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「昭和8年」を起点に、ジャック・フィニイよろしくモダン都市を散策するブログ

龍膽寺雄『甃路(ペエヴメント)スナップ ー夜中から朝まで』を読む(第1回)

 重箱の隅をつつくように、少しずつ、龍膽寺雄『甃路(ペエヴメント)スナップ ー夜中から朝まで』を読んでゆく。

 

【はじめに】

 〝モダニズム文学の旗手〟として知られる龍膽寺雄(りゅうたんじ・ゆう)だが、その91年におよぶ人生の長さに比して、小説家として表舞台で活躍した期間は戦前のわずか6年ほどと驚くほど短い。昭和9(1934)年に発表した長編『M・子への遺言』のスキャンダラスな内容が原因で「作家的地位を失った」といわれている。長い余生は、サボテン(!)の研究と栽培に捧げられたがかならずしも筆を折ったというわけではなく、晩年まで少なくない数の文章を残した。

 龍膽寺雄はまた、慶應義塾大学医学生という異色の経歴の持ち主でもある。これにかんして言えば、「整形外科医になって美人を製造しようと思った」などと人を食ったかのようなコメントを残している。しかし、この飄々とした〝軽さ〟こそが龍膽寺雄の魅力にちがいない。そして鈍重な「文学」を置き去りにしたまま、彼はその圧倒的〝軽さ〟でひとつの時代を駆け抜けてゆく。

 この『甃路スナップ ー夜中から朝まで』は、昭和5(1930)年、龍膽寺雄ら「新興芸術派」に属する作家たちの作品をあつめて出版された『モダンTOKIO円舞曲』(春陽堂)に収められた《散文詩》だが、おそらく本人には帝都東京の夜を主題とした文字による《コラージュ》といった気分があったろう。じっさい、その都会をみつめるまなざしは徹頭徹尾〝目撃者〟のそれであるという点において、ぼくは1933年に『夜のパリ』を発表することになる写真家ブラッサイの眼と同質のものを感じずにはいられない。ただ歩き、ただ見つめ、ただ記録する人の自然的発生は、いかにも1930年代的な出来事と言えるのではないか。なお、オリジナルには深澤省三による挿絵が付いている。未見だが、「コドモノクニ」や「赤い鳥」で童画のイメージが強い深澤だけに、はたして「夜のトーキョー」の表情を活写したこの作品にどんな絵を描いているのか気にかかるところではある。

 これが発表された昭和5(1930)年といえば「帝都復興祭」が華々しく行われた〝モダン東京元年〟であることを付け加えて、では、さっそくタイトルから見てゆこう。

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女と男のいる舗道

 タイトルは『甃路スナップ ー夜中から朝まで』。「甃路」と書いて「ペエヴメント」と読ませる。pavement ー煉瓦や石を敷き詰めた道、舗装された道、舗道。さしあたって現代なら、「甃路(ペエヴメント)スナップ」よりもむしろ「街路(ストリート)スナップ」の方がニュアンスは伝わるような気もしなくはない。が、ダメなのだ、「街路(ストリート)」ではなく「甃路(ペエヴメント)」でなくては。

 日本に「甃路」が誕生したのは、明治初年のこと。明治5(1872)年の大火をきっかけに、銀座の街並みは「不燃化」を目的とした「煉瓦街」に生まれ変わる。木造家屋の廃止と煉瓦造の推進、道路の拡張、あわせて煉瓦を敷き詰めた道路の舗装もおこなわれた。『東京繁盛記』で木村荘八は、銀座の煉瓦街化にふれ「煉瓦化」とは「西洋化」、すなわち「近代化」であったと述べている。また、鏑木清方のエピソードを引きながら、当時の人びとは「銀座通」と言うかわりに「煉瓦通」、また「銀座に行く」ことを「ちょっと煉瓦に買い物に」などと気取って言っていたとも書いている。

 近代化の象徴であった銀座の煉瓦街は、しかし大正12(1923)年の関東大震災でほぼ壊滅する。すると、こんどは帝都復興事業の一環としてアスファルトやコンクリートによる舗装が急ピッチで進められた。たとえば、都会の壮麗なうつくしさを称えたこんな文章をみれば、いかに「甃路(ペエヴメント)」が都市の象徴であり、必須条件であるか理解できるはずである。「大通りは頑固に舗装され、銀色に光る四条のレールが象眼されていた」(海野十三『深夜の市長』昭和11年)。

 じっさい「甃路」の誕生は、都会のライフスタイルにさまざまな影響をもたらしもした。たとえば、百貨店がこれまでの「土足厳禁」から「土足のままでの入店OK」と変わった理由のひとつに、舗道の完成にともない履物の汚れが大きく改善されたことが挙げられるという。また、銀座に「銀ブラ」なる習俗が誕生したのも、あるいは、洋装でも和装でも、また雨の日でも足元を気にせず闊歩できる「甃路」の存在が背景にあったとかんがえることもできるかもしれない。

