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「昭和8年」を起点に、ジャック・フィニイよろしくモダン都市を散策するブログ

龍膽寺雄『甃路(ペエヴメント)スナップ ー夜中から朝まで』を読む(最終回)

 いつだって都市は、ひとの心を浮き立たせる。心を浮き立たせるような仕掛けをさまざま持つことで、街は都市になる。心を浮き立たせないような都市は、だから都市とは言えない。ときに、心を浮き立たせる仕掛けは作為的に過ぎるとただ薄ら寒いだけの場所に成り下がる。外見ばかりが立派で、そのじつ空疎な都市が生まれる。だから、本当の都市とは、外見や規模よりも、むしろいかにひとの心を浮き立たせるかによって測られるべきなのだ。ある時代、ある場所に生きる人びとの心と連動したイマジネールな場所、それをひとは都市と呼ぶ。

 

 龍膽寺雄によって昭和5(1930)年に書かれた『甃路(ペエヴメント)スナップ』をはじめて読んだとき、瞬間的に思い浮かんだのはあまりにも有名なシュガーベイブの楽曲「DOWN TOWN」のなかのこんな一節であった。「暗い気持ちさえ すぐに晴れて みんな ウキウキ」。ここに歌われている「DOWN TOWN」とは、ただそこに行きさえすれば憂き世を忘れ浮き立った気分で過ごすことのできる場所のことであり、『甃路(ペエヴメント)スナップ』に描かれた「東京」にぼくはそれと同じ種類の気分を読み取ったのである。そして、どうせならそこに描かれた昭和5(1930)年の東京に充溢したウキウキとした気分を、はるか平成29(2017)年から遠くふりかえるのではなく、自分自身がいまそこにいるかのような臨場感をもって読み、感じ取りたいとかんがえた。

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 『甃路(ペエヴメント)スナップ』を、『地球の歩き方<モダン東京>編』のように読んでみること。龍膽寺雄と連れ立って夜の東京を徘徊し、彼が指差すものに驚いたり感心したり、ときには苦笑いしてみたり、そんなふうに読むことはできるだろうか。いや、むしろ龍膽寺雄の文章だからこそそれは可能なのではないか。

 海野弘は、新興芸術派のふたり ーー吉行エイスケ龍膽寺雄の文体を比較して次のように指摘する。「ダダイズムの詩から出発した吉行エイスケは、文体への意識がより鋭敏であり、古い表現を破壊しようとする。さらに彼は、時代の全体構造といったものにひかれている。これに対して龍膽寺の表現はより本能的であり、私小説なところがある。文体に対してはそれほど意識的ではない」(海野弘龍膽寺雄『放浪時代』と吉行エイスケ『女百貨店』」より 下線は筆者)。ここでいう「文体の意識」とはなにか。それは、書き手が「街を見つつ、街を見ている私を意識している」という「二重性」をもっているかどうか、ということを意味する。この「二重性」があってはじめて都市は「アイロニカル」に表現される。街を見つめる自分を客体化することで、そこに外部からのまなざし、つまり「批評性」が生まれ、都市の表現は特定の場所や時間、さらに作家自身の個人的体験を超えて<普遍性>を手に入れるのである。海野は言う。「龍膽寺雄には、街を見つめる自分を客観化する二重の意識がやや希薄なような気がする」。文学作品としてはそれは弱点にちがいない。事実「表現する自己への批評を欠いていることが、彼の小説にもう一つ深みを与えていないのである」。しかし、と海野は続ける。それで龍膽寺雄の小説が面白くないということにはならない。龍膽寺雄の文章は「体験的であり、街頭へ流れだしている部分は、それだけ具体的に、20年代の都市をいきいきと浮かびあがらせてくれて、興趣をそそるところがある。つまり、その小説を通して、私たちは20年代をのぞきこむことができる」(下線筆者)。

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 龍膽寺雄の文章は、「街を見つめる自分を客観化する二重の意識が希薄」なぶん文学作品としての「深み」には欠けるきらいはあるにせよ、むしろそれゆえに彼がその目で見たもの、感じたことを余分な補正をかけることなく読み手であるぼくらの前に投影してくれる。

  であるとしたら、龍膽寺雄は「東京の昭和5(1930)年」をこの『甃路(ペエヴメント)スナップ』でかなりリアルに描写しているのだろうか? もちろん、そんなことはない。ただその描写の濃淡をとおして、龍膽寺雄がどんな<東京>にぼくらを案内したかったのか、すくなくともその<地図>を手に入れることはできそうだ。

 

 まずなによりも、東京の昭和5年はモダニズム元年であった。たとえば、震災の復興事業の一環として隅田川に架けられた「六大橋」や幅員44メートルの「昭和通り」、コンクリート造の復興小学校、あるいは瀟洒なたたずまいをもった大小の復興公園といった〝新風景〟が東京のそこかしこに出現し、『甃路(ペエヴメント)スナップ』が出版される直前の3月26日には大規模な「帝都復興祭」もとりおこなわれた。市内を天皇陛下の行列が巡行し、連日賑々しく飾り立てた「花電車」が運行される。関東大震災から6年、生まれ変わった東京の街に明るい未来を見、希望を抱いた人びとは少なくなかったろう。

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花電車 昭和5(1930)年の「帝都復興祭」に際して登場した花電車。<復活>というテーマで復興の喜びを表現している。画像参照元: 東北芸術工科大学東北文化研究センター アーカイブス 

 

 しかしその一方で、東京の昭和5年はかならずしも明るいばかりではなかった。じっさい昭和5(1930)年といえば、後に「昭和恐慌」と呼ばれることになる深刻な経済破綻のまっただなかにあたる。

 昭和4(1929)年に公開された映画『大学は出たけれど』は就職氷河期の大学生を主人公とした小津安二郎監督による社会風刺劇だが、前田一『サラリマン物語』(東洋経済出版部 昭和3(1928)年)に添付された資料によると、全国の大学および専門学校の卒業生の就職状況は「各大学校を通じて、法経文学科の就職率は5割3分、理工科は8割、農科は6割3分、医科歯科は5割8分、師範科は8割、技芸科は2割9分、女子専門学校は4割8分、全国各大学専門部が5割9分という割合を示して居る」とあり、要は、卒業しても文系の大学生のざっと半分は仕事にありつけなかった。当時の過酷な現実が浮き彫りになる。「一体、何が、斯(こ)んなに就職を困難にしたのであろうか」と筆者は問う。「軍備制限、財政緊縮、行政整理に伴う官公営事業の中止、繰延、惹(ひ)いては、不況に原因する民間事業の整理、淘汰という、政治的、経済的原因の外(ほか)に、今日の教育方針の欠陥という社会的原因より結果したる卒業生自身の『質』の下落が、相據(あいよ)り、相俟つて益々就職難を深刻にするものゝやうである」。この未曾有の就職難は、筆者によれば、つまるところ、学生の「質」の低下(怠慢)をふくめたさまざまな複合的要因からなっているというわけで、これといった有効な打開策も見出せないままこんがらがった糸を前にただ嘆息している当時の人びとの姿が目に浮かぶ。

 「昭和恐慌」による不況の長期化、深刻化はまた、当然のように労働運動をも激化させる。こうした状況を受けて、政府は昭和3(1928)年、翌4(1929)年と続けて大規模な共産主義者の一斉検挙、弾圧を行う。俗に言う「三・一五事件」「四・一六事件」である。いくら弾圧したところで、だが悪化するばかりの経済状況のなか労働運動が下火になるはずもなく、プロレタリア派の作家たちはかえって意欲的に作品を世に問うてゆく。小林多喜二の『蟹工船』、共同印刷の争議を題材とした徳永直の『太陽のない街』は、ともに昭和4(1929)年の発表だ。そして昭和5(1930)年には、鐘淵紡績の各工場や東洋モスリン亀戸工場などで大規模な争議が勃発する。これもまた、「東京の昭和5年」の現実であった。

 こうした明るい未来と暗い現在とが段だら模様になった当時の記憶について、安田武は「花電車」という小文(『昭和 東京 私史』(新潮社)所収)のなかでこうふりかえる。「つまり、昭和初年の東京は、「花電車の波また波」だったといってよく、そして、そういう明るい「花電車の波」と、「万国の労働者よ、団結せよ!」という文字に、子どもの目にさえ、へた糞だなと呆れた、二の腕と握り拳が真ん中で握手している絵を描きなぐった大きな横幕とが、たがいに二重写しに、私の幼児記憶として定着しているのだった」。

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雑誌「戦旗」昭和5年4月号(「甃路(ペエヴメント)スナップ」を掲載した『モダンTOKIO円舞曲』と同じ年月に発行)の表紙。『蟹工船』『太陽のない街』などプロレタリア派の作品を多数掲載した。表紙の絵は柳瀬正夢

 

 ところが、『甃路(ペエヴメント)スナップ』を書くにあたって龍膽寺雄は、こうした<影>の部分を意識的に<捨象>しているようにみえる。取り上げる場合にも、外面的にそっとなぞる、あるいは注意深く提示する程度にとどめけっして足を踏み入れることはしない。けれども、ただこのことだけをとりあげて彼がプロレタリ派から距離を置こうとしていたとか、思想的に共産主義を毛嫌いしていた、ましてや「龍膽寺雄ブルジョア作家である」などと決めつけるのはまちがいだろう。思うに、このことはひとえに彼の作家としての<文学的態度>に発している。

 龍膽寺雄は、晩年みずからの半生を綴った『人生遊戯派』のなかでその<文学的態度>についてこう書いている。

 「私が文学活動をはじめた昭和初期は、世は不景気のどん底にあり、消費は停滞し、生産は止まり、失業者が街に氾濫していた」。そして、こうした時代にあって「マルクス主義を基調とするプロレタリア文学が擡頭し、遂に一時的にでも文壇を掌握するようになった事態は、自然のなりゆき」であろう、と。しかし、龍膽寺雄はまた異なる考えを持っていた。「人間の脳の働きの中には、レアリステックの現実に執着する面と、それとは反対にまったく現実から離れた世界を、現実に縛(ゆわ)かれず、自由な世界を高く空翔んで遊ぶ趣きの部分とがある。現実が苦渋に充ちたものであればあるほど、このロマンスの世界は、明るく軽く華やかで楽しいものでなければならない。窒息するような重苦しい現実の世界を凝視(みつ)めて、それをどうしようかと苦慮するのも、人間の心の動きの一つであれば、その現実を一と飛びに離れて、明るく楽しくロマンスの世界を目がけるのもまた人間の心の動きの一つでなければならない」。そしてその<ロマンティシズム>に、彼は「新しい文学の世界」の可能性をみた。龍膽寺雄は読者にむかって呼びかける。さあ、ーー「階級の歪みの中で喘ぐ苦渋に充ちた生活などにとらわれず、新しく自由に、気ままに夢の世界に翔ぼうではないか」。

 

 ところで、おなじ回想録のなかで、彼はたびたび「自分の読みたい作品を書くために」自分は作家になったのだと書いている。本当は、読者として「私が夢見るような作品に、めぐり会いたかった」のだが不幸にも出会えずにきた。かろうじてそういった「匂い」をもつ作家といえば、ただ佐藤春夫がいるくらいだった。そこでやむなく小説を書き、「現実にはいない、いちばん自身にとって好ましい人物を作品の中に登場させ、私の好きな場面で、私の好きなような振る舞いや身動きをさせた」のだ、と。

 たとえば、彼の小説にはたびたび「魔子」という名の魅惑的な少女が登場する。この「魔子」については、当時の読者のなかには彼の妻で、若くて美しいモダンガール「正子」と同一視する者が少なくなかったが、龍膽寺本人はたびたび「それはちがう」といった趣旨の発言をしている。おそらく「魔子」とは、たとえ「正子」を思わせる部分が多々あったとしても、さらに彼の趣味や理想をくわえ想像力によってふくらませた「現実にはいない、いちばん自身にとって好ましい人物」ということなのだろう。そして「魔子」が楽しげに振舞う「東京」もまた、現実の昭和初期の「東京」に似ていたとしても、それは「苦渋に充ちた生活」や「階級の歪み」を<捨象>した明るく軽く華やかで楽しい<東京>であるにちがいない。そして、「作家」として龍膽寺雄の目に映る東京とは実際そのような都市だったのだろうし、じつはこの『甃路(ペエヴメント)スナップ』に描かれた「東京」こそ、現実と虚構のあわいに生起する彼の小説の舞台としての<東京>そのものなのである。

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龍膽寺雄と妻の正子(まさ)。昭和6年ごろ。

 

 では、このような<文学的態度>がひとつの技法として意識的に、熟考の末に選び取られたものかといえばけっしてそういうわけではないだろう。「新興芸術派」の作家のひとりで、龍膽寺雄がその作品と人柄に深く惚れ込んでいた久野豊彦は、個人的なつきあいを通して触れた彼の人物像からそのあたりを類推する。久野によれば、龍膽寺雄の<文学的態度>はひとことで言って彼の<天真爛漫>に起因するものである。「龍膽寺君のことを書いていたら、全く際限がないのだが、龍膽寺君が天真爛漫であるのも、その実は、童心が溢れてるからにちがいないのだ。そうして、彼氏の作品が、いずれも明朗であり、食べていたら、舌端(したさき)で溶けてゆくほど軽妙であるのは、云うまでもなく、龍膽寺君が天真爛漫であるからのことにちがいないことだ」(「天真爛漫・龍膽寺雄」「新潮」昭和6年2月所収)。

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久野豊彦 昭和5(1930)年ごろ 龍膽寺雄の回想によれば、当時知多半島大野町(愛知県)の「尼寺」に隠棲していた久野を説得し「新興芸術派」を立ち上げるためふたたび東京に連れ戻した。

 

 龍膽寺雄の小説世界に他に類を見ないような明朗さや軽妙さをもたらしている彼の「童心」「天真爛漫」、それをひとことで<イノセント>と言いかえることもできるかもしれない。  

 龍膽寺雄の『甃路(ペエヴメント)スナップ』を読むとき、読んでいるぼくもまたそこに描かれた都市を闊歩しているような気分になる。それは、彼が描写する東京が昭和5(1930)年現在の「東京」そのものでありながら、同時に、彼の<イノセント>によって漂白されることで、現実の「東京」からは適度に距離を置いた<中間性>を手に入れることに成功しているからではないか。彼の「東京」は、昭和5(1930)年の「東京」であると同時に、もうひとつ、時空を超えた物語の舞台としての<東京>、つまりパラレルワールドの<東京>という顔ももつ。『甃路(ペエヴメント)スナップ』を読んでいるときぼくらは、時間をさかのぼって昭和5年の東京に移動するというよりは、居ながらにしてもうひとつの東京に「横穴」をとおって平行移動しているのだ。

 海野弘にしたがえば、〝都市をみつめる自分〟を客体化する「二重性」という部分についてはかならずしも意識的とは言いがたい龍膽寺雄だが、彼は批評性によって小説世界を読者のほうに寄せるかわりに、その<イノセント>によって読者のほうを自身の小説世界に引きつけてしまう。読んでいるうち、そこに描かれた世界があまりに楽しく魅力的なので、思わず自分もまたここにいたいという気分、ずっとここにいたような気分が起こり、気づけばほんとうにそこに描かれた甃路(ペーヴメント)を闊歩しているのだ。そしてこの<気分>こそ、龍膽寺雄がその文体にこっそりしつらえた「横穴」なのである。

 本をひらき文字を目で追う。すると街の喧騒や靴音、匂いまでがなんとなく感じられてくる。ああ、そうか、いまぼくは昭和5年の<東京>にいるのだ、と思う。そしてこの<東京>ときたら、なんてすてきに心浮き立たせてくれる都市なのだろう。ここでは、つらい気持ちさえ、すぐに晴れて、みんなウキウキ……

 

 下町へ繰り出さう。

 下町へ繰り出さう。

 

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雑誌「太陽」1987年11月号(平凡社 )より中央林間の自宅温室に立つ龍膽寺雄86歳。サボテンの栽培、研究でも知られ、多数の書著を残した。龍膽寺雄とサボテンの出会いについては、目白中学校の篠崎雄斎と龍膽寺雄。:落合道人 Ochiai-Dojin:So-netブログ 様で詳しく紹介されています。ぜひご一読ください。

龍膽寺雄『甃路(ペエヴメント)スナップ −夜中から朝まで』を読む 第11回

 いよいよ<最終章>にたどりついた。じっくり腰を据えて読んでゆこう。

 

 宮城の森の上に魂の様に浮かんだ朧な春の満月。

 二時。

 三時。

 四時。

 大都会の闇の夜は、今や魑魅魍魎の世界です。 

 

【休 符】

 おもしろい。どうってことのない短いパートだが、とてもおもしろい。これまで読み進めてきてわかるとおり、昭和5(1930)年の東京が見せる豊かな表情を活写したこの『甃路(ペエヴメント)スナップ』には、これまでネオンライトや高層ビル、自動車やダンスホール、モダンガールといった無数のモダン都市の<アイコン>がクロスワードパズルのように散りばめられてきたが、午前2時…… 3時…… 4時…… 「大都会の闇の夜」をとらえた今回のパートに限っていえばそうした<アイコン>はいっさい登場しない。

 黒々とした皇居の森の深淵。まんまるな春の朧月。そこに拡がるのは、さながら水墨画のような幽玄なる世界である。では、龍膽寺雄はなぜここにこのような<静謐さ>を必要としたのか。その理由は、この後のパートを読むことで明らかになる。ここ大東京を<交響楽>にたとえるならこの先はいわばその終結部(コーダ)であり、その壮麗さをいっそう引き立てるためには静止した淡彩の世界がぜひ必要なのであって、つまりこのパートは次のパートへと切り替わる直前の効果的な<休符>となっているのだ。

 

   朝

   朝

   朝

 黎明(あけがた)は江東の工場町から!

