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「昭和8年」を起点に、ジャック・フィニイよろしくモダン都市を散策するブログ

龍膽寺雄『甃路(ペエヴメント)スナップ ー夜中から朝まで』を読む(最終回)

 いつだって都市は、ひとの心を浮き立たせる。心を浮き立たせるような仕掛けをさまざま持つことで、街は都市になる。心を浮き立たせないような都市は、だから都市とは言えない。ときに、心を浮き立たせる仕掛けは作為的に過ぎるとただ薄ら寒いだけの場所に成り下がる。外見ばかりが立派で、そのじつ空疎な都市が生まれる。だから、本当の都市とは、外見や規模よりも、むしろいかにひとの心を浮き立たせるかによって測られるべきなのだ。ある時代、ある場所に生きる人びとの心と連動したイマジネールな場所、それをひとは都市と呼ぶ。

 

 龍膽寺雄によって昭和5(1930)年に書かれた『甃路(ペエヴメント)スナップ』をはじめて読んだとき、瞬間的に思い浮かんだのはあまりにも有名なシュガーベイブの楽曲「DOWN TOWN」のなかのこんな一節であった。「暗い気持ちさえ すぐに晴れて みんな ウキウキ」。ここに歌われている「DOWN TOWN」とは、ただそこに行きさえすれば憂き世を忘れ浮き立った気分で過ごすことのできる場所のことであり、『甃路(ペエヴメント)スナップ』に描かれた「東京」にぼくはそれと同じ種類の気分を読み取ったのである。そして、どうせならそこに描かれた昭和5(1930)年の東京に充溢したウキウキとした気分を、はるか平成29(2017)年から遠くふりかえるのではなく、自分自身がいまそこにいるかのような臨場感をもって読み、感じ取りたいとかんがえた。

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 『甃路(ペエヴメント)スナップ』を、『地球の歩き方<モダン東京>編』のように読んでみること。龍膽寺雄と連れ立って夜の東京を徘徊し、彼が指差すものに驚いたり感心したり、ときには苦笑いしてみたり、そんなふうに読むことはできるだろうか。いや、むしろ龍膽寺雄の文章だからこそそれは可能なのではないか。

 海野弘は、新興芸術派のふたり ーー吉行エイスケ龍膽寺雄の文体を比較して次のように指摘する。「ダダイズムの詩から出発した吉行エイスケは、文体への意識がより鋭敏であり、古い表現を破壊しようとする。さらに彼は、時代の全体構造といったものにひかれている。これに対して龍膽寺の表現はより本能的であり、私小説なところがある。文体に対してはそれほど意識的ではない」(海野弘龍膽寺雄『放浪時代』と吉行エイスケ『女百貨店』」より 下線は筆者)。ここでいう「文体の意識」とはなにか。それは、書き手が「街を見つつ、街を見ている私を意識している」という「二重性」をもっているかどうか、ということを意味する。この「二重性」があってはじめて都市は「アイロニカル」に表現される。街を見つめる自分を客体化することで、そこに外部からのまなざし、つまり「批評性」が生まれ、都市の表現は特定の場所や時間、さらに作家自身の個人的体験を超えて<普遍性>を手に入れるのである。海野は言う。「龍膽寺雄には、街を見つめる自分を客観化する二重の意識がやや希薄なような気がする」。文学作品としてはそれは弱点にちがいない。事実「表現する自己への批評を欠いていることが、彼の小説にもう一つ深みを与えていないのである」。しかし、と海野は続ける。それで龍膽寺雄の小説が面白くないということにはならない。龍膽寺雄の文章は「体験的であり、街頭へ流れだしている部分は、それだけ具体的に、20年代の都市をいきいきと浮かびあがらせてくれて、興趣をそそるところがある。つまり、その小説を通して、私たちは20年代をのぞきこむことができる」(下線筆者)。

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 龍膽寺雄の文章は、「街を見つめる自分を客観化する二重の意識が希薄」なぶん文学作品としての「深み」には欠けるきらいはあるにせよ、むしろそれゆえに彼がその目で見たもの、感じたことを余分な補正をかけることなく読み手であるぼくらの前に投影してくれる。