 とはいえ、じつのところ、モダニズム文化を享受する人びとは「郊外の泥道から、アスファルトのビジネスセンター」(前田一『サラリマン物語』昭和3年)に通うサラリーマンたちが中心であった。モダンは足元から訪れる。「甃路(ペエヴメント)」と聞けば、それゆえありありと原色の都会的光景が浮かびあがる。それが、昭和5(1930)年のリアルだった。

 「夜中から朝まで」というサブタイトルもまた然り。終電の時刻を気にせず夜遊びに興じられる「円タク」の登場(大正15年)、都会的な生活を楽しむ新中間層、身軽な単身者の増加といった現象が、都会を〝不夜城〟に変えてゆく。都会は眠らない。そこでは、あなたが寝ている間にもたくさんの人間たちが活動し、数々のエピソードを量産している。都会のリアルな表情を切り取ろうとするとき、「甃路(ペエヴメント)」という〝空間〟と「深夜」という〝時間〟とに着目し選び出す龍膽寺雄のまなざしは、さすが冴えている。

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銀座の甃路(ペエヴメント)を闊歩するモダンガール。昭和3(1928)年。

 

さて、ようやく本文まで辿りついた。まずは、きわめて映像的な、芝居でいえば「プロローグ」にあたる導入。

 

  夜

  夜

  夜

 煤けた漆喰の塔のぐるりに、鷹揚に輪を描いて居た伝書鳩の群れが、黄ばんだたそがれの光に翼を収めて、ビルディングの嶺(いただき)の高い塒(ねぐら)に姿を消すと、やがて、新聞社の屋上では燦然たる電光ニュウスが、夜の通信の緒(いとぐち)を神経的に空へ繰拡げるんです。

 大扉を閉ざして暗く沈黙したビルディングの間に、明るい窓を並べて快速に行き交う高架電車、低い路面を珠数なりに流れる自動車のヘッドライト、蟻のような行人、街々の宵のざわめき、遠い工場町の疲れた気笛。

ーーー

 

 

【コントラストが綾なす都市の夜景】

 光と闇、静と動…… モダン都市・東京の夜を綾なすのは、せわしなく交互するコントラストだ。

 塒(ねぐら)、大扉を閉ざして暗く沈黙したビルディングといった「暗く閉ざされた空間」、「闇」のイメージをあたかも引き裂くかのような強烈な「光」のイメージ。キラキラと翼に夕暮れの光を映して旋回する伝書鳩の群れ、燦然たる電光ニュウス、疾走する高架電車のはためく窓明り、そして自動車のヘッドライト

 沈黙したビルディング、遠い工場町から聞こえる疲れた気笛。1日が幕を下ろす静寂のイメージには、刻一刻と変動する世界にリンクし流れつづける電光ニュウス、快速に行き交う電車、宵のざわめき蟻の行進のような人びとの隊列、珠数なりに流れるヘッドライトといった「流動」するイメージが対置される。

 ところで、日本に「サラリーマン」という和製英語を広めたとされる前田一は、昭和3(1927)年に出版し評判となった著書『サラリマン物語』(東洋経済出版部)のなかで当時のサラリーマンたちの生活環境について次のように書いている。彼らは「一噸(1トン)積のトラックが通って家鳴り震動するといふ借家ずまゐから、七階八階の近代的高層建築にエレベーターという調法なもので送り込まれることを日課としてゐる」。だとすると、毎朝、省線電車に揺られて「郊外の泥道から、アスファルトのビジネスセンターに迄」運ばれてゆくサラリーマンこそ、暗い夜、低い家並み、ぬかるんだ道の古い東京と、震災後の復興事業によって出現した不夜城、摩天楼、舗装された道の最新式の東京というコントラストを行き来するモダン都市・東京の〝落とし子〟といえるかもしれない。

 

【スクロールするまなざし】

 さらに龍膽寺雄の眼を通して、ぼくらの目玉もまた上へ、下へとスクロールする。「銀座アルプス」と寺田寅彦が名づけたビルディングの嶺(いただき)、高架を疾走する電車。上空から舞い降りる伝書鳩が運んできた最新のニュースは、ビルディングの屋上に設置された電光ニュウスの光る文字の帯となってふたたび夜空へと放たれる。

