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「昭和8年」を起点に、ジャック・フィニイよろしくモダン都市を散策するブログ

まぼろしの万博

日本初の「万博」は昭和15(1940)年、皇紀2600年の記念事業として東京で開催されるはずだった。「はずだった」というのはもちろん、それは実現せず「まぼろし」に終わってしまったからである。

 

築地にある中央区郷土天文館「タイムドーム明石」ではいま、その「まぼろしの万博」をとりあげた記録映像『幻の万国博覧会~月島四号地(晴海)の万博計画とその背景』が上映中。さっそく観にいってきた。まずは券売機で入場券を買い求め、受付の女性に映像が観たい旨を伝える。すると別室に案内され、上映がスタート。〝貸し切り〟である。映像は、全体で30分ほど。東京湾の埋め立てをめぐる紆余曲折、明治以降の博覧会ブーム、そして本題である「紀元2600年記念・日本万国博覧会」の計画とその背景がコンパクトにまとめられていた。

 

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計画によると、この「日本万国博覧会」は昭和15(1940)年3月15日から8月31日までの170日間、東京湾の浚渫(しゅんせつ)によって新たに生まれた月島四号地、現在の晴海をメイン会場に行われ、入場者数はおよそ4,500万人を見込んでいた。国勢調査に基づく昭和15(1940)年の日本の総人口は7,300万人あまりなので、その2/3にあたる動員を予想していたことになる。計画は昭和5(1930)年にはじまり、昭和8(1933)年には、会場へのアプローチとなる〝東洋一の可動橋〟勝鬨橋の工事も着工された。真に国際都市をめざす東京にとって、東京湾の埋め立ては明治以来のいわば〝悲願〟だったのだが、この時期、ようやく浚渫(しゅんせつ)が実現し、港湾設備が整いつつあった。つまり、東京湾に誕生した人工の浮き島こそは東京の〝新しい時代〟を告げるシンボルという意味合いもあったのだ。
しかし、長期化する支那事変にともなう時局や資金難にかんがみ、昭和13(1938)年に計画は凍結、無期延期となってしまう。すでに一部の建物は工事が始まり、前売券も販売されていた。

 

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吉田初三郎の描く万博会場の鳥瞰図

 

ところで、かねがねぼくはこのブログでは、歴史的な事件や建物を取り上げるのではなく、それをひとつの「きっかけ」として、当時の名もない人びとに心を寄せたいとかんがえてきた。なので、この記録映像を観ていちばん心に残ったのはやはり、万博の実現にむけて奔走する市井の人びとの姿であった。ワイシャツの袖をまくり図面と格闘する職員、大量の前売券をさばく和装の女子事務員、会場に植栽されるはずだった苗木を育てる職人……。そして、彼らの姿からぼくは、佐藤春夫の小説『美しき町』を思い出していた。

『美しき町』が発表されたのは、大正9(1919)年のこと。主人公である若い画家のもとに、ある日ブレンタノと名乗る人物から手紙が届く。築地のSホテルまでブレンタノ氏を訪ねた青年は、それが混血児の旧友であったことを知り驚かされる。驚く青年に彼は、父親の莫大な遺産を元に「隅田川の中州に〝美しき町〟」をつくろうと持ちかけるのだった。そして、老建築技師を加えた3人は夢中になって計画の実現に奔走するのだが、3年経ったある日のこと、突如ブレンタノ氏は姿を消してしまう……

そもそも「万博」とは、政治的に利用されやすいイベントである。「国威発揚」と「世界平和」というお題目が、危なっかしい均衡の上にゆらゆらと揺れている。しかし、昭和11年、12年といった時代でさえ、日本人の多くはそれを真に「世界平和」のイベントとしてしかかんがえていなかったのではないか。作家の安岡章太郎は、大不況、満州事変、さらに支那事変から大東亜戦争に向かうこの時代はそれでもなお、「個人個人の生活の視野」から言えば「平和な安穏な休憩期間(インターヴァル)」であったと回想する(『わたしの20世紀』)。
そして、やがて「まぼろし」となるこの万博にかかわった無名の人びとはみな、「世界平和」という美しい理想を掲げた史上最大規模のこの博覧会に自身も一役買っていることを誇りに思い、それぞれが心に豪奢で華やかな会場と訪れた人々の笑顔を描いていたのではないだろうか。それはまた、『美しき町』の主人公の心模様と重なる。

 

