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ふりだしに戻る

「昭和8年」を起点に、ジャック・フィニイよろしくモダン都市を散策するブログ

龍膽寺雄『甃路(ペエヴメント)スナップ ー夜中から朝まで』を読む 第9回

龍膽寺雄『甃路スナップ』を読む 昭和5(1930)年

 丸の内から、ふたたび丸の内へ。未来的な中央電信局の建物から歩きはじめたぼくらは、数寄屋橋、裏銀座のカフェー街に寄り道し、ひっそり寝静まったかのようにみえる深夜の丸の内へと帰還する。

 

#アウトロダクション

 丸の内のビジネス・センタアは朧月夜を戴いて、まさにアラビヤンナイトの化石の街。アスファルトの路面を忍びやかに流れ去る乏しい深夜の自動車、夜空を高く限った宏壮なビルディング街は、窓に灯り一つなく暗く沈黙して、あるかなしの夜の微風に、昼の跫音(あしおと)の亡霊でも漾(ただよ)って居そうです。

 東京駅を貫いた高架線の軌道には、時折忍びやかに夜の貨物列車が。

 どうやら大東京の心臓は、今や深夜の熟睡に落込んだ様です。

 

【事実小説『丸ビルの女達』】

 いかにもありそうなことを本当にあったかのように話したり、本当にあったことをよりいっそうデフォルメして話してみたり、モダニズムの東京ではそうした<街の猟奇談>や<実話>、いまで言うところの一種の<都市伝説>がことさら好まれた。

 このあいだ国立国会図書館のデジタルライブラリーを漁っていたときのこと、『丸ビルの女達』というタイトルの小説をみつけた。作者をみると加東まさ子となっている。聞きなれない名前だがそれもそのはず、これは昭和9(1934)年の雑誌「週刊朝日」新年特別号に掲載された懸賞小説4本のうちの1本なのである。興味深いのは、これが<事実小説>として公募されていることだ。<事実小説>というのもいまとなってはあまり耳にしないが、実際にあった出来事を脚色した小説作品という点で<街の猟奇談>や<実話>同様、この時代の人びとの嗜好を反映した読み物と言っていいだろう。

 さらにもうひとつ興味をそそられるのは、この『丸ビルの女達』にはそれが書かれた当時、つまり昭和9年前後の人びとの「丸ビル」に対する漠然とした<負の感情>が反映されている点にある。

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 丸ビルこと丸の内ビルディングの竣工は大正12(1923)年2月のこと。鉄骨鉄筋コンクリート造地上8階地下1階からなるアメリカ式オフィスビルの威容は、丸の内の「ビジネス・センタア」に新風を吹き込んだ。それまでの丸の内といえば、ジョサイア・コンドル設計の三菱第1号館や第2号館(明治生命館)、そして辰野金吾設計の東京駅にみられるクラシックな赤レンガ建築の印象が強く、そこから〝一丁倫敦〟などと呼ばれたりもしていたが、丸ビルやそれに先立つ大正7(1918)年に竣工した「東京海上ビルディング」の登場により、突如丸の内に〝一丁紐育〟が出現したのだった。

 安藤更生はモダニズムとアメリカニズムとのあいだの親和性について指摘しているが、当然、丸ビルもモダン東京のランドマークとして明るく快活で華やいだあこがれの空間というイメージを当時の人びとにもたらした。竣工当時の様子について、丸ビルを建てた三菱グループのWEB上で公開されている「岩崎小彌太物語」から抜き出してみよう。「(丸ビルには)予想を超え、多くのテナントが集まった。会社事務所のほか、弁護士、会計士、建築家などの専門職業、医院、雑誌社や学会事務所なども店子になった。丸ビルには文化的でリベラルな雰囲気が生まれた」(三菱人物伝「岩崎小彌太物語」vol.11丸ビルの建設)。

 さらに丸ビルが画期的だったのは、日本で初めてオフィスビル内にショッピングモールを併設し、誰でも利用できるようにしたことである。「レストラン、喫茶室などのほか、美容院も開店した。日本橋からは文具紙店をはじめとする老舗も移ってきた」(同上)。ひとことで言えば、まるごとビルがひとつの「都市」のようなものだった。

 いっぽうで、その〝アメリカ式〟に得体の知れない恐怖や敵対心を抱くものもあらわれる。その代表に、画業のかたわら風刺のきいた文章を数多く残した水島爾保布がいる。「いくらパリの凱旋門が馬鹿見たいだって、東京の丸ビルのトンネルの穴よかまだ幾らかましだらう。ー中略ー 苟しくも都會人として都會人らしい神經をもち、都會人らしい感覺をもつてゐる限りは、とても恥と侮辱を感じずにあん中へ吸ひ込まれ、叉あすこから吐き出されやうなんて事は思ひも至らない筈だのに、不思議なことには素晴らしい繁盛ださうだ。誠にアメリカニズム萬歳である。結構なお正月である」(「丸ビル罵倒」〜『新東京繁盛記』日本評論社 大正13(1924)年)。震災以前の銀座が「フランス文化、すなわち欧羅巴(ヨーロッパ)の文化の光被(こうひ)の下にあった」(安藤更生『銀座細見』)のと同じく、明治末から大正の初めに青春時代をそういった空気にどっぷり浸かって過ごした水島には丸ビルとそこにあつまってくる人びとが発散する「アメリカ」の匂いが耐えられなかったのだろう。もちろん、ノスタルジアはかならずしも古いタイプの文化人の専売特許というわけではない。詩人のサトウハチローも「僕は、あの赤いレンガが好きだ。丸之内にある、どんな大きなビルヂングより、東京駅になつかしみを感じているのは、あの建物の色だ。東京駅と同じに、仲六号館、東九号館、仲八号館などというあの建物も好きだ。昼間など、妙にひッそりとして、のぞくと、オレンヂ色の灯りが、呼吸(いき)づいているところなど、何ともいえなくいい」(『僕の東京地図』ネット武蔵野)と書いている。仲6号館、東9号館、仲8号館はいずれも明治に建てられた建物。ちなみにこの本が世に出たのは昭和11(1936)年、サトウハチローは明治36(1903)年の生まれだ。

 こうした、ノスタルジアとはべつに、人間の群れを吸い込み、また吐き出す巨大な建物そのものに言いようのない不気味さを感じるものもいた。たとえば、『丸ビルの女達』で主人公の女は次のように言う。

 「朝の九時。東京驛からはき出されて、丸ビルまでの長い通路を、ぞろぞろぞろぞろと、心太(ところてん)のやうにつながって行くサラリーマン達の顔。男、女、ありや鎖につながれてゐないといふだけのことで、まるで囚人さ、さう思つてぢつと見てゐて御覧よ。どれもこれも六十圓を出るか出ないかの背廣が、お揃ひの囚人服のやうに、似たりよつたりぢやないか。」

 最新式のオフィスビルが、ここでは「牢獄」にたとえられている。にもかかわらず、丸ビルではたらくサラリーマンやオフィスガールたちときたら、「まるで丸ビルに住まふことが、一つの特権でゝもあるかのやうに、澄ましてゐる」。都市の急激なモダン化は、それを肯定的に受け入れる者と反撥する者とに二分する。その意味で、『丸ビルの女達』の舞台としての「丸ビル」を急激にモダン化した都市のいわば<メタファー>として捉えることもできそうである。

 じっさい、巨大なオフィスビルでありながらショッピングモールを有する丸ビルには、そこではたらく人びと以外にも買い物客や観光客などが終日ごった返し、にぎわう空間であった。日常的に不特定多数の人びとが交錯するそこでは、仮にビル内ではたらく者同士であったとしても名前はおろか、たがいの仕事も顔も知らないということがふつうに起こりうる。そしてこういった<匿名性>こそ、都市の最大の特徴である。

 これまでに何度か、モダニズムの特徴のひとつとして<垂直のまなざし>を挙げてきた。ビルの高層化、高架鉄道に地下鉄道、屋上のネオンサインや電光ニュースなど、都市や横へ横へとふくらんでゆくと同時に、上に下にと伸びてゆく。モダン東京に生きるものは、本能的にそれを理解し、カメラを切り替えるようにリズミカルに目玉を運動させている必要がある。それができず、ただ一方向的にしか都市をみることができないものは、いままさに起こっているたくさんの出来事をみすみす見逃がさざるをえない。

 それを物語るような出来事が、『丸ビルの女達』のなかで起こる 。丸ビルの2階にある婦人洋服店でお針子をしているある女は、8階の事務所ではたらく男と恋に落ち、結婚の約束をし、その子供まで身ごもるのだが、ある日男は海外出張に行くと言って出かけたきり音信不通となる。ひたすら帰りを待ちながら3年を過ぎたある日、頼まれた品物を届けに8階に行ったところ、なんとその男がなにくわぬ顔ではたらいていたばかりか、とっくにべつの女と結婚していたというのである。ふたりの出勤時間がちがう上、女は洋品店の裏にこもって1日じゅう針仕事をしていてめったなことでは店の外にも出ないので、同じビルの上と下にいながらふたりが顔を合わすことはなかったのだという。さまざまな生活が何層にも折り重ねられたミルフィーユのような構造をもった丸ビルでは、たいがいのひとの生活はそのなかのひとつの層だけで完結しているので、うっかりすると上や下にべつの生活があることをつい忘れてしまいがちだ。それが思いがけない悲劇を招く。

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 丸ビル1階のショッピングモール 画像参照元戦前~戦後のレトロ写真 (@oldpicture1900) | Twitter 

 

【ハート団事件とその余波】

  加東まさ子『丸ビルの女達』は、週刊朝日が公募した<事実小説>の当選作である。「丸ビルの女」といっても、ここには最新流行を身にまとったビジネスガールはひとりも登場しない。主人公はビル内に事務所をかまえるマネキン派遣会社の「不良」マネキンガールだし、ほかにも洋品店のお針子やら靴磨きやら生活に疲れた貧しい女たちばかり。そこでは「恋愛があるとしたところで、そこらの金持の奥さんや、お嬢さんのするやうな、色事とは譯の違つた、血のみじむやうな、悲しい辛い奴ばかりな貧乏な娘達は、皆が損なはれて、皆がふみつけにされて、あせた花のやうにあの中でしほれて行く」のだという。そこにあるのは、良質なテナントに恵まれた「文化的でリベラルな雰囲気」を誇る丸ビルのイメージとは真逆の世界だ。「一體(いったい)、丸ビルといふのは、いはゞ不思議な怪物さ。いろんな善行や、いろんな悪徳や、そんなものが、皆なこつそり、あの窓の中にかくれてゐるんだよ。」

 一見、明るく快活で華やかな丸ビルだが、それと同時に、暗く澱んだ裏の顔をもつ。それは、丸ビルがたんなるオフィスビルである以上に、ひとつの<都市>であることを意味している。さまざまな不特定多数の人びとが交錯するそこでは、都市におけるブルジョワとプロレタリアとの対立が、ごく自然にビルのなかでも生まれる。そしてまた、都市におけるのと同じような犯罪もビルのなかで発生する。

 大正13(1924)年12月、丸ビル内のタイピスト養成所ではたらく林きみ子が警察により拘引される。この事件をくわしく紹介した平山亜佐子『明治大正昭和 不良少女伝 莫連(ばくれん)女と少女ギャング団』(河出書房新社)によれば、林きみ子は養成所にきた娘やビル内ではたらく女店員らに言葉巧みに接近し「ハート団」なる闇の組織をつくり、ビル内の喫茶室の女将らを連絡係にし売春をあっせんしていたのだった。林は丸ビルきっての美人として知られ、しばしば新聞や雑誌にも取材されるほどだったが、そのいっぽうで「ハート団」を牛耳る通称「ジャンダークのおきみ」という裏の顔を持っていた。

 この「ハート団事件」を知った世間の人びとはどう思ったろう、とぼくはかんがえる。おそらく「さもありなん」と感じたのではないか。この事件は、日々たくさんの人間を吸い込み、吐き出ししている巨大なビルディングのもつ<得体の知れなさ>というイメージとかならずしもかけ離れたものではないからだ。いや、むしろ丸ビルの「光」と「闇」とを象徴するような事件として、一般の人びとが漠然と抱いてきた<負の感情>をより補強することになったのではないか。そして、そうしたイメージに乗っかるかたちでおそらく加東まさ子は『丸ビルの女達』という<事実小説>を書いたのである。また、表の顔はタイピスト、しかし裏の顔はギャングの情婦という女を田中絹代が演じた小津安二郎監督の『非常線の女』(昭和8(1933)年)などもそのバックグラウンドはおなじとみてよいだろう。

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ピストルも撃てるタイピスト 小津安二郎非常線の女』(昭和8(1933)年)より

 

【ビジネス・センタアの夜】

 ビジネス街は、夜になるとまるで死んだように静まり返ってしまう。これは昔も今も変わらない。龍膽寺雄は、深夜の丸の内を「アラビヤンナイトの化石の街」と呼ぶ。丸の内は、ふつうの街のように朝と夜とが交互に訪れるのではなく、朝に生まれ、夜に死ぬのだ。再生と死を繰り返す特異な場所。夜の丸の内はいわば<死の街>であって、そのぶん幻想的な想像力を刺激する空間に様変わりする。

 たとえば、深夜の丸の内に刺激された作家に海野十三がいる。彼の探偵小説『深夜の市長』については以前このブログでもとりあげたことがあるので詳しくは紹介しないが、主人公が「湖水の底に沈んだ廃都のような暗黒のビル街」を縫って「丸の内第十三号館」にたどりついてみると、なんとその中庭に巨大な電気仕掛けの円筒形の構造物がそびえ立っており、なかではマッドサイエンティストが高性能の覗き眼鏡を操って深夜の東京市を観察しているのだった。

 

 夢か現か…… 「どうやら大東京の心臓は、今や深夜の熟睡に落込んだ様です」。

 

龍膽寺雄『甃路(ペエヴメント)スナップ ー夜中から朝まで』を読む(第8回)

龍膽寺雄『甃路スナップ』を読む 昭和5(1930)年

 時計の針は、そろそろ深夜0時を回ろうというところ。さて、数寄屋橋をあとにして、さっそく前回(第7回)読み残したパートへと歩みを進めよう。

 まずは「新興芸術派」に属する作家たちの〝友情出演〟による、たいそうにぎやかな幕間劇をどうぞ。

 

#インターバル

 裏ギンザのカフェ街。

 丸山警視総監の新取締令が徹底して、カフェ街の表戸は時刻と共にいかめしく閉ざされるんですが、スクリーンの隙には仄々(ほのぼの)と灯影(ほかげ)が覗き、御常連のおなじみ客をとりまいた女給さんたちの艶めいた私語(ささやき)が、忍びやかに表へ漏れるんです。

 試みに扉(ドア)の隙に耳を押付けて、中の気配を覗ってみたまえ。女給さんたちの忍び笑いがムズ痒く背筋を匐(は)い廻るから。

 が、ちょいとお待ちください。

 あの聴き覚えのある声は?

