か、モダニズムの特徴のひとつとして<垂直のまなざし>を挙げてきた。ビルの高層化、高架鉄道に地下鉄道、屋上のネオンサインや電光ニュースなど、都市や横へ横へとふくらんでゆくと同時に、上に下にと伸びてゆく。モダン東京に生きるものは、本能的にそれを理解し、カメラを切り替えるようにリズミカルに目玉を運動させている必要がある。それができず、ただ一方向的にしか都市をみることができないものは、いままさに起こっているたくさんの出来事をみすみす見逃がさざるをえない。

 それを物語るような出来事が、『丸ビルの女達』のなかで起こる 。丸ビルの2階にある婦人洋服店でお針子をしているある女は、8階の事務所ではたらく男と恋に落ち、結婚の約束をし、その子供まで身ごもるのだが、ある日男は海外出張に行くと言って出かけたきり音信不通となる。ひたすら帰りを待ちながら3年を過ぎたある日、頼まれた品物を届けに8階に行ったところ、なんとその男がなにくわぬ顔ではたらいていたばかりか、とっくにべつの女と結婚していたというのである。ふたりの出勤時間がちがう上、女は洋品店の裏にこもって1日じゅう針仕事をしていてめったなことでは店の外にも出ないので、同じビルの上と下にいながらふたりが顔を合わすことはなかったのだという。さまざまな生活が何層にも折り重ねられたミルフィーユのような構造をもった丸ビルでは、たいがいのひとの生活はそのなかのひとつの層だけで完結しているので、うっかりすると上や下にべつの生活があることをつい忘れてしまいがちだ。それが思いがけない悲劇を招く。

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 丸ビル1階のショッピングモール 画像参照元戦前~戦後のレトロ写真 (@oldpicture1900) | Twitter 

 

【ハート団事件とその余波】

  加東まさ子『丸ビルの女達』は、週刊朝日が公募した<事実小説>の当選作である。「丸ビルの女」といっても、ここには最新流行を身にまとったビジネスガールはひとりも登場しない。主人公はビル内に事務所をかまえるマネキン派遣会社の「不良」マネキンガールだし、ほかにも洋品店のお針子やら靴磨きやら生活に疲れた貧しい女たちばかり。そこでは「恋愛があるとしたところで、そこらの金持の奥さんや、お嬢さんのするやうな、色事とは譯の違つた、血のみじむやうな、悲しい辛い奴ばかりな貧乏な娘達は、皆が損なはれて、皆がふみつけにされて、あせた花のやうにあの中でしほれて行く」のだという。そこにあるのは、良質なテナントに恵まれた「文化的でリベラルな雰囲気」を誇る丸ビルのイメージとは真逆の世界だ。「一體(いったい)、丸ビルといふのは、いはゞ不思議な怪物さ。いろんな善行や、いろんな悪徳や、そんなものが、皆なこつそり、あの窓の中にかくれてゐるんだよ。」

 一見、明るく快活で華やかな丸ビルだが、それと同時に、暗く澱んだ裏の顔をもつ。それは、丸ビルがたんなるオフィスビルである以上に、ひとつの<都市>であることを意味している。さまざまな不特定多数の人びとが交錯するそこでは、都市におけるブルジョワとプロレタリアとの対立が、ごく自然にビルのなかでも生まれる。そしてまた、都市におけるのと同じような犯罪もビルのなかで発生する。

 大正13(1924)年12月、丸ビル内のタイピスト養成所ではたらく林きみ子が警察により拘引される。この事件をくわしく紹介した平山亜佐子『明治大正昭和 不良少女伝 莫連(ばくれん)女と少女ギャング団』(河出書房新社)によれば、林きみ子は養成所にきた娘やビル内ではたらく女店員らに言葉巧みに接近し「ハート団」なる闇の組織をつくり、ビル内の喫茶室の女将らを連絡係にし売春をあっせんしていたのだった。林は丸ビルきっての美人として知られ、しばしば新聞や雑誌にも取材されるほどだったが、そのいっぽうで「ハート団」を牛耳る通称「ジャンダークのおきみ」という裏の顔を持っていた。

 この「ハート団事件」を知った世間の人びとはどう思ったろう、とぼくはかんがえる。おそらく「さもありなん」と感じたのではないか。この事件は、日々たくさんの人間を吸い込み、吐き出ししている巨大なビルディングのもつ<得体の知れなさ>というイメージとかならずしもかけ離れたものではないからだ。いや、むしろ丸ビルの「光」と「闇」とを象徴するような事件として、一般の人びとが漠然と抱いてきた<負の感情>をより補強することになったのではないか。そして、そうしたイメージに乗っかるかたちでおそらく加東まさ子は『丸ビルの女達』という<事実小説>を書いたのである。また、表の顔はタイピスト、しかし裏の顔はギャングの情婦という女を田中絹代が演じた小津安二郎監督の『非常線の女』(昭和8(1933)年)などもそのバックグラウンドはおなじとみてよいだろう。

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ピストルも撃てるタイピスト 小津安二郎非常線の女』(昭和8(1933)年)より

 

【ビジネス・センタアの夜】

 ビジネス街は、夜になるとまるで死んだように静まり返ってしまう。これは昔も今も変わらない。龍膽寺雄は、深夜の丸の内を「アラビヤンナイトの化石の街」と呼ぶ。丸の内は、ふつうの街のように朝と夜とが交互に訪れるのではなく、朝に生まれ、夜に死ぬのだ。再生と死を繰り返す特異な場所。夜の丸の内はいわば<死の街>であって、そのぶん幻想的な想像力を刺激する空間に様変わりする。

 たとえば、深夜の丸の内に刺激された作家に海野十三がいる。彼の探偵小説『深夜の市長』については以前このブログでもとりあげたことがあるので詳しくは紹介しないが、主人公が「湖水の底に沈んだ廃都のような暗黒のビル街」を縫って「丸の内第十三号館」にたどりついてみると、なんとその中庭に巨大な電気仕掛けの円筒形の構造物がそびえ立っており、なかではマッドサイエンティストが高性能の覗き眼鏡を操って深夜の東京市を観察しているのだった。

 

 夢か現か…… 「どうやら大東京の心臓は、今や深夜の熟睡に落込んだ様です」。