  であるとしたら、龍膽寺雄は「東京の昭和5(1930)年」をこの『甃路(ペエヴメント)スナップ』でかなりリアルに描写しているのだろうか? もちろん、そんなことはない。ただその描写の濃淡をとおして、龍膽寺雄がどんな<東京>にぼくらを案内したかったのか、すくなくともその<地図>を手に入れることはできそうだ。

 

 まずなによりも、東京の昭和5年はモダニズム元年であった。たとえば、震災の復興事業の一環として隅田川に架けられた「六大橋」や幅員44メートルの「昭和通り」、コンクリート造の復興小学校、あるいは瀟洒なたたずまいをもった大小の復興公園といった〝新風景〟が東京のそこかしこに出現し、『甃路(ペエヴメント)スナップ』が出版される直前の3月26日には大規模な「帝都復興祭」もとりおこなわれた。市内を天皇陛下の行列が巡行し、連日賑々しく飾り立てた「花電車」が運行される。関東大震災から6年、生まれ変わった東京の街に明るい未来を見、希望を抱いた人びとは少なくなかったろう。

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花電車 昭和5(1930)年の「帝都復興祭」に際して登場した花電車。<復活>というテーマで復興の喜びを表現している。画像参照元: 東北芸術工科大学東北文化研究センター アーカイブス 

 

 しかしその一方で、東京の昭和5年はかならずしも明るいばかりではなかった。じっさい昭和5(1930)年といえば、後に「昭和恐慌」と呼ばれることになる深刻な経済破綻のまっただなかにあたる。

 昭和4(1929)年に公開された映画『大学は出たけれど』は就職氷河期の大学生を主人公とした小津安二郎監督による社会風刺劇だが、前田一『サラリマン物語』(東洋経済出版部 昭和3(1928)年)に添付された資料によると、全国の大学および専門学校の卒業生の就職状況は「各大学校を通じて、法経文学科の就職率は5割3分、理工科は8割、農科は6割3分、医科歯科は5割8分、師範科は8割、技芸科は2割9分、女子専門学校は4割8分、全国各大学専門部が5割9分という割合を示して居る」とあり、要は、卒業しても文系の大学生のざっと半分は仕事にありつけなかった。当時の過酷な現実が浮き彫りになる。「一体、何が、斯(こ)んなに就職を困難にしたのであろうか」と筆者は問う。「軍備制限、財政緊縮、行政整理に伴う官公営事業の中止、繰延、惹(ひ)いては、不況に原因する民間事業の整理、淘汰という、政治的、経済的原因の外(ほか)に、今日の教育方針の欠陥という社会的原因より結果したる卒業生自身の『質』の下落が、相據(あいよ)り、相俟つて益々就職難を深刻にするものゝやうである」。この未曾有の就職難は、筆者によれば、つまるところ、学生の「質」の低下(怠慢)をふくめたさまざまな複合的要因からなっているというわけで、これといった有効な打開策も見出せないままこんがらがった糸を前にただ嘆息している当時の人びとの姿が目に浮かぶ。

 「昭和恐慌」による不況の長期化、深刻化はまた、当然のように労働運動をも激化させる。こうした状況を受けて、政府は昭和3(1928)年、翌4(1929)年と続けて大規模な共産主義者の一斉検挙、弾圧を行う。俗に言う「三・一五事件」「四・一六事件」である。いくら弾圧したところで、だが悪化するばかりの経済状況のなか労働運動が下火になるはずもなく、プロレタリア派の作家たちはかえって意欲的に作品を世に問うてゆく。小林多喜二の『蟹工船』、共同印刷の争議を題材とした徳永直の『太陽のない街』は、ともに昭和4(1929)年の発表だ。そして昭和5(1930)年には、鐘淵紡績の各工場や東洋モスリン亀戸工場などで大規模な争議が勃発する。これもまた、「東京の昭和5年」の現実であった。

 こうした明るい未来と暗い現在とが段だら模様になった当時の記憶について、安田武は「花電車」という小文(『昭和 東京 私史』(新潮社)所収)のなかでこうふりかえる。「つまり、昭和初年の東京は、「花電車の波また波」だったといってよく、そして、そういう明るい「花電車の波」と、「万国の労働者よ、団結せよ!」という文字に、子どもの目にさえ、へた糞だなと呆れた、二の腕と握り拳が真ん中で握手している絵を描きなぐった大きな横幕とが、たがいに二重写しに、私の幼児記憶として定着しているのだった」。

