岩本素白と竹の匙
「竹の匙」という、岩本素白のごくごく短い文章がいい。昭和3(1928)年3月の随想だ。荒物屋で尋ねても、「銀か白銅かニュームの物ばかり」で、ありふれた「竹の匙」がいっこうにみつからない。竹の匙にかぎらず、「簡素なうちに言われぬ味をもった日用品」が次第に「姿を隠し」、「亡くなってしまった」と素白は言う。素白は、身辺から「もの」が消えてゆくのをこんなふうに、まるで生きものの「寿命」のように受け止める。嘆くでも、憤慨するわけでもない。ただ、「日本には、こういう品物が何時までも有ってよいように思う」と呟くにすぎない。そして、この「よいように思う」、それが素白の「やわらかさ」である。日本の文芸や美術についても、素白は竹の匙と同様「有ってもよいように思う」とかんがえる。理由はひとつ、なにか強く主張するわけではないけれど、生活の片隅にずっとあったはずのものが姿を隠してゆくのは、あまりにも「寂しい」からである。
サーカスがやって来た
宮脇俊三は回想する。昭和9(1934)年、小学二年くらいのときの話だ。
母はサーカスが好きで、かならず見に行き、私も連れて行ってもらった。銀色の海水着のような衣裳をまとったサーカス団の子供が、毬の上で逆立ちなどし、 形が決まったところで「ハーイ」と声を出すと、母は可哀そうだと言ってかならず涙を流した。そして「人さらいに攫(さら)われるとお前もああなるのだ」と言い、また「あの子たちは、骨を軟らかくするために、毎日お椀一杯の酢を飲まされているのだ」とも言った。(宮脇俊三『昭和八年 渋谷驛』PHP研究所)
昭和初期のサーカスには、華麗なエンタテインメントであると同時に、まだどこかアンダーグラウンドな見世物のような雰囲気が漂っていた。「かならず見に行」くほど好きなのに、子供たちのアクロバティックな演技をみるたび「可哀そうだと言ってかならず涙を流」す宮脇の母親はどことなく滑稽ではあるが、当時の人たちは多かれ少なかれ「サーカス」というものをそのようにして受け入れていたのだろう。アスリートたちの姿のむこうがわに「汗」や「涙」の物語をみたがる日本人の心性は、その意味ではいまもまったく変わっていない。
昭和8(1933)年、ドイツからサーカス団がやってきた。上野の竹の台、池之端、それに芝の三会場をつかって開催された「万国婦人子供博覧会」の「目玉」として、芝会場全体の1/3ほども占める巨大な特設テントで興行はおこなわれ連日大盛況だったという。宮脇俊三の母も、幼い息子と連れ立って訪れたにちがいない。
当時の絵葉書をみると、「獨逸ハーゲンベック猛獣大サーカス」と書かれた門柱が目に入る。そしてテントの中央、入口の上にはアルファベットの「CARL HAGENBECK」の文字をみることができる。
カール・ハーゲンベック(1844〜1913)は、魚屋のかたわら胡散臭い見世物の興行などもおこなっていた父親を手伝ううち、世界じゅうの動物園や見世物に猛獣や珍獣を提供する動物商となり、やがてはハンブルクのシュテリンゲンに広大な自然動物園までつくってしまった人物として知られている。カール・ハーゲンベックの回想録『動物会社ハーゲンベック』(平野威馬雄訳 白夜書房)では、そんな彼の生い立ちとともに、自動車もまだなかったような時代、北はシベリアから南はアフリカまでどのようにして猛獣を捕らえ、ヨーロッパまで連れてきたのかといったエピソードの数々が綴られているのだが、その想像を絶するおもしろさときたらヘタな冒険譚をはるかにしのぐ。そして、みずからサーカスまで始めるにいたった理由がまたふるっている。「象は仕事をしなくても、食べものだけは大へんな量である。…どうしても、この大食いどもをもとでに、なにか新奇なもうけ口をみつけなければ…」。こうして、動物たちに自分の食い扶持を稼がせるため、ハーゲンベックはとうとう「サーカスの主人」になってしまった。
