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ふりだしに戻る

「昭和8年」を起点に、ジャック・フィニイよろしくモダン都市を散策するブログ

宮川曼魚の「悋気の火の玉」

 弥生美術館の「橘小夢(たちばな・さゆめ)」展で、小夢が描いた一枚の挿絵が目にとまった。切れ長の目をした面長の男が、一本の木の下でキセルをふかしている。そして、キセルの先にぼんやり宙を漂っているのは火の玉。落語でおなじみ、「悋気の火の玉」からの一場面である。

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 鼻緒問屋の主人が、外におんなを、つまり妾をつくる。嫉妬した本妻は藁人形をつかって妾を呪い殺そうとたくらむのだが、それを知った妾も、負けじと藁人形を持ってきて本妻を呪い殺そうとする。効果はてきめんで、本妻と妾は同じ日に亡くなり、主人はふたつの葬儀を出すことになってしまった。ところがふたりの怨念はなお消えず、夜な夜な火の玉が、本宅、妾宅それぞれから飛び立っては途中でカチーンとぶつかるというので大騒ぎとなる。弱りはてた主人は、まず妾の火の玉をかたわらに呼び寄せてなだめるように話しかける。一服つけようと火を探すが、あいにく持ち合わせがない。そこで主人、妾の火の玉にキセルを差し出して火をつけてもらう。つづいて、同じように本妻の火の玉を呼んでなだめにかかるのだが……。

 

 女の嫉妬深さを茶化した「悋気の火の玉」は、8代目の桂文楽が得意とし、亡くなった5代目の三遊亭圓楽も音源に残している。最近では、三遊亭小遊三文楽の弟子である柳家小満んがときどき高座にかける。珍しいというほどではないが、寄席でよく聞くかというとそんなこともない、そういう噺である。そもそもの原因であるところのはずの男があまりにものんきなので、聴いていてだんだん腹が立ってくる女性も少なくないのではないか。東大落語会編『増補・落語事典』(青蛙房)によると、この噺の元ネタとされる「火の玉」は、すでに天保3(1833)年に出版された桜川慈悲成の笑話本『延命養談数』にみることができるという。慈悲成は戯作者であり、また噺家でもあった。古い噺なのだ。

 

 いっぽう小夢の挿絵はというと、昭和4(1929)年2月発行の雑誌「週刊朝日」に掲載された読み物のために描かれている。作者は宮川曼魚。

 曼魚は本名「渡辺兼次郎」といい、明治19(1886)年に東京の日本橋に生まれている。生家は、明治7年創業の「うなぎ喜代川」。後に本人も、深川にあった鰻屋「宮川」を継いでいる。鰻屋の主人という肩書きを持ちながら、黄表紙や洒落本の収集家として名を知られ、江戸の庶民文化にも深く通じた曼魚は、江戸の「粋人」の生き残りのように映ったことだろう。手元にある曼魚の随筆『深川のうなぎ』(住吉書店)の帯には、こんな惹句が印刷されている。「曼魚さんの随筆は東京の味がする。東京も下町の、特に深川の味がする」。

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 ところで、曼魚が「継いだ」とされる深川の「宮川」は、その歴史をさかのぼるといろいろややこしい。明治の中頃、深川の「宮川」は一度廃業する。このとき、そこで修業した渡辺助之丞が看板を受け継ぎ明治26年に「つきじ宮川本廛」を開業させるのだが、仮に廃業したのが明治26年とすると、まだ曼魚はたったの8歳。ということは、廃業した「宮川」の建物を「喜代川」が買い取り、「宮川」という屋号のままに営業を再開、その後どこかのタイミングで曼魚に後を継がせたということだろうか。「屋号」をめぐって揉めたりはしなかったのか。「喜代川」の倅で、深川「宮川」(の建物)を継いだ曼魚は渡辺姓、深川で修業し築地で独立した「宮川」の主人もまた渡辺姓。偶然なのか、はたまた血縁関係があったりするのだろうか。それならそれでしっくりくるのだが。

 

 それはともかく、その随筆の中で、曼魚は江戸の黄表紙や笑話本にみつけたエピソードの数々を紹介し興趣が尽きない。軽妙洒脱で、小咄のようなユーモアに弾けている。また、そうした江戸の読み物から着想を得た小説も曼魚は残している。短編集『月夜の三馬』(青年書房)がそれである。

 若い髪結いと年増の情婦の心中騒動を滑稽に描いた表題作は、落語も元にもなった『浮世床』の作者・式亭三馬が主人公。戯作者のかたわら薬屋も営んでいた三馬の、洒落のきいた人物像が楽しい。髪を結うという行為にセクシャルな意味をみつけ話をふくらますあたり、いかにも軽い〝おとなの読み物〟といった雰囲気が漂う。これは、昭和9(1934)年11月に創刊された雑誌「オールクヰン」(クヰン社)に小村雪岱の挿絵を添えて掲載された。

 

 おそらく、小夢が挿絵を描いた「悋気の火の玉」は、曼魚が『延命養談数』にみつけ雑誌のために翻案したのだろうが、もちろん、落語のほうの「悋気の火の玉」もよく知っていたにちがいない。桂文楽にこのネタを伝えたのは、文楽の「育ての親」ともいえる3代目三遊亭圓馬だっという話もある(ソースはウィキペディア。やはり圓馬に師事したこともある正岡容がまとめた芸談にあたれば、あるいは確かめられるかもしれない)。圓馬は、曼魚と4つ違いの明治15(1882)年生まれ。曼魚が22歳から27歳にあたる明治41(1908)年から大正2(1913)年は、圓馬が東京を拠点に活躍していた時期である。ふたりになにかしらの接点があればおもしろいと思う。

 

 時代が大きく動いていた昭和初期の東京にあって、曼魚は、その読み物をつうじて人びとの心のになつかしい江戸の風を吹かせる「粋」な男なのだった。