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「昭和8年」を起点に、ジャック・フィニイよろしくモダン都市を散策するブログ

60年ぶりの眺望

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丸の内、八重洲、大手町、日本橋、京橋、銀座… ぼんやり再開発ラッシュのこの界隈を歩いていると、思わずアッと息を飲むようなことがすくなくない。たいがいは、そこにあるはずの建物がすっかり消え失せてなくなっていることに気づき、驚かされるのだ。ところが、きょうの驚きはそれとはちょっとちがっていた。

 

日本橋高島屋の横、山本山本店や日本橋富士ビルディングのあった一角がすっかり空き地になってしまっているせいで、いままではビルの死角になって見えなかった高島屋本館の側面が中央通りから丸見えになっているのだ。昭和8(1933)年に高橋貞太郎の設計により建てられた高島屋本館(の旧館)と村野藤吾の設計により昭和27(1952)年以降なんどかに渡って増築された本館(の新館)、そのふたつがドッキングされている部分を見事に見晴るかすことができる。となりに建っていた日本橋富士ビルディングの竣工が昭和31(1956)年ということだから、いわばその「眺め」は〝およそ60年ぶり〟に出現したわけだ。

 

さて、三井不動産のウェブサイトによると、数年後にこの空き地には地上31階/地下5階建ての高層ビルが完成するとのこと。そうなると、次この「眺め」と出会えるのは60、いや70年後くらいになるだろうか。そう思うと、ある意味〝貴重〟な風景ではある。

深川の村林ビルディングから久生十蘭のいた函館へ

日本橋から茅場町を抜け、大正15(1926)年に完成した「復興橋梁」 のひとつ「永代橋」を渡って深川へと入る。すると、「佐賀一丁目南」交差点の一角に、規模はちいさいながら重厚な雰囲気をもつビルディングが姿をあらわす。「村林ビルディング」である。昭和3(1928)年に竣工した関根要太郎(*)設計による建物だ。ロマネスク風の造りで、個人的には、どこか陰鬱な印象がある。けれども、このたてものはまた、あたかもタイムトンネルのようにぼくの心を「久生十蘭のいた函館」へと連れ去る。

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この関根要太郎というひとは、実弟で、やはり建築家であった山中節治とともに数多くの建築作品を函館に残している。不動貯金銀行函館支店や函館海産商同業組合事務所といったモダンな建築をきっかけに地元の有力者と知己をえたところに、大正10(1921)年、函館の街を大火が襲う。復興にあたって、関根=山中兄弟に数々の依頼が舞い込んだのも当然だろう。

 

そうしたなかのひとつに、「旧亀井喜一郎邸」がある。施主の亀井喜一郎は函館貯蓄銀行の支配人をつとめる地元の名士で、この邸宅は大正10(1921)年に竣工した。久生十蘭が19歳のときである。なぜここでいきなり久生十蘭の名前が出てくるかというと、なにを隠そう十蘭の生まれ育った家こそは、この亀井家の隣りだったからである。そして、亀井家には久生十蘭より5歳年下の男の子がいた。後に文芸評論家となる亀井勝一郎だ。 

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亀井喜一郎邸 画像引用元:関根要太郎研究室@はこだて

海野弘久生十蘭『魔都』『十字街』解読』(右文書院)からの孫引きになってしまうが、少年時代の思い出を回想した亀井勝一郎による文章がおもしろい。

久生十蘭(本名は阿部正雄氏)家は私の隣にあったが、後に私が文学を好むようになったとき、私の父は「決しておとなりの正雄ちゃんのような不良になるな」とコンコンと戒めた。学校をサボってベレー帽を被り、マンドリンをさげてぶらつくような中学生は、当時十蘭氏ただひとりであったからだ。(「北海道文学の系譜」読売新聞1954年8月16日)

 『日本探偵小説全集8・久生十蘭集』を手元に引き寄せ、巻末の年譜をみてみる。19歳になった久生十蘭は、函館新聞社の記者をしながら演劇に夢中になっていた。翌年には役者として「函館素劇研究会」の公演に参加したり、また童話劇の演出を買って出たりしている。そんな十蘭の姿を、亀井勝一郎少年はこのピンク色をした屋敷の窓からどんな思いで見つめていたのだろうと、しばしかんがえる。

 