さて、その「カール・ハーゲンベックサーカス」なのだが、調べてみると1907年にアメリカ人ベンジャミン・ウォレス率いる「B・E・ウォレスサーカス」に買収、合併されていることがわかる。以降は、「ハーゲンベック=ウォレスサーカス」と名乗り北米大陸をホームグラウンドに忙しく巡業している。となると、昭和8(1933)年に来日、各地で人びとを熱狂させた「カール・ハーゲンベックサーカス」もこの「ハーゲンベック=ウォレスサーカス」のことなのだろうか? ところが、当時の新聞や写真のどれをとっても、「ドイツからやってきたハーゲンベックサーカス」という表記しか見当たらないのは不思議である。
たとえば、神戸又新日報昭和8(1933)年7月7日の記事では
ハーゲンベックはドイツ人ハーゲンベック氏を団長とするユダヤ系ドイツ人の集団からなる世界有数のサーカス団であり、欧州を旅行したものは、或はドイツ領に於て、フランスに於て、或はドーヴァ海峡を越えたイギリスに於て、随所に彼等の巡業している状況を見ることが出来る
とある。
また、名古屋にある東山動植物園の歴史を紹介したウェブサイトには
昭和8年5月29日、名古屋にドイツの動物園経営者ローレンツ・ハーゲンベック氏率いるサーカス団がやってきた。ローレンツ氏はドイツの動物園王と呼ばれたカール・ハーゲンベック氏の弟である
という表記をみることができる。
日本にやってきたのは、「ハーゲンベック=ウォレスサーカス」とは別物、ローレンツ・ハーゲンベック率いる正真正銘ドイツからやってきた「カール・ハーゲンベックサーカス」であった。つまり、世界にふたつ、「ハーゲンベック」の名前を冠したサーカス団が存在していたことになる。「王将」に「餃子の王将」と「大阪王将」、ふたつ存在するのと同じようなことだろうか…。ちなみに、上の引用にローレンツをカール・ハーゲンベックの「弟」と説明しているが、これは間違い。ローレンツはカール・ハーゲンベックの「次男」であり、兄のハインリッヒとともに父親の生前から事業を手伝っている。どうやら、父カール・ハーゲンベックの死後、兄ハインリッヒが動物園の運営を引き継ぎ、いっぽう弟のローレンツはあらためてサーカス団を結成し、そちらに専念することになったようだ。
彼らが来日することになった背景を、松山大学の川口仁志氏はつぎのように解説する。「しかし何といっても(万国婦人子供博覧会)芝会場の呼び物は、ドイツのハンブルク市にあるハーゲンベック動物園から来た大サーカスであった。ドイツもまた経済不況のさなかにあり、ハーゲンベック動物園も経営的に困難な状況を打開すべく極東の巡業に踏み切ったという事情があって、その来日が実現したのである」(「『万国婦人子供博覧会』についての考察」2008年)。その曲芸は、「象が虎をのせたまヽで樽乗をしたり」「獅子が熊の梶取りでシーソーをしたり」と「ずば抜けたものが多く」会場につめかけた日本人はみな熱狂したわけだが、そうした比類のない芸当もすでにヨーロッパでは飽きられ始めていたところに、ちょうど遠い東洋の島国から起死回生ともいえる招待状が届いたということなのだろう。
じっさい、婦人や子供ばかりでなく、はるばるドイツからやってきたこのサーカス団に魅せられた芸術家たちは少なくない。画家だけでも、古賀春江、川西英、長谷川利行といった錚々たる顔ぶれがそれぞれハーゲンベックサーカス団の絵を描いているが、もうひとり恩地孝四郎も「サーカス(ハーゲンベック・サーカスの印象)」なる版画を発表している。モンタージュ技法により、サーカスのめくるめく世界を一枚の絵に閉じ込めた見事な作品である。
昭和8年、そう、日本人はみなサーカスの虜(とりこ)だった。
恩地孝四郎「サーカス(ハーゲンベック・サーカスの印象)」木版、紙
永代橋をわたって
時間をさかのぼるとき、映画や小説に「タイムマシン」が登場するように、過ぎ去った時代に思いをめぐらしながら都市を徘徊するときにも、やはりそれなりの「道具立て」があったほうが楽しい。そして「橋」は、ときにそんな〝時間旅行〟ならぬ〝時間散歩〟にとってかっこうのタイムマシンとなる。
たとえば〝昭和初期の〟深川を歩くなら、地下鉄には乗らず、日本橋から茅場町を抜け「永代橋」を渡ることをえらぶ。