 薔薇色の黎明。澄んだ星空、地を覆うた夜の蒸発気。

 汽笛!

 サイレン!

 細くからむの。高く途切れるの。太くかすれるの。尻上がりに、尻下がりに。近く、遠く、静かに、けたたましく。貧しく、豊かにこれらのことごとく一斉に!

 工場。

 工場。

 工場。

 セメント工場。

 モスリン工場。

 製糸工場。

 ゴム工場。

 ペエント工場。

 ガラス工場。

 鉄工場。

 製材工場。

 電機工場。

 染料工場。

 製薬工場。

 造船工場。

 煙突。

 煙突。

 煙突。

 黒い煙、鳶色の煙、赫(あか)い煙、黄色い煙、灰色の煙、白い煙、牡蠣色の煙、蒼い煙、かげろう色の煙!

 三相交流、柱状変圧器、スイッチ。

 電流計。

 電圧計。

 スタアタア。

 誘導電動機。五馬力、十馬力、十五馬力、二十馬力。ーー

 ベルト!

 フライング・ホイール。プリー。歯車。

 機械。

 鉄と油の力学。近代科学の咆哮。生産!

 

【朝から夜中まで/夜中から朝まで】

 薔薇色の黎明。澄んだ星空、地を覆うた夜の蒸発気。」ーー 澄み渡った明け方の空。静寂。朝もや。つかのまの休息。黒い煙、鳶色の煙、赫(あか)い煙、黄色い煙、灰色の煙、白い煙、牡蠣色の煙、蒼い煙、かげろう色の煙!」ーー 汽笛が、サイレンが、静寂を突き破る。空を覆うのは、朝もやの代わりに極彩色の煙。舞台は東京の周縁部、「江東の工場町」。モダン都市の1日は、こうして爆発的に始動する。

 ところで、この『甃路(ペエブメント)スナップ』に付された<夜中から朝まで>というサブタイトル、これは大正13(1924)年12月に築地小劇場で上演された『朝から夜中まで』という舞台のタイトルを連想させる。

 これは、ドイツ表現主義の作家ゲオルグ・カイザーの戯曲を土方与志の演出のもと上演したもので、村山知義が手がけた舞台装置が話題になった。村山知義といえば、昭和5(1930)年当時なにかにつけ龍膽寺雄ら「新興芸術派」と対立的にとりあげられていた「プロレタリア派」に属する人物ではあるが、そのいっぽうで新興芸術派のひとり吉行エイスケの妻あぐりが経営するモダンな外観の美容室兼住宅を設計するなど彼らがかならずしも反目しあっていたわけでないことは明らかだ。築地小劇場の舞台も、新しもの好きの龍膽寺ならば当然観ていたのではないだろうか。とすれば、このサブタイトルも一種の「シャレ」として、わりと軽い気持ちでそこから借用してきたとかんがえることもできるだろう。『甃路スナップ』を書こうとするとき、当然のように龍膽寺雄のアタマの中には<朝から夜中まで>というフレーズがあったはずだ。とはいえ、どうやらアイデアの源はもう少しべつのところにありそうだ。

 『モダン都市東京 日本の1920年代』の著者、海野弘はつぎのように書く。『甃路スナップ』の「副題の『夜中から朝まで』はゲオルグ・カイザーの表現主義的戯曲『朝から夜まで』(1916年)を思わせるが、直接的には、1927年ごろにつくられたワルター・ルットマンのドキュメンタリー映画『ベルリンーー大都会交響楽』のイメージから影響を受けているようである」。具体的には、<スナップショット>という小型カメラや高感度フィルムなど20年代に発達したテクノロジーがもたらす手法を採用している点に海野はその影響を指摘する。たしかに、「工場。工場。工場。セメント工場。モスリン工場。……」あるいは「ベルト! フライング・ホイール。プリー。歯車。……」といった単語の羅列が喚起する脳内イメージと、ルットマンの『ベルリンーー大都会交響楽』の矢継ぎ早に繰り出されるイメージショットとをくらべると驚くほど似ている。日本でも昭和3(1928)年9月に公開されたこの作品を、龍膽寺雄が劇場で観ている可能性は高い。

 「モダーニズムというのは、思想的には簡単なもので、ともかく、新しいものはいいとして、一応肯定してとりあげる。その功罪の論評は、そのあとに来るものに委せてるという考えで、新しいものは一応肯定して何でも取りあげる」(『人生遊戯派』)と語る龍膽寺雄は、「都市」を描写する上でこういった新しい表現を自身の手段として採用すことについてもなんのためらいももたなかった。「夜中から朝まで」というサブタイトルにしても、よって、こうした創作態度のあらわれとみなすことができる。


[FULL] Berlin: Symphony of a Great City (Berlin: Die Sinfonie der Großstadt)

 

【大都会交響楽】

 <ジャズ>がそうであったように、この時期書かれた小説やエッセイなど文学作品を読んでいるとしばしば、都市の表現に<交響楽>ということばが用いられているのに出くわす。映画のタイトルだが、昭和2(1927)年に製作されたワルター・ルットマンの『ベルリンーー大都会交響楽』ももちろんそのひとつ。

 多彩な音色、複雑なリズム、絶えず変化するハーモニー…… 大編成のオーケストラが奏でる「交響曲」と、人間、機械、交通が織りなす「都会」との類比(アナロジー)。都市は、1920年代になるといよいよ猛スピードで変貌を遂げてゆく。こうした変貌する都市にみあった最良の表現を模索する作家や芸術家たちが見出したもの、それが<ジャズ>や<交響楽>とのアナロジーであった。ところで、はたして2000年代に生きるぼくらは「都市」を<ジャズ>や<交響楽>、あるいはそのような<なにか>に喩える感性を持ち合わせているだろうか? 1920年代に生きる彼らよりもずっと、ぼくらは「都市」に対して鈍感になっているのではないか? 驚きの眼をもって「都市」を<発見>したからこそ、彼らはそれを表現するために<ジャズ>や<交響楽>といった語句を探り当てたのである。ピエト・モンドリアンが「ブロードウェイ・ブギ・ウギ」を制作したのは、彼が1940年にニューヨークに移住し、彼個人の内面的な営みとして「都市」を<発見>したからにちがいない。

 都会と都会での生活をもっぱら描いた龍膽寺雄モダニズム文学もまた、ある種の人びとが都市を意識し発見したこの時代の<賜物>なのである。都市への意識があいまいになり、そこになんの驚きも見出せなくなってしまった現代の目でモダニズム文学を読むことは、だからあまり意味がない。そのかわり、いまなお都会を意識し、驚きの目をもって日々みつめている<マイノリティー>にとっては、まだまだその輝きは失せていない。だからぼくは、90年近くも前に書かれたものながら龍膽寺雄の描く都会生活が好きなのだ。

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ピエト・モンドリアン「ブロードウェイ・ブギ・ウギ」1942-1943年 油彩

 

 労働者。

 寝不足で、

 栄養不良で、

 油にまみれた労働者。

 搾取、階級的鬱悶、反抗、逃走、集団、組合、ストライキ、マルクシズム、プロレタリヤ××、共産党、細胞組織。

 『万国の労働者団結せよ!』

 木賃宿から、簡易宿泊所から、アパアトメントから、細民窟から、鉄管の中から、夜明けとともに氾濫し出す労働者の洪水。飯屋へ、工場へ、職業紹介所へ、橋梁工事場へ、建築場へ、河へ、街へ!

 

【東京の<周縁>〜龍膽寺雄と徳永直の場合】

 昭和5(1930)年の東京を描くにあたって、東京の<周縁>をどのように扱っているか、作家個人の思想を測るうえでそのことはひとつの「ものさし」になる。ここでは、「新興芸術派」の龍膽寺雄、そして印刷工場の植字工として働きながら小説を執筆した「プロレタリア派」の徳永直、このふたりが描写する東京の<周縁>を並べることでそこにどのようが差異が存在するか、みてみたいと思うのだ。

 まずは、徳永直が自身の体験をもとに印刷工場での労働争議の顛末を描いた昭和4(1929)年の作品『太陽のない街』から。

 

「世界各国の近代的都市が、凡て、そうであるように、東京市も、その近接した外郭を、殆んど工場地帯で囲(めぐ)らしていた。

 品川以南京浜の一帯、大島町を中心とする城東方面、月島埋立地の全体、北へ飛んで南北の両千住東に東南へ王子、十条だ ーー。

 そして、これ等の工場地帯は大資本集中作用のバロメータアの如く、劃然と、より増大された資本の圧力を以て、丘岡を平らにし、泥沼を埋め、河川を掘鑿(くっさく)し、道路を築いて、南西に、東南に、北東に砂丘を浸してゆくあげ潮のように、拡がり埋めてゆくのである。

 まず、土地の買収、在来権益の譲渡、地方特殊的残存制度の廃棄に始まって、ブルジョア政党の党略的妥協交合の活躍が絡む、こうした陰翳(いんえい)を、土地開発と産業立国の粉黛(ふんたい)のうちに塗り潰して、大資本は無人島に、君臨したドンキホーテのような尊大と、威厳とを以て、「その新たなる王国」を支配する。」

 

 ここで東京の<周縁>とは、東京市のおもに南西、東南、そして北東に位置する工業地帯を指しており、そこはいまや大資本が支配する「新たなる王国」と化している。徳永は言う。「外郭の工業地帯は大都市の肺臓である」

 

「ペーヴメントの舗道に影を落とす七層のビルヂング、富豪の大邸宅、流行を織り出す大デパート、国会議事堂の伽藍、大ホテルの舞踏場、劇場、ミュージックホール、大銀行の芸術的な建築 ーーそうした機能に作用する動脈の血は、すべてこの工業地帯の肺臓から送られた。赤皮のトランクにおさめられた血脈は、郊外電車の連絡外皮を被って、最も安全に且つ上品に、大都市の中枢に送られる…… 」

 

 ここにあるのは確然としたヒエラルキーである。「大都市の肺臓」としての<周縁>は、ただただ労働力も生産力も、生命力さえも、きらびやかな都市の<中枢>への捧げ物として搾取されつづけるのだ。徳永直にとってはきっと、工場のサイレンは労働者の叫び声に、煙突からの煙は彼らの苦しい吐息に感じられたことだろう。「ペーヴメント」が、ここではビルディングやデパート、ミュージックホールなどと同様、大都市の<中枢>を構成する都会的景観のひとつとして扱われている点にも注意したい。

 では、「新興芸術派」の龍膽寺雄はどうか。正気なところ、ここでの龍膽寺雄はいかにも紋切り型というか、それらしいイメージの羅列に終始しており精彩に欠いている。けれども、彼には『機関車に巣喰う』(昭和5(1930)年)という東京の<周縁>を舞台にした美しいファンタジー的小品があったではないか。

 

「江東の工場街は汽笛の交響楽であけがたを眼ざませる。露ばんだ空にはクリスマスの飾りのように幾つもまだ星が光っているのに、壮大な橙(だいだい)色が地球の片側から拡がって、運河の向こうの工場街はくッきりと明暗に彩られる。宏壮な工場建築、倉庫、埃ッぽいスレート屋根、煤けたコンクリートの壁、錆びた巨大なガスタンク、高い水槽、白い碍子をキラキラとさげた送電鉄塔

 煙突。

 煙突。

 煙突。

 白い湯気の塊がそこここから空間へ吹ッ切られて、地球はまさに階調ある汽笛の交響楽だ!」

 

 『機関車に巣喰う』は、かつて泥の運搬に用いられ、いまは放水路の堤防に打ち棄てられたままになっている錆びついた蒸気機関車に暮らす若いカップルの物語だ。郊外の工業地帯の荒んだ光景も、龍膽寺雄の手にかかればチャーミングな青春小説の舞台へと様変わりする。

 機関車のふたりは、夜明け前、寝間着のまま錆びた釜の頭に腰掛けて「何かしら胸を躍らして、地球のあけぼのの中に大都会の黎明のこの大交響楽を、からだじゅうで聴いている」。そして、肩に手を回し、頰と頰とをくっつけて、「何かしら明るい希望に心臓をはずまして、この大都会の黎明の中に新鮮な愛情を誓う」のだ。物語はつぎのように締めくくられる。

 

「彼女と頰ぺたを擦りつけたまんま、もう一度運河の向うの工場街へ眼をやると、おお! 今日は千住火力発電所の巨大な四本煙突が、ほのぼのと煙を吐いている。ーー」

 

 ほぼ同じときに同じ風景を見ていたというのに、徳永直と龍膽寺雄とがそれぞれ切り取る眺めはこうまでも違う。

 夜明けの工場街は、ここでは「何かしら明るい希望」を抱かせる美しい世界であり、「新鮮な愛情を誓う」にふさわしい舞台でもある。そして、工業地帯の造成に使われた機関車でさえ<愛の巣>に変えてしまう若いふたりは、文字どおり<マシン・エイジの落とし子>といえる。あるいは徳永直なら労働者の怒りの狼煙(のろし)のように描いたかもしれない「千住火力発電所」の通称「お化け煙突」の煙も、龍膽寺雄が描くふたりの目には「ほのぼのと」映るのだ。

 徳永直の描く<周縁>と龍膽寺雄の描いた<周縁>。そのどちらがより現実的か、という問いはここではあまり意味をなさない。プロレタリア的なまなざしからすれば、当然工業地帯は被支配的な空間ということになるだろうし、モダニズム的なまなざしからすると、未来的な工業地帯の景色はその無機的で殺伐とした印象ゆえ、かえって都会的な新しさを感じさせるものとなる。そして、それもまたモダン東京の一部ということで、龍膽寺雄の目に東京の<周縁>は銀座や新宿、浅草などとおなじように映っているにちがいないのである。

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東京瓦斯株式会社砂町製造所の瓦斯タンク。都市美協会編『復興の東京』にも掲載された復興建築のひとつ。

 

 電鉄で、省線で、バスで、市電で、郊外から集中するサラリイ・マン。大学生、中学生、女学生、小学生。 ーー

 東京の街々はまさに朝の満潮時です。

 ビルディングの窓々には一斉にスクリーンが払われ、甃路(ペエヴメント) の人間の洪水をおおかた吸込んで、エレベエタアの昇降がピストンの様です。

 商事会社。

 銀行。

 通信社。

 百貨店。

 保険会社。

 株式仲買店。

 交通運輸会社。

 事務室ではタイプライタアのジャズ、ペンの軋り、電話のベル、メエル・シュウトの呻(うな)り、日付のスタンプ。ーー

 

 街路では。

 トラック、サイドカア、オウトバイ、自転車、馬力、荷車、これらのものが一杯に甃路(ペエヴメント)に氾濫し、西へ東へ北へ南へ、パンを積み、野菜を積み、反物を積み、シャッポを積み、ガラスを積み、陶器を積み、石材を積み、土を積み。ーー

 米俵の馬力と汚穢桶の牛車とが擦れ違うと、何のことはない、これは、人間生活の縮図です。なぜッて、是(これ)じゃお米は私たちのお腹を通らないでも、ちゃんと行きつくとこへ行きついちゃってると云うもんじゃありませんか!

 南無阿弥陀仏

 お!