ところで、この関根要太郎設計による「亀井喜一郎邸」の写真をみたとき、まっさきにぼくが思い出したのはヘルシンキの南、海辺の高級住宅地エイラに点在する「ユーゲントシュティール(ユーゲント様式)」の家々だった。北欧の建築史にくわしい伊藤大介によれば、これらフィンランドのユーゲントシュティールの建築を担っていたのは、「専門の建築教育を受けたいわゆる建築家とは異なり、本来は建築家の下にあって現場監理をおもな業務としていた」建築工匠(ラケンヌス・メスタリ)たちだったという(『アールトとフィンランド〜北の風土と近代建築』丸善)。彼らの手がける建築の特徴はというと、「当時の建築家たちの生み出した都市住居のデザインを換骨奪胎して、それをいわば流行に乗せた」ところにあるが、かといってそこに「ヨーロッパ中央のアール・ヌーヴォーのような豊かな装飾や繊細な表現が見られるわけではない」(引用は前掲書)。ヨーロッパの北のはずれに位置するフィンランドと、ヨーロッパから遠く離れた島国である日本。フランスやドイツで花開いた最新様式が、ある種「徒花」のように似通って咲いたとしても不思議ではないだろう。フィンランドの「建築工匠」とはちがい、関根要太郎は「専門の建築教育を受けた」プロの建築家にはちがいないが、その作風はロマネスクやユーゲントといった様式から零(こぼ)れ落ちるほどの表現への熱い意欲(それを〝ロマンティック〟と呼んでもいい)を感じさせる。

 

地元の名士の家で何不自由なく育ちながら、かえってそれゆえ〝危険〟なものに心惹かれ接近していった亀井勝一郎少年、いっぽう、その端正な文体をして読む者を思いがけず深い闇へと連れ去る久生十蘭… そんな 〝青春(ユーゲント)〟が熟れていた大正末から昭和初期にかけての函館の街で、その中心にあったのがほかならぬこの関根要太郎のピンク色の屋敷だったのではないか。

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ヘルシンキ・エイラ地区に点在するユーゲント様式の住宅(筆者撮影 2005年ごろ)

 

*関根要太郎に関心を持たれた方は、ぜひ下記の優れたサイトをご覧ください

fkaidofudo.exblog.jp

茂田井のパリと日本人会

茂田井武の目玉でもって見たならば、いったい〝1930年の巴里〟はどんなめくるめく世界となってぼくらの目に映るだろうか…。銀座でみた何枚かの『ton paris』からの原画は、たしかにそんなぼくの欲求を少しだけ満たしてくれたけれど、空腹のときにひと匙のスープを舐めてしまったみたいに、かえってもっと見たい、もっともっと触れたいという心持ちになってしまったのもまた、事実。そこでさっそく、ぼくは『じぷしい繪日記』(*)を手に入れ、21歳の茂田井青年がみた昭和5(1930)年の「巴里」に迷い込む…。

 

六月×日 

ぱりい・がる・どのおるニトウチャク。(中略)駅前デれもなあどヲ飲ンデ一ふらん五十さんちいむ払ウトアトハ哀レナコジキニナツテシマツタ。

 

〝乞食〟同然でパリ北駅に到着し、ひとまず「ほてるじやぽね」に投宿した茂田井は、どうやって探したのかはわからないが、無事仕事にありつく。

 

七月×日

せるくるじやぽね(ニホンジンクラブ)ノ皿洗イケンぼおいトナツタ。コノ街ハでぱるがでえるトイウ街ナノダガ、多クノ人ハ皆でばかめでえるトイウ。

 

パリの17区、「出歯亀」に引っ掛けて現地の日本人たちのあいだでは〝デバカメデール〟で通っていた一角、正しくは「デバルカデール街7番地」が、茂田井の職場「せるくるじやぽね(ニホンジンクラブ)」の住所であった。 その「日本人会」で、大正14(1925)年から昭和3(1928)年くらいまで書記の職にあった松尾邦之助は、その界隈についてこう回想する。

 

この「日本人会(セルクルジャポネー)」は、パリの西部、凱旋門や、ポルト・マイヨに近い、デバルカデール街の7番地で、日本人は、この町のことを『デバカメ通り』と呼んでいた。隣はリュナ・ホテルという、連れこみ専門のインチキ宿で、日本人会の建物も、何かしら、むかしの売笑婦宿みたいないやな感じであった。(『巴里物語』社会評論社

 