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雑誌「戦旗」昭和5年4月号(「甃路(ペエヴメント)スナップ」を掲載した『モダンTOKIO円舞曲』と同じ年月に発行)の表紙。『蟹工船』『太陽のない街』などプロレタリア派の作品を多数掲載した。表紙の絵は柳瀬正夢

 

 ところが、『甃路(ペエヴメント)スナップ』を書くにあたって龍膽寺雄は、こうした<影>の部分を意識的に<捨象>しているようにみえる。取り上げる場合にも、外面的にそっとなぞる、あるいは注意深く提示する程度にとどめけっして足を踏み入れることはしない。けれども、ただこのことだけをとりあげて彼がプロレタリ派から距離を置こうとしていたとか、思想的に共産主義を毛嫌いしていた、ましてや「龍膽寺雄ブルジョア作家である」などと決めつけるのはまちがいだろう。思うに、このことはひとえに彼の作家としての<文学的態度>に発している。

 龍膽寺雄は、晩年みずからの半生を綴った『人生遊戯派』のなかでその<文学的態度>についてこう書いている。

 「私が文学活動をはじめた昭和初期は、世は不景気のどん底にあり、消費は停滞し、生産は止まり、失業者が街に氾濫していた」。そして、こうした時代にあって「マルクス主義を基調とするプロレタリア文学が擡頭し、遂に一時的にでも文壇を掌握するようになった事態は、自然のなりゆき」であろう、と。しかし、龍膽寺雄はまた異なる考えを持っていた。「人間の脳の働きの中には、レアリステックの現実に執着する面と、それとは反対にまったく現実から離れた世界を、現実に縛(ゆわ)かれず、自由な世界を高く空翔んで遊ぶ趣きの部分とがある。現実が苦渋に充ちたものであればあるほど、このロマンスの世界は、明るく軽く華やかで楽しいものでなければならない。窒息するような重苦しい現実の世界を凝視(みつ)めて、それをどうしようかと苦慮するのも、人間の心の動きの一つであれば、その現実を一と飛びに離れて、明るく楽しくロマンスの世界を目がけるのもまた人間の心の動きの一つでなければならない」。そしてその<ロマンティシズム>に、彼は「新しい文学の世界」の可能性をみた。龍膽寺雄は読者にむかって呼びかける。さあ、ーー「階級の歪みの中で喘ぐ苦渋に充ちた生活などにとらわれず、新しく自由に、気ままに夢の世界に翔ぼうではないか」。

 

 ところで、おなじ回想録のなかで、彼はたびたび「自分の読みたい作品を書くために」自分は作家になったのだと書いている。本当は、読者として「私が夢見るような作品に、めぐり会いたかった」のだが不幸にも出会えずにきた。かろうじてそういった「匂い」をもつ作家といえば、ただ佐藤春夫がいるくらいだった。そこでやむなく小説を書き、「現実にはいない、いちばん自身にとって好ましい人物を作品の中に登場させ、私の好きな場面で、私の好きなような振る舞いや身動きをさせた」のだ、と。

 たとえば、彼の小説にはたびたび「魔子」という名の魅惑的な少女が登場する。この「魔子」については、当時の読者のなかには彼の妻で、若くて美しいモダンガール「正子」と同一視する者が少なくなかったが、龍膽寺本人はたびたび「それはちがう」といった趣旨の発言をしている。おそらく「魔子」とは、たとえ「正子」を思わせる部分が多々あったとしても、さらに彼の趣味や理想をくわえ想像力によってふくらませた「現実にはいない、いちばん自身にとって好ましい人物」ということなのだろう。そして「魔子」が楽しげに振舞う「東京」もまた、現実の昭和初期の「東京」に似ていたとしても、それは「苦渋に充ちた生活」や「階級の歪み」を<捨象>した明るく軽く華やかで楽しい<東京>であるにちがいない。そして、「作家」として龍膽寺雄の目に映る東京とは実際そのような都市だったのだろうし、じつはこの『甃路(ペエヴメント)スナップ』に描かれた「東京」こそ、現実と虚構のあわいに生起する彼の小説の舞台としての<東京>そのものなのである。