 空には軽金属の軍用飛行機。ーー

 工場町の煤煙に濁された空、鉄屑工事場の蒸気鉄槌(スチーム・ハンマア)、街頭に歯車を噛合わせるコンクリートミキサア。

 モダン東京は今や生活の渦です。 <了>           

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3層からなる高架式の秋葉原駅(昭和7(1932)年ごろ)

 

【甃路(ペエヴメント)の正体】

 舞台は都市の周縁から中心へ、夜明けの工場街から朝の市内へと移り変わる。

 モダン都市の朝は、ともかくすべてがせわしなく動いている。夜、モダンガールやモダンボーイの独壇場であった甃路(ペーヴメント)も、いまや学校や仕事場へ人間の群れを運ぶベルトコンベアと化す。もしここに<発見>めいたものがあるとすれば、それは、夜と昼とで「甃路(ペーヴメント)」はまったく異なる顔をもつということだろう。朝の甃路(ペーヴメント)は、人間の往来、乗り物の往来、そしてモノの往来であり、そこはつまり「人間生活の縮図」である。

 散文詩? スケッチ? 断章(フラグメント)……? どう呼んだらよいのかよくわからないが、昭和5(1930)年のモダン都市東京を描出しようとかんがえた龍膽寺雄がそのとき選んだ<主役>は<甃路(ペエヴメント)>であった。昭和初期、関東大震災の復興事業とともに東京のあちらこちらに姿を見せた堅固で美しい敷石の舗道こそは、そこに暮らす人びとに東京の<都市化>を鮮明に印象づけた。ただじっと見つめてさえいれば、そこにはさまざまな風俗、テクノロジー、思想や文化が次から次へと現れては消えてゆくのだった。

 昼間にはひとやモノ、乗り物がせわしなく行き交い、夜になればアメリカの映画から抜け出てきたようなモガやモボが闊歩する<甃路(ペエヴメント)>とは、千変万化する都市の表情をありのままに映し出す<鏡>であり、さまざまな音や色、匂いを最新式のコントラストで織り込んだモダン都市の<表象>そのものである。

 

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高円寺の自宅でくつろぐ龍膽寺雄

 

 これで龍膽寺雄『甃路(ペエヴメント)スナップ』はすべて読み終えた。次回12回目で総論的なことを少し書き、それでこのシリーズは完結としたい。

龍膽寺雄『甃路(ペエヴメント)スナップ ー夜中から朝まで』を読む(第10回)

 ここで読んでいる『甃路(ペエヴメント)スナップ』は、モダンな相貌に変身を遂げつつあった昭和5(1930)年当時の東京にさまざまな角度から光をあて、路上(ペエヴメント)に立ち現れる光景を切り取ってみせたポートレイト集である。「夜中から朝まで」というサブタイトルからも分かるように、モチーフとなっているのは<夜の東京>。ここまで、銀座、新宿、丸の内など夜の都市を徘徊してきたぼくらは、ようやく、いや遂にと言うべきか、「浅草」にたどりつく。

 おそらく、この作品が書かれた当時、龍膽寺雄がもっとも親しみを抱いていた東京の街は「浅草」である。たとえば、デビュー作『放浪時代』で主人公と友人兄妹が同居する家も場所は浅草の駒形だったりする。ショーウィンドウの装飾を仕事とする彼は、銀座ではたらき、夜になると市電にのって浅草の寝ぐらへと帰ってゆくのだ。

 昭和5(1930)年当時の暮らしぶりを龍膽寺雄はこう回想する。「私はほとんど毎晩ぐらいに、夕方前にはこの円タクを拾って、新宿へ出てお茶を飲み、それから、銀座へ回って夕食をとったあと、銀座から上野か浅草まで、また車を走らせて、食後のお茶を飲んで帰る習慣だった」。これでは、当時暮らしていた目白のすまいから離れるいっぽうではないか。だが、それほどまでに、夜更け過ぎの浅草には彼の心をとらえてはなさないなにかがあったのだ。

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諏訪兼紀「浅草六区」木版 昭和5(1930)年

  

#エピソード

 浅草!

 六区の映画街も路次々々の飲食店も、しらけた街頭の中に陰森(いんしん)と睡(ねむ)って、樹蔭(こかげ)の仄暗い公園には、ボロ屑の様な浮浪人の群れが、ベンチからベンチへと園内巡視の警官に追われて居ます。

 怪しい夜の咆哮は花屋敷の猛獣。

 白粉の醜怪な姥桜のストリート・ガアルも、いつか影をひそめて、おい! びっくりさせアがるぜ。

 ボシャン!

 池に躍る鯉の水音。

 朦朧車夫が乏しい行人の袖にすがって、

『檀那! 若し。』 

 と、怪しげに声をひそめるんです。

「いかがです、面白いところ。…… お好みなのがありますよ、檀那。…… 素人はどうです、素人は?…… え? 一つご案内致しましょう。』

 カジノフォーリーの踊り子たちが、裸の脚で捲上げた舞台の埃も、今頃は緞帳の蔭に冷たく鎮って、階下の水族館では眼ッかちの大鯛が、冷たいグラスへ鼻づらをくッつけたまま、朧月夜の大海原でも夢見て居るでしょう。ーー

 

【虚無の都】

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夜の浅草公園。凌雲閣(「十二階」)があるので大正12(1923)年以前の様子。

 

 浅草!ーー いきなり冒頭から感嘆符つきである。それにしたって、そもそもなぜこれほどまでに<深夜>なのか。たとえば、夜は夜でも映画館や芝居小屋がにぎわう宵の口の浅草ではダメだったのだろうか。

 「とりわけ、浅草が面白いのは、夜の十時すぎからで、浅草は多くの人がよく知っている昼間や宵の浅草のほかに、それとはまったく雰囲気のちがう、そして人の知らない夜の浅草というのがあって、その奇怪な魅力に惹かれて、私たちは夜更けの浅草に通ったものだった」(『人生遊戯派』)。龍膽寺雄のことばである。ここにあるのは昼の顔と夜の顔、光と闇との圧倒的なコントラストだ。ちなみに、ここで「私たち」というのは龍膽寺雄川端康成のふたりのことを指している。龍膽寺雄は、その当時上野桜木に暮らしていた川端康成と連れ立って頻繁に〝浅草通い〟をしていた。彼に言わせれば、川端を深夜の、アンダーグラウンドの浅草へと手引きしたのは自分だということになる。川端が東京朝日新聞に『浅草紅団』を連載していた昭和4年から5年当時、龍膽寺雄と川端とはまだ親しくつきあっていた。

 深夜の浅草がべつの、もうひとつの顔をもつということについては、たとえば江戸川乱歩もまた次のように書いている。「興行物のはねるのが大抵十時、それから十二時頃までは、まだ宵の口である。ゾロゾロと人通りが絶えない。やがて活動小屋の電飾が光を減じ、池の鯉のはねる音がハッキリ聞こえる頃になると、馬道から吉原通いの人足もまばらになる。馬道辺では朦朧車夫が跳梁し出す。そして、公園のベンチに取り残されるのは、ほんとうの宿なし、一夜をそこで明かそうという連中ばかりである」(「浅草趣味」大正15(1926)年)。まるで舞台が暗転しべつの情景が出現するように、日付が変わるころ、浅草は昼間とはまた異なる人種の跋扈する世界に様変わりするのだ。浅草が、おなじ盛り場でも銀座とも新宿ともあきらかにちがっていることの理由は、こうした人びとが蠢めく世界が映画や芝居やレビューでにぎわう街の足下に、たえず通奏低音として流れている点にある。その危うさは、浅草になんだかわけのわからない底知れないめまいにも似た感覚をもたらし、それゆえ多くの作家たちを魅了しつづけてきた。

 このなんだかわけのわからない底知れないめまいにも似た感覚を、ほかならぬ浅草ならではの魅力として懐かしんでいるのは、昭和8(1933)年に出版された『浅草経済学』(文人社)の著者石角春之助である。「昔の浅草には」と石角は言う。ここで「昔の」というのは復興する前のということだから、昭和6(1931)年以前の、という意味でよいと思うが、「底知れない深さがあつた。又ひどく奥深くも感じられた。」と述べ、さらにプチブルの連中が嫌うような「全く醜いルンペンの存在」は同時に「浅草の奥深さを物語るものあつて、時には好奇心をそゝる武器ともなるのだ。」とさえ言う。なぜといえば、浅草には表と裏とがあり、底知れない深さと不可解さとをもった「裏」こそが、なにより「浅草の持つ大切な成分でもある」からである。

 そしていうまでもなく、それは川端康成に『浅草紅団』をはじめとするいくつかの作品を書かせた<浅草>でもある。「一口にいえば、浅草公園は恵まれぬ大衆がここに棄てる、生活の重みと苦しみとがもうもうと渦巻いて、虚無の静けさに淀み、だから、どんな賑やかな騒ぎも寂しく聞こえ、どんな喜びも悲しげに見え、どんな新しさも古ぼけて現れるのだ」(『浅草祭』)。にぎやかな騒ぎや喜び、新しさといった浅草をすっぽりコーティングした<甘さ>の中に<苦さ>を発見し、その正体を<虚無>と言い切る川端の洞察眼には舌をまくほかない。虚無の盛り場、虚無の都、それこそが昭和5(1930)年の<浅草>の本質である。

 

【水族館の踊り子】

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桑原甲子雄浅草公園水族館」(昭和10(1935)年)

 

 「浅草には、あらゆる物が生のまゝ投(ほう)り出されてゐる。人間の色々な欲望が、裸のまゝで躍つてゐる」と添田唖蝉坊はその著書『浅草底流記』(倉持書館 昭和6(1931)年)の中で言う。関東大震災以降すっかり廃れてしまった浅草オペラに代わって登場したのは、ヴォードヴィル、ヴァラエティ、そしてレビューといった興行であった。こうした出し物は、当時の浅草を反映したごった煮のような内容で人気を博した。「『なんでもかんでも』が、『ボオドビル』だ。「ヴァラエティ』だ。『レビュウ』だ」(川端康成『浅草紅団』)。

 なかでもとりわけ人気があったのは「水族館のカジノフォーリー」である。「東京にただ一つ舶来「モダアン」のレヴュウ専門に旗挙げしたカジノ・フォウリイは、地下鉄食堂の尖塔と共に、一九三〇年型の浅草かもしれない。エロチシズムと、ナンセンスと、スピイドと、時事漫画風なユウモアと、ジャズ・ソングと、女の足とーー」(同上)。

 「カジノフォーリー」がオープンしたのは、昭和4(1929)年7月のこと。堀切直人の『浅草』(栞文庫)によれば、明治32(1899)年に開業したもののすっかり廃れてしまっていた「水族館」の経営者桜井源一郎が、義弟でパリ帰りの画家内海正性(うつみまさなり)に相談を持ちかけたところ、パリで目にしたレビューやヴォードヴィルの話をして聞かせ、この話に桜井が飛びついた結果生まれたのが「カジノフォーリー」だという。名前は、パリの「カジノ・ド・パリ」と「フォリー・ベルジェール」を組み合わせた。そして、観客は水族館の入場料30銭を払えばだれでも観ることができた。

 「黒鯛」の泳ぐ水槽の上の劇場。色あせたほこりっぽい小屋。硬いボロ椅子。ブカブカに破れた敷物。ガタガタな楽隊。その滑り出しこそかならずしも順風満帆とは行かなかったものの、やがて「カジノフォーリー」は大入り満員になる。なぜヒットしたのか、その理由についてはいろいろあるだろうけれど、まずなによりもその<スピード感>が当時の観客にはモダンで新鮮に映ったという点がありそうだ。ふたたび添田唖蝉坊の『浅草底流記』から引用する。「新青年の六號活字のやうな、ナンセンスの連續。ダンス。(中略)踊り子の黄色い素足」。これは先に引用した川端康成が言うところの<一九三〇年型の浅草>という表現とこだまする。添田は続ける。「今は、観念の集中時代ではない、放散時代だ。これに適合するから、カジノは萬歳なのだ」。踊り子も役者も音楽隊も台本作家も、「カジノフォーリー」ではすべてが若々しく荒削りで、ブレーキの効かないクルマでひたすらアクセルをふかすようなスリルとスピードがあり、内容らしい内容はないが、だが、生きている。そこに人びとは「浅草らしさ」を見出し歓呼の声をあげた。「浅草に、斯うしたシヨウがあつて呉れるのは、嬉しいことだ」。これは添田の本心であると同時に、「カジノフォーリー」に通うすべての観客に共通の思いだったろう。

 梅園龍子や花島喜代子、エノケンこと榎本健一といったスターを輩出しながらも、メンバーの脱退や二匹目のドジョウを狙ったレビューの氾濫といった要因が重なり「カジノフォーリー」の人気は次第に薄れてゆく。次代を担うスターを育てるような教育システムを持ち得なかったこと、公演回数が多くマンネリ化を避けられなかったことも原因といえそうだ。「浅草のあらゆる物の現はれは、粗野であるかも知れない。洗練を欠いてもゐやう。然し大膽(だいたん)に大衆の歩みを歩み、生々躍動する」。添田唖蝉坊は煽る。「浅草を瑠璃宮にしやうといふ清潔家よ、引っ込め」。浅草とは「あらゆる階級、人種をゴツタ混ぜにした大きを流れ。その流れの底にある一種の不思議なリズム。本能の流動だ。音と光り。もつれ合ひ、渦巻く、一大交響楽。ーー そこには乱調の美がある」。浅草そのものともいえる「カジノフォーリー」のレビューをみる男や女は、そのなかに「明日も生きやうといふ希望を拾ひ出して」いたのである。

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在りし日のカジノフォーリーの舞台

 

【普請中】 

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昭和4(1929)年に竣工した「地下鉄の塔」こと浅草雷門ビル。設計は、東京地下鉄道会社工務課。代表的な復興建築をあつめた都市美協会『建築の東京』昭和10(1935)年にも収録されている。

 

 おなじ東京でも城北エリアの西の隅っこで育ったぼくにとって、銀座や池袋、新宿や渋谷とちがい、浅草はあまり縁のない土地だった。それが、ちょうど『ぴあMAP』などの登場もあって〝街あるき〟への興味からときおり浅草に足を向けるようになったのは大学に入ってから、80年代の半ばを過ぎてからのことである。その当時の浅草の印象は、ひとことで言えば<ダメな街>だった。

 バブル経済の恩恵は、おもに渋谷や青山、表参道、六本木エリア、それに「ウォーターフロント」と呼ばれた湾岸エリアの再開発に注がれ、古くからの盛り場である浅草などは完全に置いてけぼりを食ったかたちであった。隅田川の対岸吾妻橋に〝例の〟フィリップ・スタルクの金色のオブジェで有名になった本社ビルを竣工したアサヒビールはべつとして、古くからのちいさな家が密集し商店街の結束も固い浅草では再開発のための〝地上げ〟もうまくゆかなかったのだろう。平日の昼下がりに六区あたりをぶらぶら歩いていても人影は少なく、酔っ払って奇声をあげながらヨロヨロ歩く男の姿ばかりが目立った。当時は入場無料だった遊園地「花やしき」も、無料にもかかわらず閑散としてわびしいありさま、商店街のはずれでは店頭に山のように〝刺青ヌード〟カレンダーを掲げた店がひまそうにたたずんでいた。ああ、ここは東京の異次元、エアポケットなのだなァと行くたび微妙な気分に見舞われたのを思い出す。だが、たしかにあの当時の浅草には、ほかの東京の盛り場とはあきらかに違う空気が、なぜかしばらくするとまた足を運んでしまう奇妙な<引力>があった。

 そして、龍膽寺雄が、川端康成が、足繁く通った昭和5(1930)年の浅草はどうだったのだろうとかんがえてみたとき、じつは意外にも1980年代の浅草と似ていたのではないか、と思い至った。

 昭和5(1930)年の浅草はといえば…… かつてのランドマークであった「凌雲閣」、通称「十二階」は関東大震災で崩落し、現在のランドマークともいえる「雷門」の巨大な提灯もまだない。隅田川に目を転じてみる。復興橋梁である「駒形橋」(昭和2年)、「言問橋」(昭和3年)はすでにあったが「吾妻橋」はまだなく、「一銭蒸気」と呼ばれる渡し舟がしきりに往来していた。この時点ではまだ東武鉄道は浅草まで来ておらず、松屋デパートもなかった。厳密に言えば、「吾妻橋」も東武鉄道の鉄橋や駅舎、松屋デパートも昭和6(1931)年の完成にむけ工事の真っ最中、つまり<普請中>なのだった。山と積み上げられた鉄骨と無数の人夫の姿、そして重機がたてるけたたましい騒音とが、昭和5(1930)年の浅草の景観のかなりの部分を占めていた。

 <普請中>の煩わしさから、浅草は「猛然と勃興」(安藤更生『銀座細見』)した銀座、そして新興の盛り場新宿にかなりの客を奪われてしまう。震災前、にぎわいを見せていた神楽坂が、飯田橋駅の開業にともなう<普請中>に客を新宿に奪われさびれてしまったのと同じだ。こうして、80年代とおなじく、一時、浅草は取り残された盛り場、東京の〝エアポケット〟となってしまう。