 冗談じゃない。モダン東京円舞曲のわが楽士の面々。吉行エイスケ、久野豊彦、それに楢崎勤君等の諸氏。 ーー

『やア。……』

 扉(ドア)を開けると、色電燈の仄暗い衝立の蔭に、頬紅の鮮やかな女給さんたちと膝組み交わして、卓子を囲んだモダン派作家の一群。いずれも名だたる街の猟奇者の面々です。

『さザ、どうぞ。……』

 秀麗なおもてに仄々と桃色の酔いをのせて、吉行君が長椅子(ディヴァン)へ席を招じるんです。

『厭にまたシンミリしてるじゃないか。お通夜かと思った。』

『いいえ。今ね、楢崎さんが逢引の実話をして下すってたとこです。ほら、いつぞやの例の信濃町駅でのを。……久野さんが悔しがりましてね。牛を馬に乗換えたッて。……』

『そんな話、吉行よそうじゃないか!』

 と、これは街の仙人久野豊彦君。

『それよか、僕がもっと面白い街の猟奇談をきかせてやるよ。小便臭い女の子との逢引話なんぞ、面白くも糞もないじゃないか。そんなことは楢崎や龍膽寺に委せて、それよりは僕の話を聴きたまえ。円タク・ガアル、ステッキ・ガアル、お好み次第だよ。と云って、何も僕の実験談てわけじゃないがね。』

 さア、大変な話になッちまったが、この居心地のいい長椅子は読者諸君にお譲りして私はともあれ、睡った深夜の街々をもうひと廻り。ーー

 

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にぎわう銀座の表通り 川上澄生「銀座」(『新東京百景』より)昭和4(1929)年 木版画

 

【エロは剣よりも強し!?】

 昭和4(1929)年警視総監に着任した丸山鶴吉は、カフェーの営業時間を午前0時までとする、著しく暗い客席は認めないといった項目を多数含む「<カフェー><バー>等取締規則要項」を発令、9月7日には保安部長より各警察署長あてに厳格に取り締まるようにとの通達を出した。初田亨『カフェーと喫茶店〜モダン都市のたまり場』(INAX出版)には、「最近驚クヘキ勢ヲ以テ増加シツツアル『カフェー』及『バー』ノ如キ……」と始まるこの要項の一部が引用されているが、そこに書かれたこの取り締まりの背景をざっくりまとめると以下のようになる。<最近ではカフェーやバーを訪れる多くの客の目的は、飲食よりむしろ女給からのエロな接客を受けることの方にある。そうなると、店側も客の気を引こうとより過剰なサービスを競うようになり、ますます風紀を乱すことにつながっている>。

 これについていえば、少なからず女給の給与システムも影響している。『銀座細見』の安藤更生によれば、カフェーの場合「月給制」ということはほとんどなく、女給の収入はほぼ「客の祝儀いわゆるチップによって成り立って」いたという。しかし、『甃路(ペエヴメント)スナップ』が書かれた昭和5(1929)年当時は、世界大恐慌のあおりを受けて女給が手にするチップの額もかなり冷え込んでいたため、少しでもチップの額を増やそうとついついサービス過剰になるといった傾向もあったようである。

 ところで、内務省に入省後、警視庁特高課長、保安課長、朝鮮総督府警察局長などを歴任、私娼撲滅運動など風紀取り締まりに辣腕をふるってきた丸山鶴吉が、濱口内閣で警視総監に就任したのが昭和4(1929)年である。昭和4年といえば、「帝都復興祭」の前年にあたることに注目したい。風紀取り締まりに実績のある丸山の警視総監への起用は、帝都東京の景観の一新とともに震災後の風紀の乱れもあわせて一新してしまおうという濱口内閣の意図があったのではないだろうか。

 とはいえ、ここに綴られたエピソードから察するに、深夜0時とともに閉ざされた表戸の内側ではなじみの客がこっそりお楽しみの最中だったりするのが現実の姿だった。全国共通、エロは剣よりも強いのだ。

 

【〝裏ギンザ〟とはどこか】

 〝裏銀座〟とは、いまとなってはあまり聞かれない呼び方である。〝ウラ〟と言うからには当然〝オモテ〟があってしかるべきなのだが、現在の銀座には、たしかに「銀座四丁目交差点」のような〝中心〟といえそうな場所は思い浮かんでも、どのあたりを指して〝オモテ〟と呼んだらいいのか、判然としない。だが、戦前の銀座にはたしかに〝オモテ〟があり、また当然〝ウラ〟があった。

 京橋、新橋、数寄屋橋といった銀座周辺の地名からもわかるとおり、かつての銀座は四方を堀割りに囲まれた細長い中洲のような土地であった。そしてなんといっても、銀座のメインストリートといえば京橋から銀座4丁目交差点を経て新橋へと至る現在の「銀座通り」であり、北(京橋側)から順に銀座一丁目、銀座二丁目、銀座三丁目、銀座四丁目、尾張町一丁目、尾張町二丁目、竹川町、出雲町、南金六町と続き、夜になれば銀座一丁目から竹川町までの東側(松屋三越松坂屋などがある側)には280あまりの露店が所狭しと建ち並んで道行くひとの目を楽しませた。

 ここに一枚の写真がある。これは、「晴海通り」の数寄屋橋から築地方面を臨んだ昭和4(1929)年10月に撮影された写真である(画像参照元土木学会附属土木図書館様)。

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 画面中央が外濠川にかかる数寄屋橋。左端に朝日新聞の社屋があり、その右には外堀通りに面して銀座教会の塔を見ることができる。その右手奥には巨大な松屋デパートがあり、さらにやや右には銀座4丁目交差点のあたり、建設中とおぼしき三越デパートの姿が見える。いまやランドマークともいえる服部時計店の建物はまだない。

 ここで注目したいのは、銀座通りに建つデパートの高層建築が手前の建物にほぼ遮られることなく見渡せていることである。寺田寅彦が〝アルプス〟になぞらえた⁂高層建築の稜線は銀座通りに沿って連なり、いかにも「表ギンザ」と呼ぶにふさわしい威容を誇っているのに対して、〝麓〟にあたる銀座通りの東側や西側を見やれば、そこには小さな店々がゴチャゴチャとひしめき合う「裏ギンザ」のたたずまいが広がっている。堀割りが埋め戻され、ビルディングが林立する現在の銀座からは、もはやこうした対照は見出しえない。いわば現在の銀座は、すべてが「オモテ」であり、また「ひなた」である。

 昭和2(1927)年に松崎天民が書いた『銀座』を拾い読みしていると、ところどころで〝裏銀座〟なる言葉と出くわす。たとえば、そのうちの一章「裏銀座夜色」には<オアシス>という店が登場する。<オアシス>は、大阪出身の姉妹が経営する「構へは小さくて狭いけれど、上品な瀟洒な喫茶店」であり、銀座通りの尾張町一丁目西側に建つカフェー<タイガー>の裏通りにあった。そして「表通りの銀座よりも、裏通りの銀座には、小さい狭い構への中に、特色のある家が多い」と松崎天民は言っている。

 つまり昭和5年の〝裏銀座〟とは、大店(おおだな)や老舗、有名店の並ぶオモテ通り(銀座通り)の外縁に存在する小さい店々がひしめいている一帯のことを漠然と指していると考えてよさそうである。そして、そうした「小さい狭い構への中に、特色のある」カフェーやバーは、裏手のすぐそばを三十間堀川が流れる銀座通りの東側よりは西側の方に多く密集していたため、とりわけ銀座通りの西側、外濠川あたりまでをしばしば〝裏銀座〟と呼んでいたと思われる。同時に、すこしそのエリアを外れていたとしても、「小さい狭い構への中に、特色のある」カフェーやバーがあれば「ウラ銀座の◯◯」といったふうに呼ばれることもあったかもしれない。

 

【キャスト紹介】

 龍膽寺雄ら、当時モダニズム文学と呼ばれるような作風をもった作家たちは、昭和5(1930)年4月「新興芸術派倶楽部」を結成する。龍膽寺雄の回想によれば、これは新潮社の編集者で、みずから作家でもあった中村武羅夫の呼びかけによって結成された「十三人倶楽部」を母体として、龍膽寺雄、久野豊彦ら有志が集まって新たにつくられた集団だった。とはいえ、龍膽寺雄の自伝的小説『人生遊戯派』(昭和書院)からのことばを借りれば、それは当時一大勢力を築いていた「プロレタリア文学に対して、戦線を張って闘おうとした非プロレタリア派あるいは反プロレタリア派の仲間の集まり」として誕生した。「新興芸術派」とは、その意味では、文学運動というよりも「マルクシズム文学に非ずんば文学に非ず」というプロレタリア文学派の「無暴(ママ)な」主張に抵抗するための野党共闘といった趣があった。「モダーニズム文学などという名は、私の作風に人がそう名付け、それがジャーナリズムに乗って多くの追随者が現れて、一つの流派が出来ただけのことで、この『陣営』などというものもない」というのが龍膽寺雄の主張である。ちなみに、「モダニズム文学」というのは東京日日新聞の学芸部長で評論家の千葉亀雄が名づけたもの。

 ではさっそく、ここで〝友情出演〟している「新興芸術派倶楽部」の仲間たちを『人生遊戯派』での龍膽寺雄のことばを借りつつ紹介してみよう。ただし、すでに80歳近い人間が50年も昔のことを振り返って書いているものゆえ、そこに誤解や記憶ちがいが混じっている可能性があることをあらかじめ指摘しておく。

 

吉行エイスケ・・・龍膽寺雄よりも5歳年下なので、この『甃路(ペエヴメント)スナップ』が書かれたときはまだ弱冠24歳ということになるが、すでに妻あぐりとのあいだに長男淳之介(作家の吉行淳之介)がいた。後にNHK連続テレビ小説のモデルとなったあぐりは、自身の美容室「山の手美容院」を昭和4(1929)年に開店している。「市ヶ谷見附を見おろす靖国通りのはしの三叉路の角に、吉行エイスケの妻君あぐりさんが美容院を経営しており、そこに村山知義が設計したという、青っぽいモルタル三階造りの、軍艦のような形をした、シャレた建物があって、塔のような三階の狭い一室が吉行エイスケの居間になっていた。ここが前から、新興芸術派も仲間のたまり場のようになっていて、よきことやよからぬことを相談しあったりしていた」。文壇では孤独だったと語る龍膽寺雄にとって、同じ「新興芸術派」の久野豊彦とこの吉行エイスケは数少ない気心の知れた友人だった。「水際立った美少年型」の彼は、どこへ行ってもモテていた。そのエイスケは34歳という若さで亡くなるが、「彼の息子の吉行淳之助(ママ)が、そっくり彼のあとを継いだ趣きのあるのも面白い」。

 

楢崎 勤・・・龍膽寺雄とは同い年。反プロレタリア=非プロレタリアの作家を招集した「十三人倶楽部」の仕掛け人中村武羅夫の下、新潮社で編集者として活躍するかたわら、モダニズム作家のひとりとして小説も発表した。「どこか女性的にヒネこびた、狷狭不介(けんきょうふかい)な性格」で周囲を手こずらせたと龍膽寺雄の人物評は手厳しいが、あけすけで気取らない性格の持ち主である龍膽寺雄とは真逆ゆえ、お互いにいまひとつ相性がよくなかったのではないか。新潮社の新興芸術派叢書のなかでは彼の『神聖なる裸婦』が龍膽寺作品のつぎに売れたというが、それにかんしても「題名がよかった」だけとつれない。龍膽寺雄によれば、楢崎はすでに当時老大家であった徳田秋声に私淑している「旧い文人気質を体臭に持つ人々」のひとりで、「社会思想的にはこれという主張を持っていない」といい、vsプロレタリア派という面でもあまり頼りにはされていなかったようだ。楢崎に対して晩年の龍膽寺が辛辣な態度をとる理由は、作家としての不遇時代に、新潮社の編集者として力のあった彼が手をさしのべてくれなかった恨みも、あるいはあるのではないだろうか。

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久野豊彦・・・龍膽寺雄楢崎勤よりも5歳、吉行エイスケよりは10歳年長である。「新興芸術派」の作家の中で龍膽寺雄ともっとも気が合い、頼りにされていたのは久野豊彦だったろう。モダニズム文学について「久野豊彦、浅原六朗、吉行エイスケ、中村正常、私などをのぞいて、はっきりそのメンバーに加えるべき者は、他にいない。楢崎勤にしても岡田三郎にしても船橋聖一にしても、いくらかモダーニズムがかった作風の作品を書いただけで、純然たるモダーニズムとはいい難い」。そう龍膽寺は述べる。いや、むしろ「モダーニズムや新興芸術派の文学運動は誰が起こして、その主流には誰がいたか、と改めて訊かれると、私や久野豊彦を除くと、誰もいなくなる」。

 龍膽寺と久野との出会いは、昭和3(1928)年7月の雑誌「新潮」にふたりの作品が掲載されたのがきっかけであった。龍膽寺雄は、久野の『シャッポで男を伏せる女』を読み衝撃を受ける。こんな作品を書くなんてよほどの天才にちがいない。じっさい久野豊彦は、小説家であると同時に反マルクスの立場をとる経済学者という異色のプロフィールの持ち主でもあった。作家としては、吉行エイスケとは文芸誌『葡萄園』の同人であり、また後に浅原六朗と「新社会派」という立場をとることになる。そういった事実からも、「新興芸術派」の兄貴分的な存在として慕われ、久野が彼らと龍膽寺雄との接点になっていたと捉えることもできるだろう。「どこかヌーボーとした面持ち」で「鼻っぱしばかり強い私の論理を、大人(たいじん)の風格をもって見おろし」、おだやかにあしらう久野に龍膽寺は全幅の信頼を寄せていた。

