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「昭和8年」を起点に、ジャック・フィニイよろしくモダン都市を散策するブログ

龍膽寺雄『甃路(ペエヴメント)スナップ ー夜中から朝まで』を読む(第10回)

 ここで読んでいる『甃路(ペエヴメント)スナップ』は、モダンな相貌に変身を遂げつつあった昭和5(1930)年当時の東京にさまざまな角度から光をあて、路上(ペエヴメント)に立ち現れる光景を切り取ってみせたポートレイト集である。「夜中から朝まで」というサブタイトルからも分かるように、モチーフとなっているのは<夜の東京>。ここまで、銀座、新宿、丸の内など夜の都市を徘徊してきたぼくらは、ようやく、いや遂にと言うべきか、「浅草」にたどりつく。

 おそらく、この作品が書かれた当時、龍膽寺雄がもっとも親しみを抱いていた東京の街は「浅草」である。たとえば、デビュー作『放浪時代』で主人公と友人兄妹が同居する家も場所は浅草の駒形だったりする。ショーウィンドウの装飾を仕事とする彼は、銀座ではたらき、夜になると市電にのって浅草の寝ぐらへと帰ってゆくのだ。

 昭和5(1930)年当時の暮らしぶりを龍膽寺雄はこう回想する。「私はほとんど毎晩ぐらいに、夕方前にはこの円タクを拾って、新宿へ出てお茶を飲み、それから、銀座へ回って夕食をとったあと、銀座から上野か浅草まで、また車を走らせて、食後のお茶を飲んで帰る習慣だった」。これでは、当時暮らしていた目白のすまいから離れるいっぽうではないか。だが、それほどまでに、夜更け過ぎの浅草には彼の心をとらえてはなさないなにかがあったのだ。

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諏訪兼紀「浅草六区」木版 昭和5(1930)年

  

#エピソード

 浅草!

 六区の映画街も路次々々の飲食店も、しらけた街頭の中に陰森(いんしん)と睡(ねむ)って、樹蔭(こかげ)の仄暗い公園には、ボロ屑の様な浮浪人の群れが、ベンチからベンチへと園内巡視の警官に追われて居ます。

 怪しい夜の咆哮は花屋敷の猛獣。

 白粉の醜怪な姥桜のストリート・ガアルも、いつか影をひそめて、おい! びっくりさせアがるぜ。

 ボシャン!

 池に躍る鯉の水音。

 朦朧車夫が乏しい行人の袖にすがって、

『檀那! 若し。』 

 と、怪しげに声をひそめるんです。

「いかがです、面白いところ。…… お好みなのがありますよ、檀那。…… 素人はどうです、素人は?…… え? 一つご案内致しましょう。』

 カジノフォーリーの踊り子たちが、裸の脚で捲上げた舞台の埃も、今頃は緞帳の蔭に冷たく鎮って、階下の水族館では眼ッかちの大鯛が、冷たいグラスへ鼻づらをくッつけたまま、朧月夜の大海原でも夢見て居るでしょう。ーー

 

【虚無の都】

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夜の浅草公園。凌雲閣(「十二階」)があるので大正12(1923)年以前の様子。

 

 浅草!ーー いきなり冒頭から感嘆符つきである。それにしたって、そもそもなぜこれほどまでに<深夜>なのか。たとえば、夜は夜でも映画館や芝居小屋がにぎわう宵の口の浅草ではダメだったのだろうか。

 「とりわけ、浅草が面白いのは、夜の十時すぎからで、浅草は多くの人がよく知っている昼間や宵の浅草のほかに、それとはまったく雰囲気のちがう、そして人の知らない夜の浅草というのがあって、その奇怪な魅力に惹かれて、私たちは夜更けの浅草に通ったものだった」(『人生遊戯派』)。龍膽寺雄のことばである。ここにあるのは昼の顔と夜の顔、光と闇との圧倒的なコントラストだ。ちなみに、ここで「私たち」というのは龍膽寺雄川端康成のふたりのことを指している。龍膽寺雄は、その当時上野桜木に暮らしていた川端康成と連れ立って頻繁に〝浅草通い〟をしていた。彼に言わせれば、川端を深夜の、アンダーグラウンドの浅草へと手引きしたのは自分だということになる。川端が東京朝日新聞に『浅草紅団』を連載していた昭和4年から5年当時、龍膽寺雄と川端とはまだ親しくつきあっていた。