 川端康成は昭和5(1930)年に発表した「浅草」という小文の冒頭でつぎのように書いている。「浅草は『東京の心臓』であり、また『人間の市場』である。万民が共に楽しむーー日本一の盛り場である。従ってまた、歓楽の花の蔭に罪悪の匂いが漂う。暗黒の街でもある」。とかく繁栄しているときには見えづらいものだが、都市の底部にうごめく「澱(おり)」のようなものも頭上を覆い隠していたフタが取れることで表面に浮上し、目につきやすくなる。アンダーグラウンドが、もはやアンダーグラウンドではなくなってしまうのだ。それを目障りにおもう者は、ためらうことなくべつの盛り場へと去ってゆく。それはまた、ホームレスやポン引き、娼婦、犯罪者といった連中にとっては都合がいい、居心地のよい無法地帯の出現を意味し、犯罪、あるいは犯罪とまでは言えなくてもギリギリの行為が常態化することにつながってゆく。

 慶應義塾普通部の3年から4年、大正15(1926)年から昭和2(1927)年にかけて級友に誘われ競漕用のボートに乗るためしばしば浅草を訪れていたという野口冨士男は、『私のなかの東京』で、土地の不良に金銭をタカられることを恐れて雷門から吾妻橋までを「往路も復路も駆け足で通り過ぎた」というエピソードを披露している。震災後、人心の荒んだ街では「ペンの徽章のついた学帽」はかっこうのタカリの餌食となった。たしかにそういう「ダメな街」にはちがいないが、粗雑で、悪辣で、だが人間くさいエネルギーに充満した街はそれでもどこか魅力的である。

 昭和9(1934)年から10(1935)年にかけ『浅草紅団』の続編として『浅草祭』という短編を発表した川端康成は、この数年間に浅草に起こった<変化>を「浅草公園は魂が抜けた、陰がなくなった、底がひからびた」と嘆く。このときにはすでに隅田川には新たに吾妻橋がかかり、東武鉄道は「浅草雷門」駅まで延伸し、七階建の松屋デパートのアールデコ風の建物がそびえ立っている。河岸もまた隅田公園として美しく整備された。それにあわせて「取締りが厳重となる一方、振興策は一向講ぜられず、浅草祭発会式でも、『寂れゆく浅草』を嘆く演説ばかり」がむなしく聞こえてくるといった状況。街はうつくしく整備され復興したが、底部に流れる<通奏低音>までもが取り除かれてしまった結果、浅草はすっかり覇気の失われた空虚な空間になってしまったのだ。なぜこうも寂れてしまったのか? しきりに首をひねりながら、だが、おおかたのひとはその原因に気づかない。やはり『浅草祭』から。「その昔なつかしい花屋敷も、近頃の寂れようは、なかの廻転木馬の女給が爪を噛むうちに居眠りして、隣の上田鳥獣店の、これも流行おくれのセキセイ・インコ共が埃まみれながら花屋敷の楽隊の代わりをしている、内に入ると、小暗い路の片側に、等身大の電気人形の行列だけが動いて行くので、その気味悪さは、空っぽの芝居小屋の花道をお化けが通るようで」。そんな光景に怯えて泣き出した子供は、こう叫ぶのだ。「松屋へ行こう、松屋へ行こう」。

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震災復興公園のひとつとして整備された隅田公園(昭和6(1931)年4月)。川端康成は『浅草紅団』のなかで、もし「浅草新八景」というものを選ぶとするならば、と言い、塔をもつ地下鉄食堂のビルヂング言問橋などと並んでコンクリートで覆われたこの「隅田公園」の名前を挙げている。

 

【浅草へのあこがれ】 

 ボシャン! おい! びっくりさせアがるぜ。「池に躍る鯉の水音」に我に返って驚いているのはだれか? ほかならぬ龍膽寺雄自身である。ここまで作者の存在を意識させるような場面がほとんどなかったことを思うとき、この登場の仕方はあまりにも唐突で「おい! びっくりさせアがるぜ」とこちらも思わずつぶやいてしまう。

 これはなにを意味するかというと、龍膽寺雄自身はこの深夜の浅草公園に溶け込んでいない、そのサークルの外側に立って息をひそめて<彼ら>を眺めているということである。さながら、つねに外敵の目におびえながらジリジリと歩みを進めるジャングルの探検隊のように。 ちょっとした物音にも飛び上がり、<観察>は遮られる。

 じっさい、深夜の浅草に通いつめるほど魅了されていながらも、龍膽寺雄はけっして浅草界隈に暮らすことはなかった。新宿柏木の下宿から目白のアパート、その後の高円寺暮らしを経て中央林間の屋敷へ。彼はその拠点を東京の西郊に置きながら浅草へと通い続ける。その態度は、みずから浅草に住み庶民の生活を描いたプロレタリア派の武田麟太郎とはまるっきりちがっている。底なし沼のような浅草の深さを知っていればこそ、自分自身はとてもじゃないがそこでは生きられない、それを龍膽寺雄は自覚していたのだと思う。その点で、東京の山の手に暮らしながら浅草や玉の井荒川放水路へとしきりに足を運んだ永井荷風に共通している。<エイリアン>として接することを選び、その立ち位置をあくまで貫いたのが龍膽寺であり荷風であった。

 <エイリアン>という点で言えば、川端康成もまた浅草では<エイリアン>であることを選んだひとりである。『浅草紅団』には、ふたりのチャーミングな<浅草の娘>が登場する。「弓子」であり、「お春」である。川端は、おそらく川端自身の分身であろう主人公に対して彼女らの口からつぎのような辛辣な言葉を言わせている。深夜、弓子と連れ立って浅草寺の境内を歩いていたわたしは、突然「着飾った娘が四人、真白な顔で立っている」のを目にして「冷っと足をすくめる」のだが、その様子を見た弓子は「浅草っ子になれない人ね。花屋敷のお人形よ。」と笑う。また、目にみえないルールに縛られた浅草の不良たちを「古い」などとわけ知り顔に批評するわたしにむかって、起重機で首吊りしたいとうっとりした表情でつぶやくお春はこう諭す。「どうなすったのよ、厭だわ、そんな話。学校を失敬して、浅草通いして、時々狩り立てられる学生さんーー あんなのが言うことよ、そんなの。掟の網って、あんたそれにひっかかったことがあんの? ないでしょう。なければいいでしょう。ただ物好きに浅草を歩いてらっしゃいまし。あんたの笑う掟ーーそのおかげで命をつないでいる人の巣なの、浅草は」。

 接触することはできても、「浅草っ子」になれない川端は、そのサークルの内側に立ち入ることはけっして許されない。それは龍膽寺雄にしてもおなじこと。深夜の浅草公園、池の鯉に驚かされる龍膽寺雄は、<浅草>をその外側から熱いあこがれをもってじっとみつめている。

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GWの谷間の午後、駒形橋(昭和2(1927)年)から隅田川を臨む。赤い吾妻橋は昭和5年にはまだ建設中だった。右側は復興事業として整備された隅田公園アサヒビール本社のキッチュなオブジェもスカイツリーも、すでに浅草の景観の一部にとりこまれている。

 

 さて、この文章を書くために、ぼくはひさしぶりにゴールデンウィークの谷間の昼下がり、浅草の表通り、裏通りを徘徊してみた。世界中から集まった外国人観光客、制服を着た修学旅行の生徒たち、ソフトクリームをほおばる女子大生のグループにお年寄りと、文字通り浅草はどこもかしこもごった返しにぎわっていた。六区や商店街のはずれにしても、すくなくとも80年代半ばのようなさびれた雰囲気はまったく感じられない。人を避けて歩くのに疲れるくらいだ。立派な<観光地>だ。

 カジノフォーリーの踊り子も客を怪しげな家へと手引きする朦朧車夫もみあたらない。みんなどこへ消えてしまったのか。とはいえ、どうだろう、隅田川の対岸アサヒビール本社にのっかったキッチュなオブジェもやけにヒョロ長いスカイツリーも、いかにもなんでもありの浅草の景観に溶け込んでいるではないか。浅草はやっぱり浅草なのだ。あんなキッチュなものを呑み込んで平然としているなんて、さすが虚無の都だ。そう思って見れば、朦朧車夫はいなくても、女の子を乗せたイケメンマッチョな人力車の車夫ならいるじゃないか。あれだって、見ようによってはずいぶんといかがわしい。あの人力車が、東京でも浅草以外ではまず見かけないことの意味をかんがえてみよう。

 <乱調の美学>は、いまなお浅草という土地に息づいているのである。

龍膽寺雄『甃路(ペエヴメント)スナップ ー夜中から朝まで』を読む 第9回

 丸の内から、ふたたび丸の内へ。未来的な中央電信局の建物から歩きはじめたぼくらは、数寄屋橋、裏銀座のカフェー街に寄り道し、ひっそり寝静まったかのようにみえる深夜の丸の内へと帰還する。

 

#アウトロダクション

 丸の内のビジネス・センタアは朧月夜を戴いて、まさにアラビヤンナイトの化石の街。アスファルトの路面を忍びやかに流れ去る乏しい深夜の自動車、夜空を高く限った宏壮なビルディング街は、窓に灯り一つなく暗く沈黙して、あるかなしの夜の微風に、昼の跫音(あしおと)の亡霊でも漾(ただよ)って居そうです。

 東京駅を貫いた高架線の軌道には、時折忍びやかに夜の貨物列車が。

 どうやら大東京の心臓は、今や深夜の熟睡に落込んだ様です。

 

【事実小説『丸ビルの女達』】

 いかにもありそうなことを本当にあったかのように話したり、本当にあったことをよりいっそうデフォルメして話してみたり、モダニズムの東京ではそうした<街の猟奇談>や<実話>、いまで言うところの一種の<都市伝説>がことさら好まれた。

 このあいだ国立国会図書館のデジタルライブラリーを漁っていたときのこと、『丸ビルの女達』というタイトルの小説をみつけた。作者をみると加東まさ子となっている。聞きなれない名前だがそれもそのはず、これは昭和9(1934)年の雑誌「週刊朝日」新年特別号に掲載された懸賞小説4本のうちの1本なのである。興味深いのは、これが<事実小説>として公募されていることだ。<事実小説>というのもいまとなってはあまり耳にしないが、実際にあった出来事を脚色した小説作品という点で<街の猟奇談>や<実話>同様、この時代の人びとの嗜好を反映した読み物と言っていいだろう。

 さらにもうひとつ興味をそそられるのは、この『丸ビルの女達』にはそれが書かれた当時、つまり昭和9年前後の人びとの「丸ビル」に対する漠然とした<負の感情>が反映されている点にある。

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 丸ビルこと丸の内ビルディングの竣工は大正12(1923)年2月のこと。鉄骨鉄筋コンクリート造地上8階地下1階からなるアメリカ式オフィスビルの威容は、丸の内の「ビジネス・センタア」に新風を吹き込んだ。それまでの丸の内といえば、ジョサイア・コンドル設計の三菱第1号館や第2号館(明治生命館)、そして辰野金吾設計の東京駅にみられるクラシックな赤レンガ建築の印象が強く、そこから〝一丁倫敦〟などと呼ばれたりもしていたが、丸ビルやそれに先立つ大正7(1918)年に竣工した「東京海上ビルディング」の登場により、突如丸の内に〝一丁紐育〟が出現したのだった。

 安藤更生はモダニズムとアメリカニズムとのあいだの親和性について指摘しているが、当然、丸ビルもモダン東京のランドマークとして明るく快活で華やいだあこがれの空間というイメージを当時の人びとにもたらした。竣工当時の様子について、丸ビルを建てた三菱グループのWEB上で公開されている「岩崎小彌太物語」から抜き出してみよう。「(丸ビルには)予想を超え、多くのテナントが集まった。会社事務所のほか、弁護士、会計士、建築家などの専門職業、医院、雑誌社や学会事務所なども店子になった。丸ビルには文化的でリベラルな雰囲気が生まれた」(三菱人物伝「岩崎小彌太物語」vol.11丸ビルの建設)。

 さらに丸ビルが画期的だったのは、日本で初めてオフィスビル内にショッピングモールを併設し、誰でも利用できるようにしたことである。「レストラン、喫茶室などのほか、美容院も開店した。日本橋からは文具紙店をはじめとする老舗も移ってきた」(同上)。ひとことで言えば、まるごとビルがひとつの「都市」のようなものだった。

 いっぽうで、その〝アメリカ式〟に得体の知れない恐怖や敵対心を抱くものもあらわれる。その代表に、画業のかたわら風刺のきいた文章を数多く残した水島爾保布がいる。「いくらパリの凱旋門が馬鹿見たいだって、東京の丸ビルのトンネルの穴よかまだ幾らかましだらう。ー中略ー 苟しくも都會人として都會人らしい神經をもち、都會人らしい感覺をもつてゐる限りは、とても恥と侮辱を感じずにあん中へ吸ひ込まれ、叉あすこから吐き出されやうなんて事は思ひも至らない筈だのに、不思議なことには素晴らしい繁盛ださうだ。誠にアメリカニズム萬歳である。結構なお正月である」(「丸ビル罵倒」〜『新東京繁盛記』日本評論社 大正13(1924)年)。震災以前の銀座が「フランス文化、すなわち欧羅巴(ヨーロッパ)の文化の光被(こうひ)の下にあった」(安藤更生『銀座細見』)のと同じく、明治末から大正の初めに青春時代をそういった空気にどっぷり浸かって過ごした水島には丸ビルとそこにあつまってくる人びとが発散する「アメリカ」の匂いが耐えられなかったのだろう。もちろん、ノスタルジアはかならずしも古いタイプの文化人の専売特許というわけではない。詩人のサトウハチローも「僕は、あの赤いレンガが好きだ。丸之内にある、どんな大きなビルヂングより、東京駅になつかしみを感じているのは、あの建物の色だ。東京駅と同じに、仲六号館、東九号館、仲八号館などというあの建物も好きだ。昼間など、妙にひッそりとして、のぞくと、オレンヂ色の灯りが、呼吸(いき)づいているところなど、何ともいえなくいい」(『僕の東京地図』ネット武蔵野)と書いている。仲6号館、東9号館、仲8号館はいずれも明治に建てられた建物。ちなみにこの本が世に出たのは昭和11(1936)年、サトウハチローは明治36(1903)年の生まれだ。

 こうした、ノスタルジアとはべつに、人間の群れを吸い込み、また吐き出す巨大な建物そのものに言いようのない不気味さを感じるものもいた。たとえば、『丸ビルの女達』で主人公の女は次のように言う。

 「朝の九時。東京驛からはき出されて、丸ビルまでの長い通路を、ぞろぞろぞろぞろと、心太(ところてん)のやうにつながって行くサラリーマン達の顔。男、女、ありや鎖につながれてゐないといふだけのことで、まるで囚人さ、さう思つてぢつと見てゐて御覧よ。どれもこれも六十圓を出るか出ないかの背廣が、お揃ひの囚人服のやうに、似たりよつたりぢやないか。」

 最新式のオフィスビルが、ここでは「牢獄」にたとえられている。にもかかわらず、丸ビルではたらくサラリーマンやオフィスガールたちときたら、「まるで丸ビルに住まふことが、一つの特権でゝもあるかのやうに、澄ましてゐる」。都市の急激なモダン化は、それを肯定的に受け入れる者と反撥する者とに二分する。その意味で、『丸ビルの女達』の舞台としての「丸ビル」を急激にモダン化した都市のいわば<メタファー>として捉えることもできそうである。

 じっさい、巨大なオフィスビルでありながらショッピングモールを有する丸ビルには、そこではたらく人びと以外にも買い物客や観光客などが終日ごった返し、にぎわう空間であった。日常的に不特定多数の人びとが交錯するそこでは、仮にビル内ではたらく者同士であったとしても名前はおろか、たがいの仕事も顔も知らないということがふつうに起こりうる。そしてこういった<匿名性>こそ、都市の最大の特徴である。

 これまでに何度か、モダニズムの特徴のひとつとして<垂直のまなざし>を挙げてきた。ビルの高層化、高架鉄道に地下鉄道、屋上のネオンサインや電光ニュースなど、都市や横へ横へとふくらんでゆくと同時に、上に下にと伸びてゆく。モダン東京に生きるものは、本能的にそれを理解し、カメラを切り替えるようにリズミカルに目玉を運動させている必要がある。それができず、ただ一方向的にしか都市をみることができないものは、いままさに起こっているたくさんの出来事をみすみす見逃がさざるをえない。

 それを物語るような出来事が、『丸ビルの女達』のなかで起こる 。丸ビルの2階にある婦人洋服店でお針子をしているある女は、8階の事務所ではたらく男と恋に落ち、結婚の約束をし、その子供まで身ごもるのだが、ある日男は海外出張に行くと言って出かけたきり音信不通となる。ひたすら帰りを待ちながら3年を過ぎたある日、頼まれた品物を届けに8階に行ったところ、なんとその男がなにくわぬ顔ではたらいていたばかりか、とっくにべつの女と結婚していたというのである。ふたりの出勤時間がちがう上、女は洋品店の裏にこもって1日じゅう針仕事をしていてめったなことでは店の外にも出ないので、同じビルの上と下にいながらふたりが顔を合わすことはなかったのだという。さまざまな生活が何層にも折り重ねられたミルフィーユのような構造をもった丸ビルでは、たいがいのひとの生活はそのなかのひとつの層だけで完結しているので、うっかりすると上や下にべつの生活があることをつい忘れてしまいがちだ。それが思いがけない悲劇を招く。