現在の「永代橋」は、関東大震災後の「復興橋梁」のひとつとして大正15(1926)年に完成した。帝都復興局橋梁課の技師竹中喜忠の設計だが、意匠面で当時橋梁課に属していた山田守も関わっていたと聞く。以前ここで取り上げた荻窪郵便局電話用事務室や聖橋などの設計者である。
ひっきりなしに自動車が行きかい、地元のひとが足早に追い越してゆくなか、ぼくはゆっくり、ときに足を止めて隅田川の流れを、そして橋じたいを眺める。曲線というのはたいがい優美で女性的な印象を与えるものだが、この「永代橋」にかんしていえば勝手がちがうようだ。とりわけ霧雨に濡れたこの日の「永代橋」は、筋肉質のツヤツヤとした強靭な肉体にみえる。じっさい、これは松葉一清の『「帝都復興史」を読む』(新潮選書)で知ったことなのだが、昭和5(1930)年に刊行された『帝都復興史』のなかで「永代橋」は、「丈夫そうで丈夫な橋」という表現で紹介されているという。そこでさらに「永代橋」の過去をさかのぼってみると、なるほど、関東大震災後に復興のランドマークとして計画されたこの橋がなにより「丈夫そうで丈夫」でなければならなかったわけがみえてくる。
渓斎英泉「東都永代橋の図」文化末〜弘化末頃
隅田川に、五代将軍徳川綱吉の50歳を祝して長大な橋が架けられたのは元禄11(1698)年のこと。橋の名は、「当代」の将軍の治世が「永く」続くようにと、上司を〝持ち上げる〟のが得意な役人が命名したのだろうか。 しかし河口に近く川幅が広いうえ、満潮時に船を通すため橋脚の高さも必要としたことから工事は難航、しかも自然災害にともなう修復費がかさんだことから、完成からわずか20年で幕府は管理を放棄、廃橋を決める。困ったのは地元の町人たちである。やむなく、維持管理にかかる経費を町方が負担するということで「永代橋」は存続することになったのだが…
「わあ、橋が落ちたッ」文化4(1807)年8月富岡八幡宮の祭礼の日、すし詰めの参詣客の重みに耐えかねて「永代橋」は崩落する。死者行方不明者あわせて2千人を超すともいわれる大惨事であった。橋そのものの老朽化はもちろんだが、12年ぶりとなった祭礼に押しかけた人びとの数が半端ではなかったこと、悪天候(おそらく台風の影響?)で祭礼の順延が続いたこと、一ツ橋様の見物の御船通行のため大群衆が橋のたもとで立ち往生せねばならなかったうえ、通行が予定よりも遅れ、そのあいだにますます参詣客の数が膨らんでいったことなど、いくつもの「不幸」が重なっての事故だった。
永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼
蜀山人こと大田南畝はこんな皮肉な狂歌を詠んでいる。また、杉本苑子の小説『永代橋崩落』は、この歴史的大惨事に直面した人びとの哀しみや人間の残酷さを「グランドホテル形式」(?)で巧みに描いた連作短編集で、一気読みしてしまうほどのおもしろさだ。
その後、明治30(1897)年になって、道路橋としては日本初の鉄橋となる、いかにも「丈夫そう」な橋として「永代橋」は完成する。ところが、その一見したところ「丈夫そう」な橋も、関東大震災の前ではひとたまりもなかった。なんと、橋底が木製だったため、数多くの人びとをのせたまま焼け落ちてしまったのだ。新しい「永代橋」は、この橋にまつわる悲しい過去の数々を人びとの記憶から払拭するためにも、なにより「丈夫そう」で、しかも実際に「丈夫な」橋として、帝都復興を印象づける〝逞しい〟意匠である必要があったのだと思う。
60年ぶりの眺望
丸の内、八重洲、大手町、日本橋、京橋、銀座… ぼんやり再開発ラッシュのこの界隈を歩いていると、思わずアッと息を飲むようなことがすくなくない。たいがいは、そこにあるはずの建物がすっかり消え失せてなくなっていることに気づき、驚かされるのだ。ところが、きょうの驚きはそれとはちょっとちがっていた。