 深夜の浅草がべつの、もうひとつの顔をもつということについては、たとえば江戸川乱歩もまた次のように書いている。「興行物のはねるのが大抵十時、それから十二時頃までは、まだ宵の口である。ゾロゾロと人通りが絶えない。やがて活動小屋の電飾が光を減じ、池の鯉のはねる音がハッキリ聞こえる頃になると、馬道から吉原通いの人足もまばらになる。馬道辺では朦朧車夫が跳梁し出す。そして、公園のベンチに取り残されるのは、ほんとうの宿なし、一夜をそこで明かそうという連中ばかりである」(「浅草趣味」大正15(1926)年)。まるで舞台が暗転しべつの情景が出現するように、日付が変わるころ、浅草は昼間とはまた異なる人種の跋扈する世界に様変わりするのだ。浅草が、おなじ盛り場でも銀座とも新宿ともあきらかにちがっていることの理由は、こうした人びとが蠢めく世界が映画や芝居やレビューでにぎわう街の足下に、たえず通奏低音として流れている点にある。その危うさは、浅草になんだかわけのわからない底知れないめまいにも似た感覚をもたらし、それゆえ多くの作家たちを魅了しつづけてきた。

 このなんだかわけのわからない底知れないめまいにも似た感覚を、ほかならぬ浅草ならではの魅力として懐かしんでいるのは、昭和8(1933)年に出版された『浅草経済学』(文人社)の著者石角春之助である。「昔の浅草には」と石角は言う。ここで「昔の」というのは復興する前のということだから、昭和6(1931)年以前の、という意味でよいと思うが、「底知れない深さがあつた。又ひどく奥深くも感じられた。」と述べ、さらにプチブルの連中が嫌うような「全く醜いルンペンの存在」は同時に「浅草の奥深さを物語るものあつて、時には好奇心をそゝる武器ともなるのだ。」とさえ言う。なぜといえば、浅草には表と裏とがあり、底知れない深さと不可解さとをもった「裏」こそが、なにより「浅草の持つ大切な成分でもある」からである。

 そしていうまでもなく、それは川端康成に『浅草紅団』をはじめとするいくつかの作品を書かせた<浅草>でもある。「一口にいえば、浅草公園は恵まれぬ大衆がここに棄てる、生活の重みと苦しみとがもうもうと渦巻いて、虚無の静けさに淀み、だから、どんな賑やかな騒ぎも寂しく聞こえ、どんな喜びも悲しげに見え、どんな新しさも古ぼけて現れるのだ」(『浅草祭』)。にぎやかな騒ぎや喜び、新しさといった浅草をすっぽりコーティングした<甘さ>の中に<苦さ>を発見し、その正体を<虚無>と言い切る川端の洞察眼には舌をまくほかない。虚無の盛り場、虚無の都、それこそが昭和5(1930)年の<浅草>の本質である。

 

【水族館の踊り子】

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桑原甲子雄浅草公園水族館」(昭和10(1935)年)

 

 「浅草には、あらゆる物が生のまゝ投(ほう)り出されてゐる。人間の色々な欲望が、裸のまゝで躍つてゐる」と添田唖蝉坊はその著書『浅草底流記』(倉持書館 昭和6(1931)年)の中で言う。関東大震災以降すっかり廃れてしまった浅草オペラに代わって登場したのは、ヴォードヴィル、ヴァラエティ、そしてレビューといった興行であった。こうした出し物は、当時の浅草を反映したごった煮のような内容で人気を博した。「『なんでもかんでも』が、『ボオドビル』だ。「ヴァラエティ』だ。『レビュウ』だ」(川端康成『浅草紅団』)。