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 丸ビル1階のショッピングモール 画像参照元戦前~戦後のレトロ写真 (@oldpicture1900) | Twitter 

 

【ハート団事件とその余波】

  加東まさ子『丸ビルの女達』は、週刊朝日が公募した<事実小説>の当選作である。「丸ビルの女」といっても、ここには最新流行を身にまとったビジネスガールはひとりも登場しない。主人公はビル内に事務所をかまえるマネキン派遣会社の「不良」マネキンガールだし、ほかにも洋品店のお針子やら靴磨きやら生活に疲れた貧しい女たちばかり。そこでは「恋愛があるとしたところで、そこらの金持の奥さんや、お嬢さんのするやうな、色事とは譯の違つた、血のみじむやうな、悲しい辛い奴ばかりな貧乏な娘達は、皆が損なはれて、皆がふみつけにされて、あせた花のやうにあの中でしほれて行く」のだという。そこにあるのは、良質なテナントに恵まれた「文化的でリベラルな雰囲気」を誇る丸ビルのイメージとは真逆の世界だ。「一體(いったい)、丸ビルといふのは、いはゞ不思議な怪物さ。いろんな善行や、いろんな悪徳や、そんなものが、皆なこつそり、あの窓の中にかくれてゐるんだよ。」

 一見、明るく快活で華やかな丸ビルだが、それと同時に、暗く澱んだ裏の顔をもつ。それは、丸ビルがたんなるオフィスビルである以上に、ひとつの<都市>であることを意味している。さまざまな不特定多数の人びとが交錯するそこでは、都市におけるブルジョワとプロレタリアとの対立が、ごく自然にビルのなかでも生まれる。そしてまた、都市におけるのと同じような犯罪もビルのなかで発生する。

 大正13(1924)年12月、丸ビル内のタイピスト養成所ではたらく林きみ子が警察により拘引される。この事件をくわしく紹介した平山亜佐子『明治大正昭和 不良少女伝 莫連(ばくれん)女と少女ギャング団』(河出書房新社)によれば、林きみ子は養成所にきた娘やビル内ではたらく女店員らに言葉巧みに接近し「ハート団」なる闇の組織をつくり、ビル内の喫茶室の女将らを連絡係にし売春をあっせんしていたのだった。林は丸ビルきっての美人として知られ、しばしば新聞や雑誌にも取材されるほどだったが、そのいっぽうで「ハート団」を牛耳る通称「ジャンダークのおきみ」という裏の顔を持っていた。

 この「ハート団事件」を知った世間の人びとはどう思ったろう、とぼくはかんがえる。おそらく「さもありなん」と感じたのではないか。この事件は、日々たくさんの人間を吸い込み、吐き出ししている巨大なビルディングのもつ<得体の知れなさ>というイメージとかならずしもかけ離れたものではないからだ。いや、むしろ丸ビルの「光」と「闇」とを象徴するような事件として、一般の人びとが漠然と抱いてきた<負の感情>をより補強することになったのではないか。そして、そうしたイメージに乗っかるかたちでおそらく加東まさ子は『丸ビルの女達』という<事実小説>を書いたのである。また、表の顔はタイピスト、しかし裏の顔はギャングの情婦という女を田中絹代が演じた小津安二郎監督の『非常線の女』(昭和8(1933)年)などもそのバックグラウンドはおなじとみてよいだろう。

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ピストルも撃てるタイピスト 小津安二郎非常線の女』(昭和8(1933)年)より

 

【ビジネス・センタアの夜】

 ビジネス街は、夜になるとまるで死んだように静まり返ってしまう。これは昔も今も変わらない。龍膽寺雄は、深夜の丸の内を「アラビヤンナイトの化石の街」と呼ぶ。丸の内は、ふつうの街のように朝と夜とが交互に訪れるのではなく、朝に生まれ、夜に死ぬのだ。再生と死を繰り返す特異な場所。夜の丸の内はいわば<死の街>であって、そのぶん幻想的な想像力を刺激する空間に様変わりする。

 たとえば、深夜の丸の内に刺激された作家に海野十三がいる。彼の探偵小説『深夜の市長』については以前このブログでもとりあげたことがあるので詳しくは紹介しないが、主人公が「湖水の底に沈んだ廃都のような暗黒のビル街」を縫って「丸の内第十三号館」にたどりついてみると、なんとその中庭に巨大な電気仕掛けの円筒形の構造物がそびえ立っており、なかではマッドサイエンティストが高性能の覗き眼鏡を操って深夜の東京市を観察しているのだった。

 

 夢か現か…… 「どうやら大東京の心臓は、今や深夜の熟睡に落込んだ様です」。

 

龍膽寺雄『甃路(ペエヴメント)スナップ ー夜中から朝まで』を読む(第8回)

 時計の針は、そろそろ深夜0時を回ろうというところ。さて、数寄屋橋をあとにして、さっそく前回(第7回)読み残したパートへと歩みを進めよう。

 まずは「新興芸術派」に属する作家たちの〝友情出演〟による、たいそうにぎやかな幕間劇をどうぞ。

 

#インターバル

 裏ギンザのカフェ街。

 丸山警視総監の新取締令が徹底して、カフェ街の表戸は時刻と共にいかめしく閉ざされるんですが、スクリーンの隙には仄々(ほのぼの)と灯影(ほかげ)が覗き、御常連のおなじみ客をとりまいた女給さんたちの艶めいた私語(ささやき)が、忍びやかに表へ漏れるんです。

 試みに扉(ドア)の隙に耳を押付けて、中の気配を覗ってみたまえ。女給さんたちの忍び笑いがムズ痒く背筋を匐(は)い廻るから。

 が、ちょいとお待ちください。

 あの聴き覚えのある声は?

 冗談じゃない。モダン東京円舞曲のわが楽士の面々。吉行エイスケ、久野豊彦、それに楢崎勤君等の諸氏。 ーー

『やア。……』

 扉(ドア)を開けると、色電燈の仄暗い衝立の蔭に、頬紅の鮮やかな女給さんたちと膝組み交わして、卓子を囲んだモダン派作家の一群。いずれも名だたる街の猟奇者の面々です。

『さザ、どうぞ。……』

 秀麗なおもてに仄々と桃色の酔いをのせて、吉行君が長椅子(ディヴァン)へ席を招じるんです。

『厭にまたシンミリしてるじゃないか。お通夜かと思った。』

『いいえ。今ね、楢崎さんが逢引の実話をして下すってたとこです。ほら、いつぞやの例の信濃町駅でのを。……久野さんが悔しがりましてね。牛を馬に乗換えたッて。……』

『そんな話、吉行よそうじゃないか!』

 と、これは街の仙人久野豊彦君。

『それよか、僕がもっと面白い街の猟奇談をきかせてやるよ。小便臭い女の子との逢引話なんぞ、面白くも糞もないじゃないか。そんなことは楢崎や龍膽寺に委せて、それよりは僕の話を聴きたまえ。円タク・ガアル、ステッキ・ガアル、お好み次第だよ。と云って、何も僕の実験談てわけじゃないがね。』

 さア、大変な話になッちまったが、この居心地のいい長椅子は読者諸君にお譲りして私はともあれ、睡った深夜の街々をもうひと廻り。ーー

 

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にぎわう銀座の表通り 川上澄生「銀座」(『新東京百景』より)昭和4(1929)年 木版画

 

【エロは剣よりも強し!?】

 昭和4(1929)年警視総監に着任した丸山鶴吉は、カフェーの営業時間を午前0時までとする、著しく暗い客席は認めないといった項目を多数含む「<カフェー><バー>等取締規則要項」を発令、9月7日には保安部長より各警察署長あてに厳格に取り締まるようにとの通達を出した。初田亨『カフェーと喫茶店〜モダン都市のたまり場』(INAX出版)には、「最近驚クヘキ勢ヲ以テ増加シツツアル『カフェー』及『バー』ノ如キ……」と始まるこの要項の一部が引用されているが、そこに書かれたこの取り締まりの背景をざっくりまとめると以下のようになる。<最近ではカフェーやバーを訪れる多くの客の目的は、飲食よりむしろ女給からのエロな接客を受けることの方にある。そうなると、店側も客の気を引こうとより過剰なサービスを競うようになり、ますます風紀を乱すことにつながっている>。

 これについていえば、少なからず女給の給与システムも影響している。『銀座細見』の安藤更生によれば、カフェーの場合「月給制」ということはほとんどなく、女給の収入はほぼ「客の祝儀いわゆるチップによって成り立って」いたという。しかし、『甃路(ペエヴメント)スナップ』が書かれた昭和5(1929)年当時は、世界大恐慌のあおりを受けて女給が手にするチップの額もかなり冷え込んでいたため、少しでもチップの額を増やそうとついついサービス過剰になるといった傾向もあったようである。

 ところで、内務省に入省後、警視庁特高課長、保安課長、朝鮮総督府警察局長などを歴任、私娼撲滅運動など風紀取り締まりに辣腕をふるってきた丸山鶴吉が、濱口内閣で警視総監に就任したのが昭和4(1929)年である。昭和4年といえば、「帝都復興祭」の前年にあたることに注目したい。風紀取り締まりに実績のある丸山の警視総監への起用は、帝都東京の景観の一新とともに震災後の風紀の乱れもあわせて一新してしまおうという濱口内閣の意図があったのではないだろうか。

 とはいえ、ここに綴られたエピソードから察するに、深夜0時とともに閉ざされた表戸の内側ではなじみの客がこっそりお楽しみの最中だったりするのが現実の姿だった。全国共通、エロは剣よりも強いのだ。

 

【〝裏ギンザ〟とはどこか】

 〝裏銀座〟とは、いまとなってはあまり聞かれない呼び方である。〝ウラ〟と言うからには当然〝オモテ〟があってしかるべきなのだが、現在の銀座には、たしかに「銀座四丁目交差点」のような〝中心〟といえそうな場所は思い浮かんでも、どのあたりを指して〝オモテ〟と呼んだらいいのか、判然としない。だが、戦前の銀座にはたしかに〝オモテ〟があり、また当然〝ウラ〟があった。

 京橋、新橋、数寄屋橋といった銀座周辺の地名からもわかるとおり、かつての銀座は四方を堀割りに囲まれた細長い中洲のような土地であった。そしてなんといっても、銀座のメインストリートといえば京橋から銀座4丁目交差点を経て新橋へと至る現在の「銀座通り」であり、北(京橋側)から順に銀座一丁目、銀座二丁目、銀座三丁目、銀座四丁目、尾張町一丁目、尾張町二丁目、竹川町、出雲町、南金六町と続き、夜になれば銀座一丁目から竹川町までの東側(松屋三越松坂屋などがある側)には280あまりの露店が所狭しと建ち並んで道行くひとの目を楽しませた。

 ここに一枚の写真がある。これは、「晴海通り」の数寄屋橋から築地方面を臨んだ昭和4(1929)年10月に撮影された写真である(画像参照元土木学会附属土木図書館様)。

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 画面中央が外濠川にかかる数寄屋橋。左端に朝日新聞の社屋があり、その右には外堀通りに面して銀座教会の塔を見ることができる。その右手奥には巨大な松屋デパートがあり、さらにやや右には銀座4丁目交差点のあたり、建設中とおぼしき三越デパートの姿が見える。いまやランドマークともいえる服部時計店の建物はまだない。

 ここで注目したいのは、銀座通りに建つデパートの高層建築が手前の建物にほぼ遮られることなく見渡せていることである。寺田寅彦が〝アルプス〟になぞらえた⁂高層建築の稜線は銀座通りに沿って連なり、いかにも「表ギンザ」と呼ぶにふさわしい威容を誇っているのに対して、〝麓〟にあたる銀座通りの東側や西側を見やれば、そこには小さな店々がゴチャゴチャとひしめき合う「裏ギンザ」のたたずまいが広がっている。堀割りが埋め戻され、ビルディングが林立する現在の銀座からは、もはやこうした対照は見出しえない。いわば現在の銀座は、すべてが「オモテ」であり、また「ひなた」である。

 昭和2(1927)年に松崎天民が書いた『銀座』を拾い読みしていると、ところどころで〝裏銀座〟なる言葉と出くわす。たとえば、そのうちの一章「裏銀座夜色」には<オアシス>という店が登場する。<オアシス>は、大阪出身の姉妹が経営する「構へは小さくて狭いけれど、上品な瀟洒な喫茶店」であり、銀座通りの尾張町一丁目西側に建つカフェー<タイガー>の裏通りにあった。そして「表通りの銀座よりも、裏通りの銀座には、小さい狭い構への中に、特色のある家が多い」と松崎天民は言っている。

 つまり昭和5年の〝裏銀座〟とは、大店(おおだな)や老舗、有名店の並ぶオモテ通り(銀座通り)の外縁に存在する小さい店々がひしめいている一帯のことを漠然と指していると考えてよさそうである。そして、そうした「小さい狭い構への中に、特色のある」カフェーやバーは、裏手のすぐそばを三十間堀川が流れる銀座通りの東側よりは西側の方に多く密集していたため、とりわけ銀座通りの西側、外濠川あたりまでをしばしば〝裏銀座〟と呼んでいたと思われる。同時に、すこしそのエリアを外れていたとしても、「小さい狭い構への中に、特色のある」カフェーやバーがあれば「ウラ銀座の◯◯」といったふうに呼ばれることもあったかもしれない。

 

【キャスト紹介】

 龍膽寺雄ら、当時モダニズム文学と呼ばれるような作風をもった作家たちは、昭和5(1930)年4月「新興芸術派倶楽部」を結成する。龍膽寺雄の回想によれば、これは新潮社の編集者で、みずから作家でもあった中村武羅夫の呼びかけによって結成された「十三人倶楽部」を母体として、龍膽寺雄、久野豊彦ら有志が集まって新たにつくられた集団だった。とはいえ、龍膽寺雄の自伝的小説『人生遊戯派』(昭和書院)からのことばを借りれば、それは当時一大勢力を築いていた「プロレタリア文学に対して、戦線を張って闘おうとした非プロレタリア派あるいは反プロレタリア派の仲間の集まり」として誕生した。「新興芸術派」とは、その意味では、文学運動というよりも「マルクシズム文学に非ずんば文学に非ず」というプロレタリア文学派の「無暴(ママ)な」主張に抵抗するための野党共闘といった趣があった。「モダーニズム文学などという名は、私の作風に人がそう名付け、それがジャーナリズムに乗って多くの追随者が現れて、一つの流派が出来ただけのことで、この『陣営』などというものもない」というのが龍膽寺雄の主張である。ちなみに、「モダニズム文学」というのは東京日日新聞の学芸部長で評論家の千葉亀雄が名づけたもの。

 ではさっそく、ここで〝友情出演〟している「新興芸術派倶楽部」の仲間たちを『人生遊戯派』での龍膽寺雄のことばを借りつつ紹介してみよう。ただし、すでに80歳近い人間が50年も昔のことを振り返って書いているものゆえ、そこに誤解や記憶ちがいが混じっている可能性があることをあらかじめ指摘しておく。

 

吉行エイスケ・・・龍膽寺雄よりも5歳年下なので、この『甃路(ペエヴメント)スナップ』が書かれたときはまだ弱冠24歳ということになるが、すでに妻あぐりとのあいだに長男淳之介(作家の吉行淳之介)がいた。後にNHK連続テレビ小説のモデルとなったあぐりは、自身の美容室「山の手美容院」を昭和4(1929)年に開店している。「市ヶ谷見附を見おろす靖国通りのはしの三叉路の角に、吉行エイスケの妻君あぐりさんが美容院を経営しており、そこに村山知義が設計したという、青っぽいモルタル三階造りの、軍艦のような形をした、シャレた建物があって、塔のような三階の狭い一室が吉行エイスケの居間になっていた。ここが前から、新興芸術派も仲間のたまり場のようになっていて、よきことやよからぬことを相談しあったりしていた」。文壇では孤独だったと語る龍膽寺雄にとって、同じ「新興芸術派」の久野豊彦とこの吉行エイスケは数少ない気心の知れた友人だった。「水際立った美少年型」の彼は、どこへ行ってもモテていた。そのエイスケは34歳という若さで亡くなるが、「彼の息子の吉行淳之助(ママ)が、そっくり彼のあとを継いだ趣きのあるのも面白い」。

 