日本橋高島屋の横、山本山本店や日本橋富士ビルディングのあった一角がすっかり空き地になってしまっているせいで、いままではビルの死角になって見えなかった高島屋本館の側面が中央通りから丸見えになっているのだ。昭和8(1933)年に高橋貞太郎の設計により建てられた高島屋本館(の旧館)と村野藤吾の設計により昭和27(1952)年以降なんどかに渡って増築された本館(の新館)、そのふたつがドッキングされている部分を見事に見晴るかすことができる。となりに建っていた日本橋富士ビルディングの竣工が昭和31(1956)年ということだから、いわばその「眺め」は〝およそ60年ぶり〟に出現したわけだ。
さて、三井不動産のウェブサイトによると、数年後にこの空き地には地上31階/地下5階建ての高層ビルが完成するとのこと。そうなると、次この「眺め」と出会えるのは60、いや70年後くらいになるだろうか。そう思うと、ある意味〝貴重〟な風景ではある。
深川の村林ビルディングから久生十蘭のいた函館へ
日本橋から茅場町を抜け、大正15(1926)年に完成した「復興橋梁」 のひとつ「永代橋」を渡って深川へと入る。すると、「佐賀一丁目南」交差点の一角に、規模はちいさいながら重厚な雰囲気をもつビルディングが姿をあらわす。「村林ビルディング」である。昭和3(1928)年に竣工した関根要太郎(*)設計による建物だ。ロマネスク風の造りで、個人的には、どこか陰鬱な印象がある。けれども、このたてものはまた、あたかもタイムトンネルのようにぼくの心を「久生十蘭のいた函館」へと連れ去る。
この関根要太郎というひとは、実弟で、やはり建築家であった山中節治とともに数多くの建築作品を函館に残している。不動貯金銀行函館支店や函館海産商同業組合事務所といったモダンな建築をきっかけに地元の有力者と知己をえたところに、大正10(1921)年、函館の街を大火が襲う。復興にあたって、関根=山中兄弟に数々の依頼が舞い込んだのも当然だろう。
そうしたなかのひとつに、「旧亀井喜一郎邸」がある。施主の亀井喜一郎は函館貯蓄銀行の支配人をつとめる地元の名士で、この邸宅は大正10(1921)年に竣工した。久生十蘭が19歳のときである。なぜここでいきなり久生十蘭の名前が出てくるかというと、なにを隠そう十蘭の生まれ育った家こそは、この亀井家の隣りだったからである。そして、亀井家には久生十蘭より5歳年下の男の子がいた。後に文芸評論家となる亀井勝一郎だ。
亀井喜一郎邸 画像引用元:関根要太郎研究室@はこだて
海野弘『久生十蘭『魔都』『十字街』解読』(右文書院)からの孫引きになってしまうが、少年時代の思い出を回想した亀井勝一郎による文章がおもしろい。
久生十蘭(本名は阿部正雄氏)家は私の隣にあったが、後に私が文学を好むようになったとき、私の父は「決しておとなりの正雄ちゃんのような不良になるな」とコンコンと戒めた。学校をサボってベレー帽を被り、マンドリンをさげてぶらつくような中学生は、当時十蘭氏ただひとりであったからだ。(「北海道文学の系譜」読売新聞1954年8月16日)
『日本探偵小説全集8・久生十蘭集』を手元に引き寄せ、巻末の年譜をみてみる。19歳になった久生十蘭は、函館新聞社の記者をしながら演劇に夢中になっていた。翌年には役者として「函館素劇研究会」の公演に参加したり、また童話劇の演出を買って出たりしている。そんな十蘭の姿を、亀井勝一郎少年はこのピンク色をした屋敷の窓からどんな思いで見つめていたのだろうと、しばしかんがえる。
ところで、この関根要太郎設計による「亀井喜一郎邸」の写真をみたとき、まっさきにぼくが思い出したのはヘルシンキの南、海辺の高級住宅地エイラに点在する「ユーゲントシュティール(ユーゲント様式)」の家々だった。北欧の建築史にくわしい伊藤大介によれば、これらフィンランドのユーゲントシュティールの建築を担っていたのは、「専門の建築教育を受けたいわゆる建築家とは異なり、本来は建築家の下にあって現場監理をおもな業務としていた」建築工匠(ラケンヌス・メスタリ)たちだったという(『アールトとフィンランド〜北の風土と近代建築』丸善)。彼らの手がける建築の特徴はというと、「当時の建築家たちの生み出した都市住居のデザインを換骨奪胎して、それをいわば流行に乗せた」ところにあるが、かといってそこに「ヨーロッパ中央のアール・ヌーヴォーのような豊かな装飾や繊細な表現が見られるわけではない」(引用は前掲書)。