その「むかしの売笑婦宿みたいないやな感じ」のする建物を、茂田井の『じぷしい繪日記』でみることができる。

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松尾によると、「日本人会」の建物の地下には料理部があり、「斉藤という肥った板前さんが、食堂の経営をし、欧州航路の船から逃げ出したむかしの船乗りや、第一次欧州戦争に義勇兵となって流れこんで来た男どもが四、五人、奥のきたない暗い部屋にゴロゴロ寝ていた」という。茂田井も、晴れて(?)その仲間入りを果たしたわけだ。

 

にほんカラ新聞ノ束ガトドイタトキトジムコトト、酒ビンヲ酒蔵ニ運ブコトト、カンヅメショクリョウヲヤネウラニハコブコトナドガ骨ノ折レルシゴトデ、後ハアマリムズカシイコトハナイ。

 

雑用を適当にこなしつつ、それなりに愉快な日々を過していた様子が伝わってくる。そんな「日本人会」の食堂ではたらく連中を、松尾もまた微笑ましく眺めていたようである。「ボーイどもは、客のいないときには、バクチをやり、耳でおぼえた奇妙奇てれつなフランス語で、近所のビストロに行って、売春婦をからかい、それぞれ、フランス人の情婦をもって彼らにふさわしいのんきな流れ者の生活をしていた」(松尾邦之助『巴里物語』)。

 

ホウレンソウガえぴな。サシミニスル鯛ガどら。サバガまくろ。卵ガうふ。コレニでヲツケテでずふ。シオガせる。オ酒ガばん。奥サン今晩ワガぼんそわまだむ。何ガオ望ミデシヨウガけすくぶうぷうれ。一日ニ一ツ憶エレバ大シタモノダ。

 

まるで松尾の見ていた通りで、思わず可笑しくなる。でも、茂田井が「日本人会」の建物の地下に巣食っていた時期と、松尾が「書記」として同じ建物に寝泊まりしていた時期とは、残念ながら重ならない。昭和4(1929)年の5月、一時帰国していた日本から戻った松尾は、困窮生活を送りつつも日本文化の紹介者、またジャーナリストとして新たな道への一歩を踏み出していた。もちろん「日本人会」へは出入りしていたにちがいないが、地下の「きたない暗い部屋」でゴロゴロし、「奇妙奇てれつなフランス語」を操って売春婦をからかっているような、いまだ「画家」ですらなかった一青年に目を留めることはなかったろう。

 

昭和6(1931)年、茂田井のいた「日本人会」に、新たな人物が会長としてやってくる。椎名其二(しいな・そのじ)である。

 

四月×日

今度くらぶノでいれくとうるニ成ツタノハしいなそのじサントイウふらんすニハ長イ人ダソウダガ、始メテ会ツタ時ハ田舎ナマリガハゲシク、ムヤミトヤボツタイノデ大イニ笑ツタモノダ。ナレテミルト、かすけっと(トリウチ)ノカブリ方ヲ教エテクレルホドノ通人デアツタ。

 

 

若き日、フランスでアナキズムの洗礼を受け、大杉栄の遺志を継いで『ファーブル昆虫記』の訳出にあったことでも知られる人物だが、そんな椎名も青年茂田井の観察眼の前では形無しである。

 

パリの〝黄金時代〟は1926(昭和元)年から1928(昭和3)年くらいまでであった、そう回想する松尾邦之助の目に、茂田井がやってきた1930(昭和5)年のパリはかつての輝きを失いつつあるようにみえた。「再渡仏して、パリの土を踏んだ昭和5年は、フランスは動揺し、すべてが暗かった」。しかし、そんな深刻さは、茂田井の『繪日記』からは微塵も感じられない。

 

十月×日

ぱおら、ぱおら

ナンダツテ今マデボクハキミニ會エナカツタノダ。

 

パオラは、「N駐在武官邸ノ住込ミ女中」であったジュリーの妹で、チェコスロヴァキアのカールスバート出身の「サナガラ、野ニ咲ク白イ花ノヨウナ娘」である。「N駐在武官」とは、中岡彌高のことだろうか。パオラに一目惚れした茂田井は、

 

出前料理ノさあびすヲ終エテくらぶニ帰ルト、アトハボウゼント魂ヲ抜カレタ如クニナリ、皿小鉢ノ十ホド一編ニ落シタリ、酒ノこつぷヲ五ツ六ツコナミジンニシタリ、階段ヲ踏ミ外シテ地下室マデツイラクシタリ、ヨソメニモイジラシイホドノウチコミブリ

 