わずか数年とはいえ、日本じゅうを夢中にさせた「紀元2600年記念・日本万国博覧会」はこうして「まぼろし」に終わった。けれども、かかわった市井の人びとの心の中に、それはたしかに眩い輝きをもって実現したのである。

 

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 広報誌「萬博」(昭和12年4月号)

郊外に生まれた「浴風会本館」という〝終の住処〟

世田谷文学館への道すがら、ふと思い立って路線バスを降りる。すっかり雨もあがったようだ。停留所の名前は「浴風会前」。ところがどっこい、とても「前」とは言いがたい場所に降ろされてしまった。あわててポケットを探り、Googleマップ搭載のスマホがあるこの平成の世に感謝する。

環八(環状八号線)を折れ、神田川の流れに沿って湾曲する道を10分ほども歩いてゆく。片側は住宅、しかもかなり大きな家が並んでいるが、もういっぽうは畑、そしてやがて「浴風園」の敷地とおぼしき雑木林が続いている。ようやく正門に辿りつくと出迎えてくれるのが、『建築の東京』(都市美協会/昭和10(1935)年)にも掲載されたこのスクラッチタイル貼りの重厚な建物である。

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大正14(1925)年、東京市の郊外、世田谷のこの地に「浴風会」は誕生する。「浴風会」は、関東大震災被災したお年寄りの援護を目的に内務省社会局によって設立された財団法人で、設立にあたっては皇室御下賜金を含む義捐金があてられた(社会福祉法人「浴風会」ウェブサイトより)。

 

都会ではないが、かといって完全な田舎でもない《郊外》は、震災後の復興期により脚光を浴びることになる。『郊外の文学誌』の川本三郎は、このあたりの事情を今和次郎の『新版・大東京案内』を引きながらつぎのように説明する。

  1. 震災以後、東京市の中心部の大半が「商業地」になってしまったことで、一般の人びとが住宅を構えることが困難となったため
  2. 震災以後、法律により市内に大工場を置けなくなったことから、必然的に労働者たちも工場とともに郊外へと転出せざるをえなくなったため
  3. 震災以後、交通網、とりわけ鉄道網が一気に充実し、郊外とはいえ利便性が高くなったため

それに加えて、なにより東京市の西側では震災の被害がほとんどなかったという事実も大きいだろう。安全で、交通の便も悪くはなく、しかもまだまだ武蔵野の豊かな自然が残っている《郊外》に、この時期多くの人たちが引きつけられたのも無理はない。

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大正15(1926)年に竣工した浴風会本館を設計したのは、東大安田講堂といった建物をはじめ本郷キャンパス全体のデザインをおこなった内田祥三(うちだよしかず)と、その弟子で同潤会の建物にも携わった土岐達人のふたりである。ちなみに、『建築の東京』では「昭和5(1930)年」と紹介されているが、大正15(1926)年が正しいようだ。

その建物は、塔屋が印象的だが、大部分は鉄筋コンクリートの2階建てからなるいかにも頑強そうで、大地に這いつくばったかのような安定感のある〝見た目〟をもっている。震災で焼け出され、心に傷を負った老人たちにとって、この〝見た目〟がもたらす安心感はとても重要、ある種セラピーのような効果もあったのではないか。じっさい、この内田祥三はまた「防火」と「鉄筋コンクリート」のスペシャリストでもあったのだから、この建物の設計者として彼ほどの適任者はいない。まあ、人選にあたってそこまで考慮されていたかどうかは知る由もないけれど…。

 

建築には、軽快な印象をあたえるものもあれば、威厳を感じさせるものもある。関東大震災被災した老人たちに〝終の住処〟として用意されていたのは、緑豊かな武蔵野の自然と、〝謹厳実直〟かつ〝安心感〟のある建物であった。

植草甚一展/芦花公園/《郊外》と田園生活

ミステリ、ジャズ、映画。植草甚一が遺した膨大なスクラップ・ブックを一挙に展示した世田谷文学館植草甚一スクラップ・ブック』展は、まるでJ・J氏こと植草甚一のアタマの中を覗き見るかのような好企画、めまいがするほど愉しかった。

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京王線の「芦花公園」には、叔父が暮らしていた関係で子どもの時分には年に一度くらい訪ねていた記憶がある。いまは、世田谷文学館を訪れるとき以外はまず来ない。駅周辺の鄙びたたたずまいは、でも、いかにも《郊外》といった趣きでなかなか気に入っている。

 