 ところで、プロレタリア派に対抗すべく「新興芸術派」を起こそうとかんがえた龍膽寺雄は、当時愛知県に暮らしていた久野豊彦を訪ねてゆく。昭和4(1929)年の大晦日のことである。久野は東京で起こしたある「恋愛事件」をきっかけに、夫人を伴って知多半島の大野町というところにある尼寺の庫裏に隠棲していたのだ。龍膽寺の説得が功を奏し、翌春東京でふたりは再会することになるのだが、この「幕間劇」ではそんな女好きの久野がからかわれていて思わずニヤリとしてしまう。そして、写真にみる久野豊彦はちょっとムーミンに似ている。

 

【ガアルの時代】

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 伊東深水が描くモダンガール 「浅春」昭和6(1931)年 木版画

 一時、テレビや雑誌で「◯◯女子」という表現をよくみかけた。「歴史女子(レキジョ)」やら「肉食系女子」、果ては割烹着姿で顕微鏡を覗く「理系女子(リケジョ)」まで乱れ咲きといった様相。なかには「都市伝説」のような存在もいてほぼカオス状態といった感じであったが、なんと戦前のモダン東京もまったく同じであった。

 昭和7(1932)年発行の社会ユーモア協会編『社会ユーモア・モダン語辞典』(鈴響社)で「ガアル」を引くと、自動車給油所でガソリンを売る「ガソリン・ガアル」、街上で広告マッチを渡している「マッチ・ガアル」、それにこのブログの第2回でもピックアップした流行を宣伝する尖端職業婦人「マネキン・ガアル」といった特定の仕事にたずさわっている女性に対する呼称のほか、カフェーや喫茶店で話し相手になってくれるという「スピーキング・ガアル」や歌舞伎役者のような物凄い化粧をした「歌舞伎ガアル」といったなにやらあやしげなものまで登場する。深夜のカフェーでモダニズム作家らの話題にのぼるのも、そんなちょっといかがわしい「ガアル」たちである。

 まず<円タク・ガアル>だが、これは円タクの助手として同乗し客引きをする女性である。なかには路上で客引きし、あたかも同乗するようなふりをしておいて実際には乗らず、運転手から手数料を受け取るなり立ち去ってしまうそんな<円タク・ガアル>も存在したらしい。

 一方、<ステッキ・ガアル>とは何者か。<ステッキ・ガアル>とは、一定の報酬でもって「杖」の如く寄り添って銀ブラにつきあってくれる女性をいい、『日本歓楽郷案内』(竹酔社 昭和6年)の著者酒井潔によれば、その言い出しっぺは「文壇の不良新居格(にい・いたる)氏」だという。それが、昭和4(1929)年の春、雑誌「新青年」のゴシップ氏(=ゴシップ欄の担当者)によって取り上げられたのをきっかけに広まる。

 とはいえ、この<ステッキ・ガアル>にかんして言えば、その実在はかなり疑わしい。たとえば、安藤更生は「安文士どものリテラリイイメエジさ。第一そんなものが商売として成り立つわけがない」とバッサリ斬り捨てる。ところが、面白がって新聞や雑誌が飛びついたものだから、ついには「事実ゐるかどうか分かりもしないのに、警察では厳重な取締りを始め」る騒ぎにまで発展する。酒井潔いわく「蓋(けだ)し、ナンセンスの逸品」。

 思いがけない拡散にあわてたのは、言い出しっぺとされた新居格である。事の成り行きを説明した「ステッキガール抗弁」なる文章を書いている。それによると、カフェーの片隅で気の置けない仲間相手に軽口を言ったのが、思いがけず広まってしまったのだという。ーーー「君、この間、君が一緒に歩いてゐた人は誰だね」「あれかね、あれは云はばステツキさ」。たしかに、そもそもの〝発端〟は自分にある。そう潔く認めた上で彼は続ける。「わたしが幾年か前つい口に出した自分は単なる比喩でしかあり得なかつた。そして一寸した対話の上での使用で、きはめて私事的のものであつた。ところが数年後の今日ガールといふ名詞を後に附けて新聞雑誌の上で活字となつて現はれると、事実のあるなしは第二段として、社会的客観性を具有するに至つたのである。」だからといって、<ステッキ・ガアル>が実在するかといえば「存在してはゐないのであらうし、また存在すべき理由がない」と新居は断言する。ただ、時代が変わり風俗が変わるなかで、仮にそれが「ありえても少なくとも突飛ではあり得ぬと云ふ程度にあつた」。なるほど、<マネキン・ガアル>とは、時代の空気が育てたキャラクターということなのかもしれない。

 幕間劇での作家たちのおしゃべりに注意深く耳をかたむけてみよう。<実話><街の猟奇談>といったフレーズがきこえてはこないだろうか。真実よりも、ありえそうなこと、あったらおもしろいことをこそ彼らはより積極的に語るのだ。そこに、いってみれば〝モダニズムの気分〟のようなものがある。「何も僕の実験談てわけじゃないがね」ーー彼らがまことしやかにステッキ・ガアルについて語るとき、やはりこの言い訳がカッコの中にしまわれていることはぼくらも承知しておこう。それが〝モダン東京の歩き方〟でもある。

 

さて、思いがけずこのパートがずいぶんと長くなってしまった。最後のパート(アウトロダクション)は次回のお楽しみに。

龍膽寺雄『甃路(ペエヴメント)スナップ ー夜中から朝まで』を読む(第7回)

龍膽寺雄『甃路スナップ』を読む 昭和5(1930)年

 復興期の東京に出現した数多くのビルディングのなかでも、とりわけ〝フォトジェニック〟という点で図抜けていたのは、丸の内にあった東京中央電信局だったのではないか。龍膽寺雄は、夜空に屹立するその中央電信局のビルディングを都市の〝頭脳〟に見立てるところから話をはじめる。

 なお、全体は #イントロダクション(導入) ー #エピソード(1) ー #エピソード(2) ー #インターバル(幕間劇) ー #アウトロダクション(終結)という5つのパートから構成されるが、今回はまず#エピソード(2)までとりあげる。

 

#イントロダクション

 丸の内中央電信局の宏壮な化粧煉瓦の伽藍は、まさに不眠症にかかった都会の脳中枢。燐色の花火が太平洋の夜を挟んで、電波のジャズを奏で、全世界のいらだッた神経網がここに集約されて、火事の様に窓々が燃えて居ます。

 カチ、カチ、カチ、カチ。

 ジジ、ジ、ジ!

 地球を網包みした海底電信。

 地球をヴェールでくるんだ短波長のウェーヴ。

 極東日本の夜の脳髄!

 

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東京中央電信局(大正14(1925)年) 設計は、当時逓信省経理局営繕課に在籍していた山田守。他にも山田の作品には、聖橋、日本武道館京都タワーといったおなじみの建造物が多数含まれる。画像参照元郵政博物館

 

【新興芸術派と分離派建築会】

 龍膽寺雄は、自分たち「新興芸術派」について「格別統一した一つの文学理論や、一つの傾向というものがあるワケじゃない」と語っている(『人生遊戯派』昭和書院)が、これはそのまま、「東京中央電信局」を設計した山田守が堀口捨己石本喜久治らとともに起こした「分離派建築会」(以下「分離派」と略)にもあてはまる。

 分離派は、大正9(1920)年、当時東京帝国大学建築学科に在籍していた学生有志により結成されたグループで、彼らのマニフェストともいえる「分離派宣言」では高らかに「過去の建築圏からの分離」が謳われる。建築にまつわる過去のあらゆるイズムに囚われることなく、真っ白い紙にむかって思いのままにペンを走らせるように新しい時代の建築を創造することこそ、彼ら若い建築家たちが理想とするところであった。そして建築にもより高い創造性を求める結果、当然のように芸術性に接近してゆく。統一した様式や理論を持たないことは、後に雑多な印象、安易な折衷主義、粗悪な模倣品の氾濫といったべつの問題を生じることになるのだが、結成当時の彼らは、ウィーン分離派ドイツ表現主義をよりどころに清新な気持ちで新時代の建築に取り組んでいった。逓信省の職員として設計に携わったこの「中央電信局」のビルディングも、まさにそうした気概をもって力強く産声をあげたのだった。

 荒っぽくまとめてしまうと、主流派に対するカウンターとして華やかに登場し、統一した様式や理論を持たず、また多分にエピキュリアン的であるという点において、ぼくは龍膽寺雄ら「新興芸術派」と山田守ら「分離派建築会」とはとてもよく似ているように思う。それゆえ、ぼくはここで龍膽寺雄と山田守とが握手している姿が目に浮かんで思わずニヤリとしてしまう。

 

【最新技術のランドマークとしての中央電信局】

  この中央電信局の「宏壮な化粧煉瓦の伽藍」に、龍膽寺雄は新たな感覚の萌芽をだぶらせる。それは、「つねに世界につながっている」という感覚だ。

 通信技術は、これまでの電信ケーブルによる有線方式にくわえ、昭和2年になると世界各地で短波を利用した無線方式の実用化が相次ぎいよいよ新時代に突入する。日本でも同年5月1日、正式に国内無線が稼働する。そしてこの『甃路(ペエヴメント)スナップ』が書かれた昭和5(1930)年の10月には、ロンドン海軍軍縮条約の批准を記念した日英米の宰相による演説が無線によって行われ、日本からは検見川の送信所を介して浜口雄幸首相の声を海の向こうまで届けることに成功したのだった。パラボラ型のアーチが連なる山田守の「東京中央電信局」は、地球が海底ケーブルによって「網包み」され、また短波長のヴェールによって「くるまれ」ることで世界がひとつにつながった時代を象徴する、まさにランドマークなのだった。

 

【燐色の花火が奏でる電波のジャズ】

 それにしても、電波のジャズとは、なんて〝昭和5年的〟なフレーズなんだろう。

 この時期、たしかにあちらこちらで「ジャズ」という単語と出くわすが、それがいつも音楽の「ジャズ」を表しているかというとそうでもない。昭和5年当時、「ジャズ」という言葉が喚起するイメージは現代よりもずっとずっと広かった。

 狂騒、リズム、興奮、斬新なハーモニー…… これらは、ほぼ音楽としてのジャズに起因するイメージだ。そしてこの時代、「ジャズ」はほぼ「ダンス」とセットで聴かれていたはずである。したがって、そこにはさらに、都会的、最新モード、官能、尖端的…… といった「ダンス」のイメージも盛り込まれてゆく。ひとつの「ジャズ」という単語で、これだけ多岐にわたるイメージを喚起させることができたのである。

 ところで、1968年にリリースされたフランス・ギャルの曲に「Le Coeur Qui Jazze」というのがある。邦題「ジャズる心」。フランス・ギャル父親で、作詞家のロベール・ギャルが詞を書いている。

 タイトルにある「Jazze」は、おそらく音楽の「JAZZ」が動詞化した「Jazzer」の活用形と思われる。つまり、フランスでもまた、ある時期から「ジャズする」といった使い方が一般化し、あわせて「ハートがジャズる」といった多分に感覚的な表現がなされていたことがわかる。フランスに「Jazzer」という動詞がいつごろ誕生したのか定かではないが、欧米でジャズが流行した1920年代以降と考えてよいと思う。とすると、欧米のみならず日本でも、ほぼ同時期に、この「ジャズ」という言葉が蔓延したと考えてよいだろう。そしてなにより面白く感じられるのは、当時の世界じゅうの都市生活者が、「ジャズ」という単語に含まれる多彩な意味を感覚的に共有していたことである。そういえば、この『甃路(ペエヴメント)スナップ』が収録されたアンソロジー『モダンTOKIO円舞曲』も「世界大都會尖端ジャズ文學」叢書と銘打たれていたっけ。

 昭和5年の読者には、「電波のジャズ」なんて思わず首をかしげたくなるような詩的なフレーズも、デューク・エリントンと同じくらい魅惑的だったにちがいない。

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 フランス・ギャル 

 

#エピソード(1)

 泥の様に腐った水面に、赤くに濁った夜空を映して、新装成った数寄屋橋の袂には、老いぼれた男乞食が一人、哀れッぽい借りものの子供を二人抱いて、冬の頃から持ち越した甃路(ペエヴメント)の冷たさに、骨と皮 とのマッチの様な臑(すね)を投出して居ます。

 破れたボオル箱には一銭銅貨が三枚。

『おウい!』

 フラリフラリと脚をもつらして通りすがった酔ッ払いが二人。

『ど、どこへ行くんだい一体。』

『新、新宿?…… 遊郭か?』

莫迦ア云え。…… 古、古風なことぬかしアがる。ステッキ・ガアルでも捉えろ。…… よウ待て、乞、乞食が居アがる。やい父ッつアん。し、暫く。御機嫌よう。…… 何でえ、父ッつアん! それア父ッつアんの倅(せがれ)か? え、倅だ?…… おウい大将! ちょいと待てッてことよ。あれ行ッちまやがる。情知らねえ野郎だな。…… おい父ッつアん。訊いてるんじゃねえか。なに、倅だ?…… 倅にしちゃア酷えことしアがるじゃねえか。何でえ! そんな地びたへなんぞ転がしきアがって。犬猫じゃあるめえし。…… なに、そこア地びたじゃねえ? 橋の上だ? 莫迦云え。俺等(おいら)ア土足で歩いているじゃねえか。コンクリだッて地びたのうちだい。ふざけてアがる。…… 見ろい、頰ぺたコンクリへ押付けて寝てるじゃねえか。寒いもんだから二人で抱合ってら。可哀いそうに、よしよし。…… 何と汚ねえ餓鬼だな、手前の餓鬼は。銭湯へ連れてけ銭湯へ、たまにア。…… おウい! あん畜生厭やに遠くへ行ッちまやがったな。何でえ、人情のねえ野郎だ。…… おい父ッつアん。子供が可哀いそうだから、何かくれてやりてえが、合憎(あいにく)酔っ払ってて財布が出ねえ。また明日来らア。それまでそこに居ねえ。ナ。…… アバヨ。…… なに?毎度あ有難うッて、ふざけるねえこン畜生! なんにもまだくれてアしねえじゃねえか。おい。皮肉を云うねえ皮肉を。……』

 ケララケララケララ

 流星の様に闇を流れて来た眩しい自動車のヘッドライト!

