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「昭和8年」を起点に、ジャック・フィニイよろしくモダン都市を散策するブログ

山田守の荻窪郵便局電話用事務室

荻窪駅の南口を出てすこし歩いたところ、駅前のにぎやかな商業地と閑静な住宅街のちょうど境界あたりに、いまもその建物はたたずんでいる。山田守が設計し、昭和7(1932)年に竣工した「荻窪郵便局電話用事務室」である。

 

じつは以前、ぼくはこのすぐ近くに住んでいて、毎日ここの前を通って仕事に行っていた。そのころこの建物は「NTT東日本荻窪ビル」として使われており、引っ越してすぐここで電話回線を引く手続きをしたのを憶えている。とはいえ、この建物が戦前に建てられたものとは当時まったく知らなかった。おそらく、道ゆく人びとのほとんども同じだろう。正面の、もっとも印象的な部分が無粋な外装パネルによって完全に覆われてしまっているためである。

 

竣工当時の面影を写真でしのんでみる。当時、逓信省経理局営繕課に籍を置いていた山田守は、そのため日本じゅうの郵便局や電話局、病院をはじめとする公共建築の設計を数多く手がけた。「荻窪郵便局電話用事務室」もそうしたひとつである。四つ角に面してカーブした正面玄関、白亜のコンクリートとサンルームのように大きく開けられたガラス窓、奥行きのある側面にまわりこむと、縦長の窓が几帳面にならんだ清潔でモダンな意匠が目を引く。改変を重ねられた現在の姿とくらべると、残念としか言いようがない。ぼくはここの前を通るときはいつも、頭のなかであの無粋なパネルを引っぱがし、かつての美しい姿を投影する。木造の住居がひしめくなかで、さぞかしその真っ白い建物は目立っていたことだろう、そんなことを考えながら…。

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竣工当時の外観 引用元:山田守建築事務所ウェブサイト

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2015年現在の外観 かろうじて側面が竣工当時をしのばせる

 

東京帝都大建築学科在籍中の大正9(1920)年、山田は石本喜久治、堀口捨巳ら同級生とともに「分離派建築会」を立ち上げ、アカデミズムに反旗を翻す。彼らは高らかにこう宣言するのだ。

我々は起つ。
過去建築圏より分離し、総ての建築をして真に意義あらしめる新建築圏を創造せんがために。
我々は起つ。
過去建築圏内に眠って居る総てのものを眼覚さんために溺れつつある総てのものを救はんがために。
我々は起つ。
我々の此理想の実現のためには我々の総てのものを悦びの中に献げ、倒るるまで、死にまでを期して。
我々一同、上を世界に向って宣言する。

 威勢はいいが、正直なところ素人には何を言わんとしているのかよくわからない。決然たる語調とともに彼らが求めたもの、それは建築における「表現」の自立であった。彼らはドイツ表現派やオーストリアの分離派に倣い、「建築の表現を、伝統的な様式の複写ではなく、建築家の内面の感情なり、自我なりの発露と位置づける」(松葉一清『帝都復興せり!「建築の東京」を歩く』平凡社)。公共建築としての「制約」を踏まえつつ、なおそこに「表現」の花を咲かせんとする山田の奮闘ぶりは、たしかにこの荻窪の建物からも十分に伝わってくる。

 

ところで、山田守が設計を手がけた現存する建造物のなかでも、とりわけ印象的なものをひとつ挙げるとすれば、おそらく御茶ノ水神田川にかかる「聖橋」ではないだろうか。これは震災後の昭和2(1927)年、山田が内務省復興局橋梁課に籍を置いていたときの仕事だが、一度見たら忘れられないその意匠はまさに表現派の面目躍如といったところ。長唄三味線方の人間国宝、杵屋栄二が昭和9(1934)年ごろに撮影したと思われる写真を見ると、前年に開通したばかりの総武線のプラットホームを通して「聖橋」の優美なフォルムを臨むことができる。これがもし、ただの無骨な鉄骨の橋梁であったならこの写真にここまで心惹かれることもなかったろう。冷たい光を放つ鉄製のレールと整然と並ぶ鉄骨の支柱、そしてその向こうに見えるコンクリートの橋… そこにあるのは、まさしく未来的な美の表現といえる。

 

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杵屋栄二『汽車電車1934-1938』より御茶ノ水駅。左後方に「聖橋」がみえる。

 

こうして見てくると、荻窪の「電話用事務室」しかり、御茶ノ水の「聖橋」しかり、山田守の建築にみる「表現」とは、いいかえると「印象的」「どこか心に残る」ということなのではないか、ぼくにはそんなふうに思えてならない。山田守の建築には、さしずめ《印象派》とでも呼びたいような見るものを惹きつける独自の魅力がある。

 

【参考】山田守によるその他の建築作品 千住郵便局電話用事務室(1929)/東海大学代々木校舎2号館(1958)/日本武道館(1964)/内神田282ビルディング(旧互助会ビル)(1963)/京都タワー(1964)など