楢崎 勤・・・龍膽寺雄とは同い年。反プロレタリア=非プロレタリアの作家を招集した「十三人倶楽部」の仕掛け人中村武羅夫の下、新潮社で編集者として活躍するかたわら、モダニズム作家のひとりとして小説も発表した。「どこか女性的にヒネこびた、狷狭不介(けんきょうふかい)な性格」で周囲を手こずらせたと龍膽寺雄の人物評は手厳しいが、あけすけで気取らない性格の持ち主である龍膽寺雄とは真逆ゆえ、お互いにいまひとつ相性がよくなかったのではないか。新潮社の新興芸術派叢書のなかでは彼の『神聖なる裸婦』が龍膽寺作品のつぎに売れたというが、それにかんしても「題名がよかった」だけとつれない。龍膽寺雄によれば、楢崎はすでに当時老大家であった徳田秋声に私淑している「旧い文人気質を体臭に持つ人々」のひとりで、「社会思想的にはこれという主張を持っていない」といい、vsプロレタリア派という面でもあまり頼りにはされていなかったようだ。楢崎に対して晩年の龍膽寺が辛辣な態度をとる理由は、作家としての不遇時代に、新潮社の編集者として力のあった彼が手をさしのべてくれなかった恨みも、あるいはあるのではないだろうか。

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久野豊彦・・・龍膽寺雄楢崎勤よりも5歳、吉行エイスケよりは10歳年長である。「新興芸術派」の作家の中で龍膽寺雄ともっとも気が合い、頼りにされていたのは久野豊彦だったろう。モダニズム文学について「久野豊彦、浅原六朗、吉行エイスケ、中村正常、私などをのぞいて、はっきりそのメンバーに加えるべき者は、他にいない。楢崎勤にしても岡田三郎にしても船橋聖一にしても、いくらかモダーニズムがかった作風の作品を書いただけで、純然たるモダーニズムとはいい難い」。そう龍膽寺は述べる。いや、むしろ「モダーニズムや新興芸術派の文学運動は誰が起こして、その主流には誰がいたか、と改めて訊かれると、私や久野豊彦を除くと、誰もいなくなる」。

 龍膽寺と久野との出会いは、昭和3(1928)年7月の雑誌「新潮」にふたりの作品が掲載されたのがきっかけであった。龍膽寺雄は、久野の『シャッポで男を伏せる女』を読み衝撃を受ける。こんな作品を書くなんてよほどの天才にちがいない。じっさい久野豊彦は、小説家であると同時に反マルクスの立場をとる経済学者という異色のプロフィールの持ち主でもあった。作家としては、吉行エイスケとは文芸誌『葡萄園』の同人であり、また後に浅原六朗と「新社会派」という立場をとることになる。そういった事実からも、「新興芸術派」の兄貴分的な存在として慕われ、久野が彼らと龍膽寺雄との接点になっていたと捉えることもできるだろう。「どこかヌーボーとした面持ち」で「鼻っぱしばかり強い私の論理を、大人(たいじん)の風格をもって見おろし」、おだやかにあしらう久野に龍膽寺は全幅の信頼を寄せていた。

 ところで、プロレタリア派に対抗すべく「新興芸術派」を起こそうとかんがえた龍膽寺雄は、当時愛知県に暮らしていた久野豊彦を訪ねてゆく。昭和4(1929)年の大晦日のことである。久野は東京で起こしたある「恋愛事件」をきっかけに、夫人を伴って知多半島の大野町というところにある尼寺の庫裏に隠棲していたのだ。龍膽寺の説得が功を奏し、翌春東京でふたりは再会することになるのだが、この「幕間劇」ではそんな女好きの久野がからかわれていて思わずニヤリとしてしまう。そして、写真にみる久野豊彦はちょっとムーミンに似ている。

 

【ガアルの時代】

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 伊東深水が描くモダンガール 「浅春」昭和6(1931)年 木版画

 一時、テレビや雑誌で「◯◯女子」という表現をよくみかけた。「歴史女子(レキジョ)」やら「肉食系女子」、果ては割烹着姿で顕微鏡を覗く「理系女子(リケジョ)」まで乱れ咲きといった様相。なかには「都市伝説」のような存在もいてほぼカオス状態といった感じであったが、なんと戦前のモダン東京もまったく同じであった。

 昭和7(1932)年発行の社会ユーモア協会編『社会ユーモア・モダン語辞典』(鈴響社)で「ガアル」を引くと、自動車給油所でガソリンを売る「ガソリン・ガアル」、街上で広告マッチを渡している「マッチ・ガアル」、それにこのブログの第2回でもピックアップした流行を宣伝する尖端職業婦人「マネキン・ガアル」といった特定の仕事にたずさわっている女性に対する呼称のほか、カフェーや喫茶店で話し相手になってくれるという「スピーキング・ガアル」や歌舞伎役者のような物凄い化粧をした「歌舞伎ガアル」といったなにやらあやしげなものまで登場する。深夜のカフェーでモダニズム作家らの話題にのぼるのも、そんなちょっといかがわしい「ガアル」たちである。

 まず<円タク・ガアル>だが、これは円タクの助手として同乗し客引きをする女性である。なかには路上で客引きし、あたかも同乗するようなふりをしておいて実際には乗らず、運転手から手数料を受け取るなり立ち去ってしまうそんな<円タク・ガアル>も存在したらしい。

 一方、<ステッキ・ガアル>とは何者か。<ステッキ・ガアル>とは、一定の報酬でもって「杖」の如く寄り添って銀ブラにつきあってくれる女性をいい、『日本歓楽郷案内』(竹酔社 昭和6年)の著者酒井潔によれば、その言い出しっぺは「文壇の不良新居格(にい・いたる)氏」だという。それが、昭和4(1929)年の春、雑誌「新青年」のゴシップ氏(=ゴシップ欄の担当者)によって取り上げられたのをきっかけに広まる。

 とはいえ、この<ステッキ・ガアル>にかんして言えば、その実在はかなり疑わしい。たとえば、安藤更生は「安文士どものリテラリイイメエジさ。第一そんなものが商売として成り立つわけがない」とバッサリ斬り捨てる。ところが、面白がって新聞や雑誌が飛びついたものだから、ついには「事実ゐるかどうか分かりもしないのに、警察では厳重な取締りを始め」る騒ぎにまで発展する。酒井潔いわく「蓋(けだ)し、ナンセンスの逸品」。

 思いがけない拡散にあわてたのは、言い出しっぺとされた新居格である。事の成り行きを説明した「ステッキガール抗弁」なる文章を書いている。それによると、カフェーの片隅で気の置けない仲間相手に軽口を言ったのが、思いがけず広まってしまったのだという。ーーー「君、この間、君が一緒に歩いてゐた人は誰だね」「あれかね、あれは云はばステツキさ」。たしかに、そもそもの〝発端〟は自分にある。そう潔く認めた上で彼は続ける。「わたしが幾年か前つい口に出した自分は単なる比喩でしかあり得なかつた。そして一寸した対話の上での使用で、きはめて私事的のものであつた。ところが数年後の今日ガールといふ名詞を後に附けて新聞雑誌の上で活字となつて現はれると、事実のあるなしは第二段として、社会的客観性を具有するに至つたのである。」だからといって、<ステッキ・ガアル>が実在するかといえば「存在してはゐないのであらうし、また存在すべき理由がない」と新居は断言する。ただ、時代が変わり風俗が変わるなかで、仮にそれが「ありえても少なくとも突飛ではあり得ぬと云ふ程度にあつた」。なるほど、<マネキン・ガアル>とは、時代の空気が育てたキャラクターということなのかもしれない。

 幕間劇での作家たちのおしゃべりに注意深く耳をかたむけてみよう。<実話><街の猟奇談>といったフレーズがきこえてはこないだろうか。真実よりも、ありえそうなこと、あったらおもしろいことをこそ彼らはより積極的に語るのだ。そこに、いってみれば〝モダニズムの気分〟のようなものがある。「何も僕の実験談てわけじゃないがね」ーー彼らがまことしやかにステッキ・ガアルについて語るとき、やはりこの言い訳がカッコの中にしまわれていることはぼくらも承知しておこう。それが〝モダン東京の歩き方〟でもある。

 

さて、思いがけずこのパートがずいぶんと長くなってしまった。最後のパート(アウトロダクション)は次回のお楽しみに。

龍膽寺雄『甃路(ペエヴメント)スナップ ー夜中から朝まで』を読む(第7回)

 復興期の東京に出現した数多くのビルディングのなかでも、とりわけ〝フォトジェニック〟という点で図抜けていたのは、丸の内にあった東京中央電信局だったのではないか。龍膽寺雄は、夜空に屹立するその中央電信局のビルディングを都市の〝頭脳〟に見立てるところから話をはじめる。

 なお、全体は #イントロダクション(導入) ー #エピソード(1) ー #エピソード(2) ー #インターバル(幕間劇) ー #アウトロダクション(終結)という5つのパートから構成されるが、今回はまず#エピソード(2)までとりあげる。

 

#イントロダクション

 丸の内中央電信局の宏壮な化粧煉瓦の伽藍は、まさに不眠症にかかった都会の脳中枢。燐色の花火が太平洋の夜を挟んで、電波のジャズを奏で、全世界のいらだッた神経網がここに集約されて、火事の様に窓々が燃えて居ます。

 カチ、カチ、カチ、カチ。

 ジジ、ジ、ジ!

 地球を網包みした海底電信。

 地球をヴェールでくるんだ短波長のウェーヴ。

 極東日本の夜の脳髄!

 

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東京中央電信局(大正14(1925)年) 設計は、当時逓信省経理局営繕課に在籍していた山田守。他にも山田の作品には、聖橋、日本武道館京都タワーといったおなじみの建造物が多数含まれる。画像参照元郵政博物館

 

【新興芸術派と分離派建築会】

 龍膽寺雄は、自分たち「新興芸術派」について「格別統一した一つの文学理論や、一つの傾向というものがあるワケじゃない」と語っている(『人生遊戯派』昭和書院)が、これはそのまま、「東京中央電信局」を設計した山田守が堀口捨己石本喜久治らとともに起こした「分離派建築会」(以下「分離派」と略)にもあてはまる。

 分離派は、大正9(1920)年、当時東京帝国大学建築学科に在籍していた学生有志により結成されたグループで、彼らのマニフェストともいえる「分離派宣言」では高らかに「過去の建築圏からの分離」が謳われる。建築にまつわる過去のあらゆるイズムに囚われることなく、真っ白い紙にむかって思いのままにペンを走らせるように新しい時代の建築を創造することこそ、彼ら若い建築家たちが理想とするところであった。そして建築にもより高い創造性を求める結果、当然のように芸術性に接近してゆく。統一した様式や理論を持たないことは、後に雑多な印象、安易な折衷主義、粗悪な模倣品の氾濫といったべつの問題を生じることになるのだが、結成当時の彼らは、ウィーン分離派ドイツ表現主義をよりどころに清新な気持ちで新時代の建築に取り組んでいった。逓信省の職員として設計に携わったこの「中央電信局」のビルディングも、まさにそうした気概をもって力強く産声をあげたのだった。

 荒っぽくまとめてしまうと、主流派に対するカウンターとして華やかに登場し、統一した様式や理論を持たず、また多分にエピキュリアン的であるという点において、ぼくは龍膽寺雄ら「新興芸術派」と山田守ら「分離派建築会」とはとてもよく似ているように思う。それゆえ、ぼくはここで龍膽寺雄と山田守とが握手している姿が目に浮かんで思わずニヤリとしてしまう。

 

【最新技術のランドマークとしての中央電信局】

  この中央電信局の「宏壮な化粧煉瓦の伽藍」に、龍膽寺雄は新たな感覚の萌芽をだぶらせる。それは、「つねに世界につながっている」という感覚だ。

 通信技術は、これまでの電信ケーブルによる有線方式にくわえ、昭和2年になると世界各地で短波を利用した無線方式の実用化が相次ぎいよいよ新時代に突入する。日本でも同年5月1日、正式に国内無線が稼働する。そしてこの『甃路(ペエヴメント)スナップ』が書かれた昭和5(1930)年の10月には、ロンドン海軍軍縮条約の批准を記念した日英米の宰相による演説が無線によって行われ、日本からは検見川の送信所を介して浜口雄幸首相の声を海の向こうまで届けることに成功したのだった。パラボラ型のアーチが連なる山田守の「東京中央電信局」は、地球が海底ケーブルによって「網包み」され、また短波長のヴェールによって「くるまれ」ることで世界がひとつにつながった時代を象徴する、まさにランドマークなのだった。

 

【燐色の花火が奏でる電波のジャズ】

 それにしても、電波のジャズとは、なんて〝昭和5年的〟なフレーズなんだろう。

 この時期、たしかにあちらこちらで「ジャズ」という単語と出くわすが、それがいつも音楽の「ジャズ」を表しているかというとそうでもない。昭和5年当時、「ジャズ」という言葉が喚起するイメージは現代よりもずっとずっと広かった。

 狂騒、リズム、興奮、斬新なハーモニー…… これらは、ほぼ音楽としてのジャズに起因するイメージだ。そしてこの時代、「ジャズ」はほぼ「ダンス」とセットで聴かれていたはずである。したがって、そこにはさらに、都会的、最新モード、官能、尖端的…… といった「ダンス」のイメージも盛り込まれてゆく。ひとつの「ジャズ」という単語で、これだけ多岐にわたるイメージを喚起させることができたのである。

 ところで、1968年にリリースされたフランス・ギャルの曲に「Le Coeur Qui Jazze」というのがある。邦題「ジャズる心」。フランス・ギャル父親で、作詞家のロベール・ギャルが詞を書いている。

 タイトルにある「Jazze」は、おそらく音楽の「JAZZ」が動詞化した「Jazzer」の活用形と思われる。つまり、フランスでもまた、ある時期から「ジャズする」といった使い方が一般化し、あわせて「ハートがジャズる」といった多分に感覚的な表現がなされていたことがわかる。フランスに「Jazzer」という動詞がいつごろ誕生したのか定かではないが、欧米でジャズが流行した1920年代以降と考えてよいと思う。とすると、欧米のみならず日本でも、ほぼ同時期に、この「ジャズ」という言葉が蔓延したと考えてよいだろう。そしてなにより面白く感じられるのは、当時の世界じゅうの都市生活者が、「ジャズ」という単語に含まれる多彩な意味を感覚的に共有していたことである。そういえば、この『甃路(ペエヴメント)スナップ』が収録されたアンソロジー『モダンTOKIO円舞曲』も「世界大都會尖端ジャズ文學」叢書と銘打たれていたっけ。

 昭和5年の読者には、「電波のジャズ」なんて思わず首をかしげたくなるような詩的なフレーズも、デューク・エリントンと同じくらい魅惑的だったにちがいない。

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 フランス・ギャル 

 

#エピソード(1)

 泥の様に腐った水面に、赤くに濁った夜空を映して、新装成った数寄屋橋の袂には、老いぼれた男乞食が一人、哀れッぽい借りものの子供を二人抱いて、冬の頃から持ち越した甃路(ペエヴメント)の冷たさに、骨と皮 とのマッチの様な臑(すね)を投出して居ます。

 破れたボオル箱には一銭銅貨が三枚。

『おウい!』

 フラリフラリと脚をもつらして通りすがった酔ッ払いが二人。

『ど、どこへ行くんだい一体。』

『新、新宿?…… 遊郭か?』

莫迦ア云え。…… 古、古風なことぬかしアがる。ステッキ・ガアルでも捉えろ。…… よウ待て、乞、乞食が居アがる。やい父ッつアん。し、暫く。御機嫌よう。…… 何でえ、父ッつアん! それア父ッつアんの倅(せがれ)か? え、倅だ?…… おウい大将! ちょいと待てッてことよ。あれ行ッちまやがる。情知らねえ野郎だな。…… おい父ッつアん。訊いてるんじゃねえか。なに、倅だ?…… 倅にしちゃア酷えことしアがるじゃねえか。何でえ! そんな地びたへなんぞ転がしきアがって。犬猫じゃあるめえし。…… なに、そこア地びたじゃねえ? 橋の上だ? 莫迦云え。俺等(おいら)ア土足で歩いているじゃねえか。コンクリだッて地びたのうちだい。ふざけてアがる。…… 見ろい、頰ぺたコンクリへ押付けて寝てるじゃねえか。寒いもんだから二人で抱合ってら。可哀いそうに、よしよし。…… 何と汚ねえ餓鬼だな、手前の餓鬼は。銭湯へ連れてけ銭湯へ、たまにア。…… おウい! あん畜生厭やに遠くへ行ッちまやがったな。何でえ、人情のねえ野郎だ。…… おい父ッつアん。子供が可哀いそうだから、何かくれてやりてえが、合憎(あいにく)酔っ払ってて財布が出ねえ。また明日来らア。それまでそこに居ねえ。ナ。…… アバヨ。…… なに?毎度あ有難うッて、ふざけるねえこン畜生! なんにもまだくれてアしねえじゃねえか。おい。皮肉を云うねえ皮肉を。……』

 ケララケララケララ

 流星の様に闇を流れて来た眩しい自動車のヘッドライト!