『危ねえこン畜生! …… やい、酔ッ払い自動車。ちッたア気をつけて歩けえ。莫迦野郎。…… ウイ! …… 大将、どこへ行ッちまいやがった? おウイ! …… あ、あんなとこに小便してアがる。どうでえあのざまは。フラフラと電車通りへヒヨグラしやがって。…… よウし、そんなら俺等(おいら)もしてやろ。』

 

【河畔に出現した美観地区】

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鈴木信太郎「東京の空(数寄屋橋附近)」昭和6(1931)年・油彩

朝日新聞社の社屋から描かれた数寄屋橋の様子。中央を流れる外濠川に石造りの橋がかかっている。画面左手は銀座方面、右手が日比谷方面。橋の左手の木々が固まって生えているあたりが数寄屋橋公園。その奥には泰明小学校の校舎が見える。

 

 すぐれた性能のズームレンズさながらに、龍膽寺雄の「目」の焦点距離は変幻自在だ。ついさっきまで丸の内で「中央電信局」のビルを見上げつつ、「短波長のウェーヴ」にくるまれた地球をみつめていた彼の目は、つぎの瞬間には橋の上のひとりの男乞食の姿をとらえる。ここにも、モダン都市が綾なすコントラストがある。

 まずは、いま乞食がたたずんでいる昭和5年の数寄屋橋にカーソルを合わせてみる。数寄屋橋のある有楽町界隈は、いまの感覚でゆくとざっくり銀座エリアの一部と捉えられがちだが、戦前はちがった。かつて銀座は、4つの掘割ー 外濠川、汐留川、京橋川、三十間堀川にぐるり周辺を囲まれた中洲のようになっていて、橋を渡らないことにはたどりつくことのできない土地だった。ほとんどの掘割が埋め立てられ、「橋」といってもわずかに地名に残るばかりのいまとなっては、そんな水に囲まれた当時の銀座の様子を思い浮かべるなんて絵に描いたオムライスを眺めて満腹になれるくらいの豊かな想像力でもない限りなかなかむずかしい。

 数寄屋橋もまた、そうした銀座へのアプローチのひとつとして外濠川にかかる橋のひとつであると同時に、銀座のある京橋区と有楽町のある麹町区、ふたつの区を隔てる境界でもあった。つまり、ここにとりあげられる「数寄屋橋」は、銀座の側からみれば〝町はずれ〟であり、きらびやかな銀座の中心部とくらべると淋しい場所だったことだろう。

 大正3(1914)年生まれで、数寄屋橋の河畔に建つ泰明小学校の卒業生である池田弥三郎は、小学生のころ、つまり震災前の数寄屋橋界隈について述懐する。(泰明小学校の)木造モルタル3階建の校舎のかたわらに見附跡の閑地(あきち)があり、そこはしばしば数寄屋橋を渡って侵入してくる麹町区の子供たちとの〝決闘〟の舞台となった。銀座の目と鼻の先とは信じがたい、なんとも長閑な光景が広がる。

 そんな数寄屋橋界隈の様子が一変するのは、昭和4(1929)年のことである。それまで木造だった橋は堅固な石造りの二連アーチ橋に架けかえられ、銀座側の河畔にある泰明小学校も鉄筋コンクリート造3階建のモダンな校舎に生まれ変わった。さらに、数寄屋橋のたもとの広場も数寄屋橋公園として併せて整備される。これらはすべて、震災後の帝都復興事業の一環としておこなわれた。

 じつは、道路の拡充、橋の架け替え、小学校の校舎と付随する公園の整備は、帝都復興事業の3本の柱であった。じっさい、新しい数寄屋橋は全体で576におよぶ「復興橋梁」のひとつとして、また泰明小学校の新校舎は「不燃」を考慮した「復興小学校」のひとつとして計画されたものだ。数寄屋橋公園については、広さの問題か「復興小公園」のうちには数えられていないものの、それに準じたものとして整備されたとかんがえられる。つまり、昭和5年当時の数寄屋橋の景観は、復興事業によって生まれ変わった新しい東京のモデル地区のような様相を呈していたことになる。

 さらに、それに先立つ昭和2(1927)年、数寄屋橋の有楽町側のたもとに朝日新聞社の社屋が建っている。この大型客船のようなユニークな社屋を設計したのは、「中央電信局」の山田守とともに「分離派」を立ち上げた石本喜久治である。町はずれの、どこか場末の雰囲気が漂う数寄屋橋界隈に、突然、最新式の美観地区が誕生した。それを、龍膽寺雄が見逃すはずがない。

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『甃路(ペエヴメント)スナップ』が書かれた前年、昭和4(1929)年に新装された数寄屋橋のアーチ橋。銀座側より日比谷方面を臨む。

 

モダニズム文学の流儀】

 端正なフォルムの小学校や橋の出現によって〝町はずれ〟の寂れた印象を一新した数寄屋橋界隈ではあるが、その橋の上に張り付いた一点の「染み」だけは拭き取ることができない。「老いぼれた男乞食」の存在である。

 モダン都市の輝かしい肖像を描きつつも、その裏面への目配りを忘れない龍膽寺雄。それは主義とか主張とかのなせるわざではなく、いわば彼の「目」のよさ、どんな小さな濁りをも見逃さない卓越した解像度を持ち備えているがための宿命である。この『甃路(ペエヴメント)スナップ』では、文字どおり、無数のエピソードが机の上にばらまかれたスナップ写真のように羅列されてゆく。けれども、龍膽寺雄はその一枚一枚に対してなにか特別な順位や思想をあたえることはしない。主音も属音もそこには存在しない。シェーンベルクの12音技法のように「並列」してゆくこと、それが多面体からなるモダン都市を描く「モダニズム文学」のスタイルなのである。龍膽寺雄は、この「モダニズム」的態度について自伝的小説『人生遊戯派』のなかで次のように定義している。「モダーニズムとは、要するに、新しいものすべて一応肯定して取り入れる。そして、その批判は、その後に来るものにすべて委せる、という態度をいうのだ」。

 たとえ、たまたま並んだ2枚のスナップ写真ーー「新装なった数寄屋橋の美観」と「その美観に似つかわしくない哀れな乞食の姿」ーーのあいだに思わぬ相関関係を見出し、当惑したとして、龍膽寺雄はなんの答えも読者にあたえてはくれない。はたしてそこに何を見るか? それはぼくらひとりひとりの問題である。

 

【流星の様に闇を流れて来た……】

 数寄屋橋のペーヴメントを、ふらふらと千鳥足でこちらにやってくる酔っ払い。見ているこちらの方がハラハラするような足取りだ。そこに突然、夜道を一台の自動車がやってくる。そのあらわれ方に注目したい。ーー流星の様に闇を流れて来た眩しい自動車のヘッドライト!」

 昭和5年、自動車は暗闇を引き裂いて「流星の様に」強い光としてあらわれる。いま自動車のヘッドライトを見て、そこに流星を重ねるひとはあまりいないかもしれないが、この記事の第1回でもとりあげたとおり、モダニズムはまた「スピード」競争の時代であり、その意味で「スピード」を描くことはそのままモダニズムの表現たりえた。

 1930年代の自動車の広告(下図)には、ちょうど流星のように、実際にはありえない下から見上げるアングルから描かれた自動車や、飛行機や流れる雲といったスピード感の表現が目立ってくる。酔っ払いもオチオチ道を歩いてはいられないような時代に突入したのである。

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#エピソード(2)

 夜の十一時。

 表銀座の店々は大扉(おおど)をおろして、夜店の列はあわただしく屋台を片付け、灯りの白けた甃路(ペエヴメント)、夥しくそこらに散り敷いて居る広告のチラシ、二人三人とかたまってヨロヨロ泳いで行くのは、バアやカフェから時刻で閉め出された酔ッ払い客。

 円タクの一聨(いちれん)が甃路(ペエヴメント)の両側を流れて、運転台の窓々から掏摸(スリ)の様に光る眼が、行人を物色するんです。まさにこれ近代都市神経の尖端!

『目、目白の文化村? さア、…… 二、二円は戴かなくっちゃ。え? …… しかし郊外は帰りがありませんから。…… じゃ、一円五十銭じゃ? 一円? 御冗談でしょう。とても。……』

『どちら? 目白の文化村? …… よろしゅうござんす。一円で参りましょう!』

 ゴム輪の車はゴムの様に伸縮自在。

 と、ーー

 凄まじいサイレンに警鐘を連打して、ものものしい真ッ赤な消防自動車が、砂塵を捲きたてて寝鎮まった街路を疾駆するんです。

 まさに、夜の通り魔!

 それにしても、火事は?

 が、東京の深夜の空はあけがたの様に明るく静かです。

 

【郊外生活と龍膽寺雄の〝目白会館〟】

 東京が膨張してゆく過程については、越沢明『東京の都市計画』(岩波新書)にくわしい。長くなるが、引用しておく。「震災前の東京では、山の手とは本郷、駒込、牛込、麻布、白金、高輪の一帯をさしていた。これらの地域は武蔵野台地の東端にあたり、高台の旧大名屋敷は大学、大使館、邸宅地となり、谷戸、低地にある旧町家は商店街、町工場、長屋となっていた。大正期に入るとこれら旧山の手の住宅地が飽和状態になり、第一次世界大戦の好況もあって、省線山手線の駅に近い地区から近郊農村の都市化が始まった。代々木、淀橋一帯の茶畑や練馬大根で名高かった長崎村の畑に住宅地が建ち始めるのは、このときからである。郊外に住宅を求めた人の多くは、当時、社会階層として形成されつつあった都市の中産階級(学者、官僚、軍人、会社員などの知識人、俸給生活者)の人々であり、作家、芸術家など文化人も少なくなかった」。さらに、震災がそれに拍車をかけ、昭和7(1932)年には35区からなる「大東京市」が誕生した。かつての東京、下町と山の手とを取り囲むようにして、こうして新興の中間層のためのコミュニュティーが次々とつくられてゆく。

 このエピソードに登場するのもまた、そうした郊外の新興住宅地に暮らす俸給生活者(サラリーマン)のひとり。夜11時、そろそろ家へ帰ろうという彼が円タクの運転手と値段交渉をしている。行き先は、目白の文化村。

 「目白文化村」とは、大正11(1922)年から翌12(1923)年にかけて箱根土地開発株式会社によって開発された分譲住宅地で、豊多摩郡の下落合近辺(現在の新宿区中落合2〜4丁目、および中井の一部)にあった。電気、ガス、上下水道を完備、とりわけ水洗トイレの導入は当時としては画期的だった。どうやら「目白文化村」の人気はかなりのものだったようで、第1期から第4期まで場所を変えつつ販売が続けられ、エリア内にはテニスコートや野球場といったスポーツ施設、それに住民が利用できるクラブハウスなども備えていたという。住人は役人や会社勤めの俸給生活者のほか、こうした田園生活に憧れを抱く作家や芸術家、学者なども集まり独特の文化的な空気を醸し出していた(なお、目白文化村については、落合道人様によるすばらしく充実したウェブサイト『目白文化村1922〜2005』を参照させていただいた。興味のあるひとはぜひ訪れていただきたいと思う)。

 ところで、目白文化村と龍膽寺雄とのあいだには深いつながりがある。じつは、昭和3(1928)年の6月から昭和5(1930)年の6月ごろまでの約2年間、龍膽寺は下落合の「目白会館」というアパートに暮らしていたからである。つまり、この『甃路(ペエヴメント)スナップ』を彼は目白で書いたことになる。

 回想によれば、家主とのトラブルでそれまで暮らしていた新宿柏木の貸し間を追い出されることになった龍膽寺雄に、この「目白会館」を斡旋したのは彼の親友の今井栄だった。龍膽寺によると「目白会館は、東京で民営のアパートとしては、確か最初のもので、かれこれ二十室はあるコンクリートの二階建て」で、二階の中央には共有の応接間があり、階下には広い食堂や共同浴室、ビリヤード場や麻雀室も完備していた。また、庭園風になった屋上では、住人同士よく集まってはスイカを食べたりお月見をしたりと愉快な時間を過ごしたと当時の思い出を語っている。また、昭和4(1929)年の夏には、「銀色に角張った葉巻形をしたツェッペリン号が、東京の上空をゆっくりと通り過ぎるのを」アパートの窓から見ている。

 ところで、このころ龍膽寺雄は毎晩のように遊び歩いている。いわく、まず円タクで「新宿に出てお茶を飲み、それから、銀座へ回って夕食をとったあと、銀座から上野か浅草まで、また車を走らせて、食後のお茶を飲んで帰る」という習慣だった。移動はすべて円タクで、お気に入りはたまにあるオープン・カーのタイプ(国産のA型フォードか)だったという。このエピソードに描かれる円タクの運転手との値段交渉のやりとりは、そう思うとじっさいのやりとりに近いものだったかもしれない。

 それにしても、モダンボーイの龍膽寺雄が、作家デビューをはたした昭和3(1928)年以降、新宿柏木の貸し間〜アパート「目白会館」〜高円寺の貸家〜南林間の一戸建てと、意外にも郊外にばかり暮らしているのは面白い。ほとんどは友人今井栄の手引きあってのものとはいえ、都心でなくともさほど不便さを感じなかった理由として、懐も豊かでほとんど円タクを使っていたため移動もさほど苦にはならなかったということもありそうだ。

 さて、では、2年ほど龍膽寺雄が暮らしたアパート「目白会館」はどこにあったのだろう? これについては、先日ブログ「落合道人」の管理人様とやりとりをさせていただいた結果、おそらく目白駅の近辺と見当はついているものの現時点では正確な場所までははっきりしないとのお話だった。ただし、特定でき次第ブログにて報告してくださるとのことなので楽しみに待ちたいと思う。

 

11.Apr.2017追補

上に書いたとおり、「目白会館」について「落合道人」の管理人様に問い合わせさせていただいたところ、早速アパート「目白会館」はふたつあった?:落合道人 Ochiai-Dojin:So-netブログという記事にまとめていただいた。さらに、龍膽寺雄と下落合との意外なつながりもあわせて発見されている模様。ますます龍膽寺雄ファンとしては目が離せない展開になっている。

 