ところで、理想の田園生活を求め、徳冨蘆花が夫人と連れ立ってこの地に移住したのは明治40(1907)年のことである。川本三郎の「蘆花の田園生活」(『郊外の文学誌』新潮社)によると、当時このあたりの人びとは、燃料となる薪を売って生計をたてていたという。なので、周囲にはたくさんの雑木林があった。蘆花が心惹かれたのも、なによりこの雑木林のある美しい眺めだった。ところが、ガスを引く家庭が増えるにつれ薪の需要は当然減ってゆく。こうして、雑木林は切り開かれどんどん畑へと変わっていった。蘆花はというと、そんな近所の動きとはあべこべに、少しずつ土地を買い足してはそこにせっせと木を植え雑木林をつくっていたという。じっさい、移り住んだ当初「風よけの樫の木が四五本しかなかった」土地は、最終的には「四千坪もの広さ」にまで拡張する。さぞかし〝酔狂な作家先生〟に映ったことだろう。想像するとちょっと可笑しい。

 

都市でもないし、かといって完全な田舎でもない、ちょうどその狭間に生まれた《郊外》とは、さながら時代の汽水湖であるといえる。川本三郎の《郊外》論には、その意味でもたくさんの〝気づき〟がある。

明治期、《郊外》には2種の人びとが暮らしていた。もともとこの土地で生まれ育った「土地の者」と、東京の中心部からやってきた「移住者」である。そしてさらに、「移住者」は〝精神的〟に2種に分けることができる。経済的理由などからやむなくやってきた者と、田園生活への〝あこがれ〟を胸にすすんでやってきた者である。川本によれば、蘆花や国木田独歩歌人・詩人で、「日本野鳥の会」の創設者として知られる中西悟堂らが後者にあたる。

 

彼らが、その豊かな想像力によって《郊外》をどのように見ていたのか、つぎの一節を読んでぼくは「ナルホド、ソウイウコトデアッタノカ」と膝を叩いた。少し長くなるけれど引用しておこうと思う。

 

散歩にもよく出かける。武蔵野の風景の美しさを満喫する。雑木林、畑、一群の木立、杉の森、野バラの茂み、小川。夕暮れどきがまたいい。「農夫たちが鍬を肩に夕餉の団欒へと並木路を帰ってゆく心の中に休息と安堵が宿る時刻である。人間がほんとうに塒(ねぐら)に帰る小鳥たちと同じ邪悪のない心になる時刻である。そして私(註・中西悟堂)の胸に人間の未来の春への希望と祈とが燃える時刻でもある」。ここでは武蔵野が、郊外が独歩の場合と同じように清潔で平和で無垢な理想郷としてとらえられている。しかも、独歩がワーズワースツルゲーネフら西洋の文人たちの目を通して郊外風景の美しさを発見していったように、また蘆花がトルストイを通して田園暮しを始めたように、中西悟堂もまた夕暮れに家に帰っていく農夫を見てはミレーの「晩鐘」を思い、雑木林をひとり歩いてはソーローの『森の生活』を思う。ここでも西洋を通して郊外が見つめられている。そして悟堂はこの四年間に及ぶ烏山(註・悟堂が暮らした千歳村字烏山のこと。蘆花が暮らした粕谷に近接する土地)での田園生活のなかでホイットマンの『草の葉』を訳してゆくことになる。郊外とは実は西洋と隣り合っている場所でもある。(川本三郎「蘆花の田園生活」)

 

心の豊かさを、自由を、彼ら文人たちは《郊外》に求め、見ていた。想像力で、東京の街もニューヨークも、映画やミステリの架空の世界も自由自在に闊歩したJ ・J 氏と、ようやくここでつながった。淀川長治は言う「ぼくも甚ちゃんも生まれたのが明治の終わりでね、一つ違いなの。それで二人とも大正時代の豊かな時代に育ったんだね。贅沢な時代だね。だからずっと何か相通じるものがあった」(「太陽」1995年6月号)。

機能美の果実としての「聖橋」

御茶ノ水の「聖橋」は、復興橋梁のひとつとして昭和2(1927)年に完成した。ニコライ堂湯島聖堂、ふたつの「聖なる場所」をつないでいるからその名も「聖橋」。山田守が設計した鉄筋コンクリートによるアーチ橋は、〝印象的〟という点でも東京随一といえる。それは竣工当時も、そして現在も変わらない。

 

以下は、松葉一清『「帝都復興史」を読む』(新潮選書)からの引用。

橋長百メートルの鉄筋コンクリートの拱橋は脚下に御茶ノ水の流れありて当に復興帝都の新名所。

 

