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ふりだしに戻る

「昭和8年」を起点に、ジャック・フィニイよろしくモダン都市を散策するブログ

永代橋をわたって

時間をさかのぼるとき、映画や小説に「タイムマシン」が登場するように、過ぎ去った時代に思いをめぐらしながら都市を徘徊するときにも、やはりそれなりの「道具立て」があったほうが楽しい。そして「橋」は、ときにそんな〝時間旅行〟ならぬ〝時間散歩〟にとってかっこうのタイムマシンとなる。

 

たとえば〝昭和初期の〟深川を歩くなら、地下鉄には乗らず、日本橋から茅場町を抜け「永代橋」を渡ることをえらぶ。

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現在の「永代橋」は、関東大震災後の「復興橋梁」のひとつとして大正15(1926)年に完成した。帝都復興局橋梁課の技師竹中喜忠の設計だが、意匠面で当時橋梁課に属していた山田守も関わっていたと聞く。以前ここで取り上げた荻窪郵便局電話用事務室や聖橋などの設計者である。

 

ひっきりなしに自動車が行きかい、地元のひとが足早に追い越してゆくなか、ぼくはゆっくり、ときに足を止めて隅田川の流れを、そして橋じたいを眺める。曲線というのはたいがい優美で女性的な印象を与えるものだが、この「永代橋」にかんしていえば勝手がちがうようだ。とりわけ霧雨に濡れたこの日の「永代橋」は、筋肉質のツヤツヤとした強靭な肉体にみえる。じっさい、これは松葉一清の『「帝都復興史」を読む』(新潮選書)で知ったことなのだが、昭和5(1930)年に刊行された『帝都復興史』のなかで「永代橋」は、「丈夫そうで丈夫な橋」という表現で紹介されているという。そこでさらに「永代橋」の過去をさかのぼってみると、なるほど、関東大震災後に復興のランドマークとして計画されたこの橋がなにより「丈夫そうで丈夫」でなければならなかったわけがみえてくる。

 

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 渓斎英泉「東都永代橋の図」文化末〜弘化末頃

隅田川に、五代将軍徳川綱吉の50歳を祝して長大な橋が架けられたのは元禄11(1698)年のこと。橋の名は、「当代」の将軍の治世が「永く」続くようにと、上司を〝持ち上げる〟のが得意な役人が命名したのだろうか。 しかし河口に近く川幅が広いうえ、満潮時に船を通すため橋脚の高さも必要としたことから工事は難航、しかも自然災害にともなう修復費がかさんだことから、完成からわずか20年で幕府は管理を放棄、廃橋を決める。困ったのは地元の町人たちである。やむなく、維持管理にかかる経費を町方が負担するということで「永代橋」は存続することになったのだが…

 「わあ、橋が落ちたッ」文化4(1807)年8月富岡八幡宮の祭礼の日、すし詰めの参詣客の重みに耐えかねて「永代橋」は崩落する。死者行方不明者あわせて2千人を超すともいわれる大惨事であった。橋そのものの老朽化はもちろんだが、12年ぶりとなった祭礼に押しかけた人びとの数が半端ではなかったこと、悪天候(おそらく台風の影響?)で祭礼の順延が続いたこと、一ツ橋様の見物の御船通行のため大群衆が橋のたもとで立ち往生せねばならなかったうえ、通行が予定よりも遅れ、そのあいだにますます参詣客の数が膨らんでいったことなど、いくつもの「不幸」が重なっての事故だった。

 

永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼

 

蜀山人こと大田南畝はこんな皮肉な狂歌を詠んでいる。また、杉本苑子の小説『永代橋崩落』は、この歴史的大惨事に直面した人びとの哀しみや人間の残酷さを「グランドホテル形式」(?)で巧みに描いた連作短編集で、一気読みしてしまうほどのおもしろさだ。

 

その後、明治30(1897)年になって、道路橋としては日本初の鉄橋となる、いかにも「丈夫そう」な橋として「永代橋」は完成する。ところが、その一見したところ「丈夫そう」な橋も、関東大震災の前ではひとたまりもなかった。なんと、橋底が木製だったため、数多くの人びとをのせたまま焼け落ちてしまったのだ。新しい「永代橋」は、この橋にまつわる悲しい過去の数々を人びとの記憶から払拭するためにも、なにより「丈夫そう」で、しかも実際に「丈夫な」橋として、帝都復興を印象づける〝逞しい〟意匠である必要があったのだと思う。

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小泉癸巳男「永代と清洲橋」昭和3(1928)年・昭和東京風景版画百図絵より