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「昭和8年」を起点に、ジャック・フィニイよろしくモダン都市を散策するブログ

放送の時代

昭和8(1933)年6月8日の朝は、あちこちの家庭で眠い目をこすりながらラジオにかじりつく人たちの姿が見受けられた。というのも、この日、日本放送協会が戸隠高原から野鳥の声を初めて全国に向け生中継したのである。

 

去年のオリンピックでは、競技場から実況しているかのような中継が行われた。これが、《実感放送》といわれた。 悪くいえば《まがい物》だ。(中略)しかし、今朝は正真正銘、まさにその時、信州で鳴いている野鳥の声を電波に乗せ、瞬時に日本各地に届けるーというのだ。(中略)まだ行ったこともない、遠く離れた戸隠の山で、今、この鳥達が鳴いているのだーと思うと、不思議な気持ちになる。 北村薫『幻の橋』(『玻璃の天』所収)

 

まさに、「感動」よりなによりまず「不思議な気持ち」のほうが勝っていたにちがいない。

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戸隠高原のその名も「小鳥ヶ池」。実際に中継がおこなわれたのは戸隠神社の宝光社から中社へと続く「神道」の中程。放送を記念した石碑も建っている。

 

このエポックメイキングな実況中継をおこなったのは、昭和6(1931)年に開局したばかりの日本放送協会長野放送局である。大正14(1925)年に本放送を開始した東京放送局JOAK)は、大阪、名古屋の放送局と統合されて翌大正15(1926)年には社団法人日本放送協会となる。その後着実に放送局の数は増え、昭和6(1931)年には長野放送局もふくむ13ヶ所の放送局によって日本全国を結ぶ放送網ができあがる。聴取者数も昭和7(1932)年には100万を突破、昭和9(1934)年には東京のラジオ普及率は50%近くまでなっていたのではないかといわれている。戸隠からの野鳥の声実況中継は、まさにそうした「ラジオの時代」の追い風をたっぷり受けての出来事といえた。

 

さて、このとき戸隠高原の小鳥たちのさえずりは、帝都東京では 愛宕山東京放送局をつうじて各家庭へと届けられた。ヒョロ長い2本の鉄塔が危うげな印象をあたえる東京放送局の設計を手がけたのは、木子七郎、そして後に「東京タワー」や「通天閣」でその名を知られることになる「塔博士」内藤多仲のふたり。大正14(1925)年に竣工した。放送局の立地として愛宕山が選ばれた理由は、おそらくそこが東京市で「もっとも高い山」だったということが挙げられるだろう。とはいえ、標高はたったの25.7メートルにすぎないのだが。

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そろそろ、久生十蘭の小説 『魔都』の東京へと向かおう。失踪した「王様」の行方を追う雑報記者古市加十は、「芝田村町からこの日比谷ヶ原一帯の地下には、神田、多摩川上水の大伏樋が、さながらクレエト島の迷路(ラビラント)のように縦横無数に交錯している筈」であることをはたと思い出す。ここ東京の地下には、江戸時代に掘られた伏樋(ふせどい)が蜘蛛の巣のように張り巡らされている。しかもそれは現在ではすっかり忘れ去られ、ひっそり放置されたままになっていると言うのである。

 

今、田村町一丁目で放送局の大地下工事が始まっている。地下二階の大建築だという事だから、思うに大伏樋は必ずやそこで断ち切られ、工事場のどこかで大暗道の入口がアングリと口を開いているに相違ない!

 

そう見込みをつけた古市は、日比谷公園を抜け田村町の工事現場へと走り出す。ここで久生十蘭が取り上げた大地下工事中の放送局とは、NHK東京放送会館のことである。昭和15(1940)年の「東京オリンピック」開催にともない本格的にテレビジョン放送への進出を企てていた日本放送協会にとって、じゅうぶんな設備をもつ新局舎の建設は差し迫った課題であった。「ラジオの時代」から「テレビの時代」へ。時代の、放送メディアへの期待の大きさは、愛宕山の放送局と地上6階地下1階、さらに塔屋3階付きというこの新しい建物の規模のちがいが雄弁に物語っている。

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ところが、『魔都』の舞台として設定されている昭和9(1934)年の終わりの時点では、じつを言うとまだこの東京放送会館の工事は始まっていない。昭和10(1935)年の10月20日に起工され、3年後の昭和13(1938)年12月20日に竣工している。ということは、この小説が雑誌「新青年」に連載されていた昭和12(1937)年10月から昭和13(1938)年10月にかけて、まさに工事の真っただ中だったことになる。日比谷の一角に徐々にその威容を現しつつあったこの大建築は、当然当時の人びとのあいだで話題となっていたことだろう。時代の複雑怪奇なタピストリーとして帝都東京の「いま」を巧みに織り込もうとした久生十蘭は、是が非でもこの巨大な建造物を作中に登場させたかったのだと思う。

 

その東京放送会館も、昭和48(1973)年をもって放送局としての役割を終える。オフィスビルに転用された後、昭和53(1978)年には取り壊され、跡地の一部は現在「日比谷シティ」となっている。閑話休題(それはさておき)、「日比谷シティ」建設時の逸話として「アングリと口を開いた大暗道」の話がみつからないのは、どうもすこしばかり残念なことではある。