『帝都復興史』 からの転載と思われる、おそらく竣工後まもない「聖橋」の写真と、平成27(2015)年の「聖橋」の写真とを並べつくづく眺めてみる。

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車道の両側に、きっちり区別して歩道がつくられた関係で道幅はやや狭くなったような印象はあるものの、ほぼ変わりなくその姿をいまに残しているのはとてもうれしい。そしてなにより、ふたつの写真を並べると、当初からこの橋が車道と歩道とを明確に区別することを前提にデザインされていたことがわかる。馬車がのろのろ荷車を引いていた時代にあって、山田守がいかに将来を見据えてこの仕事と取り組んでいたか。90年近く姿を大きく変えることなく「聖橋」が存在するのは、この山田守の「先進性」あってこそ。つまり、変える必要性が生じなかったわけである。まったくもって、「美」と「機能性」とをあわせもった稀有の橋である。

岩本素白と竹の匙

「竹の匙」という、岩本素白のごくごく短い文章がいい。昭和3(1928)年3月の随想だ。荒物屋で尋ねても、「銀か白銅かニュームの物ばかり」で、ありふれた「竹の匙」がいっこうにみつからない。竹の匙にかぎらず、「簡素なうちに言われぬ味をもった日用品」が次第に「姿を隠し」、「亡くなってしまった」と素白は言う。素白は、身辺から「もの」が消えてゆくのをこんなふうに、まるで生きものの「寿命」のように受け止める。嘆くでも、憤慨するわけでもない。ただ、「日本には、こういう品物が何時までも有ってよいように思う」と呟くにすぎない。そして、この「よいように思う」、それが素白の「やわらかさ」である。日本の文芸や美術についても、素白は竹の匙と同様「有ってもよいように思う」とかんがえる。理由はひとつ、なにか強く主張するわけではないけれど、生活の片隅にずっとあったはずのものが姿を隠してゆくのは、あまりにも「寂しい」からである。

素湯のような話: お菓子に散歩に骨董屋 (ちくま文庫)

サーカスがやって来た

宮脇俊三は回想する。昭和9(1934)年、小学二年くらいのときの話だ。

母はサーカスが好きで、かならず見に行き、私も連れて行ってもらった。銀色の海水着のような衣裳をまとったサーカス団の子供が、毬の上で逆立ちなどし、 形が決まったところで「ハーイ」と声を出すと、母は可哀そうだと言ってかならず涙を流した。そして「人さらいに攫(さら)われるとお前もああなるのだ」と言い、また「あの子たちは、骨を軟らかくするために、毎日お椀一杯の酢を飲まされているのだ」とも言った。(宮脇俊三『昭和八年 渋谷驛』PHP研究所

 

昭和初期のサーカスには、華麗なエンタテインメントであると同時に、まだどこかアンダーグラウンドな見世物のような雰囲気が漂っていた。「かならず見に行」くほど好きなのに、子供たちのアクロバティックな演技をみるたび「可哀そうだと言ってかならず涙を流」す宮脇の母親はどことなく滑稽ではあるが、当時の人たちは多かれ少なかれ「サーカス」というものをそのようにして受け入れていたのだろう。アスリートたちの姿のむこうがわに「汗」や「涙」の物語をみたがる日本人の心性は、その意味ではいまもまったく変わっていない。

 

昭和8(1933)年、ドイツからサーカス団がやってきた。上野の竹の台、池之端、それに芝の三会場をつかって開催された「万国婦人子供博覧会」の「目玉」として、芝会場全体の1/3ほども占める巨大な特設テントで興行はおこなわれ連日大盛況だったという。宮脇俊三の母も、幼い息子と連れ立って訪れたにちがいない。

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 当時の絵葉書をみると、「獨逸ハーゲンベック猛獣大サーカス」と書かれた門柱が目に入る。そしてテントの中央、入口の上にはアルファベットの「CARL HAGENBECK」の文字をみることができる。

 

カール・ハーゲンベック(1844〜1913)は、魚屋のかたわら胡散臭い見世物の興行などもおこなっていた父親を手伝ううち、世界じゅうの動物園や見世物に猛獣や珍獣を提供する動物商となり、やがてはハンブルクのシュテリンゲンに広大な自然動物園までつくってしまった人物として知られている。カール・ハーゲンベックの回想録『動物会社ハーゲンベック』(平野威馬雄白夜書房)では、そんな彼の生い立ちとともに、自動車もまだなかったような時代、北はシベリアから南はアフリカまでどのようにして猛獣を捕らえ、ヨーロッパまで連れてきたのかといったエピソードの数々が綴られているのだが、その想像を絶するおもしろさときたらヘタな冒険譚をはるかにしのぐ。そして、みずからサーカスまで始めるにいたった理由がまたふるっている。「象は仕事をしなくても、食べものだけは大へんな量である。…どうしても、この大食いどもをもとでに、なにか新奇なもうけ口をみつけなければ…」。こうして、動物たちに自分の食い扶持を稼がせるため、ハーゲンベックはとうとう「サーカスの主人」になってしまった。