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目白文化村のすぐそばにアトリエを構えていた佐伯祐三は、この界隈で描いた数々の作品を残している。これはそのひとつで、第2文化村で描いたとされる「下落合風景(テニス)」大正15(1926)年。

 

【東京の深夜の空】

 エピソードの最後の一行も、ぼくにはまた面白く感じられた。ーー「東京の深夜の空はあけがたの様に明るく静かです」。ふつう、深夜の空は「暗く」「静か」なものではないだろうか。夜もふけ、銀座で遊んでいた人びとも家路につき、いまやすっかり街は閑散としている。そんなときでも〝不夜城〟東京の夜は「あけがたの様に」明るく、それでいて「静か」だ。矛盾しているようにもみえるが、これもまたモダン東京から生まれた新しいコントラストのひとつなのである。

龍膽寺雄『甃路(ペエヴメント)スナップ ー夜中から朝まで』を読む(第6回)

龍膽寺雄『甃路スナップ』を読む 昭和5(1930)年

 舞台はもうひとつの「ギンザ」、「山の手のギンザ」新宿へ。

 かつて、「山の手のギンザ」といえば神楽坂の専売特許であった。関東大震災の被害を免れた神楽坂は、夜店が並ぶころともなれば銀座をもしのぐにぎわいを見せたと野口冨士男も書いている(『私のなかの東京』)。それが、昭和3(1928)年秋の飯田橋駅開業に伴う大工事の混乱と西郊への玄関口としての新宿の急成長とが重なり、わずかなあいだに新宿にお株を奪われてしまった。

 新宿駅の1日平均乗降客数の推移をみてみると、大正9(1920)年からこの『甃路(ペエヴメント)スナップ』が書かれた昭和5(1930)年までの10年間でなんと4.3倍にまで膨れあがっている。特にその変化は、震災のあった大正12(1923)年以降、著しい。下町から、震災の被害をさほど受けなかった山の手へ、さらにはより郊外へと人口が移動した結果である。昭和2(1927)年、東京駅の乗降客数を抜いて日本一になった新宿駅は、昭和5(1930)年には1日平均乗降客数123,050人の巨大ターミナルへと変貌を遂げている。

 急激な変化は、その風景からも読み取ることができるだろう。山の手の「出口」であり、同時に郊外の「入口」でもあった新宿は、地理的には東京の「際(きわ)」に位置していた。こうした「際(きわ)」に特徴的な光景として、「ガスタンク」のある眺めを指摘しているのは『郊外の文学誌』の川本三郎だが、ぼくの幼い記憶の中の新宿にはたしかに巨大なガスタンクの姿がくっきり残っている。ちょうど、いまパークハイアットが建っている場所である。すぐ近くには、市内に水道水を供給するための淀橋浄水場もあった。そんな「際(きわ)」が、瞬く間に「山の手のギンザ」と呼ばれるまで急成長したのだ。そのためかどうか、新宿には、どこか砂漠に突如出現した幻影都市のような気分がある。

 

#イントロダクション

  山の手のギンザ新宿。ここも夜は灯りの海、人の渦です。夜店の列の後ろに円タクの洪水。武蔵野館では三層の観客席に人が埋まって、トオキイのラヴ・シーンにみんなで汗でもかいて居そう。

 

 夜店の列、円タクの洪水、そしてスクリーンにまぼろしを投影する巨大な映画館……ここから想起されるのは中東のバザールのような喧騒であり、庶民のエネルギーの爆発であり、とどまるところを知らない欲望の肥大化であり、また騙すか騙されるかの駆け引きの危うさである。

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織田一磨「武蔵野館」(『画集新宿風景』より)石版・昭和5(1930)年 3層の観客席の様子

 

#エピソードI

『どんなのがいい?』

『あ、た、し?』

 貴金属装身具商の飾窓(ウィンドウ)の前。

 男の短い口髭が彼女の耳元へかがみ寄ると、冷たいガラスに額をあてて居た少女は、凭(もた)れる様に彼に寄添って、ガラスの曇りと一緒に鼻がかった甘え声を漏らすんです。

『そッちの赤いのはどうだい。ルビイだろう?』

『少し赤過ぎるわね、あたしには。……』 

『じゃ向こうの紫色のは?……あれは何だ、アレキサンドリヤか?……二十三円。割と安いじゃないか。その桃色のは? いいじゃないか明るくッて。三十円。……どうだいあれは。厭やかい?』

『そう、……ね。』

 女の甘えた舌は上顎へねばりつくんです。

『あれ、いいわね。』

『欲しいか?』

『…………。』

 女は口元へ繊(ほそ)い指をやって、ガラスの曇りを拭き、一番効果的な媚態を意識しながら、男に肩を凭らせるんです。後ろは夜店をとりまいてうごめく甃石(ペエヴメント)の雑鬧(ざっとう)、夕刊売も鈴の音、自動車の警笛(サイレン)。

 ーー 小さな恋愛の取引はこんな明るいところでも行われるんで!

 男はブルジョアの青年らしい一寸隙のない瀟洒な春の粧い。女は、ーーどこか身なりも貧しく映えない子供ッぽい小娘。

 恋人?

 が、それにしては、ーー

『向こうのあの真珠のは?』

『あれ?……そう、ね。』

『そッちのは?』

『…………。』

『やッぱりその桃色か。』

 蛇の様な蒼白い華奢な男の手が、気軽に娘の肩にへ載って、しッとりとそこを抑えたまま妙にこまかく上から揺さぶると、女の息は小さく顫えて

声のない甘えた笑いが、彼女の鼻から漏れるんです。

『買ったげようか。』

『…………。』

『欲しい?』

 女の額がうなずく様に、ちょいと強くガラスに押しつけると、男は手のひらでトンと彼女の肩を叩いて、やがて朗らかな高笑いを漏らすんです。

『じゃ買ったげよう。……おいで。』

娘は男の後ろへ寄添って恥ずかしげに明るい扉口(ドア)へ。ーー

 数分後。

 彼等の姿は駅の明るい伽藍の一隅に。

『じゃ、奥さんとこへは向こうへ行ってから電話でそう断ッとくから。母さんに引留められたから今夜は泊まって、明日早く帰るッて。いいかい?お前が出てそう云うんだ。そう、公衆電話がいいな。、怪しまれないで。……俺はクラブへ行きア麻雀で徹夜なんぞは再々なんだから大丈夫。明日帰ってもお前と一緒だなンてわかりッこはない。……じゃ、お前そこで電話をかけといで。俺は切符を買っとくから。』

 娘は指の紅い宝石を弄(いじ)ってたのをよして、一寸不安な顔をして男を仰ぎ、もう一度促されると思い切った様に、そのまま外へ出て行くんです。

『五銭あるかい?』

『あるわ。……』

 男は出札口の前へ立って蟇口の金具を拡げ、五十銭銀貨を一枚つまみ出して

『大森を君二枚!』

 

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織田一磨「新宿ステイション」(『画集新宿風景』より)石版・昭和5(1930)年 東京は夜の10時

 

【モダン新宿風景】

 「光」が、このエピソードで随所にあらわれる「光」の質が、ぼくには気になる。

 「一寸隙のない瀟洒な春の粧い」のブルジョアらしい青年が、「どこか身なりも貧しく映えない子供っぽい」娘を口説いている。ルビイ、アレキサンドリヤ、真珠…… きらびやかな宝石を前に、女中とおぼしき娘はもはや陥落寸前といったところ。「貴金属装身具商の飾窓(ウィンドウ)」の前、ふたりの駆け引きはくりひろげられる。煌々と照らされたショーウィンドウは、通行人の気を引き、思わずその足を止めさせるくらいに明るかったはずだ。昼間のような、ベタっとした光。ピンスポットが、これか、あれか、といった具合に焦点を絞り見る者に決断することを促すのに対し、陳列するすべての商品を等しく照らすベタっとした光は、これも、あれも、といった具合に欲望をより掻き立て、見る者の判断を迷わせる。つまり、ベタっとした光の前では「選ばない」という選択肢じたいが存在しないのだ。ショーウィンドウの前のふたりには、ポーズはあっても迷いはない。ーー 小さな恋愛の取引はこんな明るいところでも行われるんです!

 取引は成立し、宝石店を後にしたふたりは連れ立って新宿駅へと向かう。「彼等の姿は駅の明るい伽藍の一隅に。」ーー またもや、ベタっとした光に支配された空間だ。夜の銀座が、コントラストによって彫琢されていたのとは対照的である。銀座では、モボやモガが銀幕から抜け出てきた役者のように颯爽とペエヴメントを闊歩し、ネオンサインの点滅、市電の架線から飛び散る閃光、疾走する自動車のヘッドライトが愉しげに彼らを飾り立ててくれたが、新宿では、アメリカ映画の洗練も洒脱も優雅も見いだすことはできない。そこでは、ブルジョワも女中も、宝石も夜店の造花も、貞操も快楽も、すべては等しく煌々とした光のなか剥き出しのまま並んでいる。この光、ひとりひとりから「顔」を奪い、顔をもたない「だれか」に変えてしまう新宿の光は、工場の平板な光とおなじ質のものだ。

 こうして「光」に注目するとき、まったく対照的な光景であるにもかかわらず、前のエピソードと次のエピソードとはやはりおなじ地平で読まれるのでなければならない。

 

#エピソードⅡ

 灯りに濛々と立籠めた煙の渦の中で、地方発送の新聞束を忙しくトラックへ積んで居た青年の一人が、油気のない長い髪を耳の後ろへ掻きながら、しみじみと仲間につぶやくんです。

『おい、憂鬱になるなア。……今夜一晩に東京じゅうで、幾人の娘が処女をなくすかッて考えると。……』

 しかし、コンクリートの窓の中では、高速度の輪転機が悪魔の様に呻って、めまぐるしい紙の瀑布へ世界の出来事が明日のセンセエションを予約して印刷され、冷酷なジャーナリズムはズタズタに人間社会を裁断して、その破片を鉛の活字に鋳込んでるんです。ここでは、一人の娘の貞操どころか人間そのものの命だって、莨の灰の重さほどにも価値づけられやしないんです。

 国際関係の異変、フランス大統領の喉の腫物、サヴェート・ロシヤに於ける東方政策の失敗、ロンドン軍縮会議の結果、支那の戦乱、政友会の策動、共産党の検挙、市会議員の大名旅行、富豪未亡人の失踪、小学生の轢死、鸚鵡(おうむ)病の新学説、ラジオのプログラム、月経帯の広告。

 活字躍りが描くこれら近代社会相の断片!

 新聞束を満載したマスク入りのトラックは、新聞社の発送部から西へ東へ北へ南へ、夜の巷々に砂塵を蹴立てて。ーー

 

【モダン工場風景】

 もうもうと煙が立ち込め、輪転機が高速で回転する印刷工場の「灯り」。それは、もはや昼なのか夜なのか、工員の時間感覚さえ麻痺させるようなベタっとした白い光だろう。合理性を最優先し、規格化された工業製品をひたすら生み出す「工場」という空間に、コントラストで夜の銀座を彫琢するようなきらびやかな光はいらない。工場の固く分厚いコンクリートに囲まれた内部では、世界の出来事が紙の瀑布となって輪転機から吐き出されてゆく。ふと漏らす「油気のない長い髪」をした工員のつぶやきも、そこでは、あっという間に煙の渦と轟音にかき消され押し流されてしまうだろう。平板な灯りの下、めまぐるしい勢いで「明日のセンセエション」を量産する新聞社の工場では、「一人の娘の貞操どころか人間そのものの命だッて莨(たばこ)の灰の重さほどにも価値づけられやしない」のである。

 のっぺりとした白い灯りは、すべてのものから陰影を奪い、平らにならしてしまう。そこに個人の感傷や感情が入り込む余地はない。ルビイや真珠、フランス大統領の喉の腫物や鸚鵡(おうむ)病の新学説、それに気になるあの娘の貞操も、あれもこれも、そこでは同じように陳列棚に並び取り引きされる。龍膽寺雄が、モボやモガのいる銀座の甃路(ペエヴメント)を離れ、ここでサラリーマンや労働者が主役を務める「新宿」と「工場」というトポスを選んでいることにぼくは興味をおぼえずにはいられない。

 これもまた、多面体からなるモダン都市東京の、まちがいなくひとつの断面だからである。

 

#インターバル

 浮気なジャズを跫音(あしおと)で消して、とめどなく床に輪を描く踊りの客の群れ。

 ダンスホオルはまさに夜の盛り時です。

 香水。

 腋臭(わきが)。

 莨(たばこ)の煙。

 罌粟(けし)の花の様な踊り衣粧。

 入れ黒子(ぼくろ)。 

 白粉(おしろい)の胸についたタキシード。

『このステップどうだい?』

『変なのね。家鴨(あひる)みたいだわ。……何ての?』

『おッしゃる通り! 漂浪家鴨(ワンダアリング・グウス)ッて奴さ。』

『厭アね。本当?』

『俺等(おいら)の発明さ。』

 

ダンスホールの匂い】

 香水。腋臭。タバコの煙。ダンスホールはまず、なにより「嗅覚」によってとらえられる。谷崎潤一郎の小説『痴人の愛』(大正14年)でも、「まだ見たこともなゐ海の彼方の国」や「世にも妙なる異国の花園」を想起させるダンスの「異文化」性は、もっぱら「香水と腋臭との交じつた、甘酸ッぱいやうなほのかな匂ひ」によって立ち現れる。たしかに、鹿鳴館のむかしに遡るまでもなく、ダンスに興じる男女の姿、華やかな衣裳、ワルツやタンゴをはじめとする種々の舞踏音楽といった視覚あるいは聴覚を介して得られる情報について知ることはけっして難しくはない。が、「匂い」ばかりはそうはいかない。それは、実際にダンスホールという「現場」に足を踏み入れ、バンドが奏でる音楽を全身で浴びながらおぼつかない足取りでステップを踏んでみてはじめて得ることのできる情報だからである。

 そして、「ケシのような艶やかな衣裳」を挟んで、入れ黒子、白粉の胸についたタキシード、とつづく。どちらも肉体どうしの接近、あるいは接触を想起させるモチーフといえる。「匂い」同様に生々しいイメージで、龍膽寺自身ダンスを楽しんでいたことがこんなところからもよく伝わってくる。じっさい、晩年のあるインタビューで彼はダンスに熱中した時期を次のように回想している。「私も高円寺の屋敷にホールを作りまして、ビクターの最高の蓄音機を据えまして、菊地梅子ってダンスの先生に出張教授してもらった」…… と、かなりの本格派である。