『危ねえこン畜生! …… やい、酔ッ払い自動車。ちッたア気をつけて歩けえ。莫迦野郎。…… ウイ! …… 大将、どこへ行ッちまいやがった? おウイ! …… あ、あんなとこに小便してアがる。どうでえあのざまは。フラフラと電車通りへヒヨグラしやがって。…… よウし、そんなら俺等(おいら)もしてやろ。』

 

【河畔に出現した美観地区】

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鈴木信太郎「東京の空(数寄屋橋附近)」昭和6(1931)年・油彩

朝日新聞社の社屋から描かれた数寄屋橋の様子。中央を流れる外濠川に石造りの橋がかかっている。画面左手は銀座方面、右手が日比谷方面。橋の左手の木々が固まって生えているあたりが数寄屋橋公園。その奥には泰明小学校の校舎が見える。

 

 すぐれた性能のズームレンズさながらに、龍膽寺雄の「目」の焦点距離は変幻自在だ。ついさっきまで丸の内で「中央電信局」のビルを見上げつつ、「短波長のウェーヴ」にくるまれた地球をみつめていた彼の目は、つぎの瞬間には橋の上のひとりの男乞食の姿をとらえる。ここにも、モダン都市が綾なすコントラストがある。

 まずは、いま乞食がたたずんでいる昭和5年の数寄屋橋にカーソルを合わせてみる。数寄屋橋のある有楽町界隈は、いまの感覚でゆくとざっくり銀座エリアの一部と捉えられがちだが、戦前はちがった。かつて銀座は、4つの掘割ー 外濠川、汐留川、京橋川、三十間堀川にぐるり周辺を囲まれた中洲のようになっていて、橋を渡らないことにはたどりつくことのできない土地だった。ほとんどの掘割が埋め立てられ、「橋」といってもわずかに地名に残るばかりのいまとなっては、そんな水に囲まれた当時の銀座の様子を思い浮かべるなんて絵に描いたオムライスを眺めて満腹になれるくらいの豊かな想像力でもない限りなかなかむずかしい。

 数寄屋橋もまた、そうした銀座へのアプローチのひとつとして外濠川にかかる橋のひとつであると同時に、銀座のある京橋区と有楽町のある麹町区、ふたつの区を隔てる境界でもあった。つまり、ここにとりあげられる「数寄屋橋」は、銀座の側からみれば〝町はずれ〟であり、きらびやかな銀座の中心部とくらべると淋しい場所だったことだろう。

 大正3(1914)年生まれで、数寄屋橋の河畔に建つ泰明小学校の卒業生である池田弥三郎は、小学生のころ、つまり震災前の数寄屋橋界隈について述懐する。(泰明小学校の)木造モルタル3階建の校舎のかたわらに見附跡の閑地(あきち)があり、そこはしばしば数寄屋橋を渡って侵入してくる麹町区の子供たちとの〝決闘〟の舞台となった。銀座の目と鼻の先とは信じがたい、なんとも長閑な光景が広がる。

 そんな数寄屋橋界隈の様子が一変するのは、昭和4(1929)年のことである。それまで木造だった橋は堅固な石造りの二連アーチ橋に架けかえられ、銀座側の河畔にある泰明小学校も鉄筋コンクリート造3階建のモダンな校舎に生まれ変わった。さらに、数寄屋橋のたもとの広場も数寄屋橋公園として併せて整備される。これらはすべて、震災後の帝都復興事業の一環としておこなわれた。

 じつは、道路の拡充、橋の架け替え、小学校の校舎と付随する公園の整備は、帝都復興事業の3本の柱であった。じっさい、新しい数寄屋橋は全体で576におよぶ「復興橋梁」のひとつとして、また泰明小学校の新校舎は「不燃」を考慮した「復興小学校」のひとつとして計画されたものだ。数寄屋橋公園については、広さの問題か「復興小公園」のうちには数えられていないものの、それに準じたものとして整備されたとかんがえられる。つまり、昭和5年当時の数寄屋橋の景観は、復興事業によって生まれ変わった新しい東京のモデル地区のような様相を呈していたことになる。

 さらに、それに先立つ昭和2(1927)年、数寄屋橋の有楽町側のたもとに朝日新聞社の社屋が建っている。この大型客船のようなユニークな社屋を設計したのは、「中央電信局」の山田守とともに「分離派」を立ち上げた石本喜久治である。町はずれの、どこか場末の雰囲気が漂う数寄屋橋界隈に、突然、最新式の美観地区が誕生した。それを、龍膽寺雄が見逃すはずがない。

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『甃路(ペエヴメント)スナップ』が書かれた前年、昭和4(1929)年に新装された数寄屋橋のアーチ橋。銀座側より日比谷方面を臨む。

 

モダニズム文学の流儀】

 端正なフォルムの小学校や橋の出現によって〝町はずれ〟の寂れた印象を一新した数寄屋橋界隈ではあるが、その橋の上に張り付いた一点の「染み」だけは拭き取ることができない。「老いぼれた男乞食」の存在である。

 モダン都市の輝かしい肖像を描きつつも、その裏面への目配りを忘れない龍膽寺雄。それは主義とか主張とかのなせるわざではなく、いわば彼の「目」のよさ、どんな小さな濁りをも見逃さない卓越した解像度を持ち備えているがための宿命である。この『甃路(ペエヴメント)スナップ』では、文字どおり、無数のエピソードが机の上にばらまかれたスナップ写真のように羅列されてゆく。けれども、龍膽寺雄はその一枚一枚に対してなにか特別な順位や思想をあたえることはしない。主音も属音もそこには存在しない。シェーンベルクの12音技法のように「並列」してゆくこと、それが多面体からなるモダン都市を描く「モダニズム文学」のスタイルなのである。龍膽寺雄は、この「モダニズム」的態度について自伝的小説『人生遊戯派』のなかで次のように定義している。「モダーニズムとは、要するに、新しいものすべて一応肯定して取り入れる。そして、その批判は、その後に来るものにすべて委せる、という態度をいうのだ」。

 たとえ、たまたま並んだ2枚のスナップ写真ーー「新装なった数寄屋橋の美観」と「その美観に似つかわしくない哀れな乞食の姿」ーーのあいだに思わぬ相関関係を見出し、当惑したとして、龍膽寺雄はなんの答えも読者にあたえてはくれない。はたしてそこに何を見るか? それはぼくらひとりひとりの問題である。

 

【流星の様に闇を流れて来た……】

 数寄屋橋のペーヴメントを、ふらふらと千鳥足でこちらにやってくる酔っ払い。見ているこちらの方がハラハラするような足取りだ。そこに突然、夜道を一台の自動車がやってくる。そのあらわれ方に注目したい。ーー流星の様に闇を流れて来た眩しい自動車のヘッドライト!」

 昭和5年、自動車は暗闇を引き裂いて「流星の様に」強い光としてあらわれる。いま自動車のヘッドライトを見て、そこに流星を重ねるひとはあまりいないかもしれないが、この記事の第1回でもとりあげたとおり、モダニズムはまた「スピード」競争の時代であり、その意味で「スピード」を描くことはそのままモダニズムの表現たりえた。

 1930年代の自動車の広告(下図)には、ちょうど流星のように、実際にはありえない下から見上げるアングルから描かれた自動車や、飛行機や流れる雲といったスピード感の表現が目立ってくる。酔っ払いもオチオチ道を歩いてはいられないような時代に突入したのである。

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#エピソード(2)

 夜の十一時。

 表銀座の店々は大扉(おおど)をおろして、夜店の列はあわただしく屋台を片付け、灯りの白けた甃路(ペエヴメント)、夥しくそこらに散り敷いて居る広告のチラシ、二人三人とかたまってヨロヨロ泳いで行くのは、バアやカフェから時刻で閉め出された酔ッ払い客。

 円タクの一聨(いちれん)が甃路(ペエヴメント)の両側を流れて、運転台の窓々から掏摸(スリ)の様に光る眼が、行人を物色するんです。まさにこれ近代都市神経の尖端!

『目、目白の文化村? さア、…… 二、二円は戴かなくっちゃ。え? …… しかし郊外は帰りがありませんから。…… じゃ、一円五十銭じゃ? 一円? 御冗談でしょう。とても。……』

『どちら? 目白の文化村? …… よろしゅうござんす。一円で参りましょう!』

 ゴム輪の車はゴムの様に伸縮自在。

 と、ーー

 凄まじいサイレンに警鐘を連打して、ものものしい真ッ赤な消防自動車が、砂塵を捲きたてて寝鎮まった街路を疾駆するんです。

 まさに、夜の通り魔!

 それにしても、火事は?

 が、東京の深夜の空はあけがたの様に明るく静かです。

 

【郊外生活と龍膽寺雄の〝目白会館〟】

 東京が膨張してゆく過程については、越沢明『東京の都市計画』(岩波新書)にくわしい。長くなるが、引用しておく。「震災前の東京では、山の手とは本郷、駒込、牛込、麻布、白金、高輪の一帯をさしていた。これらの地域は武蔵野台地の東端にあたり、高台の旧大名屋敷は大学、大使館、邸宅地となり、谷戸、低地にある旧町家は商店街、町工場、長屋となっていた。大正期に入るとこれら旧山の手の住宅地が飽和状態になり、第一次世界大戦の好況もあって、省線山手線の駅に近い地区から近郊農村の都市化が始まった。代々木、淀橋一帯の茶畑や練馬大根で名高かった長崎村の畑に住宅地が建ち始めるのは、このときからである。郊外に住宅を求めた人の多くは、当時、社会階層として形成されつつあった都市の中産階級(学者、官僚、軍人、会社員などの知識人、俸給生活者)の人々であり、作家、芸術家など文化人も少なくなかった」。さらに、震災がそれに拍車をかけ、昭和7(1932)年には35区からなる「大東京市」が誕生した。かつての東京、下町と山の手とを取り囲むようにして、こうして新興の中間層のためのコミュニュティーが次々とつくられてゆく。

 このエピソードに登場するのもまた、そうした郊外の新興住宅地に暮らす俸給生活者(サラリーマン)のひとり。夜11時、そろそろ家へ帰ろうという彼が円タクの運転手と値段交渉をしている。行き先は、目白の文化村。

 「目白文化村」とは、大正11(1922)年から翌12(1923)年にかけて箱根土地開発株式会社によって開発された分譲住宅地で、豊多摩郡の下落合近辺(現在の新宿区中落合2〜4丁目、および中井の一部)にあった。電気、ガス、上下水道を完備、とりわけ水洗トイレの導入は当時としては画期的だった。どうやら「目白文化村」の人気はかなりのものだったようで、第1期から第4期まで場所を変えつつ販売が続けられ、エリア内にはテニスコートや野球場といったスポーツ施設、それに住民が利用できるクラブハウスなども備えていたという。住人は役人や会社勤めの俸給生活者のほか、こうした田園生活に憧れを抱く作家や芸術家、学者なども集まり独特の文化的な空気を醸し出していた(なお、目白文化村については、落合道人様によるすばらしく充実したウェブサイト『目白文化村1922〜2005』を参照させていただいた。興味のあるひとはぜひ訪れていただきたいと思う)。

 ところで、目白文化村と龍膽寺雄とのあいだには深いつながりがある。じつは、昭和3(1928)年の6月から昭和5(1930)年の6月ごろまでの約2年間、龍膽寺は下落合の「目白会館」というアパートに暮らしていたからである。つまり、この『甃路(ペエヴメント)スナップ』を彼は目白で書いたことになる。

 回想によれば、家主とのトラブルでそれまで暮らしていた新宿柏木の貸し間を追い出されることになった龍膽寺雄に、この「目白会館」を斡旋したのは彼の親友の今井栄だった。龍膽寺によると「目白会館は、東京で民営のアパートとしては、確か最初のもので、かれこれ二十室はあるコンクリートの二階建て」で、二階の中央には共有の応接間があり、階下には広い食堂や共同浴室、ビリヤード場や麻雀室も完備していた。また、庭園風になった屋上では、住人同士よく集まってはスイカを食べたりお月見をしたりと愉快な時間を過ごしたと当時の思い出を語っている。また、昭和4(1929)年の夏には、「銀色に角張った葉巻形をしたツェッペリン号が、東京の上空をゆっくりと通り過ぎるのを」アパートの窓から見ている。

 ところで、このころ龍膽寺雄は毎晩のように遊び歩いている。いわく、まず円タクで「新宿に出てお茶を飲み、それから、銀座へ回って夕食をとったあと、銀座から上野か浅草まで、また車を走らせて、食後のお茶を飲んで帰る」という習慣だった。移動はすべて円タクで、お気に入りはたまにあるオープン・カーのタイプ(国産のA型フォードか)だったという。このエピソードに描かれる円タクの運転手との値段交渉のやりとりは、そう思うとじっさいのやりとりに近いものだったかもしれない。

 それにしても、モダンボーイの龍膽寺雄が、作家デビューをはたした昭和3(1928)年以降、新宿柏木の貸し間〜アパート「目白会館」〜高円寺の貸家〜南林間の一戸建てと、意外にも郊外にばかり暮らしているのは面白い。ほとんどは友人今井栄の手引きあってのものとはいえ、都心でなくともさほど不便さを感じなかった理由として、懐も豊かでほとんど円タクを使っていたため移動もさほど苦にはならなかったということもありそうだ。

 さて、では、2年ほど龍膽寺雄が暮らしたアパート「目白会館」はどこにあったのだろう? これについては、先日ブログ「落合道人」の管理人様とやりとりをさせていただいた結果、おそらく目白駅の近辺と見当はついているものの現時点では正確な場所までははっきりしないとのお話だった。ただし、特定でき次第ブログにて報告してくださるとのことなので楽しみに待ちたいと思う。

 

11.Apr.2017追補

上に書いたとおり、「目白会館」について「落合道人」の管理人様に問い合わせさせていただいたところ、早速アパート「目白会館」はふたつあった?:落合道人 Ochiai-Dojin:So-netブログという記事にまとめていただいた。さらに、龍膽寺雄と下落合との意外なつながりもあわせて発見されている模様。ますます龍膽寺雄ファンとしては目が離せない展開になっている。

 

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目白文化村のすぐそばにアトリエを構えていた佐伯祐三は、この界隈で描いた数々の作品を残している。これはそのひとつで、第2文化村で描いたとされる「下落合風景(テニス)」大正15(1926)年。

 

【東京の深夜の空】

 エピソードの最後の一行も、ぼくにはまた面白く感じられた。ーー「東京の深夜の空はあけがたの様に明るく静かです」。ふつう、深夜の空は「暗く」「静か」なものではないだろうか。夜もふけ、銀座で遊んでいた人びとも家路につき、いまやすっかり街は閑散としている。そんなときでも〝不夜城〟東京の夜は「あけがたの様に」明るく、それでいて「静か」だ。矛盾しているようにもみえるが、これもまたモダン東京から生まれた新しいコントラストのひとつなのである。

龍膽寺雄『甃路(ペエヴメント)スナップ ー夜中から朝まで』を読む(第6回)

 舞台はもうひとつの「ギンザ」、「山の手のギンザ」新宿へ。

 かつて、「山の手のギンザ」といえば神楽坂の専売特許であった。関東大震災の被害を免れた神楽坂は、夜店が並ぶころともなれば銀座をもしのぐにぎわいを見せたと野口冨士男も書いている(『私のなかの東京』)。それが、昭和3(1928)年秋の飯田橋駅開業に伴う大工事の混乱と西郊への玄関口としての新宿の急成長とが重なり、わずかなあいだに新宿にお株を奪われてしまった。

 新宿駅の1日平均乗降客数の推移をみてみると、大正9(1920)年からこの『甃路(ペエヴメント)スナップ』が書かれた昭和5(1930)年までの10年間でなんと4.3倍にまで膨れあがっている。特にその変化は、震災のあった大正12(1923)年以降、著しい。下町から、震災の被害をさほど受けなかった山の手へ、さらにはより郊外へと人口が移動した結果である。昭和2(1927)年、東京駅の乗降客数を抜いて日本一になった新宿駅は、昭和5(1930)年には1日平均乗降客数123,050人の巨大ターミナルへと変貌を遂げている。

 急激な変化は、その風景からも読み取ることができるだろう。山の手の「出口」であり、同時に郊外の「入口」でもあった新宿は、地理的には東京の「際(きわ)」に位置していた。こうした「際(きわ)」に特徴的な光景として、「ガスタンク」のある眺めを指摘しているのは『郊外の文学誌』の川本三郎だが、ぼくの幼い記憶の中の新宿にはたしかに巨大なガスタンクの姿がくっきり残っている。ちょうど、いまパークハイアットが建っている場所である。すぐ近くには、市内に水道水を供給するための淀橋浄水場もあった。そんな「際(きわ)」が、瞬く間に「山の手のギンザ」と呼ばれるまで急成長したのだ。そのためかどうか、新宿には、どこか砂漠に突如出現した幻影都市のような気分がある。

 

#イントロダクション

  山の手のギンザ新宿。ここも夜は灯りの海、人の渦です。夜店の列の後ろに円タクの洪水。武蔵野館では三層の観客席に人が埋まって、トオキイのラヴ・シーンにみんなで汗でもかいて居そう。

 

 夜店の列、円タクの洪水、そしてスクリーンにまぼろしを投影する巨大な映画館……ここから想起されるのは中東のバザールのような喧騒であり、庶民のエネルギーの爆発であり、とどまるところを知らない欲望の肥大化であり、また騙すか騙されるかの駆け引きの危うさである。

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織田一磨「武蔵野館」(『画集新宿風景』より)石版・昭和5(1930)年 3層の観客席の様子

 

#エピソードI

『どんなのがいい?』

『あ、た、し?』

 貴金属装身具商の飾窓(ウィンドウ)の前。

 男の短い口髭が彼女の耳元へかがみ寄ると、冷たいガラスに額をあてて居た少女は、凭(もた)れる様に彼に寄添って、ガラスの曇りと一緒に鼻がかった甘え声を漏らすんです。

『そッちの赤いのはどうだい。ルビイだろう?』

『少し赤過ぎるわね、あたしには。……』 

『じゃ向こうの紫色のは?……あれは何だ、アレキサンドリヤか?……二十三円。割と安いじゃないか。その桃色のは? いいじゃないか明るくッて。三十円。……どうだいあれは。厭やかい?』

『そう、……ね。』

 女の甘えた舌は上顎へねばりつくんです。

『あれ、いいわね。』

『欲しいか?』

『…………。』

 女は口元へ繊(ほそ)い指をやって、ガラスの曇りを拭き、一番効果的な媚態を意識しながら、男に肩を凭らせるんです。後ろは夜店をとりまいてうごめく甃石(ペエヴメント)の雑鬧(ざっとう)、夕刊売も鈴の音、自動車の警笛(サイレン)。

 ーー 小さな恋愛の取引はこんな明るいところでも行われるんで!