 なかでもとりわけ人気があったのは「水族館のカジノフォーリー」である。「東京にただ一つ舶来「モダアン」のレヴュウ専門に旗挙げしたカジノ・フォウリイは、地下鉄食堂の尖塔と共に、一九三〇年型の浅草かもしれない。エロチシズムと、ナンセンスと、スピイドと、時事漫画風なユウモアと、ジャズ・ソングと、女の足とーー」(同上)。

 「カジノフォーリー」がオープンしたのは、昭和4(1929)年7月のこと。堀切直人の『浅草』(栞文庫)によれば、明治32(1899)年に開業したもののすっかり廃れてしまっていた「水族館」の経営者桜井源一郎が、義弟でパリ帰りの画家内海正性(うつみまさなり)に相談を持ちかけたところ、パリで目にしたレビューやヴォードヴィルの話をして聞かせ、この話に桜井が飛びついた結果生まれたのが「カジノフォーリー」だという。名前は、パリの「カジノ・ド・パリ」と「フォリー・ベルジェール」を組み合わせた。そして、観客は水族館の入場料30銭を払えばだれでも観ることができた。

 「黒鯛」の泳ぐ水槽の上の劇場。色あせたほこりっぽい小屋。硬いボロ椅子。ブカブカに破れた敷物。ガタガタな楽隊。その滑り出しこそかならずしも順風満帆とは行かなかったものの、やがて「カジノフォーリー」は大入り満員になる。なぜヒットしたのか、その理由についてはいろいろあるだろうけれど、まずなによりもその<スピード感>が当時の観客にはモダンで新鮮に映ったという点がありそうだ。ふたたび添田唖蝉坊の『浅草底流記』から引用する。「新青年の六號活字のやうな、ナンセンスの連續。ダンス。(中略)踊り子の黄色い素足」。これは先に引用した川端康成が言うところの<一九三〇年型の浅草>という表現とこだまする。添田は続ける。「今は、観念の集中時代ではない、放散時代だ。これに適合するから、カジノは萬歳なのだ」。踊り子も役者も音楽隊も台本作家も、「カジノフォーリー」ではすべてが若々しく荒削りで、ブレーキの効かないクルマでひたすらアクセルをふかすようなスリルとスピードがあり、内容らしい内容はないが、だが、生きている。そこに人びとは「浅草らしさ」を見出し歓呼の声をあげた。「浅草に、斯うしたシヨウがあつて呉れるのは、嬉しいことだ」。これは添田の本心であると同時に、「カジノフォーリー」に通うすべての観客に共通の思いだったろう。

 梅園龍子や花島喜代子、エノケンこと榎本健一といったスターを輩出しながらも、メンバーの脱退や二匹目のドジョウを狙ったレビューの氾濫といった要因が重なり「カジノフォーリー」の人気は次第に薄れてゆく。次代を担うスターを育てるような教育システムを持ち得なかったこと、公演回数が多くマンネリ化を避けられなかったことも原因といえそうだ。「浅草のあらゆる物の現はれは、粗野であるかも知れない。洗練を欠いてもゐやう。然し大膽(だいたん)に大衆の歩みを歩み、生々躍動する」。添田唖蝉坊は煽る。「浅草を瑠璃宮にしやうといふ清潔家よ、引っ込め」。浅草とは「あらゆる階級、人種をゴツタ混ぜにした大きを流れ。その流れの底にある一種の不思議なリズム。本能の流動だ。音と光り。もつれ合ひ、渦巻く、一大交響楽。ーー そこには乱調の美がある」。浅草そのものともいえる「カジノフォーリー」のレビューをみる男や女は、そのなかに「明日も生きやうといふ希望を拾ひ出して」いたのである。

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在りし日のカジノフォーリーの舞台

 

【普請中】 

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昭和4(1929)年に竣工した「地下鉄の塔」こと浅草雷門ビル。設計は、東京地下鉄道会社工務課。代表的な復興建築をあつめた都市美協会『建築の東京』昭和10(1935)年にも収録されている。

 