ヨーロッパの北のはずれに位置するフィンランドと、ヨーロッパから遠く離れた島国である日本。フランスやドイツで花開いた最新様式が、ある種「徒花」のように似通って咲いたとしても不思議ではないだろう。フィンランドの「建築工匠」とはちがい、関根要太郎は「専門の建築教育を受けた」プロの建築家にはちがいないが、その作風はロマネスクやユーゲントといった様式から零(こぼ)れ落ちるほどの表現への熱い意欲(それを〝ロマンティック〟と呼んでもいい)を感じさせる。
地元の名士の家で何不自由なく育ちながら、かえってそれゆえ〝危険〟なものに心惹かれ接近していった亀井勝一郎少年、いっぽう、その端正な文体をして読む者を思いがけず深い闇へと連れ去る久生十蘭… そんな 〝青春(ユーゲント)〟が熟れていた大正末から昭和初期にかけての函館の街で、その中心にあったのがほかならぬこの関根要太郎のピンク色の屋敷だったのではないか。
ヘルシンキ・エイラ地区に点在するユーゲント様式の住宅(筆者撮影 2005年ごろ)
*関根要太郎に関心を持たれた方は、ぜひ下記の優れたサイトをご覧ください
茂田井のパリと日本人会
茂田井武の目玉でもって見たならば、いったい〝1930年の巴里〟はどんなめくるめく世界となってぼくらの目に映るだろうか…。銀座でみた何枚かの『ton paris』からの原画は、たしかにそんなぼくの欲求を少しだけ満たしてくれたけれど、空腹のときにひと匙のスープを舐めてしまったみたいに、かえってもっと見たい、もっともっと触れたいという心持ちになってしまったのもまた、事実。そこでさっそく、ぼくは『じぷしい繪日記』(*)を手に入れ、21歳の茂田井青年がみた昭和5(1930)年の「巴里」に迷い込む…。
六月×日
ぱりい・がる・どのおるニトウチャク。(中略)駅前デれもなあどヲ飲ンデ一ふらん五十さんちいむ払ウトアトハ哀レナコジキニナツテシマツタ。
〝乞食〟同然でパリ北駅に到着し、ひとまず「ほてるじやぽね」に投宿した茂田井は、どうやって探したのかはわからないが、無事仕事にありつく。
七月×日
せるくるじやぽね(ニホンジンクラブ)ノ皿洗イケンぼおいトナツタ。コノ街ハでぱるがでえるトイウ街ナノダガ、多クノ人ハ皆でばかめでえるトイウ。
パリの17区、「出歯亀」に引っ掛けて現地の日本人たちのあいだでは〝デバカメデール〟で通っていた一角、正しくは「デバルカデール街7番地」が、茂田井の職場「せるくるじやぽね(ニホンジンクラブ)」の住所であった。 その「日本人会」で、大正14(1925)年から昭和3(1928)年くらいまで書記の職にあった松尾邦之助は、その界隈についてこう回想する。
この「日本人会(セルクルジャポネー)」は、パリの西部、凱旋門や、ポルト・マイヨに近い、デバルカデール街の7番地で、日本人は、この町のことを『デバカメ通り』と呼んでいた。隣はリュナ・ホテルという、連れこみ専門のインチキ宿で、日本人会の建物も、何かしら、むかしの売笑婦宿みたいないやな感じであった。(『巴里物語』社会評論社)
その「むかしの売笑婦宿みたいないやな感じ」のする建物を、茂田井の『じぷしい繪日記』でみることができる。
松尾によると、「日本人会」の建物の地下には料理部があり、「斉藤という肥った板前さんが、食堂の経営をし、欧州航路の船から逃げ出したむかしの船乗りや、第一次欧州戦争に義勇兵となって流れこんで来た男どもが四、五人、奥のきたない暗い部屋にゴロゴロ寝ていた」という。茂田井も、晴れて(?)その仲間入りを果たしたわけだ。
にほんカラ新聞ノ束ガトドイタトキトジムコトト、酒ビンヲ酒蔵ニ運ブコトト、カンヅメショクリョウヲヤネウラニハコブコトナドガ骨ノ折レルシゴトデ、後ハアマリムズカシイコトハナイ。
