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ふりだしに戻る

「昭和8年」を起点に、ジャック・フィニイよろしくモダン都市を散策するブログ

植草甚一展/芦花公園/《郊外》と田園生活

ミステリ、ジャズ、映画。植草甚一が遺した膨大なスクラップ・ブックを一挙に展示した世田谷文学館植草甚一スクラップ・ブック』展は、まるでJ・J氏こと植草甚一のアタマの中を覗き見るかのような好企画、めまいがするほど愉しかった。

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京王線の「芦花公園」には、叔父が暮らしていた関係で子どもの時分には年に一度くらい訪ねていた記憶がある。いまは、世田谷文学館を訪れるとき以外はまず来ない。駅周辺の鄙びたたたずまいは、でも、いかにも《郊外》といった趣きでなかなか気に入っている。

 

ところで、理想の田園生活を求め、徳冨蘆花が夫人と連れ立ってこの地に移住したのは明治40(1907)年のことである。川本三郎の「蘆花の田園生活」(『郊外の文学誌』新潮社)によると、当時このあたりの人びとは、燃料となる薪を売って生計をたてていたという。なので、周囲にはたくさんの雑木林があった。蘆花が心惹かれたのも、なによりこの雑木林のある美しい眺めだった。ところが、ガスを引く家庭が増えるにつれ薪の需要は当然減ってゆく。こうして、雑木林は切り開かれどんどん畑へと変わっていった。蘆花はというと、そんな近所の動きとはあべこべに、少しずつ土地を買い足してはそこにせっせと木を植え雑木林をつくっていたという。じっさい、移り住んだ当初「風よけの樫の木が四五本しかなかった」土地は、最終的には「四千坪もの広さ」にまで拡張する。さぞかし〝酔狂な作家先生〟に映ったことだろう。想像するとちょっと可笑しい。

 

都市でもないし、かといって完全な田舎でもない、ちょうどその狭間に生まれた《郊外》とは、さながら時代の汽水湖であるといえる。川本三郎の《郊外》論には、その意味でもたくさんの〝気づき〟がある。

明治期、《郊外》には2種の人びとが暮らしていた。もともとこの土地で生まれ育った「土地の者」と、東京の中心部からやってきた「移住者」である。そしてさらに、「移住者」は〝精神的〟に2種に分けることができる。経済的理由などからやむなくやってきた者と、田園生活への〝あこがれ〟を胸にすすんでやってきた者である。川本によれば、蘆花や国木田独歩歌人・詩人で、「日本野鳥の会」の創設者として知られる中西悟堂らが後者にあたる。

 

彼らが、その豊かな想像力によって《郊外》をどのように見ていたのか、つぎの一節を読んでぼくは「ナルホド、ソウイウコトデアッタノカ」と膝を叩いた。少し長くなるけれど引用しておこうと思う。

 

散歩にもよく出かける。武蔵野の風景の美しさを満喫する。雑木林、畑、一群の木立、杉の森、野バラの茂み、小川。夕暮れどきがまたいい。「農夫たちが鍬を肩に夕餉の団欒へと並木路を帰ってゆく心の中に休息と安堵が宿る時刻である。人間がほんとうに塒(ねぐら)に帰る小鳥たちと同じ邪悪のない心になる時刻である。そして私(註・中西悟堂)の胸に人間の未来の春への希望と祈とが燃える時刻でもある」。ここでは武蔵野が、郊外が独歩の場合と同じように清潔で平和で無垢な理想郷としてとらえられている。しかも、独歩がワーズワースツルゲーネフら西洋の文人たちの目を通して郊外風景の美しさを発見していったように、また蘆花がトルストイを通して田園暮しを始めたように、中西悟堂もまた夕暮れに家に帰っていく農夫を見てはミレーの「晩鐘」を思い、雑木林をひとり歩いてはソーローの『森の生活』を思う。ここでも西洋を通して郊外が見つめられている。そして悟堂はこの四年間に及ぶ烏山(註・悟堂が暮らした千歳村字烏山のこと。蘆花が暮らした粕谷に近接する土地)での田園生活のなかでホイットマンの『草の葉』を訳してゆくことになる。郊外とは実は西洋と隣り合っている場所でもある。(川本三郎「蘆花の田園生活」)

 

心の豊かさを、自由を、彼ら文人たちは《郊外》に求め、見ていた。想像力で、東京の街もニューヨークも、映画やミステリの架空の世界も自由自在に闊歩したJ ・J 氏と、ようやくここでつながった。淀川長治は言う「ぼくも甚ちゃんも生まれたのが明治の終わりでね、一つ違いなの。それで二人とも大正時代の豊かな時代に育ったんだね。贅沢な時代だね。だからずっと何か相通じるものがあった」(「太陽」1995年6月号)。