であったという。はたして、その恋の行方は…

茂田井武の昭和5(1930)年は、まさしく青春まっただなかであった。

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茂田井武『じぷしい繪日記』(トムズボックス

東京市深川食堂

日本橋から茅場町を抜け、永代橋を渡って深川にやって来た。しもた屋風の家屋と空き地、新築や高層のマンションが入り混じりつつ点在する風景は、この町が、いままさに〝過渡期〟 にあることの証拠である。空き地や、新築マンションばかりが増えてしまう前にできるだけ足を運ぼうと思う。

 

昭和10(1935)年発行の、震災復興期の建築を取り上げた写真集『建築の東京』(都市美協会)にも登場する「深川東京モダン館」のたてものは、実際に見ると思いのほかこじんまりとしていた。1階は観光案内所のようなコミュニュティスペース、2階はイベントスペースで不定期ながらカフェ営業もしている。雨が降ったり止んだりのせいか、ベンチで爆睡しているサラリーマンを除けば客らしき人影はない。

 

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このたてものは昭和7(1932)年、東京市が運営する公衆食堂としてつくられた。東京市社会局『市設食堂経営策に関する調査』(昭和11年)によると、「東京市社会局の福利施設の一たる」公衆食堂のルーツは大正9(1920)年にまでさかのぼる。引き金となったのは大正7(1918)年の「米騒動」である。その目的は、

「物価暴騰に依る日常生活の不安を緩和し衣食住に関する市民共同生活の安寧幸福を圖り社會の健全なる發達を期するため

とある。 最初に神楽坂に、次いで上野に、「公衆食堂」は〝慌てて〟つくられた。どれだけ〝慌てて〟いたかというと、「市参事会および市会の議決を経ずして」東京臨時救済会より交付された資金でつくられたほど。不安定な社会情勢を前にかなり追いつめられていたことがわかる。 公衆食堂では、定食やうどんのほかコーヒーやミルクも提供され、ときには活動写真や落語などの催しもおこなわれたという。爆発寸前の市民の不満を、お腹と心を満たすことで「ガス抜き」しようというもくろみもあったのだろうか。

 

このころに書かれたと思われる宮沢賢治の詩がある。

公衆食堂(須田町)


あわたゞしき薄明の流れを
泳ぎつゝいそぎ飯を食むわれら
食器の音と青きむさぼりはいともかなしく
その一枚の皿
硬き床にふれて散るとき
人々は声をあげて警(いま)しめ合へり

黙々と食事を流し込み、あっという間に立ち去ってゆく労働者たちの背中が見えるような、なんともうら寂しい気分にさせる詩である。ただ、ここで描写された風景は「市営の公衆食堂」ではなく、民間の「大衆食堂」であった可能性が高い。というのも、この詩が書かれたと思われる大正10(1921)年には、まだ「公衆食堂」は神楽坂と上野の二カ所にしか存在していなかったからである。いずれにせよ、当時の「簡易食堂」あるいは「軽便食堂」と呼ばれる食堂内の様子は、この詩からも手に取るように伝わってくる。

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大正12(1923)年の関東大震災は、各地の公衆食堂にも甚大な被害をもたらした。そこで、翌大正13(1924)年から五カ年計画で公衆食堂の増設が決定される。予算は、帝都復興計画に伴う五十万円からまかなわれた。新設されたのは、三味線堀、神田、柳島、九段、緑町、上野、新宿、茅場町、田町、そしてここ深川の計10カ所である。

 

東京市深川食堂が開設されたのはちょうど83年前、昭和7(1932)年4月のこと。座席数は98で、昭和9(1934)年の統計によると一日平均520食ほどの需要があったらしい。ただし、利用者数は大正11(1922)年をピークにどんどん減少傾向にあった。街に民間の安価な食堂が増えてきたのが原因といわれている。利用者減を深刻な事態として受け止めた東京市社会局は、『市設食堂経営策に関する調査』で各区に一カ所以上「市営炊事工場」を設置するよう提言している。その最大の目的は

炊事及び食事の社會化、科學化、機械化を圖り、勤労市民、小學校児童等に対し、低廉にして栄養価値に富める食事を提供し、重ねて市民の家庭生活に於ける家事の簡易化を圖る

 ことにあると云う。学校給食はもちろんのこと、公務員や一般の会社や商店にも食事を配給できるようにし、誰でも附属の食堂で食事することができる。社会主義的な匂いがしなくもない。実際、このレポートの中では海外の事例として、ドイツやソヴィエトの公衆食堂が取り上げられているのだ。そういえば、アイザック・アシモフのSF『鋼鉄都市』にもそんな《工場》が登場していたなァ。残念ながら、この提言が実行に移されることはなかったようだ。