 おなじ東京でも城北エリアの西の隅っこで育ったぼくにとって、銀座や池袋、新宿や渋谷とちがい、浅草はあまり縁のない土地だった。それが、ちょうど『ぴあMAP』などの登場もあって〝街あるき〟への興味からときおり浅草に足を向けるようになったのは大学に入ってから、80年代の半ばを過ぎてからのことである。その当時の浅草の印象は、ひとことで言えば<ダメな街>だった。

 バブル経済の恩恵は、おもに渋谷や青山、表参道、六本木エリア、それに「ウォーターフロント」と呼ばれた湾岸エリアの再開発に注がれ、古くからの盛り場である浅草などは完全に置いてけぼりを食ったかたちであった。隅田川の対岸吾妻橋に〝例の〟フィリップ・スタルクの金色のオブジェで有名になった本社ビルを竣工したアサヒビールはべつとして、古くからのちいさな家が密集し商店街の結束も固い浅草では再開発のための〝地上げ〟もうまくゆかなかったのだろう。平日の昼下がりに六区あたりをぶらぶら歩いていても人影は少なく、酔っ払って奇声をあげながらヨロヨロ歩く男の姿ばかりが目立った。当時は入場無料だった遊園地「花やしき」も、無料にもかかわらず閑散としてわびしいありさま、商店街のはずれでは店頭に山のように〝刺青ヌード〟カレンダーを掲げた店がひまそうにたたずんでいた。ああ、ここは東京の異次元、エアポケットなのだなァと行くたび微妙な気分に見舞われたのを思い出す。だが、たしかにあの当時の浅草には、ほかの東京の盛り場とはあきらかに違う空気が、なぜかしばらくするとまた足を運んでしまう奇妙な<引力>があった。

 そして、龍膽寺雄が、川端康成が、足繁く通った昭和5(1930)年の浅草はどうだったのだろうとかんがえてみたとき、じつは意外にも1980年代の浅草と似ていたのではないか、と思い至った。

 昭和5(1930)年の浅草はといえば…… かつてのランドマークであった「凌雲閣」、通称「十二階」は関東大震災で崩落し、現在のランドマークともいえる「雷門」の巨大な提灯もまだない。隅田川に目を転じてみる。復興橋梁である「駒形橋」(昭和2年)、「言問橋」(昭和3年)はすでにあったが「吾妻橋」はまだなく、「一銭蒸気」と呼ばれる渡し舟がしきりに往来していた。この時点ではまだ東武鉄道は浅草まで来ておらず、松屋デパートもなかった。厳密に言えば、「吾妻橋」も東武鉄道の鉄橋や駅舎、松屋デパートも昭和6(1931)年の完成にむけ工事の真っ最中、つまり<普請中>なのだった。山と積み上げられた鉄骨と無数の人夫の姿、そして重機がたてるけたたましい騒音とが、昭和5(1930)年の浅草の景観のかなりの部分を占めていた。

 <普請中>の煩わしさから、浅草は「猛然と勃興」(安藤更生『銀座細見』)した銀座、そして新興の盛り場新宿にかなりの客を奪われてしまう。震災前、にぎわいを見せていた神楽坂が、飯田橋駅の開業にともなう<普請中>に客を新宿に奪われさびれてしまったのと同じだ。こうして、80年代とおなじく、一時、浅草は取り残された盛り場、東京の〝エアポケット〟となってしまう。

 川端康成は昭和5(1930)年に発表した「浅草」という小文の冒頭でつぎのように書いている。「浅草は『東京の心臓』であり、また『人間の市場』である。万民が共に楽しむーー日本一の盛り場である。従ってまた、歓楽の花の蔭に罪悪の匂いが漂う。暗黒の街でもある」。とかく繁栄しているときには見えづらいものだが、都市の底部にうごめく「澱(おり)」のようなものも頭上を覆い隠していたフタが取れることで表面に浮上し、目につきやすくなる。アンダーグラウンドが、もはやアンダーグラウンドではなくなってしまうのだ。それを目障りにおもう者は、ためらうことなくべつの盛り場へと去ってゆく。それはまた、ホームレスやポン引き、娼婦、犯罪者といった連中にとっては都合がいい、居心地のよい無法地帯の出現を意味し、犯罪、あるいは犯罪とまでは言えなくてもギリギリの行為が常態化することにつながってゆく。