 いっぽう、目線を下へ移せば、川の流れのように低い路面を自動車が走り、黙々と歩く群衆の姿が目に入る。見上げるまなざしと見下ろすまなざし。モダニストが手に入れたのは、なによりこの目玉の垂直運動であった。この時期、しばしばビルに吸い込まれてゆく人びとの群れを「蟻の行進」に喩える表現が目につくが、これは高い位置から見下ろすことではじめて可能になる表現と言える。俯瞰することで〝発見〟したのは、あろうことか、行列する蟻のうちの一匹である自分の姿……。都市の高層化は、はからずもサラリーマンにみずからを蟻に喩えるような自虐表現を生むメタ的視点をもたらした。

 「3D」化したモダニズムの東京を正しくつかまえるためには、目玉もまた休みなく運動しつづける必要がある。スクロール、フリック、スワイプ、ピンチアウト…… 龍膽寺雄のまなざしは、スマホの画面のかわりに世界の上をせわしなく移動し、次々と新たなスクリーンを繰り出してゆく。

 

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 安井仲治「スピード」昭和7(1932 )〜昭和14(1939)年頃

 

【スピード礼賛】

 人類の歴史はまた、「スピード化」の歴史という視点から読み解くこともできそうだ。面白いのは、有名な「未来派宣言」を引き合いに出すまでもなく、世界中に同時発生的に「スピード」を称揚する人びとが現れたことだ。たとえば、戦前のモダニストたちがそうだった。彼らはそれを、利便性や効率化といった点からではなく、都会固有の美質という点から称賛した。その意味で、この『甃路(ペエヴメント)スナップ』が、まず新聞社の社屋の点景からはじまるのはとても暗示的だ。

 新聞は、「情報」というナマモノを扱うがゆえに、その宿命として「スピード化」との絶えざる奮闘を強いられてきた。つまり、新聞社は都市における「スピード化」のランドマークといった存在といえる。まず、ニュースを迅速に運ぶのは飛行機や伝書鳩の仕事だ。立派な社屋のなかでは巨大な最新鋭の輪転機が、いまや遅しとニュースの到着を待ち受けている。そして高速で印刷された新聞はトラックに積み込まれ一斉に配達される。ひとつのニュースをめぐるスピーディーな流れ作業は、「工場」の製造ラインのように入口から出口まで可視化されていて現代よりもはるかにわかりやすい。そして「スピード化」は、電光ニュウスの登場によって当時の人びとにいっそう鮮烈なイメージを刻みつける。

 昭和2(1927)年、朝日新聞社は、分離派建築学会の石本喜久治の手になる大型客船のような相貌をもつ新社屋を数寄屋橋の河岸に完成させる。日本初の「流動式電光ニュース」は、その翌年11月に設置され話題になる。この、朝日新聞社の電光ニュースが登場する小説のひとつに太宰治の『一燈』がある。

 昭和8(1933)年12月23日。大学生の主人公は、急きょ田舎から上京してきた兄に呼び出され神田の宿の薄暗い一室で厳しく叱責されていた。春には卒業のはずが、試験も受けず卒論も出していないことがバレたのだ。そこに表から賑やかな提灯行列の音がきこてくる。待望の皇太子殿下のご誕生らしい。「街へ出て見よう」と兄は弟に声をかける。そこで、ふたりが自動車で向かった先が銀座なのである。「A新聞社の前では、大勢の人が立ちどまり、ちらちら光って走る電光ニュウスの片仮名を一字一字、小さい声を立てて読んでいる。兄も、私も、その人ごみのうしろに永いこと立ちどまり、繰り返し繰り返し綴られる同じ文章を、何度でも飽きずに読むのである」。

 それにしても兄は、そしてまたその他多勢は、なぜあえて新聞社の前に駆けつけたのだろう? おそらくは、そこに行きさえすれば正確なニュースをもっとも早く知ることができるという心理が働いたのではなかったか。そしてまた、実際そうだったのだろう。ここからわかるのは、昭和初期にあって、ニュースの大元締め、ナマの情報を加工し商品化する近代的な〝工場〟としての新聞社の社屋は、その速報性という点で揺るぎない地位を誇っていたということである。

 これは余談になるけれど、ぼくの子供の頃の記憶の中には、有楽町の「日劇」のかたわらに建っていたこの朝日新聞の社屋の残像がある。モダニスト好みの威容もその頃にはすでに見る影もなく、全体にくすんだような古ぼけた建物の印象しかない。おそらく当時も電光ニュースはあったはずだが、すでにわざわざ立ち止まってまで見入るひとの姿はなかった。

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昭和2(1927)年に竣工した朝日新聞の新社屋(設計は石本喜久治)。紹介文には、超高速輪轉印刷機、シーメンス式電送写真装置などと並んで流動式電光ニュースの文字が。

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 有楽町にあった東京日日新聞の社屋をあしらった絵はがき飛行機、伝書鳩、トラック、そして電光ニュースという「スピード化」の象徴が散りばめられている。