 ところで、龍膽寺雄の盟友にして新興芸術派きってのモダンボー吉行エイスケダンスホールを舞台にした昭和6(1931)年の短編から、ほんのさわりだけ引用してみる。

 

 「シャンデリヤにネオンサインが螺旋に巻きついた、水灯のような新衣裳のもとで、ローブモンタントをつけた女と華奢な男とが、スポットライトの色彩に、心と心を濡らして踊舞(ちょうぶ)するのだ。そして、ジャズの音が激しく、光芒のなかで、歔欷(すすりな)くように、或は、猥雑な顫律(せんりつ)を漾(ただよ)わせて、色欲のテープを、女郎ぐものように吐き出した。」(『東京ロマンティック恋愛記』)

 

 「ダンス・ホールの溶暗のなかで、僕たちは縫目のない肉体のように結びついた……。」(『同上』)

 

 おなじダンスホールの描写でも、むせかえるような色香を放つ吉行エイスケの表現と龍膽寺雄のそれとではずいぶん違う。龍膽寺雄の描くダンスホールは、気安い反面、どこか下世話で垢抜けない。ふたりの描く「差」はまた、銀座と新宿との差でもある。

 とはいえ、この『甃路(ペエヴメント)スナップ』が書かれた昭和5年当時、おそらく新宿には「ダンスホール」は存在していなかったはずだ。

 和田博文の『テクストのモダン都市』(風媒社)によると、東京にダンスホールが激増したのは昭和2(1927)年のこと。前年、大阪でダンスホールに対する厳しい取り締まりがあり、その結果大阪のダンスホールは壊滅状態となる。仕事にあぶれたダンサー、バンドマン、ダンスホールの経営者らが近隣の地域や東京に活路を求めて散らばったため、ダンス熱はかえって全国に飛び火する。昭和3(1928)年の末には、都下で営業するダンスホールおよび訓練所は、計33カ所にまで膨れあがっていた。その当時、新宿には「國華」(後に八丁堀に移転)があったが、おそらく規模のより小さいダンスホールはもっとあったろう。

 昭和3(1928)年11月、こうしたダンスホールの爆発的増加をうけ、東京でも厳格な「舞踏場取締規則」が約1年間の猶予期間つきで発布される。ダンスホールは許可営業となり、新宿にあった「國華」は営業を継続するため八丁堀へと転出する。ふたたび新宿にダンスホールが出現するのは、馬喰町の「パルナス」が「帝都座」(いまマルイ本館のあるところ)の開業にあわせて「帝都舞踏場」として再スタートを切る昭和6(1931)年5月まで俟たねばならない。つまり、昭和5(1930)年の新宿は、まるまるダンスホールの空白期間だったわけである。

 もちろん、龍膽寺はこのスケッチの舞台が新宿であるとはひとことも言っていない。とはいえ、おどける男に調子を合せるこの女のざっかけなさ、やりとりの単純さはいかにも新宿らしいとは言えないだろうか。おなじダンサーにもかかわらず、「もっとモダンに!」と男にハッパをかけていたあの前回登場した女とは大違いである。けれども、こういう新宿らしい情緒もまた悪いものではない。龍膽寺は、かつて新宿のどこか場末にあった小さなダンスホールの面影をここにそっと忍ばせた。そんなふうに思いたい。

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高円寺の自宅でダンスに興じる龍膽寺雄夫妻。昭和6(1931)年頃〜「太陽」1987年11月号(平凡社

 

【日常と地続きの都市】

 今回「下町」の銀座を離れたぼくらは、もうひとつの銀座、当時「山の手」の銀座といわれた新宿にやって来た。そしてぼくは、ふたつの「銀座」のあまりの落差に正直なところ当惑している。銀座の甃路(ペーヴメント)の華やぎは、ここ新宿には見あたらない。人の数は本家の銀座にも劣らないし、映画館もカフェーも百貨店も宝石店もたいしたにぎわいにもかかわらず、ウキウキするような「楽しさ」にどこか欠けている。それがどうしてなのか、ぼくはずっとアタマの隅っこで考えながら読んでいた。

 新宿は、すでに上で書いたように、西郊へのターミナルとして急成長した街である。それゆえ、新宿で遊ぶ人びとの多くは西郊に住んでいるサラリーマンだった。つまり、彼らは会社から自宅への帰路、〝途中下車〟して新宿に一時の楽しみを求めた。銀座が、わざわざ出かけてゆく街、〝目的地〟であったのとはずいぶんちがう。新宿は、言ってみれば、「利便性」という肥料を投入されることで異常なスピードで成長した独特の成り立ちをもつ都市といえる。「経由地」である新宿は、それゆえ、つねに「仕事」と「家庭」につながっている。新宿から見渡せば、一方の先に「職場」が、そしてもう一方の先に「家庭」がある。新宿は、その意味で日常と地続きの都市である。

 新宿のペーブメントを照らす光は、さながらスポットライトのように人をべつの「誰か」に変えてしまう銀座の光とは異なり、ただありのままの姿をそのままに照らす平板な白い光だ。そこにコントラストは生まれない。けれども、いや、だからこそ、新宿ではひとはただ「素顔」のままに振舞うことができる。そこにはどんな難しさも鬱陶しさもない。そういう〝コンビニエンス(お手軽さ)〟こそが昭和5年の新宿の魅力であり、それはきっと現代の都市のあり様を先取りしていた。

龍胆寺雄『甃路(ペエヴメント)スナップー夜中から朝まで』を読む(第5回)

龍膽寺雄『甃路スナップ』を読む 昭和5(1930)年

 話は前回のつづき。夜の銀座。ふたつめの#エピソード

 ケララケララケララ

 自動車が尾張町の角でグイと急速に輪を描くと、女はひとつクッションに揺すぶられてた男の膝を、繊(ほそ)い指で突ッつくんです。

『ちょいと、どこへ行くのよ?』

『識(し)らないよ、僕ア。』

『まだこのひとは慍(おこ)ッてんのね。ギンザへ行けッて云いつけて、ここはギンザじゃないの。……あてのないとこグルグル廻されちゃ、運転手さんが迷惑するわ。どこへ着けるのよ。……ここらで降りる?』

『降りたかッたら勝手に降りたまえ!』

『厭アなひとね! そんなにさッき云ったこと気にかかるの?……そんなら、あんな話持ち出さなかったらいいじゃないの。自分から持ち出して、厭アだッての無理やり白状させてさ。それを気にかけて自分で腐ってるなンて、街のこの灯りを御覧なさい。そんなあんたの古風な感情なンて、ここじゃまるで影みたいじゃないの? 他の男には誰一人顧みられないなンてそんなあたしが女だったら、それを恋人にしてるあんたこそ恥じだわ。……五人の男があたしに秋波(いろめ)をつかうよりか、十人の男があたしに秋波をつかう方が、あたしを捉えてるあんたにしちゃ腕があがるッてもんよ。……第一、今どきに愛の恋のなンて、……あ、運転手さん。そこらでグルッとひと廻りしてよ。この通りをズウッと流して。新橋まで、ね。急がないでもいいわ。……愛の恋のなンて、そんな暇があったら、それこそマルクスの一冊も読んでみるがいいわ。せめて世の中は裏返せないにしたって、あんた一人が裏返せたッて、ちょいとは気分が変わるッてもんよ。……ダンサアを恋人になんぞ持つんだったら、それだけの気持ちで居なきアだめ。……踊り場へ忍んで来て、誰と何遍踊ったの、誰と踊る手つきが怪しいの、チケットを一度に何枚どうしたのッて、ウフ! 莫迦々々しい。何人でも男をあたしがつかまえたら、あんたの恋人の腕じゃないの。少しはあたしに教育されてよ。ダンサアを恋人にしてるんならダンサアを恋人にしてる様に、もッとモダンに! ね。……しんからあたし浮気をする気なら、あんたとこんなことになってアしないわよ。それだけは信じてよ。ね?』

 段々と彼女の頬ぺたが寄ると、モシャモシャと縮らかした煙の様な断髪が、男の耳を擽(くすぐ)って、挑む様な口紅がそッちへ尖って伸びて行くんです。

『ね。機嫌直した?』

『機嫌なンぞ、別に悪くしてアしないじゃないか!』

 男の口端を何かしらこわばった、つくり笑いが掠めるんです。

『いつもあれだ。……厭やなひと。』

 女は男の膝の上で、思いきり彼の指を抓(つね)って、運転士に、

『ちょいと、ここで止めて!』

『へえ?』

『ここでいいの。……

 打ち水の上に轍が滑って、パアン! と扉が開くと、女の華奢な舞踏靴が軽々と踏床(ステップ)から、ペエヴメントへ跳ねるンです。素肌へまとった様な緋色のワンピース、透明なスタッキング、豊満な裸の肩。ーー

 

【銀座・モダンガール・円タク】

 銀座の甃路(ペエヴメント)は、ひとをなりたい自分に変えてしまう魔法の舞台(ステージ)だ。銀座では、銀座にいる限りにおいては、誰もが役者のように振る舞い、またそうすることが許された。そこでは、つまり昭和5年の夜の銀座では、自己陶酔こそがペエヴメントを行く者たちに共通の〝マナー〟でさえあった。

 さて、龍膽寺雄の高性能の眼=レンズは、いままさに銀座四丁目の交差点を曲がろうとする一台のタクシーをとらえる。東京の路上に「円タク」が登場するのは大正15(1926)年、大阪よりも2年遅い。市内を一円均一で走ることからそう名付けられた「円タク」の登場は、ふたつの点でモダニズムの隆盛にだいじな役割を果たしたといわれる。ひとつは、中間層の人びとが終電の時間を気にせず夜遊びできるようになったこと。運賃も交渉次第なので、気軽な移動手段として重宝された。そしてもうひとつ、「円タク」が都会に出現した移動する「密室空間」としてさまざまなドラマを生む場所となったことである。ズームアップした龍膽寺雄のレンズは、この「円タク」の車内を映し出す。モダン東京の夜を綾なすコントラスト、どうやらここでは「男」と「女」に焦点が絞られるようだ。

 女は、「モシャモシャと縮らかした煙の様な断髪」のモダンガール。職業はダンサー。そこそこの売れっ子らしい。いっぽう、その傍らの終始不機嫌そうな男はというと…… その女の恋人、もしくは「のようなもの」と見受けられるが、職業まではわからない。ただ、こんなダンサーと付き合えるくらいだからそれなりの経済力の持ち主とは言えそうだ。

 ところで、安藤更生に言わせれば、彼らモダン東京の登場人物たちはすべからく「アメリカニズム」の申し子だった。以下、昭和5(1930)年に出版された著書『銀座細見』から引用してみる。「今日の銀座に君臨しているものはアメリカニズムである。まず、そこのペーヴメントを踏む男女を見るがいい。彼らの扮装は、彼らの姿態は、いずれもアメリカ映画からの模倣以外に何があるか。〈中略〉銀座の女性はアメリカ映画のシーンによって男性に対する応酬のテクニックを覚え、アメリカ女の如くタクシーの中で恋をすることを見習った」。

 髪型や衣装といったファッションのみならず、アメリカ映画の影響は、しぐさや身振り、恋愛作法といった範囲にまで及ぶ。髪型やメイク、衣装ならば雑誌のグラビアを真似れば済むことだが、しぐさや身振りはそうはいかない。その点、映像というかたちでダイレクトに視覚に働きかけてくる「映画」なら完璧だ。昭和初期のモダニズムにアメリカの、とりわけアメリカ映画の影を指摘する安藤更生にはなるほど頷ける。じっさい、車内のふたり、特に「女」のほうは、そのファッション、しぐさ、言葉などすべてにおいてアメリカ映画の中から抜け出てきたような印象をあたえる。銀座で、その甃路(ペエヴメント)で、このダンサーの女は、たとえばジョーン・クロフォードのようなアメリカの女優の姿と自分自身とを重ね合わせて振舞っているのだ。だからこそ、女のとなりにいるのもまたクラーク・ゲーブルのような伊達男じゃなきゃダメなのである。恋だの愛だのといった「古風な感情」に振り回されてはいちいち不機嫌になっているような野暮な男が相手じゃ興ざめだ。「ダンサアを恋人にしてるんならダンサアを恋人にしている様に、もっとモダンに!」

 「打ち水の上に轍が滑って、パアン! と扉(ドア)が開くと、女の華奢な舞踏靴が軽々と踏床(ステップ)から、ペエヴメントへ跳ねるんです。」ーー いかにも映画のワンシーンを彷彿とさせる情景。

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 ジョーン・クロフォード ダンサーから女優に転身するも端役ばかりで目立った活躍はなかったが、1928年公開の『踊る娘達』で脚光を浴び一躍スターの仲間入りを果たす。彼女は、〝狂騒の20年代〟を象徴する自由奔放で尖端的な女性「フラッパー」として多くの女性の支持を得る。彼女を賛美したひとりには、作家のスコット・フィッツジェラルドもいる。

 

 モダンガール、銀座、円タクという3つの単語から連想される小説がある。永井荷風の『つゆのあとさき』(昭和6(1931)年)だ。銀座でカフェーの女給としてはたらく君江は、飾り気のないさっぱりとした気性がうけ銀座ではなかなかの人気者となっているが、じつはかつて小石川諏訪町で私娼をやっていたという過去をもつ。ある晩、銀座から自宅のある市ヶ谷本村町に向けて円タクを拾った君江だが、運の悪いことに乗り合わせたタクシーの運転手は君江の過去を知る男であった。彼女の「秘密」をネタに言い寄る男に嫌気がさした君江は、口論の末、自宅にほど近い場所で車を降りるのだが、彼女がステップから降りるか降りないかのうちに腹を立てた運転手が急発進したためバランスを崩し、派手に地面に転げてケガを負う。「ざまア見ろ。淫売め。」降りしきる雨の中、円タクは夜道を消え去ってゆく……。