雑用を適当にこなしつつ、それなりに愉快な日々を過していた様子が伝わってくる。そんな「日本人会」の食堂ではたらく連中を、松尾もまた微笑ましく眺めていたようである。「ボーイどもは、客のいないときには、バクチをやり、耳でおぼえた奇妙奇てれつなフランス語で、近所のビストロに行って、売春婦をからかい、それぞれ、フランス人の情婦をもって彼らにふさわしいのんきな流れ者の生活をしていた」(松尾邦之助『巴里物語』)。
ホウレンソウガえぴな。サシミニスル鯛ガどら。サバガまくろ。卵ガうふ。コレニでヲツケテでずふ。シオガせる。オ酒ガばん。奥サン今晩ワガぼんそわまだむ。何ガオ望ミデシヨウガけすくぶうぷうれ。一日ニ一ツ憶エレバ大シタモノダ。
まるで松尾の見ていた通りで、思わず可笑しくなる。でも、茂田井が「日本人会」の建物の地下に巣食っていた時期と、松尾が「書記」として同じ建物に寝泊まりしていた時期とは、残念ながら重ならない。昭和4(1929)年の5月、一時帰国していた日本から戻った松尾は、困窮生活を送りつつも日本文化の紹介者、またジャーナリストとして新たな道への一歩を踏み出していた。もちろん「日本人会」へは出入りしていたにちがいないが、地下の「きたない暗い部屋」でゴロゴロし、「奇妙奇てれつなフランス語」を操って売春婦をからかっているような、いまだ「画家」ですらなかった一青年に目を留めることはなかったろう。
昭和6(1931)年、茂田井のいた「日本人会」に、新たな人物が会長としてやってくる。椎名其二(しいな・そのじ)である。
四月×日
今度くらぶノでいれくとうるニ成ツタノハしいなそのじサントイウふらんすニハ長イ人ダソウダガ、始メテ会ツタ時ハ田舎ナマリガハゲシク、ムヤミトヤボツタイノデ大イニ笑ツタモノダ。ナレテミルト、かすけっと(トリウチ)ノカブリ方ヲ教エテクレルホドノ通人デアツタ。
若き日、フランスでアナキズムの洗礼を受け、大杉栄の遺志を継いで『ファーブル昆虫記』の訳出にあったことでも知られる人物だが、そんな椎名も青年茂田井の観察眼の前では形無しである。
パリの〝黄金時代〟は1926(昭和元)年から1928(昭和3)年くらいまでであった、そう回想する松尾邦之助の目に、茂田井がやってきた1930(昭和5)年のパリはかつての輝きを失いつつあるようにみえた。「再渡仏して、パリの土を踏んだ昭和5年は、フランスは動揺し、すべてが暗かった」。しかし、そんな深刻さは、茂田井の『繪日記』からは微塵も感じられない。
十月×日
ぱおら、ぱおら
ナンダツテ今マデボクハキミニ會エナカツタノダ。
パオラは、「N駐在武官邸ノ住込ミ女中」であったジュリーの妹で、チェコスロヴァキアのカールスバート出身の「サナガラ、野ニ咲ク白イ花ノヨウナ娘」である。「N駐在武官」とは、中岡彌高のことだろうか。パオラに一目惚れした茂田井は、
出前料理ノさあびすヲ終エテくらぶニ帰ルト、アトハボウゼント魂ヲ抜カレタ如クニナリ、皿小鉢ノ十ホド一編ニ落シタリ、酒ノこつぷヲ五ツ六ツコナミジンニシタリ、階段ヲ踏ミ外シテ地下室マデツイラクシタリ、ヨソメニモイジラシイホドノウチコミブリ
であったという。はたして、その恋の行方は…
茂田井武の昭和5(1930)年は、まさしく青春まっただなかであった。
東京市深川食堂
日本橋から茅場町を抜け、永代橋を渡って深川にやって来た。しもた屋風の家屋と空き地、新築や高層のマンションが入り混じりつつ点在する風景は、この町が、いままさに〝過渡期〟 にあることの証拠である。空き地や、新築マンションばかりが増えてしまう前にできるだけ足を運ぼうと思う。
昭和10(1935)年発行の、震災復興期の建築を取り上げた写真集『建築の東京』(都市美協会)にも登場する「深川東京モダン館」のたてものは、実際に見ると思いのほかこじんまりとしていた。1階は観光案内所のようなコミュニュティスペース、2階はイベントスペースで不定期ながらカフェ営業もしている。雨が降ったり止んだりのせいか、ベンチで爆睡しているサラリーマンを除けば客らしき人影はない。
このたてものは昭和7(1932)年、東京市が運営する公衆食堂としてつくられた。東京市社会局『市設食堂経営策に関する調査』(昭和11年)によると、「東京市社会局の福利施設の一たる」公衆食堂のルーツは大正9(1920)年にまでさかのぼる。引き金となったのは大正7(1918)年の「米騒動」である。その目的は、