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さて、その「カール・ハーゲンベックサーカス」なのだが、調べてみると1907年にアメリカ人ベンジャミン・ウォレス率いる「B・E・ウォレスサーカス」に買収、合併されていることがわかる。以降は、「ハーゲンベック=ウォレスサーカス」と名乗り北米大陸をホームグラウンドに忙しく巡業している。となると、昭和8(1933)年に来日、各地で人びとを熱狂させた「カール・ハーゲンベックサーカス」もこの「ハーゲンベック=ウォレスサーカス」のことなのだろうか? ところが、当時の新聞や写真のどれをとっても、「ドイツからやってきたハーゲンベックサーカス」という表記しか見当たらないのは不思議である。

 

たとえば、神戸又新日報昭和8(1933)年7月7日の記事では

ハーゲンベックはドイツ人ハーゲンベック氏を団長とするユダヤ系ドイツ人の集団からなる世界有数のサーカス団であり、欧州を旅行したものは、或はドイツ領に於て、フランスに於て、或はドーヴァ海峡を越えたイギリスに於て、随所に彼等の巡業している状況を見ることが出来る

とある。

 

また、名古屋にある東山動植物園の歴史を紹介したウェブサイトには

昭和8年5月29日、名古屋にドイツの動物園経営者ローレンツ・ハーゲンベック氏率いるサーカス団がやってきた。ローレンツ氏はドイツの動物園王と呼ばれたカール・ハーゲンベック氏の弟である

という表記をみることができる。

 

日本にやってきたのは、「ハーゲンベック=ウォレスサーカス」とは別物、ローレンツ・ハーゲンベック率いる正真正銘ドイツからやってきた「カール・ハーゲンベックサーカス」であった。つまり、世界にふたつ、「ハーゲンベック」の名前を冠したサーカス団が存在していたことになる。「王将」に「餃子の王将」と「大阪王将」、ふたつ存在するのと同じようなことだろうか…。ちなみに、上の引用にローレンツをカール・ハーゲンベックの「弟」と説明しているが、これは間違い。ローレンツはカール・ハーゲンベックの「次男」であり、兄のハインリッヒとともに父親の生前から事業を手伝っている。どうやら、父カール・ハーゲンベックの死後、兄ハインリッヒが動物園の運営を引き継ぎ、いっぽう弟のローレンツはあらためてサーカス団を結成し、そちらに専念することになったようだ。

 

彼らが来日することになった背景を、松山大学の川口仁志氏はつぎのように解説する。「しかし何といっても(万国婦人子供博覧会)芝会場の呼び物は、ドイツのハンブルク市にあるハーゲンベック動物園から来た大サーカスであった。ドイツもまた経済不況のさなかにあり、ハーゲンベック動物園も経営的に困難な状況を打開すべく極東の巡業に踏み切ったという事情があって、その来日が実現したのである」(「『万国婦人子供博覧会』についての考察」2008年)。その曲芸は、「象が虎をのせたまヽで樽乗をしたり」「獅子が熊の梶取りでシーソーをしたり」と「ずば抜けたものが多く」会場につめかけた日本人はみな熱狂したわけだが、そうした比類のない芸当もすでにヨーロッパでは飽きられ始めていたところに、ちょうど遠い東洋の島国から起死回生ともいえる招待状が届いたということなのだろう。

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じっさい、婦人や子供ばかりでなく、はるばるドイツからやってきたこのサーカス団に魅せられた芸術家たちは少なくない。画家だけでも、古賀春江、川西英、長谷川利行といった錚々たる顔ぶれがそれぞれハーゲンベックサーカス団の絵を描いているが、もうひとり恩地孝四郎も「サーカス(ハーゲンベック・サーカスの印象)」なる版画を発表している。モンタージュ技法により、サーカスのめくるめく世界を一枚の絵に閉じ込めた見事な作品である。

 昭和8年、そう、日本人はみなサーカスの虜(とりこ)だった。

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恩地孝四郎「サーカス(ハーゲンベック・サーカスの印象)」木版、紙