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龍膽寺雄と妻の正子(まさ)。昭和6年ごろ。

 

 では、このような<文学的態度>がひとつの技法として意識的に、熟考の末に選び取られたものかといえばけっしてそういうわけではないだろう。「新興芸術派」の作家のひとりで、龍膽寺雄がその作品と人柄に深く惚れ込んでいた久野豊彦は、個人的なつきあいを通して触れた彼の人物像からそのあたりを類推する。久野によれば、龍膽寺雄の<文学的態度>はひとことで言って彼の<天真爛漫>に起因するものである。「龍膽寺君のことを書いていたら、全く際限がないのだが、龍膽寺君が天真爛漫であるのも、その実は、童心が溢れてるからにちがいないのだ。そうして、彼氏の作品が、いずれも明朗であり、食べていたら、舌端(したさき)で溶けてゆくほど軽妙であるのは、云うまでもなく、龍膽寺君が天真爛漫であるからのことにちがいないことだ」(「天真爛漫・龍膽寺雄」「新潮」昭和6年2月所収)。

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久野豊彦 昭和5(1930)年ごろ 龍膽寺雄の回想によれば、当時知多半島大野町(愛知県)の「尼寺」に隠棲していた久野を説得し「新興芸術派」を立ち上げるためふたたび東京に連れ戻した。

 

 龍膽寺雄の小説世界に他に類を見ないような明朗さや軽妙さをもたらしている彼の「童心」「天真爛漫」、それをひとことで<イノセント>と言いかえることもできるかもしれない。  

 龍膽寺雄の『甃路(ペエヴメント)スナップ』を読むとき、読んでいるぼくもまたそこに描かれた都市を闊歩しているような気分になる。それは、彼が描写する東京が昭和5(1930)年現在の「東京」そのものでありながら、同時に、彼の<イノセント>によって漂白されることで、現実の「東京」からは適度に距離を置いた<中間性>を手に入れることに成功しているからではないか。彼の「東京」は、昭和5(1930)年の「東京」であると同時に、もうひとつ、時空を超えた物語の舞台としての<東京>、つまりパラレルワールドの<東京>という顔ももつ。『甃路(ペエヴメント)スナップ』を読んでいるときぼくらは、時間をさかのぼって昭和5年の東京に移動するというよりは、居ながらにしてもうひとつの東京に「横穴」をとおって平行移動しているのだ。

 海野弘にしたがえば、〝都市をみつめる自分〟を客体化する「二重性」という部分についてはかならずしも意識的とは言いがたい龍膽寺雄だが、彼は批評性によって小説世界を読者のほうに寄せるかわりに、その<イノセント>によって読者のほうを自身の小説世界に引きつけてしまう。読んでいるうち、そこに描かれた世界があまりに楽しく魅力的なので、思わず自分もまたここにいたいという気分、ずっとここにいたような気分が起こり、気づけばほんとうにそこに描かれた甃路(ペーヴメント)を闊歩しているのだ。そしてこの<気分>こそ、龍膽寺雄がその文体にこっそりしつらえた「横穴」なのである。

 本をひらき文字を目で追う。すると街の喧騒や靴音、匂いまでがなんとなく感じられてくる。ああ、そうか、いまぼくは昭和5年の<東京>にいるのだ、と思う。そしてこの<東京>ときたら、なんてすてきに心浮き立たせてくれる都市なのだろう。ここでは、つらい気持ちさえ、すぐに晴れて、みんなウキウキ……

 

 下町へ繰り出さう。

 下町へ繰り出さう。

 

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雑誌「太陽」1987年11月号(平凡社 )より中央林間の自宅温室に立つ龍膽寺雄86歳。サボテンの栽培、研究でも知られ、多数の書著を残した。龍膽寺雄とサボテンの出会いについては、目白中学校の篠崎雄斎と龍膽寺雄。:落合道人 Ochiai-Dojin:So-netブログ 様で詳しく紹介されています。ぜひご一読ください。