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公衆食堂利用者数の推移(大正9-昭和9)

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ところで、復興期の建築のテーマのひとつは、「不燃」である。それほど、関東大震災では火事による被害が大きかったのだ。松葉一清『帝都復興せり!』 によると、公共建築ほど鉄×コンクリート×ガラスという新素材を積極的にとりいれた先進的なインターナショナル・スタイルがみられるという。潤沢な予算ということもあるだろうが、「不燃」という大義名分のもと、意匠面でも思い切った冒険ができたのかもしれない。この深川食堂も、戦災で一部にダメージを受けたものの東京大空襲による焼失はまぬがれた。修復のためすべてが当時のままというわけにはいかないが、その凛とした佇まいにはいまなお昭和初期のモダンな空気が充溢している。

 

https://instagram.com/p/07I_iPCJlO/

深川東京モダン館(旧東京市深川食堂)の床に敷きつめられた色鮮やかなタイル

 

落語と自動車

舞台はたいがい江戸時代で、登場人物はみな頭の上にチョンマゲをのせている ーなじみの薄いひとは、たいてい「落語」についてそんなイメージを抱いているのではないか。かく言うぼくもそうだった。聴き込んでゆくうち、実際にはその時代ごとの〝旬の〟トピックを織り込んだネタも少なくないことがわかってきた。しかも、大正〜昭和初期の寄席では、むしろそうした〝新作〟あるいは〝創作〟落語と呼ばれたりするネタのほうこそが主流だったのではないだろうか。まだテレビもラジオもなく、新聞はあっても「無筆」、いわゆる文盲の人びとも少なからずいた時代、「落語」や「講談」にはごく身近な情報源としての役割もあったからだ。それはときにメロドラマでありサスペンスであり、大河小説であり、コメディ仕立てのホームドラマのときもあれば怪談のときもあり、また巷を騒がす三面記事をおもしろおかしく伝えるものでもあった。

 

明治から昭和にかけてつくられた落語には、しばしばハイカラな道具が登場する。たとえば、「かんしゃく」という落語に登場するのは「自家用車」や「扇風機」といった品々。癇癪持ちの夫の理不尽な態度に耐えかねて、実家に逃げ帰ってきた娘を父親が諭して元の鞘におさめるといった噺だ。運転手つきの自家用車で通勤し、居間には扇風機まで揃っている。ところが、暮らしぶりは近代化しても、中身はまだまだ「女は三界に家なし」、封建的な男女関係が幅を利かせているのがこの時代だった。

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益田太郎冠者こと益田太郎 画像引用元:日本財団図書館(電子図書館) 自然と文化 73号

この落語を作った益田太郎冠者こと益田太郎は、三井物産の創始者益田孝男爵の次男である。実業家でありながら、自身の遊学体験を武器に数々の〝バタ臭い〟戯曲やレビューを書き下ろし、豊富な財力を元手に上演した。さらには小唄や端唄のたぐい、また、乞われるままに落語なども作った。その作風は、ハイカラなお殿様の暮らしぶりを誇張し滑稽に活写したものが多い。「ネタ」ならば、身近にいくらでも転がっていたことだろう。

高野正雄は評伝『喜劇の殿様〜益田太郎冠者伝』のなかで、彼が落語の創作を始めたのは、はっきりしたことはわからないが、おそらく明治末(1912)年ころではないかと推測している。創作落語が盛んな時代のこと、洋行帰りでネタが豊富な太郎に親交のあった落語家の方から話を持ちかけたのかもしれない。また、太郎作の喜劇『女天下』を観た初代三遊亭圓左が、それを落語に仕立て直すといったこともあったようだ。

 

三代目三遊亭圓橘が、太郎作の落語「洋行帰りハイカラ自動車」を口演した大正5(1916)年録音の古い音源が残っている。太郎と親交のあった圓橘には、「洋行帰り」(このネタと同じだろうか?)を葉山の御用邸で御前口演したというエピソードもある。

www.youtube.com

 錦町の旦那は、日英博覧会に行きすっかり「馬鹿ハイカラ」になって帰ってきた。家じゅうの障子を開け放し、畳も上げ、気取って「カムイン」などと言っている。きょうは、仲間たちを愛用の自家用車に乗せ、みずから運転して「ヨコハマ」まで行く算段。ところがみな怖がって乗ろうとしない。それもそのはず、当時はまだ運転免許も制度として整備されておらず、そのため事故も多かった。さて、嫌がる仲間たちを無理やり押し込み発進したまではよかったが…