永代橋をわたって

時間をさかのぼるとき、映画や小説に「タイムマシン」が登場するように、過ぎ去った時代に思いをめぐらしながら都市を徘徊するときにも、やはりそれなりの「道具立て」があったほうが楽しい。そして「橋」は、ときにそんな〝時間旅行〟ならぬ〝時間散歩〟にとってかっこうのタイムマシンとなる。

 

たとえば〝昭和初期の〟深川を歩くなら、地下鉄には乗らず、日本橋から茅場町を抜け「永代橋」を渡ることをえらぶ。

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現在の「永代橋」は、関東大震災後の「復興橋梁」のひとつとして大正15(1926)年に完成した。帝都復興局橋梁課の技師竹中喜忠の設計だが、意匠面で当時橋梁課に属していた山田守も関わっていたと聞く。以前ここで取り上げた荻窪郵便局電話用事務室や聖橋などの設計者である。

 

ひっきりなしに自動車が行きかい、地元のひとが足早に追い越してゆくなか、ぼくはゆっくり、ときに足を止めて隅田川の流れを、そして橋じたいを眺める。曲線というのはたいがい優美で女性的な印象を与えるものだが、この「永代橋」にかんしていえば勝手がちがうようだ。とりわけ霧雨に濡れたこの日の「永代橋」は、筋肉質のツヤツヤとした強靭な肉体にみえる。じっさい、これは松葉一清の『「帝都復興史」を読む』(新潮選書)で知ったことなのだが、昭和5(1930)年に刊行された『帝都復興史』のなかで「永代橋」は、「丈夫そうで丈夫な橋」という表現で紹介されているという。そこでさらに「永代橋」の過去をさかのぼってみると、なるほど、関東大震災後に復興のランドマークとして計画されたこの橋がなにより「丈夫そうで丈夫」でなければならなかったわけがみえてくる。

 

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 渓斎英泉「東都永代橋の図」文化末〜弘化末頃

隅田川に、五代将軍徳川綱吉の50歳を祝して長大な橋が架けられたのは元禄11(1698)年のこと。橋の名は、「当代」の将軍の治世が「永く」続くようにと、上司を〝持ち上げる〟のが得意な役人が命名したのだろうか。 しかし河口に近く川幅が広いうえ、満潮時に船を通すため橋脚の高さも必要としたことから工事は難航、しかも自然災害にともなう修復費がかさんだことから、完成からわずか20年で幕府は管理を放棄、廃橋を決める。困ったのは地元の町人たちである。やむなく、維持管理にかかる経費を町方が負担するということで「永代橋」は存続することになったのだが…

 「わあ、橋が落ちたッ」文化4(1807)年8月富岡八幡宮の祭礼の日、すし詰めの参詣客の重みに耐えかねて「永代橋」は崩落する。死者行方不明者あわせて2千人を超すともいわれる大惨事であった。橋そのものの老朽化はもちろんだが、12年ぶりとなった祭礼に押しかけた人びとの数が半端ではなかったこと、悪天候(おそらく台風の影響?)で祭礼の順延が続いたこと、一ツ橋様の見物の御船通行のため大群衆が橋のたもとで立ち往生せねばならなかったうえ、通行が予定よりも遅れ、そのあいだにますます参詣客の数が膨らんでいったことなど、いくつもの「不幸」が重なっての事故だった。

 

永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼

 

蜀山人こと大田南畝はこんな皮肉な狂歌を詠んでいる。また、杉本苑子の小説『永代橋崩落』は、この歴史的大惨事に直面した人びとの哀しみや人間の残酷さを「グランドホテル形式」(?)で巧みに描いた連作短編集で、一気読みしてしまうほどのおもしろさだ。

 

その後、明治30(1897)年になって、道路橋としては日本初の鉄橋となる、いかにも「丈夫そう」な橋として「永代橋」は完成する。ところが、その一見したところ「丈夫そう」な橋も、関東大震災の前ではひとたまりもなかった。なんと、橋底が木製だったため、数多くの人びとをのせたまま焼け落ちてしまったのだ。新しい「永代橋」は、この橋にまつわる悲しい過去の数々を人びとの記憶から払拭するためにも、なにより「丈夫そう」で、しかも実際に「丈夫な」橋として、帝都復興を印象づける〝逞しい〟意匠である必要があったのだと思う。

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小泉癸巳男「永代と清洲橋」昭和3(1928)年・昭和東京風景版画百図絵より