「物価暴騰に依る日常生活の不安を緩和し衣食住に関する市民共同生活の安寧幸福を圖り社會の健全なる發達を期するため
とある。 最初に神楽坂に、次いで上野に、「公衆食堂」は〝慌てて〟つくられた。どれだけ〝慌てて〟いたかというと、「市参事会および市会の議決を経ずして」東京臨時救済会より交付された資金でつくられたほど。不安定な社会情勢を前にかなり追いつめられていたことがわかる。 公衆食堂では、定食やうどんのほかコーヒーやミルクも提供され、ときには活動写真や落語などの催しもおこなわれたという。爆発寸前の市民の不満を、お腹と心を満たすことで「ガス抜き」しようというもくろみもあったのだろうか。
このころに書かれたと思われる宮沢賢治の詩がある。
公衆食堂(須田町)
あわたゞしき薄明の流れを
泳ぎつゝいそぎ飯を食むわれら
食器の音と青きむさぼりはいともかなしく
その一枚の皿
硬き床にふれて散るとき
人々は声をあげて警(いま)しめ合へり
黙々と食事を流し込み、あっという間に立ち去ってゆく労働者たちの背中が見えるような、なんともうら寂しい気分にさせる詩である。ただ、ここで描写された風景は「市営の公衆食堂」ではなく、民間の「大衆食堂」であった可能性が高い。というのも、この詩が書かれたと思われる大正10(1921)年には、まだ「公衆食堂」は神楽坂と上野の二カ所にしか存在していなかったからである。いずれにせよ、当時の「簡易食堂」あるいは「軽便食堂」と呼ばれる食堂内の様子は、この詩からも手に取るように伝わってくる。
大正12(1923)年の関東大震災は、各地の公衆食堂にも甚大な被害をもたらした。そこで、翌大正13(1924)年から五カ年計画で公衆食堂の増設が決定される。予算は、帝都復興計画に伴う五十万円からまかなわれた。新設されたのは、三味線堀、神田、柳島、九段、緑町、上野、新宿、茅場町、田町、そしてここ深川の計10カ所である。
東京市深川食堂が開設されたのはちょうど83年前、昭和7(1932)年4月のこと。座席数は98で、昭和9(1934)年の統計によると一日平均520食ほどの需要があったらしい。ただし、利用者数は大正11(1922)年をピークにどんどん減少傾向にあった。街に民間の安価な食堂が増えてきたのが原因といわれている。利用者減を深刻な事態として受け止めた東京市社会局は、『市設食堂経営策に関する調査』で各区に一カ所以上「市営炊事工場」を設置するよう提言している。その最大の目的は
炊事及び食事の社會化、科學化、機械化を圖り、勤労市民、小學校児童等に対し、低廉にして栄養価値に富める食事を提供し、重ねて市民の家庭生活に於ける家事の簡易化を圖る
ことにあると云う。学校給食はもちろんのこと、公務員や一般の会社や商店にも食事を配給できるようにし、誰でも附属の食堂で食事することができる。社会主義的な匂いがしなくもない。実際、このレポートの中では海外の事例として、ドイツやソヴィエトの公衆食堂が取り上げられているのだ。そういえば、アイザック・アシモフのSF『鋼鉄都市』にもそんな《工場》が登場していたなァ。残念ながら、この提言が実行に移されることはなかったようだ。
公衆食堂利用者数の推移(大正9-昭和9)
ところで、復興期の建築のテーマのひとつは、「不燃」である。それほど、関東大震災では火事による被害が大きかったのだ。松葉一清『帝都復興せり!』 によると、公共建築ほど鉄×コンクリート×ガラスという新素材を積極的にとりいれた先進的なインターナショナル・スタイルがみられるという。潤沢な予算ということもあるだろうが、「不燃」という大義名分のもと、意匠面でも思い切った冒険ができたのかもしれない。この深川食堂も、戦災で一部にダメージを受けたものの東京大空襲による焼失はまぬがれた。修復のためすべてが当時のままというわけにはいかないが、その凛とした佇まいにはいまなお昭和初期のモダンな空気が充溢している。
深川東京モダン館(旧東京市深川食堂)の床に敷きつめられた色鮮やかなタイル