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「昭和8年」を起点に、ジャック・フィニイよろしくモダン都市を散策するブログ

北園克衛『白い箱』をめぐる覚え書き(1)

 冬の足音が聞こえてくると、いつだって北園克衛の『白い箱』という小説を思い出す。小説といっても、わずか2ページ足らずの掌編ではあるけれど。

 まず、冒頭の、いかにも詩人らしいみずみずしい言語感覚で切り取られた冬の都会の表現がすてきだ。

X・マスが近くなると、街はシリイシンフォニイのフィルムのように美しくなる。タクシーが林檎のように光り乍ら夕暮の街を過ぎてゆく。 

 冬の夕暮れ、ピカピカに磨き抜かれたボンネットに街灯の光を反射させながら走り過ぎてゆくタクシーを「林檎のよう」と描写する、その感じ。当時、というのは1930年代のことだけれど、タクシーといえば丸っこいフォルムの漆黒の自動車が相場だったことを思えば、詩人ならずともそれは「千疋屋」あたりの果物屋に陳列されたピカピカの「林檎」を思い起こさせる姿だったかもしれない。

 さらにくわえて、ぼくがおもしろく感じたのは、なんといっても「シリイシンフォニイのように美しい」という表現だ。

 よく知られるように、シリー・シンフォニーはウォルト・ディズニーが1929年の『骸骨の踊り』を皮切りに製作をはじめた短編アニメーションのシリーズのことである。とりわけ、1932年に製作された『花と木』では精妙な動きと斬新なストーリーにくわえて、はじめて3色カラーを導入した「総天然色」で展開される映像が人びとの目を釘付けにしたという。

 昨晩、ぼくも思い立ってひさしぶりにシリー・シンフォニーのひとつを観てみたのだけれど、どうだろう、それは「楽しい」「ユーモラス」あるいは「にぎやか」といったイメージを呼び起こしこそすれ、冬の都会の「美しさ」を表現するものとしてはなんとなく違和感が残った。これはやはり、北園克衛というモダニストならではの詩的な言語感覚によるものなのだろうか?

 いや、たぶんそうじゃない。これもやはり「林檎」のようなタクシーとおなじ、1930年代の都市を闊歩する人びとに共通の、ある感覚なのではないか。おそらく、その時代の人びとの目に「総天然色」のシリー・シンフォニーはため息をつくくらい美しかったのにちがいない。クリスマスにむかう都会、おそらく銀座のペーブメントは、着飾った女性たちや店頭の華やかなオーナメントによって「シリイシンフォニイのフィルムのように美しく」目に映った。つまり、ここで詩人は、その時代の都会の人びとが誰しも抱いた感覚を詩的な言語に「翻訳」しているのだろう。

 小説と呼ぶにはあまりにも短いとはいえ、1930年代の東京の人たちの目や耳や鼻といった器官をとおして生きられた「クリスマスの東京」へと連れ行ってくれるという点で、ぼくは冬が近くなるたびこれを読み返したくなるのである。


Silly Symphony Flowers And Trees