 

日本における乗用車の保有台数は、大正3(1914)年には681台だったのに対し、このSP盤の吹き込みがおこなわれた大正5(1916)年には2,757台、なんとわずか2年の間に4倍にまで増えている。大正8(1919)年になると、全国統一の交通法規「自動車取締令」が施行される。自動車の普及につれて交通事故も爆発的に増加、一刻も早い対処を迫られていたのだ。この年、自動車の保有台数は早くも5千台を突破した。T型フォードの日本への正式輸入は明治42(1909)年といわれるが、本格的に販売がはじまったのはセール・フレイザー商会という英国系商社が代理店となった明治44(1911)年あたりからのようだ。翌大正元(1912)年には、6台のT型フォードにより日本初のタクシーが誕生している。ちなみに、この「セール・フレイザー商会」に一時「取締役」として関わっていたのは白州次郎である。

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T型フォード

 

大正から昭和にかけての時期、カフェーの女給からもらったというラブレターで笑わせる「女給の文」、田舎からやってきた客と車掌とのとんちんかんなやりとりがおかしい「電車風景」など時代の空気を巧みに織り込んだ創作落語で人気を誇ったのが初代柳家幅丸である。 

若いときは威勢がよく、新落語で売っていた。文都の話によると、若いときの勢いでゆけば、天下をとるほどの威勢で、大阪の大きな興行会社が契約にきた…宇野信夫『私の出会った落語家たち〜昭和名人奇人伝』河出文庫

ところが、その人気も長くは続かず、宇野信夫と知り合った昭和7(1932)年前後の蝠丸は「すっかり霜枯れた芸人」になっていて、高座では昔と同じことを言っていたが「昔は受けたクスグリに、客はクスリともしなかった」というありさまだったらしい。

その蝠丸が作った落語に「大蔵次官」がある。主人公はしがない噺家。寄席をかけもちしては「お後がよろしいようで、お時間で交代」と高座から降りてくる。須田町で都電がくるのを待っていると、万世橋の方向からやってきた自動車がカーブで曲がりきれず横転する。投げ出された運転手は即死、後部座席をのぞくと若い娘が怪我を負いながらもまだ生きている。噺家はその娘を助け出し、病院へと担ぎ込んだ。後日、噺家の住む長屋に助けた娘の家の使いが訪ねてきて、御礼をしたいのでぜひ一緒に来てほしいとのこと。そうして案内されたのは、大蔵大臣のお屋敷。横転した自動車から助け出したのは、なんと大蔵大臣のお嬢様だったのである。大臣いわく「娘と結婚して婿になって欲しい。ついては、大蔵省でそれ相応の仕事も斡旋したい」とのこと。めでたく結婚の運びとなり、では仕事を… というとき、大蔵次官が失態をおかし辞職、うまい具合にポストが空いて…

 

なんと馬鹿馬鹿しいストーリーではあるが、昭和2(1929)年、社長や次官が逮捕されることになった越後鉄道の贈収賄疑惑事件など、当時の客のウケを狙ったくすぐりを入れこむなど抜け目ない。そして、自動車は危ない、事故が多い、というのまた、当時の人たちにとっては共通の認識、いってみれば「あるあるネタ」だったのではないか。

 


九代目桂文治『大蔵次官』'64.11.10. at 有楽町ビデオホール - YouTube

川瀬巴水「夜之池畔(不忍池)」にモダニストの視線をみる

たとえて言えば、昭和8(1933)年とその前後数年はさながら「時代の汽水湖」のようである。そこでは淡水と海水のかわりに、江戸〜明治の封建主義と近代主義とが、大正デモクラシー軍国主義とがせめぎあい、混じりあい、独特の「汽水域」をなしている。そして「モダニスト」とは、かつてそんな「汽水域」に生息した短命な希少種のことなのではないか。「モダニスト」は、ふたつの時代を同時に生き、また魚のように自由に行き来する。

 

浮世絵師・川瀬巴水のまなざしもまた、紛れもなくそんな「モダニスト」のものである。初期の作品『東京十二題』より「雪に暮るゝ寺島村」。しんしんと雪の降る寺島村、現在の墨田区東向島の情景。川瀬によれば「黙阿弥の世話狂言の舞台面を想ひ浮べながら」筆を執ったという。