 慶應義塾普通部の3年から4年、大正15(1926)年から昭和2(1927)年にかけて級友に誘われ競漕用のボートに乗るためしばしば浅草を訪れていたという野口冨士男は、『私のなかの東京』で、土地の不良に金銭をタカられることを恐れて雷門から吾妻橋までを「往路も復路も駆け足で通り過ぎた」というエピソードを披露している。震災後、人心の荒んだ街では「ペンの徽章のついた学帽」はかっこうのタカリの餌食となった。たしかにそういう「ダメな街」にはちがいないが、粗雑で、悪辣で、だが人間くさいエネルギーに充満した街はそれでもどこか魅力的である。

 昭和9(1934)年から10(1935)年にかけ『浅草紅団』の続編として『浅草祭』という短編を発表した川端康成は、この数年間に浅草に起こった<変化>を「浅草公園は魂が抜けた、陰がなくなった、底がひからびた」と嘆く。このときにはすでに隅田川には新たに吾妻橋がかかり、東武鉄道は「浅草雷門」駅まで延伸し、七階建の松屋デパートのアールデコ風の建物がそびえ立っている。河岸もまた隅田公園として美しく整備された。それにあわせて「取締りが厳重となる一方、振興策は一向講ぜられず、浅草祭発会式でも、『寂れゆく浅草』を嘆く演説ばかり」がむなしく聞こえてくるといった状況。街はうつくしく整備され復興したが、底部に流れる<通奏低音>までもが取り除かれてしまった結果、浅草はすっかり覇気の失われた空虚な空間になってしまったのだ。なぜこうも寂れてしまったのか? しきりに首をひねりながら、だが、おおかたのひとはその原因に気づかない。やはり『浅草祭』から。「その昔なつかしい花屋敷も、近頃の寂れようは、なかの廻転木馬の女給が爪を噛むうちに居眠りして、隣の上田鳥獣店の、これも流行おくれのセキセイ・インコ共が埃まみれながら花屋敷の楽隊の代わりをしている、内に入ると、小暗い路の片側に、等身大の電気人形の行列だけが動いて行くので、その気味悪さは、空っぽの芝居小屋の花道をお化けが通るようで」。そんな光景に怯えて泣き出した子供は、こう叫ぶのだ。「松屋へ行こう、松屋へ行こう」。

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震災復興公園のひとつとして整備された隅田公園(昭和6(1931)年4月)。川端康成は『浅草紅団』のなかで、もし「浅草新八景」というものを選ぶとするならば、と言い、塔をもつ地下鉄食堂のビルヂング言問橋などと並んでコンクリートで覆われたこの「隅田公園」の名前を挙げている。

 

【浅草へのあこがれ】 

 ボシャン! おい! びっくりさせアがるぜ。「池に躍る鯉の水音」に我に返って驚いているのはだれか? ほかならぬ龍膽寺雄自身である。ここまで作者の存在を意識させるような場面がほとんどなかったことを思うとき、この登場の仕方はあまりにも唐突で「おい! びっくりさせアがるぜ」とこちらも思わずつぶやいてしまう。

 これはなにを意味するかというと、龍膽寺雄自身はこの深夜の浅草公園に溶け込んでいない、そのサークルの外側に立って息をひそめて<彼ら>を眺めているということである。さながら、つねに外敵の目におびえながらジリジリと歩みを進めるジャングルの探検隊のように。 ちょっとした物音にも飛び上がり、<観察>は遮られる。