 ここで注目したいのは、夜の銀座では人気の女給としてもてはやされる主人公が、円タクから突き落とされ面罵されるのが銀座の外、山手の市ヶ谷であるということだ。かならずしも、昭和5年の東京全体がモダニズムに染まっていたわけではなかったろう。むしろ、銀座は東京の中に出現したモダンの〝飛び地〟だった。銀座のペエヴメントは、銀幕から抜け出てきたかのようなモダンガールにとって誂え向きの「舞台」であったが、彼女を輝かせる「魔法」の効力には限度もあった。〝銀座の顔〟は銀座においてしか通用しない。黄金の馬車も、一歩銀座を離れたとたん元のカボチャに戻ってしまう。

 

#エピソードはつづく。

 

マントちょいと取って。……一円でいいわね。アラ、いつも九段から二人一円よ。一人なら七十銭!……おのろけを聴かしたから、まアまけといたげるわ。御苦労さん。……さ、いらッしゃいな。』

『どこへ行くんだ?』

『どこッて、LLよ。……それともサイセリヤ? コロンビヤ?……LLがいいでしょ? あたし百合子さんにあんたを預けて、もうひと稼ぎして来るわ。……少し酔ッ払ってクダを捲いて、百合子さんをホテルへ引ッ張り込むぐらいの器量を見せて御覧なさいナ。少しは男が練れるわよ。腕前があってあたしをポイ出来るぐらいだったら、見上げたもの。たまにはあたしに角生やしてあんたを追ッかけさしてよ。……あたし、あんたじゃ欠伸が出ちゃうわ』

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川西 英「ダンス・ホール」木版・1935(昭和10)年 画像引用元:神戸市役所「神戸百景」

 

【サイセリヤ、コロンビヤ、そしてLL】

 きっと行きつけなのだろう、女はここで3軒のカフェーの名を挙げる。

 いま、「並木通り」と呼ばれている道沿いには「サイセリヤ」があった。『銀座細見』の安藤更生によれば、「近所の客にノベツお尻をブツケられながら飲んでいなければならない」ほどの狭い店だったという。「美しい髪を長くした芸術家」の主人みずからシェーカーを振り、いかにも「カフェリッテレエル(文士カフェ)」といった雰囲気を醸し出していた。それは経営者が代わっても同じだったようで、「われわれの分際では出入は叶わなかった」と土地っ子で慶應ボーイ池田弥三郎も回想している。じっさい常連には作家や学者も多く、里見弴、山内義雄中村武羅夫といった面々が、夢二好みの黒目がちな美人「お京さん」めあてにしばしば来店した。他にも、東郷青児の前妻明代(はるよ)や恋多き女歌人原阿佐緒もサービスに立ったということからも、他の店とはひと味ちがうスノッブな空気を読み取ることができる。

 それに対して、明るく開放的なエロで人気を誇ったのが銀座2丁目の裏通りにあった「コロンビヤ」である。ここの特徴は女給がみな洋装、しかも「赤いハッピーコート」やら「小学校の先生のような黒いワンピース」やらと好き勝手なものを身につけまるで統一感に欠けていた上、接客にも気取ったところが皆無だったので、いつも店内はまるで「オモチャ箱をひっくり反したような騒ぎ」だったという。いわく、「喧噪と、ジャズと、インチキのカクテール」。室生犀星萩原朔太郎もこの店がお気に入りだった。

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 「表現派風」といわれたカフェー「コロンビヤ」の外観(『建築写真類聚「カフェー外観集・巻一」』より)画像参照元UDF blog

 

 問題は残るひとつ、「LL」である。先のふたつ、「サイセリヤ」と「コロンビヤ」が実在する店であったことを思えば、当然「LL」もまた実名であると考えたいところだが、しかしそのような名前のカフェーとなかなか出くわさない。この『甃路(ペエヴメント)スナップ』を収録した『モダン東京案内』(平凡社)の脚注も「LL」にかんしては「未詳」とあるだけだ。とはいえ、せっかくなのでぼくなりに推理して少し遊んでみようと思う。

 まず、やはり「LL」は龍膽寺雄のまったくの空想ではなく、実在するカフェーと仮定する。その上で、ふたつの可能性について考えてみよう。

 ひとつは、「LL」というのが「仮名」であるケース。それは、このエピソードに登場する女給「百合子」の名が実名であった場合、店の名前まで実名だとなんらかの迷惑が生じるのではないかという配慮から、店の名前についてぼかして表現したというケースである。当時の資料を読んでいると、カフェー「ゴンドラ」の女給のなかに「百合子」という売れっ子の名前をみつけることができる。ただ、「ゴンドラ」は地下から地上5階まですべてカフェー、女給の数は約150人という超のつく大箱である反面、その質については二流、三流と「通人」から悪口を言われたりもしたそうである。アーティスティックな雰囲気が漂う「サイセリヤ」や明るく健康的なエロが持ち味の「コロンビヤ」を龍膽寺の好みとするならば、「ゴンドラ」を同列に語るのにはやや無理を感じる。それに、だいたい「ゴンドラ」に「LL」という仮名ではあまりにかけ離れている。

 そこでもうひとつの可能性、「LL」がなにかの略称、もしくは通称であるというケースについて考えてみよう。たとえば、しばしば画家の九里四郎が数寄屋橋で経営していたレストラン「ブランシュ・エ・ルージュ」が「B・R」と呼ばれていたように(久生十蘭三宅艶子など)、である。

 そこで頭をよぎったのが、バア「オララ(O La La)」のこと。キーパーソンは、村山知義。この店の設計を手がけたのは村山知義だが、彼はまた龍膽寺雄の朋友・吉行エイスケの妻あぐりが市ヶ谷で経営する山の手美容院の設計者でもあった。そして、その3階にあったエイスケの居間は龍膽寺ら新興芸術派の溜まり場になっていた。となれば、龍膽寺雄が村山の手がけた「オララ」の空間に親しみと居心地のよさを感じていたとしても不思議はない。少し長くなるが、昭和6(1931)年に出版された小松直人『cafe jokyu no uraomote』(二松堂)から引用しておく。「オララはライオンの裏通りにある酒場である。建物の設計は、才人で、そして左翼作家たる村山知義氏。長年舞台装置その他で、きたへて来たのだけに、バーの設計をさせても光ってゐる。このオララなども氏の設計のよさを示すものの一といへよう。のぶ子、葉子「どうかと思ふわ」を口癖にする春子等の女給は、難を言へば、あまりにも固く、そしてインテリくさいが上品である」。女給が「ダンケシェーン」など挨拶にドイツ語を使ったりと珍しい趣向もあったようだが、震災前ベルリンに滞在していた村山と「オララ」の店主との間に何かそういったつながりでもあったのだろうか。

 当時、なにかと対立的に取り上げられることの多かった村山ら「プロレタリア派」と龍膽寺や吉行ら「新興芸術派」だが、彼らがとりたてて敵対的であったわけではないことはこうした交流からも分かる。なにより、「プロレタリア派」で、「新興芸術派」である前に、彼らは〝モダンボーイ〟であるという点で共通していた。そしてまた、ここまでこの『甃路(ペエヴメント)スナップ』を読み進んできてわかるとおり、都市をキュビスム的にとらえる龍膽寺雄はモダン東京を構成する一面として、プロレタリアの存在をけっして見逃してはいなかった。

 O-La-Laの頭文字を取って「LL」。というわけで、ぼくはここに登場する「LL」について暫定的にバア「オララ」と考えてみたいと思ってはいるのだが、「オララ」が3文字に対して「エルエル」は4文字と略した方がむしろ長くなってしまっている矛盾! なんでも手の、目の、届くところで済まそうとするのはぼくの悪い癖。なかなか遭遇できないだけで、昭和5年の銀座の路地裏に「LL」なる店が存在していたとしてなんら不思議はない。なぜなら、その頃の東京にはなんと7,500軒(!)ものカフェー、バアがひしめいていたというのだから。

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 吉行あぐりの「山の手美容院」(設計/村山知義)昭和4(1929)年

 

#インターバル

 街頭の肖像画家をとりまいた人の輪を掻分けて、中から出て来た三人連れ。

『ちょいと見せたまえ。どれ。』

 と、一人が一人から紙片をひッたくって甃路(ペエヴメント)に足をとめ、絵と真物(ほんもの)とをツクヅク見較べて、さてつぶやくんです。

『なァるほど!…… こりア君、絵の方がよッぽど君に似てるよ。』

 

【二重の世界】 

 夜、銀座のペーヴメントに姿をあらわすモボやモガたちは、みなそれぞれに思い思いの「顔」をもつ。それは銀座という特別な場所でしか通用しない、いわば〝銀座の顔〟である。ほんとうの顔、日々の生活に疲弊した顔は、銀座に来る途中の市電の網棚に、あるいは円タクのバックシートに置いてきた。銀座では、〝銀座の顔〟こそが真物(ほんもの)になる。

 そんな〝銀座の顔〟を記念のひとつにもと、人びとはこぞってペーヴメントの肖像画家、街頭の似顔絵描きの前に立つ。それは、まるでディズニーランドを訪れた家族連れがコスプレして記念写真を撮るような光景である。似顔絵描きについて安藤更生は、彼らが「街道(ママ)へ、しかも夜の街頭へ進出したのは銀座がはじまりだ」と書く。さらに、それは「銀座に発生して東京だけに限るもので、大阪京都辺には全くその影を見ない」とも言う。もしそれが真実とするならば、これは銀座という街の「特殊性」を雄弁に物語ってはいないか。銀座は現実の世界であると同時に、また虚構の世界でもあった。モダニストたちはその特殊な世界を、とても器用に、二重に生きることができた。

 「こりア君、絵の方がよッぽど君に似てるよ。」ーー 夜の銀座では、絵が真物(ほんもの)を凌駕する。あるいは「モダン」とは、徹底してフィクションをフィクションとして生き抜く生の美学であるかもしれない。「もっとモダンに!」ーー ダンサーの女がそう言うとき、尖端的な女と古風な感情を引きずった鈍重な男とは別々の世界にいる。たとえ円タクのシートに隣り合っていたとしても。

龍膽寺雄『甃路(ペエヴメント)スナップ』ー夜中から朝まで』を読む(第4回)

龍膽寺雄『甃路スナップ』を読む 昭和5(1930)年

 ふたたび、ぼくらは銀座へと舞い戻る。

 

#イントロダクション

 モダン都市東京の心臓ギンザは、夜と一緒に眼をさます。

 真紅・緑・紫。

 眼の底へしみつくネオンサイン。

 イルミネエションのめまぐるしい点滅はシボレエの広告塔。

 パッ!

 トロリイに散る蒼いスパアク。

 夜間営業の夜の窓々を輝かした百貨店の七層楼。

『JOAK! 只今から今晩の夜間演芸放送をはじめます。最初は、モダン派作家アマチュア・バンドによる「モダン東京円舞曲。」…… メンバアは、……』

 ーー 電気蓄音機のジャズの反響。

 オウトバイの爆音。

 声の嗄れた交通整理のサイレン。

 夜店をとりまいたひやかし客の喧騒。

 甃路にパッと散る莨(たばこ)の火花。

 夜の十字路にうごめくギンザ・メンの雑閙(ざっとう)。

 

【都市とキュビスム

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夜の銀座風景(「アサヒグラフ」昭和11(1936)年11月11日号)(画像引用元:戦前~戦後のレトロ写真 (@oldpicture1900) | Twitter 様)左上に「シボレエの広告塔」が輝いている。

 

 ネオンサイン。イルミネエション。蒼いスパアク。夜間営業の夜の窓々。莨(タバコ)の火花。モダン都市は光の洪水。宝石箱のような輝きに満ちている。

 JOAK。ジャズの反響。オウトバイの爆音。サイレン。ひやかし客の喧騒。ギンザ・メンの雑閙(ざっとう)。モダン都市はまた、同時に、音の洪水。さながら狂騒曲のよう。

 眺める方向がちがえば目に飛び込んでくる光景もくるくる変わる昭和5年の夜の「ギンザ」を写しとる龍膽寺雄の饒舌な筆致に、ふと「アヴィニョンの娘たち」を描くピカソの面影を思い出す。そこにあるのは、ひとつの発見ーー キュビスムの流儀で都市を描くのではない。そもそも都市がキュビスムの流儀でできているだ! モンドリアンのマンハッタンまではあと少し。

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ロベール・ドローネー「シャン・ド・マルス、赤いエッフェル塔」1911/23年 

 

#エピソードⅠ

『やア!』

 飾窓(ウィンドウ)の灯り眩しい甃路(ペエヴメント)で、ひょっこり擦れ違った二人連れに二人連れ。

『や。……珍しいとこで。』

『やア。……』

『その後は暫く。』

『暫く。……』

『すっかりご無沙汰しちゃって。』

『いいえ、お互いさまで。……』

『どうです? その後は。』

『いや、別に……』

『は、は! いや結構。なにの方はこの頃は?』

『……?』

『そら、例のさ。』

『相変わらずです。』

『は、は! そいつア。……しかし、実に暫く振りですね。ちッとお気向きの節には遊びにいらしッて。……』

『有難う。是非。……』

『じゃ御免なさい。またいずれ。……なにに、細君によろしく。』

『あ、有難う。……御免なさい。』

 別れて連れのところへ戻って来ると、すかさず連れが、

『誰だい君? ありア。……』

『いや、そ、それがわからないんだ。はて、……誰だろう?』

『冗談じゃないぜ。いやにうまくバツを合わせアがって。……覚えがないのかい?』

『ない!……』

『細君によろしくねんて云ってたじゃないか。え?』

『ウン。俺にア細君なんぞてんでないじゃないか。人間違いだな、この明るみで。……』

『また君もシラジラしくバツを合わせたもんじゃないか。』

『でも君。これも街頭の礼儀ッてもんさ。……』

 

銀ブラと甃路(ペエヴメント)の礼儀作法】

  これはコメディーではない。こんな滑稽なやりとりが、じっさい銀座の甃路では日常的に行われていたというのだ。

 まずは、松崎天民の〝銀ブラ〟実録から。「何時、何処で逢つた人やら、トンと忘れて居た人にでも、途中で「やゝ」と声を掛けられると、此方も「やゝ」と答へてしまう。そこで『お茶でも何うです』と云ふことになり、連れ立ってカフェーへ入ったが、何う考へても、何と云ふ人やら、思い出せぬのである。斯うした遭逢が、黄昏時の銀座街上では、二度も三度も繰返されるのが面白く、現に二十二日の夕暮にも、そんな事があつた」(『銀座』)。