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「雪に暮るゝ寺島村」大正9(1920)年

 いかにも浮世絵らしい大胆さと言ってしまえばそれまでだが、それにしても、どこか奇妙な構図ではある。この風景の中では「異物」のような存在である「電信柱」が、どっかり中央に居座り、ざっくりと画面を二分してしまっている。あえて「消去」してしまわなかった理由は、やはりそこに「現在」の刻印を残しておきたかったからだろうか。それは、家々の窓の煌々とした「電気」の明かりとそれを映した水面からもわかる。この絵には、ふたつの時代が同居している。ぼくらはその絵のどこに目を置くかによって、心のままふたつの時代を行き来することができるのだ。

 

『夜之池畔(不忍池)』は、昭和7(1932)年の作。全体を、春の夜のおぼろげな空気が包み込んでいる。弁天島越しに見えるのは上野広小路あたりだろうか。弁天堂の屋根の上にちらりと見えるネオンは「仁丹塔」のものらしい。とすると、中央の巨大な建物は松坂屋デパートだろう。松坂屋上野店は昭和4(1929)年、震災復興期に誕生し、地下には地下鉄駅を備えた上野の新時代のランドマークである。

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『夜之池畔《不忍池》』昭和7(1932)年

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戦前の絵はがき 上野公園より広小路方面を臨む 中央右寄りに仁丹塔が見える(引用元 くすり屋本舗ブログ

 

人工的な光とそれを映す水面という表現は、「雪に暮るゝ寺島村」から12年後に制作されたこの「夜之池畔」ではさらにオルタナティヴな進化を遂げている。光源は真紅のネオンライトに代わり、水面はさざなみの揺れも手伝ってオレンジ色の焔のようにさえ見える。震災以前から変わらぬ風景と復興期の現在を象徴する風景というふたつの時代の風景がそこに併存し、微妙に混じり合い、独特のモダンな抒情が顔をのぞかせる。いまでは、川瀬巴水の浮世絵はしばしば「郷愁」というキーワードをもって語られるが、すくなくともこの時期の作品からはただひたすらに過去を懐かしんでいるような印象は感じられない。それにしては、彼の描くネオンライトは甘く輝き、過去の情景になじんでいる。そう、あまりにも美し過ぎるのだ。だからこそ、ぼくは川瀬巴水の作品を観ていると、まるで自分もまた「汽水湖」の生きものであるかのようにすーっと昭和初期の気分に溶け込んでしまうのである。

 

戦後に制作された「増上寺之雪」。9枚の版木を用い42回も摺りを重ねたという力作である。元和8(1622)年に建立された芝増上寺の三解脱門の鮮やかな朱色と降り積もる雪の白との取り合わせは、長い間変わることなく多くの人びとの目を楽しませてきた美しい情景である。けれども、いかにもモダニストらしい「破調」の美学はこの作品でも健在だ。画面左下に並ぶ傘をさした3人は、おそらく都電の到着を待っているのだろう。一様に電車がやってくる方向を見つめながら、じっと無言のままたたずんでいる。そして画面の中央を、今度は「雪に暮るゝ寺島村」とはちがい水平に「異物」が横切っている。電車の架線だろう。ここでも観るひとは、一枚の版画の中にふたつの時代のせめぎあいを感じざるをえない。

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「増上寺之雪」昭和28(1953)年

 

と同時に、この昭和28(1953)年という戦後の作品を観ているぼくは、そこに 「雪に暮るゝ寺島村」や「夜之池畔」とはちがう「なにか」を感じてしまう。江戸時代に建てられた増上寺の山門は、震災や戦火をくぐり抜けて生き残った。そしていま、それは冷たい雪にじっと耐えそこにたたずんでいる。生命の逞しさ。それを、べつだん巴水のメッセージだとはかんがえない。ただ、それを目にした戦後の日本の人びとがそっと自分の姿を重ね合わせたとしても不思議ではない、そう思うだけだ。

山田守の荻窪郵便局電話用事務室

荻窪駅の南口を出てすこし歩いたところ、駅前のにぎやかな商業地と閑静な住宅街のちょうど境界あたりに、いまもその建物はたたずんでいる。山田守が設計し、昭和7(1932)年に竣工した「荻窪郵便局電話用事務室」である。

 