 じっさい、深夜の浅草に通いつめるほど魅了されていながらも、龍膽寺雄はけっして浅草界隈に暮らすことはなかった。新宿柏木の下宿から目白のアパート、その後の高円寺暮らしを経て中央林間の屋敷へ。彼はその拠点を東京の西郊に置きながら浅草へと通い続ける。その態度は、みずから浅草に住み庶民の生活を描いたプロレタリア派の武田麟太郎とはまるっきりちがっている。底なし沼のような浅草の深さを知っていればこそ、自分自身はとてもじゃないがそこでは生きられない、それを龍膽寺雄は自覚していたのだと思う。その点で、東京の山の手に暮らしながら浅草や玉の井荒川放水路へとしきりに足を運んだ永井荷風に共通している。<エイリアン>として接することを選び、その立ち位置をあくまで貫いたのが龍膽寺であり荷風であった。

 <エイリアン>という点で言えば、川端康成もまた浅草では<エイリアン>であることを選んだひとりである。『浅草紅団』には、ふたりのチャーミングな<浅草の娘>が登場する。「弓子」であり、「お春」である。川端は、おそらく川端自身の分身であろう主人公に対して彼女らの口からつぎのような辛辣な言葉を言わせている。深夜、弓子と連れ立って浅草寺の境内を歩いていたわたしは、突然「着飾った娘が四人、真白な顔で立っている」のを目にして「冷っと足をすくめる」のだが、その様子を見た弓子は「浅草っ子になれない人ね。花屋敷のお人形よ。」と笑う。また、目にみえないルールに縛られた浅草の不良たちを「古い」などとわけ知り顔に批評するわたしにむかって、起重機で首吊りしたいとうっとりした表情でつぶやくお春はこう諭す。「どうなすったのよ、厭だわ、そんな話。学校を失敬して、浅草通いして、時々狩り立てられる学生さんーー あんなのが言うことよ、そんなの。掟の網って、あんたそれにひっかかったことがあんの? ないでしょう。なければいいでしょう。ただ物好きに浅草を歩いてらっしゃいまし。あんたの笑う掟ーーそのおかげで命をつないでいる人の巣なの、浅草は」。

 接触することはできても、「浅草っ子」になれない川端は、そのサークルの内側に立ち入ることはけっして許されない。それは龍膽寺雄にしてもおなじこと。深夜の浅草公園、池の鯉に驚かされる龍膽寺雄は、<浅草>をその外側から熱いあこがれをもってじっとみつめている。

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GWの谷間の午後、駒形橋(昭和2(1927)年)から隅田川を臨む。赤い吾妻橋は昭和5年にはまだ建設中だった。右側は復興事業として整備された隅田公園アサヒビール本社のキッチュなオブジェもスカイツリーも、すでに浅草の景観の一部にとりこまれている。

 

 さて、この文章を書くために、ぼくはひさしぶりにゴールデンウィークの谷間の昼下がり、浅草の表通り、裏通りを徘徊してみた。世界中から集まった外国人観光客、制服を着た修学旅行の生徒たち、ソフトクリームをほおばる女子大生のグループにお年寄りと、文字通り浅草はどこもかしこもごった返しにぎわっていた。六区や商店街のはずれにしても、すくなくとも80年代半ばのようなさびれた雰囲気はまったく感じられない。人を避けて歩くのに疲れるくらいだ。立派な<観光地>だ。

 カジノフォーリーの踊り子も客を怪しげな家へと手引きする朦朧車夫もみあたらない。みんなどこへ消えてしまったのか。とはいえ、どうだろう、隅田川の対岸アサヒビール本社にのっかったキッチュなオブジェもやけにヒョロ長いスカイツリーも、いかにもなんでもありの浅草の景観に溶け込んでいるではないか。浅草はやっぱり浅草なのだ。あんなキッチュなものを呑み込んで平然としているなんて、さすが虚無の都だ。そう思って見れば、朦朧車夫はいなくても、女の子を乗せたイケメンマッチョな人力車の車夫ならいるじゃないか。あれだって、見ようによってはずいぶんといかがわしい。あの人力車が、東京でも浅草以外ではまず見かけないことの意味をかんがえてみよう。

 <乱調の美学>は、いまなお浅草という土地に息づいているのである。