 男はブルジョアの青年らしい一寸隙のない瀟洒な春の粧い。女は、ーーどこか身なりも貧しく映えない子供ッぽい小娘。

 恋人?

 が、それにしては、ーー

『向こうのあの真珠のは?』

『あれ?……そう、ね。』

『そッちのは?』

『…………。』

『やッぱりその桃色か。』

 蛇の様な蒼白い華奢な男の手が、気軽に娘の肩にへ載って、しッとりとそこを抑えたまま妙にこまかく上から揺さぶると、女の息は小さく顫えて

声のない甘えた笑いが、彼女の鼻から漏れるんです。

『買ったげようか。』

『…………。』

『欲しい?』

 女の額がうなずく様に、ちょいと強くガラスに押しつけると、男は手のひらでトンと彼女の肩を叩いて、やがて朗らかな高笑いを漏らすんです。

『じゃ買ったげよう。……おいで。』

娘は男の後ろへ寄添って恥ずかしげに明るい扉口(ドア)へ。ーー

 数分後。

 彼等の姿は駅の明るい伽藍の一隅に。

『じゃ、奥さんとこへは向こうへ行ってから電話でそう断ッとくから。母さんに引留められたから今夜は泊まって、明日早く帰るッて。いいかい?お前が出てそう云うんだ。そう、公衆電話がいいな。、怪しまれないで。……俺はクラブへ行きア麻雀で徹夜なんぞは再々なんだから大丈夫。明日帰ってもお前と一緒だなンてわかりッこはない。……じゃ、お前そこで電話をかけといで。俺は切符を買っとくから。』

 娘は指の紅い宝石を弄(いじ)ってたのをよして、一寸不安な顔をして男を仰ぎ、もう一度促されると思い切った様に、そのまま外へ出て行くんです。

『五銭あるかい?』

『あるわ。……』

 男は出札口の前へ立って蟇口の金具を拡げ、五十銭銀貨を一枚つまみ出して

『大森を君二枚!』

 

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織田一磨「新宿ステイション」(『画集新宿風景』より)石版・昭和5(1930)年 東京は夜の10時

 

【モダン新宿風景】

 「光」が、このエピソードで随所にあらわれる「光」の質が、ぼくには気になる。

 「一寸隙のない瀟洒な春の粧い」のブルジョアらしい青年が、「どこか身なりも貧しく映えない子供っぽい」娘を口説いている。ルビイ、アレキサンドリヤ、真珠…… きらびやかな宝石を前に、女中とおぼしき娘はもはや陥落寸前といったところ。「貴金属装身具商の飾窓(ウィンドウ)」の前、ふたりの駆け引きはくりひろげられる。煌々と照らされたショーウィンドウは、通行人の気を引き、思わずその足を止めさせるくらいに明るかったはずだ。昼間のような、ベタっとした光。ピンスポットが、これか、あれか、といった具合に焦点を絞り見る者に決断することを促すのに対し、陳列するすべての商品を等しく照らすベタっとした光は、これも、あれも、といった具合に欲望をより掻き立て、見る者の判断を迷わせる。つまり、ベタっとした光の前では「選ばない」という選択肢じたいが存在しないのだ。ショーウィンドウの前のふたりには、ポーズはあっても迷いはない。ーー 小さな恋愛の取引はこんな明るいところでも行われるんです!

 取引は成立し、宝石店を後にしたふたりは連れ立って新宿駅へと向かう。「彼等の姿は駅の明るい伽藍の一隅に。」ーー またもや、ベタっとした光に支配された空間だ。夜の銀座が、コントラストによって彫琢されていたのとは対照的である。銀座では、モボやモガが銀幕から抜け出てきた役者のように颯爽とペエヴメントを闊歩し、ネオンサインの点滅、市電の架線から飛び散る閃光、疾走する自動車のヘッドライトが愉しげに彼らを飾り立ててくれたが、新宿では、アメリカ映画の洗練も洒脱も優雅も見いだすことはできない。そこでは、ブルジョワも女中も、宝石も夜店の造花も、貞操も快楽も、すべては等しく煌々とした光のなか剥き出しのまま並んでいる。この光、ひとりひとりから「顔」を奪い、顔をもたない「だれか」に変えてしまう新宿の光は、工場の平板な光とおなじ質のものだ。

 こうして「光」に注目するとき、まったく対照的な光景であるにもかかわらず、前のエピソードと次のエピソードとはやはりおなじ地平で読まれるのでなければならない。

 

#エピソードⅡ

 灯りに濛々と立籠めた煙の渦の中で、地方発送の新聞束を忙しくトラックへ積んで居た青年の一人が、油気のない長い髪を耳の後ろへ掻きながら、しみじみと仲間につぶやくんです。

『おい、憂鬱になるなア。……今夜一晩に東京じゅうで、幾人の娘が処女をなくすかッて考えると。……』

 しかし、コンクリートの窓の中では、高速度の輪転機が悪魔の様に呻って、めまぐるしい紙の瀑布へ世界の出来事が明日のセンセエションを予約して印刷され、冷酷なジャーナリズムはズタズタに人間社会を裁断して、その破片を鉛の活字に鋳込んでるんです。ここでは、一人の娘の貞操どころか人間そのものの命だって、莨の灰の重さほどにも価値づけられやしないんです。

 国際関係の異変、フランス大統領の喉の腫物、サヴェート・ロシヤに於ける東方政策の失敗、ロンドン軍縮会議の結果、支那の戦乱、政友会の策動、共産党の検挙、市会議員の大名旅行、富豪未亡人の失踪、小学生の轢死、鸚鵡(おうむ)病の新学説、ラジオのプログラム、月経帯の広告。

 活字躍りが描くこれら近代社会相の断片!

 新聞束を満載したマスク入りのトラックは、新聞社の発送部から西へ東へ北へ南へ、夜の巷々に砂塵を蹴立てて。ーー

 

【モダン工場風景】

 もうもうと煙が立ち込め、輪転機が高速で回転する印刷工場の「灯り」。それは、もはや昼なのか夜なのか、工員の時間感覚さえ麻痺させるようなベタっとした白い光だろう。合理性を最優先し、規格化された工業製品をひたすら生み出す「工場」という空間に、コントラストで夜の銀座を彫琢するようなきらびやかな光はいらない。工場の固く分厚いコンクリートに囲まれた内部では、世界の出来事が紙の瀑布となって輪転機から吐き出されてゆく。ふと漏らす「油気のない長い髪」をした工員のつぶやきも、そこでは、あっという間に煙の渦と轟音にかき消され押し流されてしまうだろう。平板な灯りの下、めまぐるしい勢いで「明日のセンセエション」を量産する新聞社の工場では、「一人の娘の貞操どころか人間そのものの命だッて莨(たばこ)の灰の重さほどにも価値づけられやしない」のである。

 のっぺりとした白い灯りは、すべてのものから陰影を奪い、平らにならしてしまう。そこに個人の感傷や感情が入り込む余地はない。ルビイや真珠、フランス大統領の喉の腫物や鸚鵡(おうむ)病の新学説、それに気になるあの娘の貞操も、あれもこれも、そこでは同じように陳列棚に並び取り引きされる。龍膽寺雄が、モボやモガのいる銀座の甃路(ペエヴメント)を離れ、ここでサラリーマンや労働者が主役を務める「新宿」と「工場」というトポスを選んでいることにぼくは興味をおぼえずにはいられない。

 これもまた、多面体からなるモダン都市東京の、まちがいなくひとつの断面だからである。

 

#インターバル

 浮気なジャズを跫音(あしおと)で消して、とめどなく床に輪を描く踊りの客の群れ。

 ダンスホオルはまさに夜の盛り時です。

 香水。

 腋臭(わきが)。

 莨(たばこ)の煙。

 罌粟(けし)の花の様な踊り衣粧。

 入れ黒子(ぼくろ)。 

 白粉(おしろい)の胸についたタキシード。

『このステップどうだい?』

『変なのね。家鴨(あひる)みたいだわ。……何ての?』

『おッしゃる通り! 漂浪家鴨(ワンダアリング・グウス)ッて奴さ。』

『厭アね。本当?』

『俺等(おいら)の発明さ。』

 

ダンスホールの匂い】

 香水。腋臭。タバコの煙。ダンスホールはまず、なにより「嗅覚」によってとらえられる。谷崎潤一郎の小説『痴人の愛』(大正14年)でも、「まだ見たこともなゐ海の彼方の国」や「世にも妙なる異国の花園」を想起させるダンスの「異文化」性は、もっぱら「香水と腋臭との交じつた、甘酸ッぱいやうなほのかな匂ひ」によって立ち現れる。たしかに、鹿鳴館のむかしに遡るまでもなく、ダンスに興じる男女の姿、華やかな衣裳、ワルツやタンゴをはじめとする種々の舞踏音楽といった視覚あるいは聴覚を介して得られる情報について知ることはけっして難しくはない。が、「匂い」ばかりはそうはいかない。それは、実際にダンスホールという「現場」に足を踏み入れ、バンドが奏でる音楽を全身で浴びながらおぼつかない足取りでステップを踏んでみてはじめて得ることのできる情報だからである。

 そして、「ケシのような艶やかな衣裳」を挟んで、入れ黒子、白粉の胸についたタキシード、とつづく。どちらも肉体どうしの接近、あるいは接触を想起させるモチーフといえる。「匂い」同様に生々しいイメージで、龍膽寺自身ダンスを楽しんでいたことがこんなところからもよく伝わってくる。じっさい、晩年のあるインタビューで彼はダンスに熱中した時期を次のように回想している。「私も高円寺の屋敷にホールを作りまして、ビクターの最高の蓄音機を据えまして、菊地梅子ってダンスの先生に出張教授してもらった」…… と、かなりの本格派である。

 ところで、龍膽寺雄の盟友にして新興芸術派きってのモダンボー吉行エイスケダンスホールを舞台にした昭和6(1931)年の短編から、ほんのさわりだけ引用してみる。

 

 「シャンデリヤにネオンサインが螺旋に巻きついた、水灯のような新衣裳のもとで、ローブモンタントをつけた女と華奢な男とが、スポットライトの色彩に、心と心を濡らして踊舞(ちょうぶ)するのだ。そして、ジャズの音が激しく、光芒のなかで、歔欷(すすりな)くように、或は、猥雑な顫律(せんりつ)を漾(ただよ)わせて、色欲のテープを、女郎ぐものように吐き出した。」(『東京ロマンティック恋愛記』)

 

 「ダンス・ホールの溶暗のなかで、僕たちは縫目のない肉体のように結びついた……。」(『同上』)

 

 おなじダンスホールの描写でも、むせかえるような色香を放つ吉行エイスケの表現と龍膽寺雄のそれとではずいぶん違う。龍膽寺雄の描くダンスホールは、気安い反面、どこか下世話で垢抜けない。ふたりの描く「差」はまた、銀座と新宿との差でもある。

 とはいえ、この『甃路(ペエヴメント)スナップ』が書かれた昭和5年当時、おそらく新宿には「ダンスホール」は存在していなかったはずだ。

 和田博文の『テクストのモダン都市』(風媒社)によると、東京にダンスホールが激増したのは昭和2(1927)年のこと。前年、大阪でダンスホールに対する厳しい取り締まりがあり、その結果大阪のダンスホールは壊滅状態となる。仕事にあぶれたダンサー、バンドマン、ダンスホールの経営者らが近隣の地域や東京に活路を求めて散らばったため、ダンス熱はかえって全国に飛び火する。昭和3(1928)年の末には、都下で営業するダンスホールおよび訓練所は、計33カ所にまで膨れあがっていた。その当時、新宿には「國華」(後に八丁堀に移転)があったが、おそらく規模のより小さいダンスホールはもっとあったろう。

 昭和3(1928)年11月、こうしたダンスホールの爆発的増加をうけ、東京でも厳格な「舞踏場取締規則」が約1年間の猶予期間つきで発布される。ダンスホールは許可営業となり、新宿にあった「國華」は営業を継続するため八丁堀へと転出する。ふたたび新宿にダンスホールが出現するのは、馬喰町の「パルナス」が「帝都座」(いまマルイ本館のあるところ)の開業にあわせて「帝都舞踏場」として再スタートを切る昭和6(1931)年5月まで俟たねばならない。つまり、昭和5(1930)年の新宿は、まるまるダンスホールの空白期間だったわけである。

 もちろん、龍膽寺はこのスケッチの舞台が新宿であるとはひとことも言っていない。とはいえ、おどける男に調子を合せるこの女のざっかけなさ、やりとりの単純さはいかにも新宿らしいとは言えないだろうか。おなじダンサーにもかかわらず、「もっとモダンに!」と男にハッパをかけていたあの前回登場した女とは大違いである。けれども、こういう新宿らしい情緒もまた悪いものではない。龍膽寺は、かつて新宿のどこか場末にあった小さなダンスホールの面影をここにそっと忍ばせた。そんなふうに思いたい。

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高円寺の自宅でダンスに興じる龍膽寺雄夫妻。昭和6(1931)年頃〜「太陽」1987年11月号(平凡社

 

【日常と地続きの都市】

 今回「下町」の銀座を離れたぼくらは、もうひとつの銀座、当時「山の手」の銀座といわれた新宿にやって来た。そしてぼくは、ふたつの「銀座」のあまりの落差に正直なところ当惑している。銀座の甃路(ペーヴメント)の華やぎは、ここ新宿には見あたらない。人の数は本家の銀座にも劣らないし、映画館もカフェーも百貨店も宝石店もたいしたにぎわいにもかかわらず、ウキウキするような「楽しさ」にどこか欠けている。それがどうしてなのか、ぼくはずっとアタマの隅っこで考えながら読んでいた。

 新宿は、すでに上で書いたように、西郊へのターミナルとして急成長した街である。それゆえ、新宿で遊ぶ人びとの多くは西郊に住んでいるサラリーマンだった。つまり、彼らは会社から自宅への帰路、〝途中下車〟して新宿に一時の楽しみを求めた。銀座が、わざわざ出かけてゆく街、〝目的地〟であったのとはずいぶんちがう。新宿は、言ってみれば、「利便性」という肥料を投入されることで異常なスピードで成長した独特の成り立ちをもつ都市といえる。「経由地」である新宿は、それゆえ、つねに「仕事」と「家庭」につながっている。新宿から見渡せば、一方の先に「職場」が、そしてもう一方の先に「家庭」がある。新宿は、その意味で日常と地続きの都市である。

 新宿のペーブメントを照らす光は、さながらスポットライトのように人をべつの「誰か」に変えてしまう銀座の光とは異なり、ただありのままの姿をそのままに照らす平板な白い光だ。そこにコントラストは生まれない。けれども、いや、だからこそ、新宿ではひとはただ「素顔」のままに振舞うことができる。そこにはどんな難しさも鬱陶しさもない。そういう〝コンビニエンス(お手軽さ)〟こそが昭和5年の新宿の魅力であり、それはきっと現代の都市のあり様を先取りしていた。