じつは以前、ぼくはこのすぐ近くに住んでいて、毎日ここの前を通って仕事に行っていた。そのころこの建物は「NTT東日本荻窪ビル」として使われており、引っ越してすぐここで電話回線を引く手続きをしたのを憶えている。とはいえ、この建物が戦前に建てられたものとは当時まったく知らなかった。おそらく、道ゆく人びとのほとんども同じだろう。正面の、もっとも印象的な部分が無粋な外装パネルによって完全に覆われてしまっているためである。

 

竣工当時の面影を写真でしのんでみる。当時、逓信省経理局営繕課に籍を置いていた山田守は、そのため日本じゅうの郵便局や電話局、病院をはじめとする公共建築の設計を数多く手がけた。「荻窪郵便局電話用事務室」もそうしたひとつである。四つ角に面してカーブした正面玄関、白亜のコンクリートとサンルームのように大きく開けられたガラス窓、奥行きのある側面にまわりこむと、縦長の窓が几帳面にならんだ清潔でモダンな意匠が目を引く。改変を重ねられた現在の姿とくらべると、残念としか言いようがない。ぼくはここの前を通るときはいつも、頭のなかであの無粋なパネルを引っぱがし、かつての美しい姿を投影する。木造の住居がひしめくなかで、さぞかしその真っ白い建物は目立っていたことだろう、そんなことを考えながら…。

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竣工当時の外観 引用元:山田守建築事務所ウェブサイト

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2015年現在の外観 かろうじて側面が竣工当時をしのばせる

 

東京帝都大建築学科在籍中の大正9(1920)年、山田は石本喜久治、堀口捨巳ら同級生とともに「分離派建築会」を立ち上げ、アカデミズムに反旗を翻す。彼らは高らかにこう宣言するのだ。

我々は起つ。
過去建築圏より分離し、総ての建築をして真に意義あらしめる新建築圏を創造せんがために。
我々は起つ。
過去建築圏内に眠って居る総てのものを眼覚さんために溺れつつある総てのものを救はんがために。
我々は起つ。
我々の此理想の実現のためには我々の総てのものを悦びの中に献げ、倒るるまで、死にまでを期して。
我々一同、上を世界に向って宣言する。

 威勢はいいが、正直なところ素人には何を言わんとしているのかよくわからない。決然たる語調とともに彼らが求めたもの、それは建築における「表現」の自立であった。彼らはドイツ表現派やオーストリアの分離派に倣い、「建築の表現を、伝統的な様式の複写ではなく、建築家の内面の感情なり、自我なりの発露と位置づける」(松葉一清『帝都復興せり!「建築の東京」を歩く』平凡社)。公共建築としての「制約」を踏まえつつ、なおそこに「表現」の花を咲かせんとする山田の奮闘ぶりは、たしかにこの荻窪の建物からも十分に伝わってくる。

 

ところで、山田守が設計を手がけた現存する建造物のなかでも、とりわけ印象的なものをひとつ挙げるとすれば、おそらく御茶ノ水神田川にかかる「聖橋」ではないだろうか。これは震災後の昭和2(1927)年、山田が内務省復興局橋梁課に籍を置いていたときの仕事だが、一度見たら忘れられないその意匠はまさに表現派の面目躍如といったところ。長唄三味線方の人間国宝、杵屋栄二が昭和9(1934)年ごろに撮影したと思われる写真を見ると、前年に開通したばかりの総武線のプラットホームを通して「聖橋」の優美なフォルムを臨むことができる。これがもし、ただの無骨な鉄骨の橋梁であったならこの写真にここまで心惹かれることもなかったろう。冷たい光を放つ鉄製のレールと整然と並ぶ鉄骨の支柱、そしてその向こうに見えるコンクリートの橋… そこにあるのは、まさしく未来的な美の表現といえる。

 

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杵屋栄二『汽車電車1934-1938』より御茶ノ水駅。左後方に「聖橋」がみえる。

 

こうして見てくると、荻窪の「電話用事務室」しかり、御茶ノ水の「聖橋」しかり、山田守の建築にみる「表現」とは、いいかえると「印象的」「どこか心に残る」ということなのではないか、ぼくにはそんなふうに思えてならない。山田守の建築には、さしずめ《印象派》とでも呼びたいような見るものを惹きつける独自の魅力がある。

 

【参考】山田守によるその他の建築作品 千住郵便局電話用事務室(1929)/東海大学代々木校舎2号館(1958)/日本武道館(1964)/内神田282ビルディング(旧互助会ビル)(1963)/京都タワー(1964)など