 松崎天民ではいまひとつ信憑性が…… という向きには、こんな野口冨士男の体験談はどうだろう。自称〝銀ブラ族〟の野口によれば、「銀ブラ」とは「かつて電車が通っていた表通りーーこんにちの呼称にしたがえば中央通りをただわけもなく何回でもブラブラと往ったり来たりするだけのこと」であった。「なにが面白くてそんなことをしたのかと問われても、明確に解答できる人は当時もいなかっただろうし、現在もいるとは考えられない。それが時代風潮であって、当時の銀座がそういう街であったという以上になにか附け加えようとすることは、飲酒や喫煙をせぬ人に酒や煙草の味を説くようなものだろう」(『私のなかの東京』)と言う。そして、そんな具合にブラブラしていると「どこの誰とも知らずに視線が合えば会釈をかわす相手も生じてくるわけで、敗戦直後の銀座街頭でそういう一人にゆきあったとき、『やあご無事でしたか、よかったですね』と私は握手を求められた。が、それはそれだけのことで、そのときにも私たちは氏名を名乗り合ったりはしなかった。戦前の銀座とはそういう場所で、『銀ブラ』とは、そういうものであった』(同上)。都市の遊歩者が出会い、軽い挨拶をかわし、そしてふたたびかたや北へ、かたや南へと別れてゆく。銀座では、ひととひととの出会いもまた市電の架線から飛び散る青い火花の閃光と同様、ほんの一瞬大きく輝いては消えてしまいけっして長く尾を引くことはない。

 他方、おなじ「銀ブラ」ということばも、山の手育ちの野口冨士男と銀座で育った〝土地っ子〟池田弥三郎とではその受け止め方にはだいぶちがいがある。池田は言う。「銀座のぶらぶら歩きのことを銀ぶらと言い習わしたのだが、そういう略語形式のことばは、どだいあまり品のいいことばではない。わたし達は、銀ぶらをしようの、銀ぶらに行こうのと、言い合った覚えはない。あまり、大手をふっては歩けないことばだという語感が、そのころも、また今でもわたしにはある。その時分の、それこそ銀ぶら仲間でも、わたし達はそのことばを使ったことはない」(『わが町 銀座』)。銀ブラ」などという単語を使って嬉々としているのは、所詮は〝よそ者〟だという〝土地っ子〟ならではの優越感(?)なのかもしれない。とはいえ、そんな池田弥三郎にしても毎日のように飽きることなく銀座をブラブラ歩いていたわけで、甃路(ペエヴメント)とはつまるところ、そんな銀座に魅入られた人びとを引き寄せる都市のランウェイだった。

龍膽寺雄『甃路(ペエヴメント)スナップ −夜中から朝まで』を読む(第3回)

龍膽寺雄『甃路スナップ』を読む 昭和5(1930)年

 引き続き、龍膽寺雄の『甃路(ペエヴメント)スナップ』を読んでいる。

 今回取り上げるのは、ひとつのエピソード。前回、思いのほか長くなってしまったため中断せざるをえなかったのだが、本当ならこのエピソードまでを一区切りとしてまとめて紹介したかった。というのも、このブログで言えば、第1回からこの第3回までがひとつのパートと考えることができるからである。

 

#エピソード

 ビルディングの窓々を轟然と擦(こす)って、ーーラッシュ・アワアの省線電車。宵闇に流れる街の灯りが時々建物の蔭に呑まれて、ーー

『き、君、莨(たばこ)はよしたまえ。』

 額の蒼白い労働者風の若者。

『……?』

 金口を口髭に啣(くわ)えた赫(あか)ら顔の紳士。酒焼けの頬、脂肥(あぶらぶと)りの頤(あご)。灯りの下へ濛々(もうもう)と煙を渦巻かして、波の様にうごめく人の頭越しに相手を見下ろし、

『何だ?』

『た、莨よせッてんだ!』

『フン。……君は車掌か?』

『みんなが迷惑をするからよせッてんだ。見ろい、この煙を。……みんな黙って顔顰(しか)めてるじぇねえか。』

『莨吸うてはいかん云う規則がどこにある? 掲示にも「御遠慮下さい」とあるじゃないか。「御遠慮下さい」とは吸うてはいかん云うのとは違うぞ。』

 と、もう一度金口の頭を赤くして、煙(たばこ)と一緒に、

『よけいなおせッかいはよせ。なまいきな。……』

『なまいきだ?』

『俺は俺の好きで吸うとるんだ。貴様等の干渉がいるか。』

『自分の好きなら他人の迷惑はかまわんか!』

『かまわん。』

『よし!』

 云うより、雑鬧(ざっとう)の間から腕を抜くと身を乗出して、金口を咥えた相手の頤を、金槌(ハンマー)の様な拳で力一杯、ガアン!

『な、殴ったな?』

『殴ったよ。』

 殺気立った相手の顔を快く冷笑して、『俺等ア他人を殴んのが好きなんだ。自分が好きなら相手の迷惑なんざどうでもいいッて今貴様が云ったろう。は、は! 何なら腕ッ節で来い。』

 窓の外には遠いお台場の灯り。ーー

 

【『公衆作法 東京案内』】

 都市における無産階級の増加は、〝ラッシュアワーの満員電車〟という新たな景観をもまた生み出した。さまざまな人びとでごった返す車内は、そのまま都市の〝縮図〟でもある。そして、ふたりの男による〝マナー〟をめぐる諍いが、そんな家路を急ぐ客であふれる省線電車内で展開される。

 平成28(2016)年11月、有楽町の東京国際フォーラムで開催されたイベント《月曜シネサロン&トーク》では、文部省が大正15(1926)年に製作した『公衆作法 東京見物』が上映された。田舎から息子を訪ねて上京した父娘を主人公に、東京の観光名所を紹介しつつ、同時に、公衆作法、つまり公共の場でのマナーを身につけることの大切さが説かれるというたぶんに啓蒙的な内容をもつ映像作品だった。

 この『公衆作法 東京見物』(全編で約50分)を抜粋して紹介したのが下の動画。市電の中にはこんな貼り紙が掲げられている。「左の條々かたく御断り申候 車内にてたんつばをはくこと たばこをのむこと ふともゝをだすこと」。


Koshu Saho Tokyo Kenbutsu (1926)

 このイベントで監修・解説をつとめた田中 傑氏によれば、関東大震災の混乱も一段落したこの時期、地方から東京を訪れる観光客が増え、そうした人たちを対象としたガイドブックの類も相次いで出版された。そうした背景をうけ、〝名所案内〟のかたちを借りた〝公衆作法のすすめ〟という意図で、おそらくは地方で上映されることを目的に製作されたのがこの映画であろうとのことだった。

 さらにそれから数年を経た昭和5(1930)年、つまり龍膽寺雄がこの『甃路(ペエヴメント)スナップ』を発表したその年は、かつてないほど公共マナーの重要性が叫ばれた年でもあったと田中氏は指摘している。そもそもの始まりは、帝都復興祭の挙行(昭和5年3月)に向けて朝日新聞が提唱した「市民公徳運動」だった。復興事業によって壮麗な帝都は完成した、つぎは市民ひとりひとりの行動を美しくする番だ、そういうことだろう。実際のところ、こと公共マナーという点にかんして言えば、その急速な都市化に見合うほどには人びとのそれは成熟していなかった。イベントで配布されたレジュメから、参考まで当時の朝日新聞の見出しをひとつ抜き出しておく。「見ても胸が悪い 紙くづかごの街路 鼻紙もビラも丸めてポンポン 癖の悪い紳士淑女」(1930年3月20日)。風に吹かれた無数の鼻紙やビラが甃路(ペエヴメント)を飛ばされてゆく。

 

【プロvsブル】

 とはいえ、龍膽寺雄がここに書いたエピソードは、その引き金は〝マナーの悪さ〟にあったにせよ、かならずしもそれだけが原因ではなかったろう。そのことは、ふたりの男のプロフィールからも明らかだ。

 ふたりの男ーー「額の蒼白い労働者風の若者」と「金口を口髭に啣(くわ)えた赫ら顔の紳士」とは、いずれもこの時期に一気に増大したモダン都市の落とし子であるという点では変わらないが、一方がモダニズムを享受し謳歌する者であるのに対し、他方はモダニズムを陰で支えはするがけっして表面には現れ出ない(=現れ出ることを許されない)者であるという意味で真逆、対立する存在といえるだろう。つまり、ここで龍膽寺雄は、電車内での公共マナーをめぐる諍いというありふれた光景から、すでにこの時期のっぴきならない事態になりつつあったプロレタリアートブルジョワジーとの衝突という生々しい現実を切り出そうとする。

 都市の〝モダンさ〟を、しばしば龍膽寺がせわしなく交互する「コントラスト」に見ようとしたことはこのブログの第1回でも触れたとおりだが、無産階級の青年と傲慢なブルジョワとが一触即発のやりとりをかわすこのエピソードもまた、相反するふたつの極の交替というふうにみることもできるだろう。「蒼白い」額の青年と「赫」ら顔の紳士といった具合に、色彩によってふたりの貧富の差や性格のちがいを対比的に描写しているのも興味深いところだ。

 また、ふたりの周囲にはたくさんの客が乗り合わせていたはずであり、当然、なかには野次る男もいれば怖がる女もいたにちがいないが、龍膽寺雄はそうした一切の存在を完全に捨象してしまう。エピソードの焦点を男ふたりの対立に絞り込むことで、いっそう彼らのコントラストが際立つからである。

 事実、この「対立」は、くすぶりつづける労働者の不満と散発的に発生するストライキ、演劇や美術、文学を中心としたプロレタリア芸術の興隆、そしてそうした事態を受けての大規模な思想弾圧の動き(昭和3年の「三・一五事件」、翌4年の「四・一六事件」など)といった出来事が現在進行形で起こっていた昭和5年当時の読者には、このエピソードをたんなる公共マナーをめぐる喧嘩 として片付けるわけにはいかなかったろうし、そのあたりの読者心理ももちろん龍膽寺雄は織り込み済みだったにちがいない。当然、当局の検閲は入っているのだろうが、プロレタリア文学とは(少なくとも)遠いところにいる(と思われていた)龍膽寺でもあるし、この内容では発禁にもできなかったというのが実際のところだろうか。だが、新興芸術派にも批評性はある。じつは、かなりきわどいところを攻めていると思う。

 

【モダン東京の目撃者】

 さて、ここまで読んできてようやく、ぼんやりとながらこの『甃路(ペエヴメント)スナップ』全体の構成が見えてきた。

 この《散文詩》にはいっさい章立てめいたものは存在せず、全体はとめどなく流れてゆく。作者がこの「流れ」を安易に分断したくなかったのは、「夜中から朝まで」というサブタイトルからもわかるように、「一夜のできごと」である全体を貫流する時間をむやみに堰き止めたくなかったからではないか。とはいえ、それでも、おおまかなパートのようなものは存在している。そしてそれは以下の3つから構成される。

 

  1. 導入(イントロダクション) おもに情景描写からなる。ときに登場人物があわせて紹介される場合もある。
  2. 挿話(エピソード) エピソードはすべて、この東京でおなじ一夜のうちに起こった出来事である。
  3. 幕間劇(インターバル) 道化的な短いコント。気分を変える、あるいはひとつのパートからつぎのパートへの橋渡しをするつなぎ的な役割を果たす。 

 

 おおまかなパートは、導入+ひとつ、あるいは複数の挿話+幕間劇の組み合わせからつくられる。この構成は、DJがさまざまな曲を途切れなくつないでゆくことで生まれるグルーヴ感と同様の効果をもたらすと同時に、また、演劇的、ときに映像的な印象をあたえる。

 たとえば、今回のエピソードでは特に最初の行と最後の行に注目したい(わかりやすく対象となる行の文字を紫色にしてある)。最初、カメラはビルの谷間を疾走する省線電車の姿をとらえているが、次の瞬間切り替わり、車内の様子が映し出される。それに対し最後の行では、車内の様子から窓を通して外へ、「遠いお台場の灯り」へと切り替わる。それはまるで、スクリーンに映し出される一連のフィルムを映画館で腰掛けて見ているような気分にさせる。小説のように、主人公に感情移入してあるシーンを眺めたり、語り手の助けを借りてある時間からべつの時間へ、ある場所からべつの場所へと移動するということが、ない。ここで言う「カメラ」とはつまり龍膽寺雄の「目」にほかならないが、その「目」には余計なフィルターも過剰な演出もみあたらない。読者は、『甃路(ペエヴメント)スナップ』を読みながら、龍膽寺の「目」をとおしてモダン東京のあちらこちらで繰り広げられる出来事をただ現在進行形で《目撃》しているのであって、それは多くの小説や詩の読書体験とは明らかに異なるものだ。

 

【遠いお台場の灯り】

 このエピソードは、車窓越しに見た夜景に浮かぶ「お台場の遠い灯り」で締めくくられる。電車は品川附近を走っているのだろうか。しかし、大観覧車やレインボーブリッジが輝く現代のお台場ならいざしらず、当時のお台場に「灯り」なんてあったのだろうか。川瀬巴水の『品川沖』(大正9(1920)年)はもちろん、前川千帆の『水上公園(台場)』(昭和5(1930)年)を見ても、ただ草むらが広がるばかりで「灯り」の光源となりそうなものはいっこうにみあたらない。

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川瀬巴水『品川沖』〜『東京十二題』大正9(1920)年 木版 奥にふたつお台場を臨むことができる。

 ところで、「三番臺場(台場)」が国指定の史跡となったのが大正15(1926)年のこと。その後、水上公園として一般の人びとの上陸が許される。築地明石町から蒸気船に乗って約30分、昭和5(1930)年に出版された時事新報社編『旅の小遣帳』によると、そこには真ん中に簡素な売店兼休憩所があるばかりであとは「轉々寝ころがつて、あばれ廻つて見たいやうな芝生の大展開」という簡素な水上公園であった。料金は築地明石町から往復で20銭、ほかにも両国橋や芝浦からも定期便があり身近な〝水上の楽園〟としてなかなかの人気だったようだ。

 それにしても、上陸は午前8時から午後5時までと限られていたというし、「灯り」の正体は相変わらずわからないままである。物語上の〝効果〟という点からも、ここはひとつ何かに輝いていて欲しいところなのだけれど。